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2005年10月21日 (金)

 ときどき昼飯に行く店があって,親子丼は値段も味もそこそこなのだが,大音量でかかっている有線放送が玉にキズだ。流れてくるのはいつも70年代の歌謡曲で(幼い郷ひろみの鼻声を聴いていると気分が悪くなる。俺だけだろうか),せめて別のチャンネルに変えて欲しいのだが,カウンターの内側ではときどきおばさんが曲にあわせて鼻歌を唄っているので,どうも頼みづらい。運悪くひどい曲が流れてきた場合は,大急ぎで飯を口に詰め込んで退散することにしている。従って曲の切れ目の瞬間はちょっとしたサスペンスである。
 困ったことに,当時の歌謡曲は不思議に耳に残ることが多く(節回しが単純なのだろうか),その点も迷惑だ。なんというのだろうか,ある短い一節が頭の中をグルグル回り始め,止めようにも止まらなくなってしまうことがある。先日は午後いっぱい,和田アキ子の「古い手紙」をつぶやき続ける羽目になった。「あの頃は...ハッ...あの頃は...」この曲は幸いその日だけで鳴り止んだが,数ヶ月前の「あずさ二号」はひどかった。ふと気を抜くと頭の中にメロディが流れはじめ,サビが終わったところで先頭に戻るという無間地獄である。
 仕方がないので「あずさ二号」の一番の歌詞について検討すると(暇なのか俺は),なかなか学ぶところ多い。なにが凄いといって,この曲にはキャッチーな言い回しも詩的な美辞もほとんど登場しない。「明日私は旅に出ます」まるで日本語の教科書のように平凡だ。「あなたの知らない人と二人で/いつかあなたと行くはずだった/春まだ浅い信濃路へ」たった数行で状況が明確に提示されているあたり,実はプロの技なのだろうが,言葉自体はどれも新聞記事並みにありふれている。「行く先々で思い出すのは/あなたのことだとわかっています/その寂しさがきっと私を/変えてくれると思いたいのです」いかにも昔の女子大生が絵はがきに書きそうな,辛気くさい言い回しではあるけれど,依然として平凡な地平を離れない。「恋」も「愛」も「真実」も出てこない。日常の手垢のついた言葉だけを組み合わせたこんな歌詞は,なかなか珍しいのではないだろうか。
 ところがそこにとんでもない爆弾が用意されている。「さよならはいつまで経っても/とても云えそうにありません」なぜなら「私にとってあなたは今も/眩しいひとつの青春なんです」
 これは凄い。何度考えても凄まじい。いったい「ひとつの」という言葉はどこから出てきたのだろうか。どうでもいいような感傷が,一気に普遍性を獲得する。「あなた」はもはやつまらない生身の男ではない。
 この豪速球が決まったせいで,どんな甘い球も許されるようになる。「八時ちょうどのあずさ二号で/私は私はあなたから旅立ちます」彼氏を置いて別の男と電車で旅行に行くというだけで"あなたから旅立ちます"と称するのもずいぶん大仰なものだが,いまやそれさえ不自然に聞こえない。ここで起きているのはただの別れ話ではなく,誰もが痛みとともに克服せざるを得ない,青春期との訣別だからだ。

 4月に会社に潜り込んで以来,ろくな仕事もしないまま,誰が読むとも知れないレポートを延々と書いては机の引き出しに仕舞いこむという,不思議な日々を送っていた。最近になって思いも掛けず,丁寧に読みこみ感想までくれる人が現れたけれど,書いていたときに想定していたのは,ぱらぱらとしかめくらない読み手だった。つらつら考えるに,数十頁を費やしたところで,重要なメッセージはひとつしか盛り込めないし,それは極めて単純なものにならざるを得ない("金をくれ"とか)。導入も説明も論理構成も,すべてそのメッセージのための下準備に過ぎない。「明日私は旅に出ます」というようなものだ。
 平凡で退屈な記述の中にひとつだけ爆弾を埋め込み,それをうまく作動させなければならない。メッセージを太字で書くのではなく,読み手にそれを気づかせ,それが読み手自身によって掘り起こされたものであるかのように思わせなければならない。どうすればうまくいくのだろうか。

雑記 - あずさ二号に学べ