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2005年11月24日 (木)

 文章のタイプには二種類あるのだそうだ。ひとつは,一文一文が短く簡潔な文章。もうひとつは,形容語が多く,息が長く続く文章。誰でも大抵はどちらかのタイプの文章を書きがちで,またどちらかのタイプの文章を好むのだけれど,都合の悪いことに,自分が書く文章のタイプと自分の好みのタイプとは逆になることが多い。だから,短い文章を書く人はもう少し長くなだらかに流れる文章を書きたいと思い,長い文章を書く人はもっとてきぱきとした文章が書けたらいいのにと思う。
 これはずいぶん前に雑誌で目にした話で,以来折に触れて思い出す。自分の書いたものをあとで読み返すと,もうすこし文を短く区切り,簡潔で論理的な書き方ができないのだろうか,とうんざりすることが多い。そんなとき,上の話はいささかの励ましになる。俺の文章がこんなにだらだらとしているようにみえるのは,俺の好みの文章のタイプでないからであって,客観的にみればそんなにひどくはないはずだ,と自分を慰めることができる。
 先日も,書いたばかりの短い文章のあまりの読みにくさに嫌気がさして,自主的に長めの昼休みを取り,コーヒーショップで窓の外を眺めながら上の話を思い出していた。腕時計を見て,カップの底に残った数滴を飲み干し腰を上げ,陽光差し込むビルの谷間をぼんやり歩いているときに,ふと気がついた。この話に証拠はあるのか?

 その記事はいつ・どこに載ったものか。馬鹿馬鹿しい話だが,その点に関しては明確な記憶がある。講談社の月刊PR誌「本」,おそらく1983年頃。雑誌の表紙は安野光雅だった。中学生の頃住んでいたマンションの,暗くほこりっぽい部屋の隅を思い出す。こういう無駄な記憶を消去して,空いた容量を有効活用できるといいのだが。
 それは高名なジャーナリストが書いた,文章の書き方や資料整理の方法を指南するという趣旨の連載記事だった。上の話は,特定の誰かが述べたことの引用ではなく,経験的な事実としてぽんと無造作に書かれていたような印象がある。
 そのジャーナリストは該博な知識と膨大な著作で名高い人だ。かつて政治家の資金源について書いたルポルタージュは,時の政権を崩壊させるきっかけとなった。経済,政治,工学,自然科学,そのほか多様な分野で綿密な作品を数多く発表し,新聞や雑誌でアクチュアルな発言を続けている。実はよく知らないことを書き飛ばしているのではないかという冷やかしや批判もあるようだが,第一級の知識人であることは疑いない。
 その人の著作について俺はあまりよく知らない。かなり昔の本を何冊か読んで,その徹底的な調査に感嘆したことがあったが,むしろ数年前のこんな出来事のほうが印象に残っている。その頃「捨てる!技術」という新書がベストセラーになっていた。要らないものは捨てましょうというような,ごく他愛もない内容の本だ。ところがそのジャーナリストが,月刊誌に長い文章を発表して,その本を徹底的に罵倒した。いわく,知的活動とは情報の積み重ねに支えられている,昔の書類は思い切って捨てましょうなどというのは,その人がごくくだらない仕事にしか従事していないことの証拠だ,云々。本屋で立ち読みしていて失笑したのを覚えている。なにも,ロッキード事件の捜査資料や宇宙飛行士のインタビューテープを捨てろという話ではない。十年前の段ボール箱が再び役に立つことが知的職業の条件なのだとしたら,そんな仕事に就いている人はほんの一握りしかいないだろう。結局のところ我々は大抵,なにか貴重なものを残すことなどなく,雪かきのような仕事をその時その時繰り返して人生を終えるのだ。

 この人が20年以上前に書いた記事に,俺はこれまで少なからず励まされてきたことになる。しかし,どのような根拠があれば「好きな文章のタイプと自分の文章のタイプとは違っているのが普通なのだ」と主張できるのか,どうにも判然としない。ひょっとするとあの話は,ジャーナリストが興に任せて綴った与太話に過ぎなかったのだろうか。
 そうかもしれない。でも,あれこれ思い巡らせているうちに,別の想像が頭から離れなくなった。多作で知られるあのジャーナリストもまた,自分の書いたものを読み返して,ため息をつくことがあったのではないだろうか。そんなとき,文章がまずいのではない,ただ自分の好きなタイプの文章でないだけなのだ,と自分を慰めることがあったのではないかと思う。
 これはただの想像に過ぎないし,高名な著述家に対して随分失礼な憶測だ。でも,俺の中でこの想像はもはや確信に近く,はっきりとした像さえ結んでいる。原稿を書き進めるとき,その人はふと疑念に駆られる。形容語ばかりでだらだらしているのではないか。簡潔すぎて独りよがりなのではないか。筋が通っていないのではないか。準備に要した労力も,蒐集した膨大な資料も,壮大な徒労に過ぎないのではないか。どんな栄光と名声に包まれていても,原稿用紙の前でその人はひとりきりだ。
 そんな風に勝手に想像することは多少の慰めになる。でも同時に,ほんの少しだけ哀しい気持ちにもなる。いまこの夜にも,数え切れないほどたくさんの人が,報われるかどうかわからない孤独に耐えているのだ。

雑記 - 自分の文章は好きな文章ではない

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