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2006年1月 9日 (月)

 高校生のとき,NHK-FMのラジオドラマの時間枠で,サム・シェパード作の「イメージ」という30分作品が放送された。NPRで放送された短いドラマを翻訳して紹介したものだったと思う。名古屋章と下條アトム,それから女の人が一人だけ出てくる対話劇だった。
 当時はサム・シェパードがどんな人かさえ知らなかったのだけれども,俺はなぜかそのドラマにいたく感銘を受け,テープを何度も巻き戻しては繰り返し聞き込み,しまいにはルーズリーフにシャープペンで全ての台詞を書き出して,この台詞が効いているだのここの場面転換が素晴らしいだのと,一人で悦に入っていたものだった。そうしている間にきっと周りの連中は,東大入学目指して勉強したり,恋愛したりセックスしたりしていたのだろう。
 最初の台詞はこうだ。「OK? 男が二人,街に来る。時代は...1940年代?」脚本家が二人コーヒーショップであれこれとアイデアを出し合っているのだが,決まっていることといったら,冒頭で男が二人登場することだけだ。犯罪物語,恋愛物語,俎上に登るアイデアはみな途中で行き詰まる。しまいには,「やった,ひらめいた,書き取って」と称した若い脚本家(下條アトム)が,昔の心理小説よろしく,登場人物の思考の流れを延々と描写しはじめる。相方は途方に暮れて(ああ,今は亡き名古屋章の名演が耳に蘇る)「ちょちょちょっと待って,それどういう意味があるの?」下條アトムはあっさり「意味?意味なんてないんだよ」
 相方は激怒し,二人は気まずく別れる。店に残った下條アトムがしょんぼり座っていると,コーヒーを注ぎ足しに来た無愛想なウェイトレスが,なぜか物語の続きを語りはじめる。街にやってきた男のひとりがコーヒーショップに入り,ウェイトレスの手を取り裏口から駆け出すと,追いかけてくる銃弾,息をもつかせぬサスペンス。それは創作というよりも,むしろウェイトレスの退屈な日常が必然的に生み出したファンタジーだ。脚本家の前に全く新しい物語が広がる。我に返った脚本家が,コーヒーをもう一杯,と頼むと,一転して生気に満ちた女が,低く力強く「いいわ」とささやき,コーヒーを注ぐ。

 この短い物語(そして思い切って云えば,ちょっとごつごつとした,完成度の低い物語)のどこにそこまで惹かれたのか,その頃の俺には自分でも解らず,戸惑っていたように思う。
 今にして考えれば(まあ,あくまで今にして考えればの話だが),平凡な人々の一人一人が持つ「夢見る力」の大きさに,当時の俺は強く揺り動かされたのではないかと思う。いま仮に,認識世界を現実と空想,「こっち」と「あっち」とに分けたとして,我々がどんな境遇の下でも「こっち」を生きていく,その力と希望を与えてくれるのは,我々一人一人に備わった「あっち」の力,可能な未来を夢見る力なのではないか。とまあ,そういったようなことを感じていたのではないかという気がする。やれやれ。
 残念ながら,今の俺はそうは思わない。なぜなら:(1)ファンタジー自体は善でも悪でもない。夢見る力は人を支えると同時に人を損なう。それは希望のよすがというよりも,むしろ宿命的な病気のようなものだ。(2)結局のところ,ウェイトレスのもとに男は現れない。仮に現れても,(ウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」で描かれているように,)男はウェイトレスの手を取ることなく去っていく。我々に出来ることはせいぜい,「夢は現実化する」と信じること,もしくは目の前の現実について「これは過去の夢が現実化したものだ」と信じることだけであって,夢そのものは決して現実化しない。

 うーん,まあそれはどうでもいいや。
 最近気になって仕方がないのは,消えた夢は一体どこに向かって消えていくのか,ということだ。こう書いてしまうとずいぶんナイーブな疑問なのだが,考えはじめると止まらない。実世界での経験が長期記憶に際限なく降り積もり,そのシステムになにかしらの永続的変化を与えるのならば,いま心に浮かんだ突拍子もない空想は,俺の認識にどんな影響を与えて,どうやって消えていくのだろうか。
 竹熊健太郎さんのブログを読んでいたら,電車に揺られているときの暇つぶしに,窓の外の屋根の上を電車と同じ速度で跳び走る忍者を想像する,という話が載っていた。我も我もと賛同するコメントがついていたから,少なからぬ人にとっての日常的空想なのだろう。試してみても俺にはさっぱりイメージできないのだが,電車が止まるたび,この車輌に乗っている何人かの人々の忍者が,窓の外のどこかに佇み発車を待っているのだなあ,と思う。ではその人たちが電車を降りたら,その忍者はどこに行くのか?
 ほれぼれするくらい立派な大便が出たときに,俺は便器の前でしばし夢想するのだけれど,そのファンタジーのなかにレギュラーメンバーとして登場する,流れてきた俺の大便に衝撃を受け人類への畏敬の念を抱く下水道のオオサンショウウオは,俺がその夢想を止めたら一体どこにいくのだろうか?
 この年にしてようやく俺は,世の中には努力が報われるタイプの人生と,あらゆる努力が水の泡になるタイプの人生があって,自分が後者に属するということを知ったのだが,ではそれに気づく前の俺の努力,それを可能にしていたファンタジーは,いま一体どこにいるのだろうか?

 願わくば,象の墓場のように,死にゆくファンタジーが人知れず集まる場所がありますように。そこにはたくさんの忍者,オオサンショウウオ,街にやってきた男,思い出せなくなった夢などが,苛酷な期待から逃れ,そっと安らかな眠りに就いているだろう。

雑記 - ファンタジーの眠る場所