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2006年12月18日 (月)

 宮本輝という作家に「道頓堀川」という小説がある。デビュー作の「泥の川」や,その後の「蛍川」に比べると若干落ちるけれども,読み手を掴んで離さない良い小説である。いま気がついたんだけど,この三作はすべて映画化されているなあ。映画の「道頓堀川」はなんだか悪い冗談のような出来だった。
 この小説の主人公は喫茶店の寡黙なマスターで,全編を通し,ずっと昔のあるひとつの出来事について延々と考え続けており,その謎が小説の芯になっている。かつて自分を捨てた女が,ある夜突然に自分の前に現れたのはなぜだったのか。もし出来るのなら,あの晩にもう一度戻りたい,本当の理由を聞きたい。主人公は現在の大阪を生きているように見えて,心の半分はかつての貧しい町に生きており,とっくに死んでしまった女と会話し続けている。
 この小説に熱中したのは17歳くらいの頃で,いまならば宮本輝を手に取っているということそのものに気恥ずかしさを感じてしまうが,そのころはそういうアタマがなかったもので,雑念に邪魔されることなく,良い小説は良いと思ったのである。とはいえ,アタマがカラなだけあって,読み終えての感想のほうも,実にたわいないものであった。すなわち,
1) マスターはなんてカッコイイのだろうか。過去を抱え続け,死者と対話する男。渋い。渋すぎる。
2) しかし,そんなに人は物覚えがよいものだろうか。どんなに重大な出来事であっても,十何年も前のことになってしまえば,俺ならたまにしか思い出さないだろうなあ。
 ああ,当時から俺は馬鹿だったのだ。いまの冴えない人生も,どうやら故なきものではありませんね。

 いまの勤務先は部署によっては大変な激務であって,ときどき中堅どころのリサーチャーが,今朝も徹夜でした,なんて溜息をついていたりする。頭が下がるし,組織の問題として解決されるべきだと思うが,心のどこかで,ちょっとうらやましく思ってしまう面もある。誰もいないオフィスで,自分にしかできない仕事に没入するのは,体力さえ保てば,そう悪い気分でもないんじゃないかなあ,などと思ってしまう。もっともこれは傍目だからいえることで,当事者はたまらないだろうが。
 徹夜だなんてもう俺には不可能,絶対に不可能だが,こんな俺にも十年ほど前には,研究の都合で徹夜してしまう,なんていうことがあった。朝までにこの仕事を片づけたい,寝てしまうわけにいかない。そう強く思えば,実際に朝まで仕事することができた。まったく嘘みたいな話だ。
 いまでもよく覚えているのは,大学院にはいって数年目,大学の一室に泊まり込んでひたすら論文を読んだ夜のことだ。たしかSperber&Wilsonの長い論文だったと思う。誰もいないのを良いことに,ファイルを両手に開き,コンピュータ・ルームをいらいらと歩き回りながら難解な文章を辿っていると,あるとき突然,論文の内容がすっと腑に落ちるような気がしたのだった。なんだこんな簡単なことだったのか,そしてこんなにも射程距離の長い,豊かな理論だったのか,それならこんな研究もできるし,こんな研究もできる。と,突然に開けた視界に目眩がするような思いだった。

 いまの俺の目からみて,「道頓堀川」の喫茶店主は格好いいどころか,結局のところダメ男である。女はもうとっくに死んでしまっている。謝罪はもう届かない。なのに,男は死んだ女に繰り返し語りかけ,現在ではなく過去を生き続ける。こういう男をダメ男という。
 と同時に,過去に縛られるのは簡単なことでもある。それは物覚えの良し悪しとは関係がない。十数年も前の出来事を,繰り返し繰り返し思い出すのは,生き方として容易なのである。主人公は,もし出来るのならあの夜に戻りたい,と痛切に願う。しかしその痛切さは,ごく平凡な,ごくありふれたものに過ぎない。
 この願いはどこにも届かないし,どこにもつながらない。でも,もし出来るのならあの夜に戻りたい,と俺はいま思う。蛍光灯の光の下,リノリウムの床のうえに立ちすくんで,ひとつの問題だけをひたすら考えていた夜に。夜明けはまだ遠く,窓の外は一面の暗闇で,建物じゅうがしんと静まりかえっていた。目の前には,これからできることだけが無限に広がっていた。

雑記 - 徹夜について