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2007年7月23日 (月)

 その日は珍しく定時前に会社を出た。夕暮れの電車で吊革にぶらさがって窓の外を眺めていたら,目の前に座っている人が席を立ったので,代わりに腰を下ろした。まだ帰宅ラッシュが始まる前の時間で,各駅停車の電車がドアを開け閉めするたび,立っている人はまばらになりはじめていた。
 鞄から本を出すのも億劫で,床に目を落としてじっとしていたのだが,ふと,左隣に座っている男が小刻みに震えているのに気が付いた。
 黒いスーツに地味なネクタイを締めた小太りの男が,膝の黒いショルダーバッグの上で少年漫画誌を性急にめくっている。その両腕がぶるぶると震えている。肉のついた丸っこい左手は,堅く握りしめられて血の気を失っており,雑誌の端を押さえるようにして鞄にきつく押しつけられている。右手は電話帳を繰るような勢いで雑誌を何十頁もめくり,時折乱暴にページを飛ばしたり,また戻ったりしている。
 体調が悪いのか,小便でも我慢しているのか,と横目でのぞき込むと,食いしばった顎とこめかみが,時折ぴくぴくと痙攣している。眼鏡の奥の細い目は膝の上に向けられているようだが,はっきりしない。首筋は贅肉が襟からはみ出して盛り上がっており,色白な肌が薄赤く染まり汗で湿っている。小刻みで荒い呼吸に時々,溜息のような吐息が混じり,噛み締めた歯の奥からごく小さく,なにかを激しく罵るような呟きが聞こえるような気がする。
 突然両手が,雑誌をバシンと鞄に叩きつける。息を深く吐いて,空いた両手で再び雑誌を握るが,もうページをめくるのではなく,引きちぎるような動作で強く力をかけ,また手を離す。両腕がまた小刻みに震えはじめる。
 なにか激しい怒り,激しい憤りのようなものが,小太りの男を繰り返し繰り返し苛んでいるように見える。その感情の強さに,まず俺は呆然とした。こんな純粋な激情を目の当たりにすることは滅多にないだろう。なにか映画の一場面を見ているような気さえする。しかも男の怒りは,男がそれを必死で押し殺すたびに,ますます圧力を増しているように見えるのだ。
 俺は少し怯えてしまい,膝を思い切り閉じて少しでも男から離れようとする。一瞬,いま突然男がわけのわからない叫び声を上げて,右肘を俺に叩きつけたらどうしよう,などと考える。身を縮めた俺は男と数センチの距離を空けているが,左ポケットが財布で盛り上がっていて,運悪く財布は小銭でいっぱいで,その部分が依然として男に触れたままなのが気にかかる。まさか,この財布の出っ張りのせいで機嫌を損ねたりはしないだろうけど,いや,しかし。。。落ち着きなく辺りを見渡したが,小太りの男の異常に気づいている人は誰もいないようだ。男の左側の女性は友人との会話に余念がない。ドアの前では若い母親がベビーカーを両手で支えながら吊り広告を眺めている。向かいのシートに座った老人と中年の男は揃って居眠りしている。その隣,ちょうど俺の正面に座っている,ヘッドホンをつけて目を閉じている若い男だけが,異変に気づきはじめたようで,薄目を空けてちらちらとこちらを伺っているように見えるのだが,男の様子を気にしているのか,それとも不自然に身を縮めて緊張している俺を不審に思っているのかはわからない。
 電車は俺が降りる駅のひとつ手前を発車したところだ。男の拳も吐息もまだ震えている。時折両手が鞄の端を強く強く握りしめ,離しては,投げやりに雑誌に手を叩きつけ,何かを罵り,また握りしめる。感情とはこんなにも持続するものだろうか? いったいどんなひどい目にあえば,これほどに長く震え続けることができるのだろうか?
 ふと,これは全部なにかの冗談なのではないか,という考えが浮かんだ。あるいは芝居の稽古とか。劇団の鬼教師に「今日の課題は『怒っている男』のエチュード,稽古場はこの電車です,さあおやりなさい」と命じられ,男はその課題を完璧にこなしていて,それを遠巻きに観察している同期生が「マヤ,おそろしい子」などと呟いているとか。もちろんそんなわけはない。小太りの男はいま激しい感情に囚われ,それを必死で制御しようとしながら,かえってその感情を増幅させているのだ。いっそいますぐに,極力さりげなく席を立って,難を逃れるべきだろうか?

 どこで読んだのか忘れたけれど,なぜ毎日日記をつけるのか,と問われた人が,川の水のように流れていく日々を少しでもつなぎ止めておきたいから,と答えていた。ネットに溢れるたくさんのブログも,その背後にはそういう感覚があるのかもしれない。
 実は大きな意味を持っているのに,気づかれないまま忘れ去られてしまう,そんな細かな事柄が,この平凡な日常には溢れているのではないか。そういう漠然とした焦りが,たしかに俺のなかにもある。でも,言葉で書き留めれば時間が止まるというのは錯覚だ。緊張感のない言葉をいくら費やしても,流れ去る日常を止めることはできそうにない。
 ようやく着いた下車駅のホームで,背後でドアが閉まる音がするのを確かめてから振り返り,ガラス越しに男の顔をまともにのぞき込んだ。男はなにかにじっと耐える人のように,両手を鞄の上に揃えて目を閉じていた。あっという間に男の姿が消え,遠ざかる電車がカーブで見えなくなるのを,立ちつくしてぼんやりと見送った。
 人波が消えて静かになったホームから,改札に通じる階段を一歩一歩降りながら,俺はいまなにか大変なものを見たような気がするのだが,それがなんなのかはっきりしない,と思った。そこにはなにか大事なもの,忘れてはいけないものがあったような気がするのに。でも俺はすぐにこのことを忘れてしまうだろう。激しい感情を反復し増幅させて身を苛んでいた小太りの男のことを,俺はすぐに忘れてしまうだろう。それとも,詩人がそうするようなやりかたで,この一瞬をえぐり取ることができるなら,流れていくこの毎日を,ほんの少しでもせき止めることができるだろうか?

 太った男が怒りに震えながら
 地表を滑るように移動していく
 現在地点が黒い軌跡を描く
 緯度と経度が刻々と変わる
 指先を引きつらせながら川を渡る
 荒い息をこらえながら山を突き抜ける
 爪が手のひらを抉って血がにじむ
 毛穴から下着へと憤りが染みこむ
 いつか空は黒くなる
 太った男は座ったまま暗闇を疾走する
 もうただの太った男には戻れない
 怒りに震える太った男

雑記 - 怒りに震える太った男

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