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2012年1月30日 (月)

Bookcover イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告 [a]
ハンナ・アーレント / みすず書房 / 1969-02-20
アイヒマン裁判について書かれたとても有名な本だが,これはもともと「ニューヨーカー」誌の連載だったのだそうで,アーレントの他の本と比べれば読みやすいのではないかと思う。それでもなんだか読むのが気が重くて,ずっと本棚でずっと眠っていた。やっと読み終えてほっとしている。
 なんでイスラエルで裁判したの? 西ドイツじゃなくて? と不思議だったのだが,やはりこれはいろいろ疑問が残る話らしい。ヤスパースは国際法廷を開くべきだと主張していたのだそうだ。
 同時代の人々からは,この本は大変な批判を浴びたそうだ。この本の出版後に行われたミルグラムのアイヒマン実験やジンバルドーの監獄実験のエピソードはいまや広く知られているし,アーレントの「悪の陳腐さ」という指摘に現在の我々はある程度まで馴染んでいると思うのだが(本当に理解しているかどうかはともかく),そういう認識が形作られた一端はこの本にあるのかもしれない。

 アイヒマンの死刑の際,マルティン・ブーバー(おそらくこの時点でのイスラエル最高の知識人だっただろう)は処刑が「ドイツの多くの青年たちが感じていた罪責を解消するのに役立つ」「歴史的な規模の失策」と批判した。アーレントは死刑そのものは支持しており,ブーバーが「アイヒマンと彼の行為の提起した本当の問題に触れずに済ましていることには失望させられた」と書く。

何も悪いことをしていないときに罪責を感じるというのはまことに人を満足させることなのだ。なんと高潔なことか! それに反して,罪責を認めて悔いることはむしろ苦しいこと,そしてたしかに気のめいることである。ドイツの青年層は職業や階級を問わず,事実大きな罪を犯していながら一向にそんなことを感じていない権威ある地位の人々や公職にある人々に取巻かれている。こうした事態に対する正常な反応は怒りであるはずだが,しかし怒ることは甚だ危険であろう-別に生命や身体にとっての危険ではなくとも,履歴のなかでのハンディキャップになるにはちがいない。時々-『アンネ・フランクの日記』をめぐる騒ぎやアイヒマン裁判などの場合に-われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれるドイツのあの若い男女たちは,過去の重荷,父親たちの罪のもとによろめているのではない。むしろ彼らや現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである。

日本の戦後についての話かと思った...

ノンフィクション(2011-) - 読了:「イェルサレムのアイヒマン」

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