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2019年10月21日 (月)

 ちょっと事情があって調べ物をしていたら、American Business History CenterというWebサイトに、アメリカの消費者パネルデータの歴史についてのすごく面白い記事が投稿されていた。仕事そっちのけでメモをとってしまったのでブログに載せておく。

 著者のFred Phillipsさんはどうやら現在ニューメキシコ大の教授らしい。著書に"Market-Oriented Technology Management"があり、このブログ記事はその一部の改訂版である由。

 いわく。
 メーカーは自社の出荷についてはわかっているが、(他社製品を含めた)消費者の購入実態についてはわからない。そのため、FMCG(日用消費財)メーカーはパネル調査を頼りにする。消費者をパネルとして抱え込んでおいて複数時点で調査する方法だ。
 80年代以降、アメリカの消費者パネル調査はA.C. Nielsen Co.とMarket Research Corporation of America (MRCA)に支配されていた。Nielsenは消費者のメディア習慣のデータを、MRCAは消費者の購買データを売っていた。アメリカの主なFMCGメーカーは、たいてい両方のデータを買っていた。
 これはNielsenとMRCAの栄枯盛衰の物語である。

 1936年、Arthur C. Nielsen, Sr.はMITからラジオ聴取を記録する装置のライセンスを受けた。彼は1942年、Nielsen Radio Indexを開始した。
 戦後のTV普及に伴い、NielsenはTV視聴率を郵送の日記調査で調べるようになった(この日記調査は80年代まで続いた)。さらにNielsenは据え置きデバイスを併用するようになった。
 といっても、据え置きデバイスでは世帯内の誰がTVを観ているのかわらない。視聴者にいちいちボタンを押してもらい、誰が観ているのかを調べようとしたが、これは協力率が低かった。ひとりひとりに発信器つきのメダルをぶら下げてもらうというのも試したがこれも無理だった。据え置きデバイスに熱センサーを付けてみたが、犬や赤ちゃんやストーブやトースターに反応してしまった。

 1941年、ゲーム理論研究者のOskar MorgensternはIndustrial Survey Inc.を創業する。この会社はまもなく社名をMRCAに変えた。
 [なによりこの記載に度肝を抜かれた。フォン・ノイマン & モルゲンシュテルン「ゲームの理論と経済行動」のモルゲンシュテルンだよね? まじか。この人、ナチス占領でアメリカに亡命したウィーンの知識人だから、きっと生活費を稼ぐためにいろんなことをしたんだろうなあ...]
 MRCAは訪問調査を行っていたが、50年代の都市化とともに訪問調査は難しくなり、日記調査に軸足を移した。
 70年代、女性が職場に進出し、離婚が増え、世帯サイズが小さくなり、日記調査への協力率は下がった。しかしMRCAのデータは依然として出荷データのトレンドに対応していた。この頃、David B. Learner(心理学出身、広告代理店BBDOの元幹部)がMRCAを買い、70年代末には単独の所有者となった。
 [おいおいちょっと待って... Clancy, Krieg, & Wolf (2006)の歴史の章には、David Learnerは「60年代にBBDOでDEMONというSTMモデルを開発するも、うまくいかずBBDOを去ってピッツバーグのハイテク企業の社長になる人」として登場するんですけど?]

 さて70年代末。いよいよ小売店に清算用スキャナが普及し始める。
 1979年、野心的スタートアップ Information Resources, Inc. が登場する。この会社はアメリカ全国から人口構成が全国のそれに近い複数の街を選んで"pod markets"とし、そこのすべてのスーパーにスキャナを配り、世帯を抽出して調査を掛けたうえ、IDカードを使って精算時にスキャンするように求めた。さらにケーブル局と提携し、街を半々にわけて別のCMを流せるようにした。
 IRIにもいろいろ問題はあった。そもそもすべての製品にUPCコード[日本で言うJANコードね]が振ってあるわけではない。味覚やブランドへの選好には地域差があるので、人口構成が似ているからと言って購買データを全国にあてはめることはできない。パネルのメンバーはIDカードを家に置き忘れるかもしれない。pod marketsがどこにあるかは公開されていたから、競合はプロモーションを打って広告テストを無効化するかもしれない。スキャナ・パネル・データからは原則として競合の価格はわからない。スキャナがあるのはスーパーだけで、他の小売チャネルはわからない。当時のスキャナ・データは結構エラーが多かった。
 というわけで、メーカーは当初はIRIに飛びついたものの、いったんはMRCAに戻ってきた(典型的なハイプ・カーブである)。結局はIRIが勝つことになるわけだけど。

 80年代は新技術の時代であった。RDD, マイコン, コンピューター産業調査のためのSurvey-on-a-disk [おそらくフロッピーを配ってコンジョイント分析をやるというような話であろう]、自動コールセンター。
 NielsenはIRIに対抗し、世帯パネルに手持ちスキャナを送るという作戦にでる。
 実はMRCAも同じことを考えていた。80年代初頭、私[著者のFredさん]はMRCAの副社長で、家庭でのスキャンを実験したんだけど、なかなかうまくいかなかった。子どもがはしゃいでしまって、シリアルの箱をなんどもスキャンするのである。[←ははは]
 社長のDaveはいつも云っていたのだが、彼はMRCAの経営に満足しており、上場する気はさらさらなかった(上場などしようものならウォール街のアナリストと延々電話する羽目になる)。スキャナを配るには資金が必要だ。Daveはスキャナ・パネルと競合するのをやめて、データ収集ではなく企業へのデリバリーに特化しようとした。社名をMRCA Information Servicesに変え、調査対象カテゴリを拡大した(金融サービスとか)。旗艦商品は即時的かつインタラクティブな市場調査ツール。おかげさまで顧客も戻ってきた。
 私は1988年にMRCAを去った。円満退社であった。

 90年代はさらなる新技術の時代、そして技術市場の国際化の時代であった。Nielsenは欧州と日本に進出する。日本ではそれまで、朝日新聞のような日刊紙の消費者パネルが使われていた。
 fax、そして電子メールによる調査が始まった。TVとWWWの融合が始まった。画像認識によるTV視聴者判定、音声認識による調査が登場した。
 NielsenとIRIは技術を向上させ、いよいよMRCAからシェアを奪い始める。もっとも同時期、IRIが600万ドルかけたシンジケート広告調査は大失敗したし、1996年にはTV局4社が共同でNielsenデータの不正確さを批判する広告を出したのだけれど。

 IRIとNielsenは、店舗スキャナ・データとスキャナ・パネル・データを併売するようになる。後者はなんと実質無料。独禁法に反するのではないかという疑いもあったが、MRCAに法廷闘争の体力はなかった。クライアントもスキャナ・パネルの怪しさを知っていたが、低価格には抗えなかった。こうして日記調査は急速にシェアを失う。
 近視眼、拒否、警告、安堵、自己満足、パニック、そして諦め。MRCAはまさにこの路を辿った。MRCAは資金不足で税の不払いに陥った。幹部社員は有罪を認め、短期収監と罰金刑に服した。[←ええええええ]
 かくしてMRCAは滅びた。

 といっても、日記調査そのものは滅びていない。日記調査はいまでも、コードが付いていないカテゴリ(服飾・靴・宝石、家具など)の購入や、食品の消費を追跡するための最良の手法である。
 Nielsenもまた買収・分割された。1984年、Dun & Bradstreet CompanyがNielsenを買収。1996年、TV視聴率測定のNielsen Media Researchと消費者購買・映画興収のAC Nielsenに分割。1999年、オランダの出版社VNUが前者を買収。2001年、VNUは後者も買収して併合。
 皮肉なことに、IRIもかつてのMRCAと同様、データ収集ではなく分析を志向する企業となった。

 90年代初期までには、食品の約60%が小売店での清算時にスキャナを通ることになった。スキャナ・データによって、メーカーから小売店へと権力がシフトした。全国テレビ局から地域の広告主、そして消費者へと権力がシフトした...[中略]
 調査も変わった。厳密な無作為標本ではなく任意型標本が支配的となった...[中略]

 20世紀にMRCAとNielsenが築いたデータベースは、いまからみれば笑ってしまうくらい小さなものだった。しかし、それらから現代に通じる教訓を得ることができる。

 [...以下略]

 。。。ところで、モルゲンシュテルン創業のIndustrial Survey Inc.がMRCAに社名変更するというくだり、Jones & Tadajewski(2011)によれば次のような事情らしい。
 そもそもMRCAという会社を創業したのは最初期のマーケティング研究者Percival Whiteである。彼はPauline Arnoldという人のArnold Research Service (ARS)を買いMRCAと名付けた。MRCAは30-40年代の市場調査会社の最大手のひとつとなる。さて、Whiteは会社を娘に継がせようとしたんだけど、結局は1951年、Samuel Bartonという人が経営するIndustrial Surveys Companyに売る。合併後、MRCAという社名が継承された。... えーと、ってことはモルゲンシュテルンは51年までには会社を手放していたんだろうね。

 10/23追記: 勢い余ってPauline Arnoldの伝記(Jones, 2013) にも目を通してしまった。
 Paulineは1894年生まれ、セント・ルイスの高校の音楽教師だったが、1926年(ってことは御年30才)、ARSを創業。なぜ音楽の先生がそんなことをはじめたのかはよく分からない由。ARSははじめて地域ごとのフィールド・スタッフを全米規模で組織した会社であり、1936年の時点で1000都市に3000人のインタビュアーを擁していた[←戦前にそんな会社があったのね...]。またARSはcoincidental radio survey、すなわち「いまラジオのCMを聴いてました?」と訊く電話調査のパイオニアであった。それまでラジオ広告への接触調査はあとから思い出してもらうやり方で行われていた。
 Paulineは1928年にNYのマーケティング・コンサルタントPercival Whiteに出会い、1931年に結婚(あ、なるほど...)、NYに移る。ARSはPercival White Inc.と合併してMRCAとなる。夫が社長で妻が副社長。
 さて、夫は次第にMRCAの経営に関心をなくし、軍需用の機械製造みたいなことをはじめちゃったもんで(このへんもちょっと面白い話なんだけど割愛)、妻が社長、夫の連れ子のMatilda(1911年生)が副社長になる。
 このMatildaさんという人もただのお嬢ではなくて、気まぐれな父に代わって経営に尽力し、確率抽出による調査設計によって1946年にAMAから賞をもらったりする。で、一時は会社を継ぐつもりだったんだけど父が約束をまもらないもんだからうんざりし、1949年に大学に移る。両親は結局1951年にMRCAを手放した、という次第。
 Matildaさんはのちに社会学の教授となる。Matilda White Riley (2004年没)、老年学のパイオニアとして知られる研究者だそうだ。

雑記 - 消費者パネルデータの栄枯盛衰

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