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2016年8月22日 (月)

Weinberg, M.S., Williams, C.J. (2005) Fecal matters: Habitus, embodiments, and deviance. Social Problems, 52(3), 315-336.
 以前、雑誌のコラムのために身体化認知にまつわる論文を片っ端から集めて分類した際、うず高く積まれた「うっかり入手しちゃったけど関係なさそう」論文の山において、もっとも異彩を放っていた論文。このたび資料を整理してる最中にお手洗いに寄り、個室のドアを閉めたところでふと思い出した。別にいまわざわざ読むこたないんだけど、つい探して手に取り、ついつい読み通してしまった。

 アメリカの学生172人に、ウンコにまつわる経験についてインタビュー&質問紙。排便の音を他人に聴かれたらどんな気がしますかとか、水を流してもブツが流れなかったらどうしますかとか。異性愛志向/同性愛志向の男/女、計4グループに訊きました、というところがミソである。インタビューは逐語録をコーディングして集計。
 インタビューの内容が延々と紹介されているんだけど、途中で眠くなってしまって適当に読み飛ばした。
 結果のまとめ。排便関連事象に関する社会的反応にもっとも敏感なのは異性愛女性。ついで、同性愛男性、同性愛女性、異性愛男性の順。このように、排便のハビトゥスは社会文化的要因に媒介される。ジェンダーも性的アイデンティティも効いている。云々。

 という実証ベースの話が終わって、やおら3pにわたる理論的考察がはじまるところが、なんというか、社会学っぽい。
 近年の社会学では身体に関心が向けられている。そこでは社会構築主義の限界が強調され、身体化という概念を通じて物質的アプローチと構築主義的アプローチとの統合が図られている。
 排便という問題を身体化という概念によって理解することには以下の意義がある。

  1. 排便関連の逸脱が最初に知られる感覚はなにかについて検討することによって、行為が身体化される様子を知ることができる。本研究によれば、視覚(ウンコを他人に見られる)、嗅覚(臭いを嗅がれる)の順で心配度が高い。
  2. 感情を身体化した思考として捉える感情理論において、身体化は重要な役割を果たす。ゴフマンがいうように、感情は個人的感覚と公的モラリティを統合することによって社会的秩序を強化する。本研究は、排便関連の災難によって人が狼狽し、そこから多様なdistancing行動が引き起こされる例を示した。それは社会的問題回避という認知的な行為であるだけでなく、自分の感情への対処という行為でもある。[distancingってなんて訳せばいいのかわからないが、本研究での事例で言うと、いくら水を流しても流れないのでお手洗いから逃げ出してきました、という発言がそれにあたるのだろう]
  3. 本研究では身体境界の裂け目への警戒が異性愛女性において強いことが示された。異性愛女性の身体イメージは女性らしさという文化的概念によって媒介されている。ジェンダーはかくも身体化されており、ハビトゥスは不安、困惑、恥を通じてジェンダーの不公平を強化している...[後略]
  4. ハビトゥスの支配からの意図的無視を示す言説もあって... 異性愛男性は排便ハビトゥスを無視することで力を示し、逆に同性愛男性は身体境界への強い関心によって男らしさヘゲモニーへの抵抗を示す... [略]
  5. 本研究はスティグマ研究と関連していて... 云々云々云々...[もはや読んでません]

 というわけで、身体化という概念は逸脱の社会学へのさらなる貢献をもたらすだろう、とかなんとか...

 正直、かなり早い段階から読み飛ばしモードに入っていたんだけど(すいません)、ゴフマンいうところの「身体化」と、身体化認知の研究でいうところの「身体化」ではかなり意味合いに違いがあることがわかった。どうちがってどう通底しているのか、関心があるんだけど、この論文を精読したところでわからんだろう。Goffman(1967)というのを読むとよいらしい。邦訳があるらしい(「儀礼としての相互行為」)。

 話は違うけど... 往年の名ピッチャー、たしか金田正一さんだったと思うんだけど、ずいぶん前のTV番組でこんな話をしていた。マウンドでひそかにウンコを我慢しつつ打線を抑え、攻守交代とともにトイレに駆け込んだ。スッキリしたのは良いが、次の回でボロボロに打ち込まれてしまった。「糞力(くそぢから)」という言い回しがあるけど、あれは本当だ、と。
 わかる。すごくわかる。「なにくそ」と一生懸命仕事しているときも、途中でトイレに立ってうっかり大きいのを排出すると、席に戻ってきたときには瀬戸内の凪の海のように穏やかな、「許そう...すべてを...」という心持ちになっていて、しばらく元に戻れないじゃないですか。戻れないですよね。
 そういう実証研究がどっかにあるだろう、身体化認知とも関係しそうだ、と思うんだけど、先日の原稿準備の際には結局見つけられなかった。探し方が悪いのかなあ。

読了:Weinberg & Williams (2005) ウンコ問題:ハビトゥス、身体化、逸脱

2016年3月11日 (金)

Barnes, D.E., Bero, L.A. (1998) Why review articles on the health effects of passive smoking reach different conclusions. JAMA, 279(19).
 しばらく前に昼飯の読み物に読んだやつ。メモを取らなかったので中身忘れちゃったけど、えーっと...
 受動喫煙についてのレビュー論文を106本集めてきて片っ端から読んであれこれ評定。受動喫煙に害があるという結論に至った(74%)かどうかを説明するロジスティック回帰モデルを組んだ。効いた変数はただひとつ、著者がタバコ会社から金もらってるかどうかだった。レビュー論文でも著者の利害関係をチェックしないとね、云々。という内容だったと思う。
 笑っちゃうような話だが(笑い事ではないけれど)、論文の質の評定は説明変数として効かない、というところも面白いと思った。

読了:Barnes & Bero (1998) 受動喫煙の害についてのレビュー論文の結論は著者がたばこ会社から金をもらっているかどうかで説明できる

2016年1月 4日 (月)

twitterでどなたかが呟いておられるのをみかけて、興味を惹かれて手に入れてしまい、興味を惹かれて眺めているうちに、興味を引かれるままついつい読み終えてしまった論文。仕事とはなんの関係もないっす。すいません、現実逃避です。

Ljungqvist, I., Topor, A., Forssell, H., Svensson, I., Davidson, L. (2015) Money and Mental Illness: A Study of the Relationship Between Poverty and Serious Psychological Problems. Community and Mental Health Journal.
 著者ら曰く。
 そもそも心的健康と貧困には関係があるといわれている。どっちが原因かは諸説ある。どっちかが原因でどっちかが結果だと割り切れるような話でもないのかもしれない。
 因果関係はともかくとして、心的疾患は社会的孤立と結びついており、社会的孤立は貧困と結びついているのだろう。経済状態が好転すれば社会関係が良くなる、という知見はすでにレジストリ研究(register study)で得られている。また社会化支援の介入が心的疾患に与える効果についてはランダム化統制試験(RCT)による証拠がある。社会化支援とは、伝統的な"train and place"モデルを"place then train"モデルに置き換え、とにかくまず望ましい状況をつくっちゃう(ここでは友達をつくっちゃう)、というアプローチである。
 スウェーデンといえども相対的な貧困はある。精神疾患患者の社会化支援の必要性も叫ばれている。じゃあ経済的支援は役に立つか? 先行研究ではよくわからない。実験してみましょう。

 重度な精神疾患患者(SMI)を被験者にする。ある町の患者さん100人に月73ドル渡した。別の町の患者さん38人には測定のときだけ22ドル渡した(これが統制群。つまりRCTになってないわけで、著者らも言及しているが、 ホーソン効果の可能性は残る)。介入は9ヶ月。介入前と6~7ヶ月時点を比較する。測定したのは不安とか心的機能レベルとかQOLとか[略]。なお、患者さんは統合失調症、双極性障害、重度の鬱、自閉症スペクトラム、などであった由。どっちの群も可処分所得が低かった。
 結果。実験群でのみ、鬱、不安、QOL、自己知覚、社会的ネットワークが改善。機能レベルは有意差なし。云々。

 考察。
 SMIにおける社会的孤立はSMIの症状ではないのではないか。心的状態だって、お金のおかげで生活が変われば改善するのではないか。
 
 へええええ。面白いなあ。
 金を渡したら精神疾患の症状が軽減されたという話自体は、視点ががらっと変わる驚きはあるが、よく考えてみるとまあそんなもんなんだろうな、と思う次第である。著者らも最初に述べているように、所得と社会関係と心的状態、すべては絡み合っている。人生のある側面を改善したら他の側面も改善しちゃう、というのは不思議じゃない。
 むしろ面白いのは、著者らは触れていないけど、実は患者に金を配った方が薬漬けにするより安上がりかも?常識的なケアより安上がりかも?... と想像が膨らむところだ。
 データ解析についていえば、せっかくだからpre-post比較じゃなくて、介入開始後にもう一回くらい測定しておいて、経済状態の好転→社会的関係性の向上→心的疾患の改善、という縦断モデルをつくればよかったんじゃないかと思ったけど、ま、傍で見ているほど楽じゃないんでしょうね。

読了:Ljungqvist, et al.(2015) 重度の精神疾患患者に毎月お金を渡したら?

2015年11月14日 (土)

 「孫文の義士団」という中国映画がある。先日初めて観たのだが、なかなか面白い映画であった。正確には香港=中国の合作、2009年の作品。いま調べたら、なんと中国側のプロデューサーは、かつて第五世代と称された気鋭の映画監督の一人、「黒砲事件」「輪廻」の黄建新だ...
 この映画は、香港からはジャッキー・チュンにレオン・カーフェイにサイモン・ヤムにドニー・宇宙最強・イェン、本土からは王学圻に范冰冰というオールスター大作なのだけれど、印象的な役どころのひとつを、あんまり女優っぽくない中性的な若い女性が演じている。クリス・リー(李宇春)、中国で大人気のポップ・シンガーである。
 他の国はおろか、日本の人気タレントについても全く理解できないのだけれど(先日は喫茶店のお姉さんに呆れられた。「ずっとCD掛かってるけど、これ誰ですか」「(5秒くらい間があって)嵐っていうんだけど、知りません?」)、このクリス・リーさんについても、歌手としてはどのあたりが魅力なのか、私、よくわかんないんですよね。社会文化的文脈なしで、Youtubeで何本か動画をみても、なぜ人気があるかなんてわかりっこないのである。ましてや活字で説明を読んでも、さらに役に立たないんだろうけど...

金明華(2015) 中国における新女性像の受容をめぐって : 李宇春ファンの活動を手がかりに. お茶の水女子大学人間文化創成科学論叢, 11, 41-50.
 というわけで、ふと見つけて読んだもの。
 えーと、女性たちは大衆文化の消費にあたり、単に男性の視線を内面化し男性の審美基準に従っているのではなく、さまざまな戦略を駆使して主体的に快楽を見出している。中国における女性たちのこうした文化消費が持つ可能性について論じるために、李宇春ファン(女性が圧倒的に多い)の文化実践に注目しましょう。
 ファンがアクセスするサイトで調査協力を求め、中国全土から31名のファンのファンレターを収集。さらに北京の20名のファンに半構造化インタビュー。
 李宇春はTV番組「超級女声」[リアリティ・ショーのようなものらしい]から生まれたスターで、アンチも多い。その歌唱力を疑問視する声も多いが[やっぱそうですよね...]、なにしろ外見が女らしくない(長身のショートカット)。その自由な発言も賛否を呼んでいる。
 熱心なファンたちのなかには、自主的なファン開拓活動や、李宇春さんの組織するボランティア活動に積極的に取り組んでいる人も多い由。彼女たちの活動の原動力は、中国社会における新しい女性像の受容への期待である。女性たちは市場主義のルールを利用して社会に介入し、価値観の多元化を促進しようとしているのである。
 とかなんとか、そういう内容であった。へー。

 ともあれ、「小朋友」という曲のMVでは、リーさんは原宿通りあたりを楽しそうに歩いておられる。次にお越しの際は、表参道通りを渡ってキャットストリート沿いを散策していただければ、私の勤め先に近いのでありがたいです。瑞穂の豆大福とかいかがですかね。

読了:金(2015) 現代中国におけるクリス・リーのファンの生活と意見

2015年8月13日 (木)

福元圭太 (2013) フェヒナーにおける光明観と暗黒観の相克:グスタフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(5). かいろす, 51, 18-39.
 心理学の教科書に必ず出てくるえらい人、精神物理学の父、そして19世紀ドイツの壮大な哲学者というか変人というかなんというか... かのグスタフ・フェヒナーの著作を丹念にたどる、九大のドイツ文学の先生による評伝連作、その第五弾。どうやら、2009年から年一本のペースで書き続けておられた模様(第三弾まで, 第四弾)。楽しみに拝読しております。

 すでに古稀を迎えたフェヒナー先生、静かな老後をお送りかと思いきや、なぜか二十歳そこそこの学生と仲良くなり、自らの思想を俯瞰する著書「光明観と暗黒観の相克」の執筆に着手しちゃうのである。なおこの学生はジークフリート・リピナーという人、のちに作曲家マーラーの友達になるんだけど、マーラーの結婚相手に嫌われて絶交する羽目になるんだそうです。なに? それって映画「ベニスに死す」に出てくる主人公の友達?と早とちりしたんだけど、wikipediaによればあの友達のモデルは作曲家のシェーンベルクだそうです。ははは。
 で、肝心の著書「光明観と暗黒観の相克」の中身ですが... うーん。汎神論思想ってんですかね。世界のあらゆるものが神の息吹だ、的な? 肉体は滅びても魂は不滅だ、みたいな? とにかくそういう本なんだそうです。何がすごいといって、この本をわざわざ探してきて読んだという著者の先生がすごい。ドイツ文学者おそるべし。

 フェヒナー先生もいよいよ晩年を迎えましたが、この大河評伝シリーズはまだ続く由。第六弾が楽しみだ。

読了:福元 (2013) フェヒナー先生とその時代・晩年編

2015年7月 5日 (日)

福元圭太(2012) 「精神物理学原論」の射程-フェヒナーにおける自然哲学の自然科学的基盤-. 西日本ドイツ文学, 24, 13-27,.
九大のドイツ文学の先生が、わたし数学苦手なのに...などと脚注でこっそりぼやきつつ書き続けておられる、心理学の教科書に出てくるえらい人・フェヒナーについての評伝、その第四弾。通しタイトルがついていないので気が付かなかった。仕事とは一切関係ないけど、楽しく拝読しております。

福元 (2012) フェヒナー先生とその時代・第四弾

2015年6月16日 (火)

 先日たまたま内村鑑三についての本を読んでいて、不敬事件(明治23年)の際に内村宅に押し掛け玄関に小便して帰った一高生の一人はのちの国語学者・保科孝一だという話を目にし、義憤に駆られた。この人の自叙伝を探して該当箇所を読んでまた立腹。 若い日の過ちを反省するというニュアンスではなく、自慢げに書いておるところが気にくわない。国家主義者だかなんだか知らないが、畳に小便はないでしょう。内村さんちのお手伝いさんか誰かが拭いたんだぞ。

浮田真弓(2015) 保科孝一の国語教育研究における国家主義と「国語」の民主化. 岡山大学大学院教育学研究科研究集録, 158, 63-70.
 というわけで、ついでにみつけて読んだもの(物好きにもほどがある...)。国語教育史からみた保科孝一論レビュー、という感じの内容であった。イ・ヨンスク「『国語』という思想」という本、面白そうだ。

読了:浮田(2015) 国語学者・保科孝一についての論文レビュー

2015年5月19日 (火)

 ここしばらく大阪の住民投票の話が話題になっていて、それ自体にはあまり関心がなかったのだけど、「基礎自治体の適正規模については学界である程度の合意がある。およそ30~50万人」と主張している大学教員の方がおられて、ちょっとびっくりした。そ、そうなんですか? 小中学校の適正規模についてさえあれだけの複雑な議論があるのに。
 仮に、自治体の適正規模についてなんらかのコンセンサスがあるとして、それは一体どういう視点からのコンセンサスなのかしらん。もっともこれは一種の政治的プロパガンダで(「だから大阪市を5つに分けるのは合理的だ」という話につながっていくわけです)、まじめに取り合う必要はないのかもしれないけど、それはそれとして、話として面白すぎる...

増田友也(2011) 市町村の適正規模と財政効率性に関する研究動向. 自治総研, 396, 23-44.
 というわけで、興味本位でwebで見つけて目を通してみた(仕事からの逃避の一環である)。著者は若い研究者の方で、これは博論が基になっているそうです。

 えーと、まず、自治体の適正規模はこれまでどのように捉えられてきたか。大きく分けて3つある由。

適正規模にはどんな規定要因があるか。

そんなこんなで、著者いわく、適正規模を一般的に求める研究は無理。現状では、解を提示できているのは計量分析だけだが、それだっていろんな前提を置いた上での話であることに注意。

 ここからは効率性についての計量分析の話。先行研究のレビューがあって...
 著者いわく、従来のモデルは次の3点がまずい。

 というわけで、最後の話にはちょっとついていけなかったが、レビュー部分がとても面白かったです。勉強になりましたです。
 なるほどねえ、いわれてみれば、いろんな論点があるものだ。上のメモでは省略したけど、計量分析についてもいろいろ面白い話があるということがわかった(ノンパラ回帰を使うとか)。政治家や専門家による「自治体のサイズはxx万人くらいが適正だと学問的にわかっている」系の主張には、眉によく唾をつけて接しないといけないこともわかった。

読了:増田(2011) 自治体のちょうど良い大きさとはなんぞや

2015年4月14日 (火)

宮永孝(2014) パリ・コミューンをみた日本人. 社会志林 60(4), 1-51.
 ルフェーブル「パリ・コミューン」をめくっているのだけれど全然頭に入らず、参ったなぁ、先に予備知識をつけた方がいいのか... と思いながらなんとなくみつけたもの。著者は歴史学者で、掲載誌は法政大の紀要らしい。
 まずパリ・コミューンのいきさつについて時間軸にそって紹介した後、当時パリにいたことがわかっている日本人たちを紹介。留学生約20名(一番有名なのは西園寺公望)のほかにも、前田正名という官僚が籠城中のパリにいたのだそうだ。また、直前には普仏戦争の観戦に来た日本の軍人たちがパリに入っていた由(通訳は中浜ジョン万次郎だったそうだ。へー)。というわけで、彼らが残した記録を紹介する内容であった。

読了:宮永(2014) パリ・コミューンをみた日本人

2015年1月17日 (土)

Brooks, C. (2010) Embodied transcription: A creative method for using voice-recognition software. The Qualitative Report, 15(5), 1227-1241.
 このたび身体化認知について手当たり次第に資料を集めた中で、もっともヘンな発想の論文。著者については全く分からないが、所属はInstitute of Transpersonal Psychologyとあるので、そっち系の人なのであろう。掲載誌はたぶん紀要のようなもの。実証研究というより、私こんなことやってます、という内容。
 著者の提唱するEmbodied Transcriptionとは、要するに、インタビューの逐語録を起こす手順の話である(こんな風にまとめちゃったら著者の方は気を悪くなさるだろうか...)。その手順とは次の通り。(1)録音を聞きながら、パソコンの音声認識ソフトに向かって、対象者がいったことを復唱する。こうすることで、世界が自分の身体を通じて経験・解釈され、「それぞれの参加者の言葉を口にするたび、個々の物語の微妙なニュアンスが深まっていく」「私は参加者の感情に共感しはじめる」んだそうです。(2)パソコンの画面で細かいところを直す。(3)テキストを見ながら録音を聞きなおす。
 えーと、この方法はですね、著者が心理学のキャリアを始める前に受けたポストモダン理論とパフォーマンス・アートの教育をコアにしているのだそうです。
 へー。

読了:Brooks (2010) 身体化された逐語録起こし

2014年12月11日 (木)

丸山和昭 (2004) 専門職化戦略における学会主導モデルとその構造-臨床心理士団体にみる国家に対する二元的戦略-. 教育社会学研究, 75, 85-104.
 なにかの拍子にふと見つけ、移動中の電車で、くつくつと笑いながらスマホで読んだ。医療・教育分野における臨床心理団体の専門職化戦略を、アルベキ論は脇においといて、社会学的観点から批判的に検討する。

 えーと、70年代の臨床心理学会崩壊以後、医療系心理職の資格制度を求める声に支えられて心理臨床学会が成立、ついで臨床心理士資格制度が発足。認定機関の管轄官庁が厚生省ではなく文部省になったのは、医師からの自律性という観点からは高学歴化が必要なのに、厚生省側が難色を示したから。文部省への接近によって臨床心理士は学校という巨大市場を獲得する。つまり、臨床心理団体は医療領域における医師からの自律性を求めて教育分野へと進出するという「矛盾した戦略」をとったわけだ。これに対して厚生省側は新たな職能団体・全心協を発足させてしまう。今に至る混乱のはじまりである。
 著者はOT, ST, PSW, 学校心理士, 臨床心理士を横並びに比べ、国家に対する二元的戦略に基づく専門職化の「学会主導モデル」を抽出する。すなわち、(1)まず養成機関を確保し、現状にはそぐわない高度な法人資格をつくってしまう。現職には経過措置を提供すればよい。「しかし、ここで集められた人材は必ずしも資格要件を充たすような専門性を備えているわけではない。[...] 臨床心理士の初期の人材は、高度な資格に彩られたステイタス・イメージは保有していたが、資格の示す学歴は身につけてはいなかったのである。」[←私が云ってんじゃなくて著者が仰ってるんですよ] (2)新たなる職域を開拓する。(3)養成機関を自律的に拡大させていく。
 とはいえ、こうして得た自律性ははかなくも脆い...

 「臨床心理士団体の分析によって明らかになるのは、科学者の養成や専門的知識の発達を[なにかの目標を達成する手段ではなく] 「目標」とする学会中心の専門職団体が、職域内部の要求を呑みこむことによって拡大していく過程である。専門職化戦略は職域内部だけでなく、それを支える科学組織の地位向上・支配力の増大への志向に影響される可能性を有している。」
 なるほどねえ... 確かに、専門職団体の目標が成員の地位向上そのものにあるとしたら、低年収のスクール・カウンセラーさんたちから臨床心理士資格更新のために結構なお値段の研修費を集めるのって、説明できないもんね。興味深い視点だ。

読了: 丸山(2004) 臨床心理士資格の成立プロセスにみる専門職化戦略

2014年8月27日 (水)

Hampton, K.N., Rainie, L., Lu, W., Dwyer, M., Shin, I., & Purcell, K. (2014). Social Media and the ‘Spiral of Silence.’ Pew Research Center, Washington, DC.
 ピューリサーチセンターの自主調査報告。今日twitterでたまたまリリースを見かけ、あまりに面白そうなので報告書まで探して読んでしまった(なにをやっておるのか)。第一著者のHamptonって人はいまこの分野で活躍している社会学者らしい。
 一言でいっちゃえばSNS利用についての単発の横断調査なんだけど、目のつけどころがすっばらしい。痺れました。

 重要な政治的問題について、人は自分の意見を他者に公開したがるか。かの沈黙の螺旋理論に言わせれば、自分の意見が少数派だと感じるとき、人は自分の意見を公開したがらなくなる。でもSNSの登場により、少数派であっても自分の意見を自由に公表しやすくなり、公共的議論の幅は広がったのではなかろうか。
 というわけで、去年の夏、スノーデン事件を題材に約1800人にRDD調査。主な知見は:

 いやー、ものすごく面白い。もちろんスノーデン事件に限った話だから、むやみに一般化しちゃいけないんだけど、ソーシャルメディアは多様な議論を支えてなどいないんじゃないか、むしろ世論形成の「沈黙の螺旋」メカニズムの一端を担っているんじゃないか... と考えさせられる分析結果である。

 いやはや。プロの研究者の方を相手に失礼な言い方かもしれないが、正直云って、ちょっと悔しい。たった約10問、1800人の調査でコレなのである。
 ノエル=ノイマンの「沈黙の螺旋」という概念を知っている人は多いだろう。また、世の中に広報目的の自主調査をやっている会社はたくさんあるし(市場調査会社もね)、実査だけみればこのくらいの調査は容易である。でも、思いつかないよなあ、この切り口。つくづく思うに、調査の価値ってのは目の付け所で決まるのだ。

読了: Hampton, et al. (2014) ソーシャルメディアと「沈黙の螺旋」

2014年2月21日 (金)

Kieser, A., & Leiner, L. (2009) Why the rigour-relevance gap in management research is unbridgeable. J. Management Studies. 46(3), 516-533.
 調べものをしていて偶然みつけた論文。いろいろあって疲れたので、気分転換に目を通した。掲載誌は経営学の雑誌だろうと思うが、インパクト・ファクターが3.8って、これってかなり有名な雑誌なんじゃないかしらん。

 えーっと... 経営学においてはかねてよりrigour-relevance gapが問題視されており(科学的厳密性と実務的有用性の二兎を追えない、という意味であろう)、雑誌の特集号にもなっているし本も論文集も出ている、のだそうです。このギャップは言い回しやスタイルのちがいだけじゃなくて、問題を定義し取り組む際の論理のちがいでもある。で、このギャップを憂う研究者たちは、実践から問いを立てなさいとか、実務家と協同しなさいとか、そういう提案をする。彼らはたいてい理論的基盤というものを持っていない。アホどもめ。(←そうは書いてないけど、まあそういう趣旨)
 ルーマンのシステム理論の観点から考えよう。近代社会における専門化したシステムの特徴、それはオートポイエティックであるということだ(で、でたぁ...)。それは高度に自律的なシステムであり、その構成要素はヒトでもなければ行為でもない、コミュニケーションである。それらは他のシステムには移せない。ある実務家が、科学雑誌の論文を読み、理解できたと思ったとしよう。彼女は同僚に対して、その研究を引き合いに出してある解決策を正当化することはできるかもしれない。でもそのときには、その論文が基づく理論と方法は失われ、文脈は変わり、引用は異なる意味を持つ。彼女はその論文の科学的内容そのものを、科学というモードのなかで伝えることはできない。
 社会システムは自己参照性(self-reference)と操作的閉鎖性(operative closure)を持つ。システム外部の出来事が内部に直接干渉することはない。社会システムは、その内部において可能なコミュニケーションの範囲を決める枠組みを持っている。コミュニケーションはそのシステムに特有のコードに基づく。科学システムのコード、それは真か偽かだ。経済システムのコード、それは金になるかならないかだ。(以下、科学システムと経済システムのそれぞれの描写が続く)
 確かに、経営学のトップ・ジャーナルの査読者用チェックリストには「実務的有用性」がはいっている。でも書き手は、研究の結果が実務に対してこんな示唆を持ちそうです、と書くだけでよくて、ほんとに役に立ちますという証拠はいらない。つまり、(研究者が社会的に構築したところの)"実務家"がこんな示唆を得ることができるかもしれません、ということを書き、(その研究者が構築したところの)"有用性"という概念が査読者のそれと一致していればそれでよい。有用性の評価はあくまで科学システムの内部で行われている。
 真/偽というコードと有用/非有用というコードの両方に基づくコミュニケーションなんて想像もつかない。優れた実務家が査読者になったりテニュア・コミッティのメンバーになったところで、厳密性からみたランク付けと有用性からみたランク付けができるだけだ。工学や医学とは事情がちがう。ああいう分野は実験ができる。実験においては真/偽というコードと機能する/機能しないというコードが一致する。
 実務家と協同するタイプの研究としてはアクション・リサーチがある(創始者としてEric Tristという名前が挙がっている。恥ずかしながら知りませんでした。調べてみたら、クルト・レヴィンの弟子でタヴィストック研究所の創設者らしい)。でも彼らの論文はたいてい彼らのジャーナルに載るだけで、権威あるジャーナルには載らない。モード2はどうか (マイケル・ギボンズたちのこと)。経営学への適用例はない。だいたいあれは大学の外での知識産出と社会への拡張を目指しているだけで、真に協同的ではない。
 システム理論的に言えば、研究者と実務家のいわゆる「協同研究」というのは「コンタクト・システム」、すなわち、それぞれの主システムにおけるディスコースから切り離されたディスコースをつくりだす一時的な相互作用システムだ。そこでのディスコースはその外側には伝わらない。ないし、協同研究といいつつ教育だったりコンサルティングだったりする。協同研究なんて不可能である。
 科学の基本的な課題、それは現象の記述と分析である。それは研究対象であるシステムの自己記述や自己分析であってはならない。初期の経営学は、実践との距離を失ったが故に、その正当性を失う危機にさらされた。研究者と実務家の実りある関係は、研究が目的でないときのみに可能となる。必要なのは、研究の知識と実務の状況の両方がわかり、一方のシステムで起きている事柄を他方のシステムにメタファーとして伝えることができるバイリンガルである。一方のシステムは他方のシステムに、いらだちや刺激やインスピレーションを与え、それは(たまには)有益であろう。
 
 ... あははははは。
 いろいろ感想はあるけど、書くのが面倒なので省略。ともあれ、きつーい書き方が面白かった。著者の先生方は、なんというかその、なにかつらいことでもあったのだろうか。

読了: Kieser & Leiner (2009) 実務家と研究者が手を組むなんて無理に決まってる

2012年12月 4日 (火)

今西一(2011) 「荒神橋事件・万博・都市科学研究所 -上田篤氏に聞く」, 小樽商科大学人文研究, 122, 3-46.
 先日、日本のマーケティング系のエスノグラフィー的研究の話を伺っていて、全然知らない話が多く、不勉強を痛感した。今和次郎とか、70年代の「生活財生態学」とか。で、その流れで関西の京大系シンクタンクについてなんとなく調べていて(仕事しろよって感じですね)、たまたまみつけて読みふけった紀要論文。
 上田篤さんという、戦後の都市論研究の第一人者だという方に、50年代の京都の学生運動を中心にインタビューした聞き書き。この方、京大天皇事件('51)の際に「私の写真がアサヒグラフに出ちゃったんですよ」という世代の方で、後藤正治のノンフィクション「幻の党派」で描かれたシンクタンク「都市科学研究所」の創設者なのである。いやー、面白かった。

読了:今西(2011) 50年代の京都の学生運動についての聞き書き

2012年9月29日 (土)

福元圭太 (2009) 魂の計測に関する試論:グスターフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(1). かいろす, 47, 33-48.
福元圭太 (2011) フェヒナーにおけるモデルネの「きしみ」 : グスターフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(2). 言語文化論究, 28, 1-21.
福元圭太 (2012) 『ツェント・アヴェスター』における賦霊論と彼岸 : グスターフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(3) 言語文化論究, 28, 121-134.

 勤務先での仕事の都合でたまたまFechnerの名前を目にする機会があり(一対比較データの分析方法について調べていたため)、このFechnerって、心理学の教科書に出てくるヴェーバー・フェヒナーの法則の、あのフェヒナーだよねえ...と、なんとなくぼんやり検索していて、日本語で書かれたフェヒナーの評伝(!)を見つけ、思わず読みふけってしまった。ここまで来ると、仕事とはもう何の関係もない。
 掲載誌は九大の紀要。著者は独文の先生で、ワタシ高校で数IIまでしかとってないんで数式のところはさっぱりわかんないです、などと注のなかでこっそりぼやきつつも、実験心理学の祖にして汎神論的な思想家でもあったフェヒナーの、いまでは誰も読もうとはしないであろう膨大で晦渋で冗長な著述を、延々と辿っていくのである。ご苦労様でございます。

 著者いわく、19世紀ドイツにおいては「『実証主義的自然科学』と『ロマン派の観念論的自然哲学』との間に葛藤が生じることとなったのだが、[...]これこそがフェヒナー個人の中で起こっていた葛藤に他ならない」「極端な言い方をすれば、両者の葛藤の擬人化こそがフェヒナーなのである」のだそうである。ふうん。
 33歳で物理学の正教授となったフェヒナーは、肉眼で太陽を見つめる実験のせいで目を傷めたのをきっかけに、「やがては顔を布で覆い、最後には顔全体にブリキの仮面をかぶるようになって極端に光を避け、黒く塗られた部屋に閉じこもって4年に近い月日を過ごすことに」なった。いや、それってもう眼の病気じゃないですよね。
 で、なぜか突然に回復したのちは神秘主義的な自然哲学にシフトし、なぜ植物に魂がないといえるのでしょうかとか、地球にも天にも魂があるんだとか、死後の魂は神の精神圏に入るんだとか、そういう感じの本を山ほど発表し、同時代の人々からうんざりされたり無視されたりする。現代の心理学科の学生はたいてい一年生の時に、感覚量そのものじゃなくて弁別閾を測るんだという精神物理学の基本概念を教わるけれど、あれをフェヒナーが最初に発表したのは、そうした忘れられた著作の片隅だったんだそうである。へえええ。

 論文3本を費やしつつも、伝記としてはいまだ完結に至っていない。続きをお待ちしております。

読了:福元 (2009,2011,2012) フェヒナー先生とその時代

2011年6月 8日 (水)

戴晴 (1990)「私の入獄」(抄訳), 田畑佐和子訳、中国研究月報, 44(5), 10-22.
 1989年からもう22年も経つのだなあ、と先日ぼんやり感慨にふけっていて、ふと著者の名前で検索して見つけた記事。戴晴は中国の改革派知識人で、天安門事件の際にキーパーソンのひとりと目された人だと思う。この文章は事件後の拘置体験を綴ったエッセイであった。
 当時の状況からしてあまり厳しいことを書けなかったのかもしれないが、監房は広く清潔であった由。彭真や王光美も入れられた、中央公安部の由緒正しき監獄だったそうだ。まあ、著者も国際的な有名人だしね。
 Cinii に加入してしまうと、こういう雑誌記事もクリックひとつで購入できてしまう... おそろしいことだ...

読了:戴晴(1990) 私の入獄

2010年9月21日 (火)

門田俊夫(2001)「ハワード・バーカー試論 劇作家としてのモラル」. 大阪経大論集, 52(1), 2001.

 先月ちょっと用事があって,論文をかき集めては読み捨てるという作業を続けていたのだが,全然記録していなかったものだから,どれを読んでどれが未読なのかがすぐにはわからないし,読んだ中身もどんどん頭の中から消えていく。これじゃなにをしているんだかわからない。反省。
 で,国会図書館に資料請求を繰り返したせいで心理的ハードルが低くなってしまい,ぼんやりwebを眺めていてちょっと読んでみたくなったものまで,深く考えずに請求してしまったりして。。。この11頁で500円以上かかるのに。なにをやってるのだ。反省。悔しいので記録しておく。
 高校生の頃,NHK-FMで海外のラジオドラマの翻訳を放送していて,とても印象に残っている作品のひとつに,ルネサンス期のイタリアで政治家に絵を描けと命じられた女性画家の話があった。ベネチアが海戦でトルコ軍を打ち破ったその勝利を讃える絵を描くべきところを,画家は自らの芸術観に忠実なあまり,戦争の悲惨さを暴き出す大作を製作してしまう,という話。その画家の夫である,あまり才能のない画家が橋爪功さんであったと思う。懐かしいなあ。
 ふとそのドラマのことを思い出し,いったいあれはなんだったのかとあれこれ検索した結果,タイトルは「名画誕生」,87年放送,元になっていたのはHoward Barker作のScenes from an ExecutionというBBCのドラマだ,というところまでたどり着いた。この作品はのちに舞台劇になっている模様。BarkerはWikipediaにも載っている英国の大劇作家で,でも邦訳はないらしい。この人についての日本語の紹介として,この紀要論文がひっかかったので,ついつい取り寄せてしまった次第。
 論文の内容は,この劇作家の三つの作品("The Last Supper", "The Possibilities", "Brutopia")のあらすじ紹介であった。なんだか知らんがややこしそうな芝居を書いておられるらしい。残念ながらScenes from an Executionへの言及はなかった。がっくり。

読了:門田 (2001) ハワード・バーカー試論

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