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2008年7月28日 (月)

全く予期しなかった脳出血で左半身不随になった俺は死ぬことにした。治癒の見込みもないし貯金も尽きていくし,この状況で前向きに生き永らえようと考えるほうが不思議だ,というのが俺の意見である。身体が弱ったシマウマがまっさきにライオンに喰われるようなものだ。もちろんサバンナと人間の社会とは異なるから,そうした適者生存の思想が無条件に正しいとはいえないし,誰もが幸せに暮らせる社会のほうが良いに決まっているけれど,それはこれからの社会をどうするかという話であって,俺は死ぬんだから社会のことはどうでもよい。とにかく,持てる最後の体力と勇気を振り絞って,俺は死ぬことにしたのである。

 夜明け前,なんどか深呼吸して決意を固めてから,俺は右足で壁を蹴飛ばし,自室のベッドから転がり落ちた。右半身で畳を掻いて,尺取り虫のように少しずつ前進していく。床の埃を吸い込んで咳き込み,涙を流しながらようやく玄関にたどり着く。渾身の力でドアを押し開き,隙間に頭をねじ込むようにしてアパートの外廊下に這い出ると,外は薄紺の光に覆われはじめている。エレベータホールまで点々と続く白い蛍光灯が,永遠とも思えるほどに遠くまで光っている。
 それでも,いまここであきらめる訳にはいかない。呼吸を整え,再びぎこちなく匍匐前進をはじめると,差し伸べた手の先が,隣の住人が置き忘れたらしい巨大なスケートボードに触れる。すばらしい。引き寄せて身体をねじらせ,腰の下に挟み込み,右手をコンクリの床に突いてゆっくり半身を起こすと,ちょうどスケートボードのうえに座り込んだ姿勢になる。右足で掻き出すと,身体がふらふらとエレベータに向かって滑りはじめる。おもわず小声で快哉の叫びをあげる。
 エレベータの行き先ボタンをどうやって押したものか,とにかく俺は無事に屋上にたどり着く。段差を乗り越えようとしてスケートボードをひっくり返し,うつぶせに前に転倒するが,そのまま俺は屋上を囲む金網へと這い進む。あと少し,あと少し。ああ,誰も知ることがないだろうが,俺はいま大きな仕事をなし遂げつつあるのだ。行き先のない,手遅れの努力には違いないけれど,とにかく俺はいま全力を尽くしている。
 金網の向こう側に誰かが立っている。薄明かりのなか目をこらすと,それは若い娘で,無表情に俺を見下ろしている。俺は動きを止め,女としばらく顔を見合わせる。考えてみれば,死ぬべきだと決意するのは世界で俺一人というわけでもないだろう。「すみませんが,お嬢さん」自分の声が驚くほど年寄りじみているので,俺は少し驚く。「こんなときに申し訳ないのですが,私をそちらに連れて行ってもらえませんか」女は答えない。俺の声が全く聞こえないかのように,無表情に俺を眺め,それから俺に背を向けて,棒が倒れるように地上へと飛び降りる。
 若い娘の姿がかき消えた空間をぼんやりと眺めながら,そうだ,金はもういらないのだ,と思う。だったら贅沢して,宅急便を呼ぼう。尻ポケットから苦労して携帯をひっぱりだし,俺は宅急便に電話する。電話を切るか切らないかのうちに,縞模様の制服を着た男が駆け寄ってきて,お待たせしました宅急便です!と明るく叫び,帽子を取って素早く頭を下げる。あの金網の向こうまで。かしこまりました。男は俺の身体を軽々と持ち上げて台車に乗せ,ごろごろと運んでいく。金網につけられていた戸を開けて(そうか,別に穴を開ける必要はなかったのか,と気が付く),娘が立っていたコンクリの上に俺を横たえ,伝票を差し出す。こちらにハンコをお願いします。再び帽子を取ってバネ仕掛けのように頭を下げ,腰に下げられた様々な装置をガチャガチャと揺らしながら,男はあっというまに駆け去っていく。

 こうして俺は再び一人きりになった。仰向けに見上げると,いつの間にか夜は明けていて,空は薄い水色に染まっている。力を振り絞って半身を起こし,身を乗り出して地上を見下ろそうとする。その一瞬,それまで全く感じられなかった激しい痛みが全身を撃ち抜く。もしかしたら。若い娘は最上階のベランダのひさしの上に腰を下ろして,空を眺めているのではないか。もしかしたら。娘は空中に浮かび,いまゆっくりと地上に降り立とうとしているのではないか。もしかしたら。もしかしたら。
 その激しい感情はすぐにかき消える。息を吐き,ぎゅっと瞑った両眼をゆっくり開き,地上を見下ろすと,アスファルトに広がった血糊の中心で,宅急便の男が娘を両腕で掬い上げ,力無くうなだれている身体を台車に乗せて,配送車へと運んでいく。死骸を車に無造作に乗せ,観音開きの扉をバンと閉めると,脇で様子を見守っていた管理人らしき男に伝票を渡し,帽子をとって頭を下げ,運転席に戻ってドアを閉める。しかし,配送車は停車したまま,なかなか動かない。なるほど,たいしたものだなあ,と俺は感心する。効率の良い配送ルートこそが重要だ。彼らは俺が飛び降りるのを待っているのだ。

雑記 - 数日前にみた夢の話

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