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2015年1月11日 (日)

 ひつこくShapiro(2011)のメモ。本に書き込みしただけだとすぐに忘れちゃって、せっかく読んだのがもったいないので。
 4章、身体化認知アプローチによる標準的認知科学批判のうち、Shapiroのいう概念化仮説(ある生体が獲得できる概念はその生体の身体の諸特性によって制約されているという仮説) についての章。Rosch, Lakoff&Johnson, Barsalou, Glenberg ら斯界の大物に、哲学者の誇りを賭けて(?) 片っ端から喧嘩を売るという、この本のなかで一番論争的な章である。

 まず、議論の前置き。
 [4.1] 本章では生体が持つ身体とその生体が持つ概念との関係についての研究について検討する。人間が抱く世界を抱くためには人間のような身体が必要だ、というのは本当か。
 [4.2] かつてウォーフは、言語は思考を決定すると述べた(言語決定論)。Broditskyは、 時間の概念化(conception)が母語によって異なることを示し [2001, Cog.Psy.]、 英語の名詞の概念化が母語におけるその名詞の文法上の性によって異なることを示した[2003, 論文集]。言語決定論についての一般的問いのかわりに、検証可能な部分的仮説について検証したわけである。なお、言語決定論は言語が非言語的な思考を変えるという主張である点に注意(この点がわかっていない人が多い)。
 [4.3] ここで概念(concept)と概念化(conception)を分けて考えないといけない。bachelorについての考え方(conception)は人によって異なるが、それが未婚の人だという点(concept)は誰もが同意する。Boroditskyの実験は言語によるconceptionの違いを示しているだけで、conceptの違いを示しているとはいえない。conceptを必要十分条件で表現できるかどうかは怪しい(cf. Smith&Medin, クワイン, ウィトゲンシュタイン)。conceptとはなにかという理論なしには言語決定論をどこまで支持できるかわからない。身体化認知における概念化仮説も同様である。conceptというconceptの検討にもっと時間をかけるべきだ。
 [4.4] 最後にもうひとつ。仮説というのは検証可能なものだ。検証可能というのは、単に実証研究が必要だということではなくて、観察が競合する仮説にそれぞれの尤度を与えるという意味だ。だから検証可能性というのは仮説間の関係のことだ。

 ここから本題。
 [4.5] Varela, Thompson & Rosch (VTR) は、色の経験があるユニークな種類のembodied couplingを通じて創造されている、と考えている(色の概念化)。couplingってなんのことかはっきりしないんだけど、ある単一の色(たとえば緑)の経験と相関する単一の物理的特性が存在しないということ、色の経験の構造が三種類の錐体細胞の相互作用に依存しているということ、色の視覚システムが照度のコントラストと変化に反応するということ、を指していっている。彼らによれば、色はpregivenでもrepresentedでもなく、むしろexperientialかつenactedな認知領域である。

 なお、問題点1と2は無関係である。標準的認知科学が色の視覚を説明できるかどうかと、世界に色が存在するかどうかとは関係ない。

 [4.6] Lakoff & Johnson (LJ)は、身体の諸特性が概念化・カテゴリ化の可能性を決めている、と考えている。その証拠は、まず概念発達におけるメタファの重要性である。LJによれば、メタファによらずに学習できる「基礎概念」が直接の身体経験から引き出され、他の概念は基礎概念に基づくメタファによって獲得される。
 LJは概念における類似性が身体における類似性を必要とすると考えているが、これは強すぎる主張だ。

というわけで、LJの仮説は確かめるのが難しい。
 細かいところにいろいろ問題はあれど、LJによる身体の重視は第二世代認知科学の幕開けだ、と信じている人もいる。Lakoffによれば、第一世代認知科学は(1)心は記号的で認知過程はアルゴリズムだ、(2)思考はdisembodiedで抽象的だ、(3)心はconscious awarenessに限定されている、(4)思考は字義的かつ整合的であり論理によるモデリングが適している、と考えていた。いっぽう第二世代は(1')心は記号的じゃなくて生物学的・神経学的だ、(2')思考はembodiedだ、(3')心のほとんどはunconsciousだ、(4')抽象的思考の大部分はメタファ的であり、身体と同じように感覚運動システムを使っている、と考える。
 標準的認知科学が認知における身体の役割を軽視してきたのは事実だけど、LJの主張は維持できない。

 [4.7] 心理学者はSymbol Grounding 問題の解決のためにembodimentという概念に注目してきた (Glenberg, Barsalou ら)。Symbol Grounding問題とは思考がどうやって意味を獲得するのかという問題である。
 Glenbergらいわく、サールの「中国語の部屋」が示すように、記号の意味は他の記号との関係だけでは獲得できない。ここでは意味と理解が混同されている。中国語の部屋の中の人が操作しているシンボルは有意味か。Glenbergたちは意味がないとと思っているようだが、もちろん有意味である(部屋の外にいる中国人のみなさんをみよ)。ゆえに、中国語の部屋の話は「記号の意味は他の記号との関係だけでは獲得できない」という結論を導かない。さらにいえば、「シンボルがどうやって意味を持つか」という問いに対しては計算理論のの観点からでもいろんな哲学的説明が可能だし、それらはたいてい記号間の関連だけから意味が生じるとは主張してない(つまり中国語の部屋の内側から意味が生じるとは主張していない)。
 たいていの心理学者が関心を持っているのは、実は、シンボルのユーザがシンボルの意味がどのように理解するのか、という問題だ。これは記号の意味の成立とは別の問題である。

 [4.8] Glenbergはこう主張している(indexical仮説)。意味の理解は3つの段階からなる。(1)語の知覚シンボルへのマッピング。知覚シンボルとはオリジナルの知覚的符号化において出現した形で再構築されたモーダルな表象である。(2)知覚シンボルからアフォーダンスを導出。アフォーダンスとは、生体にとって問題となる環境の諸特性のこと。Gibsonは生体がアフォーダンスを直接知覚すると論じた(あまりに論争的な主張なので脇に置いておく)。(3)アフォーダンスがmeshされ、言語的シンボルの理解を与える。たとえば、掃除機はコート掛けとして使えるか。人は掃除機の知覚シンボルとコートの知覚シンボルから、掃除機がコートを掛けることをアフォードしていること、コートが掃除機に掛けることをアフォードしていることを引き出す。このとき2つのアフォーダンスがmeshしているという。(ここ、わかりにくいので全訳)

 さらに次の場面について考えよう。ある人が「コートを掃除機に掛けろ」という文の有意味性(sensibility)について評価するよう求められたとする。この課題の要求について考えると、結局はsymbol grounding問題についての議論に行き着く。symbol grounding問題に対して心理学者が与えた解釈は、この問いは意味の理解についての問いだ、というものである(記号はいかにしてその意味を最初に獲得するか、ではなく)。Glenbergらは、Searleの中国語の部屋を、シンボルをどう結びつけるかについての教示に従っているだけでは、その人にとって言語的記号は有意味にならない、ということを示す例として受け取っている。従って、Glenbergによれば、理解はなんらかのかたちでgroundedでなければならない。適切なgroundingが奪われた状態では、人は「コート」「掃除機」を理解できず、「コートを掃除機に掛けろ」という文がsensibleかどうかを判断することもできないだろう。Glenbergにいわせれば、indexical仮説は、理解がいかにgroundedになるか、そして文がいかに理解されるかを説明してくれる。理解が可能になるのは、言語的思考に含まれているシンボルが「モーダルであり非恣意的であるからだ。それらは指示対象の知覚の基盤にある脳状態に基づいている(Glenberg & Kaschak, 2002)。Glenbergが考えるところでは、知覚シンボルのモダリティによってアフォーダンスの導出が可能になる。「恣意的シンボルの場合と異なり、知覚シンボルからはアフォーダンスを導出することができる。なぜなら、知覚シンボルとその指示対象との関連は恣意的なものではないからだ」。

Glenbergはindexical仮説の証拠として行為-文整合性効果を挙げている。

 [4.9] indexical仮説は維持できるか。
 ひとつめ、indexical仮説は計算主義と整合しないのか。GlenbergやBarsalouらは、アモーダルなシンボルはプロセッサにとってすでに有意味で、その理解の獲得についてなんらかの説明が必要だが、モーダルなシンボルの理解については説明がいらない、なぜならそれは神経状態においてgroundedだから、と考えているようだ。でも、

 ふたつめ、行為-文整合性課題で用いられているsensibility判断について。Glenbergによれば、たとえば「コートを掃除機に掛けろ」はsensibleだけど「鉛筆を登れ」という文はsensibleでないことになる。でも被験者は後者の意味を理解することはできているし、だからこそ「そんなの無理だよ」と答えるわけである。文-行為整合課題での被験者の課題は、文の意味の理解だけじゃなくて、ある行為(鉛筆を登る、とか)が自分に可能かどうかの判断を含んでいる。そこで被験者は知覚シンボルからアフォーダンスを引き出しているかもしれない。でもそれが意味の理解において生じているかどうかはわからない。Glenbergらが、車いすの人は「階段を登れ」という文を理解することさえできない、ということを示したら降参するけど、彼らが示しているのはそれじゃない。
 みっつめ、上の問題点は別にして、行為-文整合性効果について。単に、(行為とは無関係に成立した)文の理解が、ある種の運動反応をプライムし、それが課題遂行のための運動反応に干渉しただけなんとちがうか。
 
 [4.10] 多くの研究者が、前運動野における標準ニューロンとミラーニューロンの発見を、知覚と行為に共通のコードがあるのだ、対象の認識の一部は身体と対象との相互作用という観点からなされているのだ、という主張の証拠として挙げている。テニス・ボールはsphere-graspable-with-myu-whole-handとして知覚され、バナナに腕を伸ばす他者はreaching for として知覚される、とか。
 この説明が正しいとすると、「身体の大きさが異なる霊長類は同じサイズのモノを異なった形で知覚する」ことがわかればLJを支持する証拠になるかもしれないし、「文理解じたいに伴ってミラーニューロンが活性化しそれが課題に干渉する」ことがわかればGlenbergを支持する証拠になるかもしれない。もっとも、ニューロンの活性化が行為の観察と相関しているからといって、行為の理解にそのニューロンが寄与しているかどうかはわからないんだけど。

 ...こうしてみると、哲学者Shapiroさんにとって、embodied cognitionの実験をやっているたいていの研究者は embodied cognitionの研究者ではなく、標準的認知科学の枠組み(表象主義・計算主義)の内側にいることになるのではないかと思う。たとえば、上腕筋の屈伸運動が動機づけと連合しているという研究はたくさんあって、それらの多くは身体化認知研究を名乗り、BarsalouやLakoff&Johnsonを引き合いに出す。でも実験結果については、高次認知の計算過程で知覚運動表象が利用されているんですね、と解釈するだけであって、身体が概念を制約するとか(概念化仮説)、表象が要らないとか(置換仮説)、身体が認知を構成しているとか(構成仮説)といった主張は全然含意していない。embodied cognitionという言葉に込めるニュアンスは人によってずいぶん違い、Shapiroさんの議論はかなりな空中戦なのだと思う。

雑記:心理 - 身体化認知の「概念化仮説」批判 by Shapiroさん