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2005年11月10日 (木)
国語教科書の思想 (ちくま新書)
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石原 千秋 / 筑摩書房 / 2005-10-04
小中学校の国語教科書に隠されたイデオロギーを暴き出す,という本。
雑な内容でがっくり。途中で投げ出すのも気持ち悪いので,心の中で突っ込みを入れながら読んでたら,大変疲れた。せっかくなので記録しておこう。
- 国語教育は多様な読みを許さない。それは見えないイデオロギー教育だ。見えないものは暴くべきだ。[教育が暗黙的な社会規範を支えているということは(1)誰でも知ってるし,(2)それ自体が悪だというためにはそれなりの論拠が必要だし,(3)そのイデオロギーを暴くこと自体が教育のために良いことだというのはちょっと傲慢だし,(4)多様な読みを許す国語教育ならイデオロギーから自由になれるのかどうかはすごく怪しい]
- ゆとり教育のキャッチフレーズは「みんなが満点を」だった。しかし学びにおいて大事なのは間違えることだ。故にゆとり教育は間違いだ。[(1)「みんなが満点を」なんていったい誰が云ったのか? (2)仮にそれに近いキャッチフレーズがあったとしても,素直に受け取ればそれは「みんなが満点を取りうるレベルにミニマム・スタンダードを設定してその実現に力を尽くそう」という話か,あるいは「間違いをそのままにせず,最終的にみんなが満点をとれるところまで到達できるような,ゆとりを持った教室をつくろう」という主旨だろう。それをわざわざ「みんながいきなり満点をとっちゃうから間違えることがなくなる」と捉えるのは揚げ足取りというものだ]
- PISAにおいて読解力の低下が示された。[まあ,ここは話の枕だからいいとして] しかしPISAでいう読解力とは批評的に読み能動的に表現する力だから,漢文の素読などによって身に付くものではない。[それはそうだろうなあ] で,これから大事なのは伝統的な国語の学力じゃなくて,PISAでいうところの読解力だ。なぜならそっちがグローバルスタンダードで,グローバルスタンダードには従わないといけないからだ。[ここんところ,情けなくて涙が出そうになった。結論の是非を別にすれば,これでは「日本人は日本人なんだから漢文を素読しろ」というのと同じレベルだ]
- そこで,まず正確な読みと表現を教えるリテラシー教育が重要だ。そこで教科書を調べてみると,光村図書の「中学国語」にはディベートやディスカッションが用意され,伝えあうことが重視されている。この年頃には内省が必要なのにこれではいけない。大事なのはバランスなのだ。[いったいどうしろというのか]
- <「読解力」のグローバルスタンダードとは,すなわち「個性」というところに落ち着きそうだ。個性こそが商品価値があるのだ> [ほんとにこう書いてある。しかも唐突に。多様性を尊重すれば読解力が向上するといいたいのか?] さて,個性を計量する道具としては文学が有効だ。その証拠に難関私立中学では小説の出題が増えているではないか。[もはや個性というのは多様性のことではなくて,一次元的に計量できて「商品価値」に収まり,中学入試で評価してもらえるような種類のユニークさのことを指しているらしい。それならそれでもいいけど,ことばの意味が柔軟に変化するから,ついていくのが大変だ]
- そこで,「文学」という科目をつくり,専門の教員を養成すべきだ。なぜなら文学こそが多様性を極限まで試すものだからだ。さしあたり二通りの読みを許容する小説教材を用意し,二通りの読みを教えるとよいだろう。[当否はさっぱりわからないが,説得力がないことだけは確かだ]
- 小学校の国語教科書には動物がたくさん出てくる。これは「自然との共生」という思想でくくることができる。しかし教材に登場するのはどれも,人間が自然を克服し利用する話だ。つまりここには欺瞞としての共生しかない。[「ここにトマトがたくさんある。これらは果物としてくくることができる。しかしよく考えてみるとトマトは野菜だ。つまりここには欺瞞としての果物しかない」 なにをどう呼ぼうが自由だけど,トマトは可哀想だなあ]
その分野では立派な学者だろうに,なんでこんな本を書いちゃったのだろうか。想像するに,かつて国語の中学入試問題を集めて分析したら面白い本が書けたし評判にもなった(入試問題のテーマは「自然に帰ろう」と「他者と出会おう」の二種類しかないんだそうだ。ふうん。そっちの本を読めばよかった)。そこで今度は国語教科書を集めて読んでみたんだけど,こっちは残念ながら,いまいちクリアな分析ができなかった。でもほら私って本業だけじゃなくて教育にも一家言あるヒトだから,PISAの話なんか織り交ぜて,これからの教育について論じちゃったりなんかしたら十分一冊になるわ。といういきさつだったのではないかと思う。うーん,それは正しい戦略だ。論理的でない議論も,証拠のない断言も,実現可能性のない提案も,教育問題ならば許される。たまに変な暇人がいて,丁寧に読んだ末に自分のブログでぐちぐちと文句を言ったりすることもあるが,そんな社会の屑は放っておけばよいのだ。
心理・教育 - 読了:11/10まで (P)