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2006年3月 1日 (水)

 銀河のかなたのナントカ星に住むナントカ星人は,時間をあたかも空間のように捉えている。地球人が山に登って頂上から山脈を見渡すのと同じように,ナントカ星人は好きな時点から時間軸を見渡すことができるのである。このことはナントカ星人が永遠に生きることを意味しているのではない。ナントカ星人の寿命は有限だし,ナントカ星人は平和を愛する種族ではあるものの,悲惨な戦争をいくつも経験している。ナントカ星歴何年になれば,宇宙船のエンジン開発中の事故によって星ごと爆発し滅亡してしまうこともわかっている。しかしナントカ星人は時間を見渡すことができるので,各々が好きな時間を愛し,その時間を味わい続ける。戦乱の時期には互いを殺し続け,滅亡の折りには爆発ボタンを押し続け死に続けるが,彼らはそれには目を向けず,平和で穏やかな時間を楽しみ続ける。
 この話はカート・ヴォネガットの,たしか「スローターハウス5」で登場した物語だと思う。ヴォネガットの小説にはこの種の寓話が唐突にたくさん出現し,正直にいってそのすべてがうまく機能しているとは思えないのだが,このナントカ星(トラルファマドール星だっけ?)のエピソードは,不思議に心に残っている。
 はじめてこの話に接したとき,これは物語の隠喩だ,と思った。物語の読み手は,物語の時間軸を空間のように見渡すことができる。もちろん,物語の一部分を全体から切り離して捉えることはナンセンスだけれども(歴史から特定の事件を切り取ることがナンセンスなのと同じだ),しかしある物語を愛する人は,たいていはそのどこか一部分に特に心惹かれているものであって,物語の構造に対してではない。ちょうどトラルファマドール星人のような立場だ。
 そんな解ったようなことを考えたのはいつ頃だっただろうか? とにかくずいぶん昔の話だ。ものの見方というのは変わるもので,今考えるに,この話は寓話でもなんでもない。

 主観的な時間は客観的な時間と一致しない。たとえば,広くいわれているように,年を取れば一年はより速く過ぎ去るようになる。時間は伸び縮みしさえする。天井を眺めてあっという間に終わる一日もあれば,ほんの数秒がとてつもなく長く引き延ばされることもある。高い橋から転落した青年が,岩に激突するまでの間これまでの人生を振り返るが,死を前にしたその数瞬は限りなく長く感じられ,流れが次第に遅くなってついには止まってしまい,青年は主観的には永遠に空中に浮かび続ける,というような物語を読んだことがある。なるほど,原理的にはあり得ることだと思う。少なくとも,そんなことが起こらないと主張するのは困難だ。
 さらに,我々は常に現実の時間を生きているとは限らない。日常生活は支障なく送りながら,本質的な関心や切迫した感情をどこか過去に置いてきてしまい,今この時を生きることなく死んでいく,ということもあり得る。
 あれこれ考えるに,我々もまた,ある種のトラルファマドール星人にちがいない。
 自分の経験を引き合いに出しても仕方がないが,俺に即していえば,何年か前から突然に,日々が急速に過ぎ去るようになった。顧みるに,何をどうすればいいのかさっぱり解らなくなった頃,「もし早送りボタンがあるのなら押してしまいたい」と痛切に思うようになった頃から,その願い通り,本当に時間が速く流れはじめたように思う。たぶんなにかをどこかに置いてきてしまったのだろう。もはやその速度は,流れる・流されるというより,落ちるという言い方がふさわしい。

 夏の早朝に若い友人が死んだので,その建物を訪ねたら,最上階の腰の高さのガラス窓から身を乗り出した真下に見えるのは,彼女が叩きつけられたコンクリートではなく,その横に立つ木の生い茂る枝々で,それはまるで緑の雲のように見えた。
 もちろんそれはその日の話で,それから枝は何度も葉を落としまた生い茂っただろうが,しかしそれはこちら側の時間のことで,主観的な時間のなかで当人は夏の朝を落下し続け,あの緑の雲に浮かび続けているのではないか,と俺は時々想像する。そのような感傷に意味など無いことは承知の上で,俺は声に出さずにつぶやく。そっちの具合はどう? 大勢の人の心の一部を引きちぎって,ゆっくりと落ちていく気分はどう? もし仰向けに落ちているのなら,そこからあの年の夏の薄青い空が見えるだろうか?
 こっちはもう散々だ。率直に言えば,君のやっていることと大差がない。ここからはなにも見えない。落ちていく,落ちていく,落ちていく,ものすごい速さで。

雑記 - 時間

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