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2006年6月26日 (月)

Bookcover 日本の個人主義 (ちくま新書) [a]
小田中 直樹 / 筑摩書房 / 2006-06
 大塚久雄に依拠しつつ,個人の自律について考える,という本。
 内容の良し悪しについてはよくわからないし,いずれにせよ勉強にはなったのだが(だいたい大塚久雄なんて読んだこともない),ちょっと後味がわるい。途中で認知科学の話が引き合いに出される箇所が2つあり,どちらも論旨展開上かなり重要な位置を占めていて,しかもどちらもなんだか怪しげなのである。
1) ポスト近代主義者は「日常生活はミクロな権力の網の目のなかに埋め込まれつつその網の目をつくり出しているのであるからして,個人の自律など幻想にすぎない」と主張する(フーコーを引用)。しかし認知科学の知見によれば(ピンカーを引用),脳の生理的な活動が主体性を産むのだそうだ。その主体性が自律的にアイデンティティをつくり出すわけだから,個人の自律という現象は存在するのである。ゆえに大塚久雄は時代遅れではない。云々。
 このくだり,なにがなんだかさっぱりわからない。世間で云うところの「個人の自律」に対応する特定の神経科学的プロセスが実在するとしよう(神経科学が与えてくれるのはそういう知見だ)。しかしそのことと,社会科学を「自律した個人」という概念で基礎づけることが妥当かどうかという問題は,あまり関係がないだろう。いま仮に,世間で云うところの善行を人が施すときその時に限って活性化する「善行細胞」が発見されたとしても,そのことは性善説の証拠にはならない。
 自然科学へのファンタジーを剥ぎ取ってしまえば,この人がいっているのは結局「個人の自律と呼ばれている現象があるから個人の自律という現象が存在する」ということに過ぎないと思う。
2) 反パターナリズム論者やポスト近代主義論者は,大塚のいう他者啓蒙という概念を強く批判する。しかし認知発達の研究によれば(三宮真智子を引用),メタ認知促進の鍵はコミュニケーションにあるのだそうだ。つまり,個人の自律には他者啓蒙が重要なのである。ゆえに大塚久雄は時代遅れではない。云々。
 ここんところ,(1)まず前後の議論との関係がよくわからない。ポスト近代主義者は他者啓蒙に潜む権力性や他者啓蒙の帰結を問題にしたのであって,個人の自律に他者が必要だということを否定したわけではないだろう。(2)さらに,局所的にみてもなんだか変である。ここでは,「個人の自律」が「メタ認知」に,「他者啓蒙」が「メタ認知促進」に重ね合わされているようだが,このアナロジーと「メタ認知促進の鍵はコミュニケーションにある」という知見から引き出される示唆は,「他者啓蒙には他者が必要だ」ということに過ぎないはずだ。
Bookcover 最強ヘッジファンドLTCMの興亡 (日経ビジネス人文庫) [a]
ロジャー ローウェンスタイン / 日本経済新聞社 / 2005-11
他の読みかけの本を放り出し,この二日で一気読み。98年のLTCM破綻についてのドキュメント。大変面白かったのだが,正直,内容の半分も理解できていない。懇切丁寧に説明されているのだが,こっちは想定読者層をはるかに下回る世間知らずなので,スプレッドとかレバレッジとかっていわれても途方に暮れてしまうのである。このまま一生わからんまま過ごすんだろうな,きっと。
 この事件は,数理モデルを信じた学者たちの大失敗,という皮肉めいた論調で紹介されることが多かったと思うのだが,この本によれば,多分にマネジメントの失敗という面があったらしい。ふうん。
 二人いたノーベル経済学賞受賞者のうち,一人は「ブラック・ショールズ・モデル」のショールズ(俺でさえ名前は聞いたことがある。すごい),もう一人はマートンという偉い学者で,この人は知識社会学のR. マートンの息子である由。へー。
Bookcover 東洋文庫ガイドブック 2 [a]
/ 平凡社 / 2006-05-18
こういうのを読んでいると,読みたい本がどんどん増えてきて,困ってしまう。

ノンフィクション(-2010) - 読了:06/26まで (NF)

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