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2009年5月 5日 (火)
朝夕の通勤電車はたいてい混雑しているが,日中に移動する地下鉄で座席が空いているとき,腰を下ろすと,いつのまにか夢を見ていることがある。夜ベッドで見る夢とは違って,ほんの一瞬の,異常なまでに鮮明な白日夢だ。頭のどこかは醒めていて,夢を見ながらもいま電車に揺られていることは理解していて,下車駅の直前になると目が覚める。
そういう夢のほうが,むしろ実生活に大きな影響を及ぼすような気がする。改札を出てから,いったいあの夢は何を表していたのか,あるいはなにも表していないのか,などと考える羽目になる。
地下鉄の列車が止まり,ドアが開くと,黒い制服を着た二人の白人青年が,事務的な早口の英語を交わしながら乗り込んでくる。列車が動き出す。二人はそれぞれに,パスケースのようなものを開いて座席の乗客にかざしながら,流れるような動作でホルスターから拳銃を抜き,乗客の額を撃ち抜く。プシュン。射殺された男がぐったりと倒れ込む。隣の女が中腰になって,いまにもすさまじい悲鳴を上げるかとみえるその瞬間,女は青年が突き出したパスケースを目にして,なあんだ,という表情になり,落ち着いて座り直す。プシュン。額から血潮が弾ける。
そのようにして,乗客たちはいったんは異変におびえながら,しかし青年がかざすパスケースを一瞬目にしただけで,即座に落ち着きを取り戻し,従容として死に就く。二人の青年はそれぞれ座席の片側ずつを受け持ち,言葉も交わさず,きわめて機械的に,乗客を次々に殺していく。
車両の両側に,眠るようにくずおれた人々の列をつくりながら,彼らはこちらに向かってくる。俺は座ったまま硬直している。どうしよう。逃げるべきか。しかし,パスケースのなかにはいったいなにがあるのか。それを確かめる必要があるのではないか。それを一目みるだけで,逃げ出す必要などなにもないということが,はっきりとわかるのではないか。列車は走り続ける。彼らが近づいてくる。どうしよう,どうしよう。
大皿の上に,どこからどうみても大便としかみえない形の太くて長い固まりがあって,しかし色だけが鮮やかな黄色と茶色に彩られている。形を別にすれば,それはだし巻き卵にそっくりだ。
ステンレスの四角い容器に黄色や茶色の着色料が入っていて,俺は細い刷毛をその液体に軽く浸し,繊細なタッチで,皿の上の固まりの表面を塗る。人々はそれを見守り,俺の優れた技量に溜息をつく。俺はその物体をだし巻き卵にみせかける職人だ。そういう職業があるのだ。
刷毛や小筆を駆使し,俺は傑作を仕上げる。形を無視して表面のテクスチャだけに注目すれば,それは本物のだし巻き卵よりもだし巻き卵らしい。解説者の声が聞こえる。皿の上にあるのは,もはや現実的なだし巻き卵を超えた存在,理念としてのだし巻き卵であるといえるでしょう。
白いテーブルクロスをかけられたテーブルに向かって,高価なスーツを着た西洋人の老女が座っていて,早口のフランス語で何事か語っている。料理評論家だ。その目の前に大皿が置かれる。老女は器用な手つきで箸を手に取る。
皿の上の物体はいったい何なのだろう,と俺は思う。少なくともだし巻き卵ではないことを俺は知っている。しかし,それは本当は何なのか。それは大便なのか。それとも,だし巻き卵でも大便でもないなにかなのか。そうだ,俺は何も知らないのだ,と俺は気づく。自分の生涯を捧げたこの仕事について,俺は本当はなにも理解していなかったのだ。老女が皿の上の固まりに箸をつける。柔らかい物体を箸でちぎろうとする。いま,老女はオウと小声を上げるだろう。俺は固唾を飲む。あれはウンコか。ウンコなのか。
勤務先で土下座のトレーニングが開催されている。会議室に社員を集め,まず副社長級の女性がpowerpointを使って説明する。土下座はそれ自体が目的ではありません。あくまで私たちのbusinessのための一つの手段です。適切な状況下で,適切に土下座を適用し,課題解決に役立て,productivityを高めていきましょう。
社員が取り囲むなかで,女性は正しい土下座の例を実演する。これ,スーツの膝が伸びちゃうんですよねえ,と呟いてみせると,周囲が軽く笑う。立ち上がって,ええと,これはひとつの例です。必ずこの通りにしなくちゃいけない,というわけではありません。それぞれの方にそれぞれのノウハウがあるはずです。どうですか,どなたか,この場でご自分の土下座をshareしていただけませんか。
中堅の男性社員が前に進み出て,私はあまりうまくないんですけど,と微笑む。これは××で学んだ土下座です。云うが早いか,男は膝から崩れ落ちるように姿勢を崩し,あっという間に土下座している。「すごいですね」と周囲が拍手する。「さすがは大手広告代理店の土下座だ」俺は一緒にパチパチと拍手しながら,この人たちは本当に感心しているのだろうか,それとも内心では嗤っているのだろうか,と疑う。
別の若い社員が,新しい土下座を考案しました,と名乗り出る。額を床にすりつけ,頭部を左右に小刻みに揺らすところが新しい。皆が拍手する。俺の横にいた年上の社員が小声で呟く。俺は企画書を書くのも上手くないし,レポート書くのも好きじゃないし。でも土下座っていうのもねえ。長年この仕事やってるけど,俺いったい何に向いているのかなあ。その茶化すような軽い口調に合わせて,なあに云ってんですか,と小声で笑ってみせるが,その後が続かない。
土下座にglobalのガイドラインはないんでしょうか,と誰かが声を上げる。問い合わせてみてはどうでしょうか。そうしましょう,と応える声がある。また余計なことを,と小さく溜息をついたところで,電車が下車駅に着いた。目を閉じたまま,片足を勢いよく蹴り出して,足下で土下座を続けている若い社員の幻をかき消し,立ち上がって列車を降りた。
雑記 - パスケース,だし巻き卵,土下座の研修