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2012年8月15日 (水)

Bookcover 足利義政と銀閣寺 (中公文庫) [a]
ドナルド キーン / 中央公論新社 / 2008-11
2003年刊の本の文庫化。
 室町幕府の八代目にして,美に耽溺し応仁の乱を傍観した史上最低の将軍・足利義政を,文化への貢献という面から再評価する内容であった。
 銀閣寺は見学しておいたほうがいいかもしれないな。本ばっかし読んでないで。

Bookcover サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3 [a]
村上 春樹 / マガジンハウス / 2012-07-09
アンアン連載の軽いエッセイ。

Bookcover ひさし伝 [a]
笹沢 信 / 新潮社 / 2012-04-18
ここんところ井上ひさしさんの戯曲を立て続けに読んでいて,勢い余って読んだ本。著者は山形新聞に勤めた人。

Bookcover 恐山: 死者のいる場所 (新潮新書) [a]
南 直哉 / 新潮社 / 2012-04-17
軽い気持ちで手に取ったのだが,これが意外に興味深い本であった。
 著者は58年生まれ,脱サラして永平寺で約二十年修行したのち(これは例外的な長さだそうで,しまいには「永平寺のダースベーダー」と呼ばれたそうだ),いろいろあって恐山のお寺の住職代理になったという人。
 お坊さんというより,哲学科を出て社会運動している人のような案配で,特に巻末の長いあとがきは,リミッターを外したかのように真摯な,読み手を選ぶ文章である。略歴をみると,永平寺時代からすでに何冊も本を書いているそうで,きっと知る人ぞ知る書き手なのだろう。

一見,死というものは死者に埋め込まれている,張り付いていると思われがちです。しかし[...] むしろそれは死者を思う生者の側に張り付いているのです。/なぜなら,死こそが,生者の抱える欠落をあらわすものだからです。その欠落があるからこそ,生者は死者を想う。[...] 私が恐山に来てつくづく思ったのは,「なぜみんな霊の話がこんなに好きなのだろうか」ということです。それは人間の中に根源的な欲望があるからです。そしてその欲望は不安からやってきます。/つまり,霊魂や死者に対する激しい興味なり欲望の根本には,「自分はどこから来てどこにいくのかわからない」という抜きがたい不安があるわけです。この不安こそがまさに,人間の抱える欠落であり,生者に見える死の顔であり,「死者」へのやむにやまれぬ欲望なのです。
死者の前に立つとき,自分の中の何かを死者に預けている,という感覚がある。亡くなって時間が経てば経つほど,そのような感覚が強くなっていきます。/一体,私たちは死者になにを預けているのか---。/それは,欠落したものを埋める何かだと私は考えています。[...] 私たちは生きている他者の前に立つとき,彼らからなるべく多くのものを得たいと思うでしょう。このとき,死活的なそれは,物などではありません。それは好意であり,愛情であり,優しさであり,共感であり,尊敬であり,結局のところは,他者から自己の存在を認められることです。欠落を埋めるものはそれなのです。[...] 相手が生者ならば,私たちはさらに働きかけて,得たいものを得ようとするでしょう。ですが,死者に対しては想起することしかできません。この上得られるものがなにもないままで,他者を想うとき,その思いは,当の他者,死者に預かってもらうほかありますまい。[...] もし,このような死者がリアルな存在でないというならば,生者もまたリアルな存在ではありません。
近代システムがどれほど拡大し深化しても,いや,すればするほど,死も死者も管理の及ばない場所を求めて移動していく。/突拍子もない新宗教や,「迷信」と呼ばれるような民間信仰へ,そして得体の知れない霊場へ。そのような場所で,我々が死者を欲望することで,死者は存在を回復し,我々は自らの死,根元における欠落を解き放つ。その欠落は欠落のまま許される。そこでは,死者も自らの死も悪ではなく,忌むべきものでもないのだ。/恐山に初めて来たという人が,異口同音に言うセリフがある。/「恐いところだろうと思って来たんですが,全然違いました。なにか,懐かしくなるようなところでした」/彼らは何が懐かしいのだろうか。それは,死である。

ノンフィクション(2011-) - 読了:「恐山」「ひさし伝」「足利義政と銀閣寺」「サラダ好きのライオン」

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