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2013年3月18日 (月)
Wallendorf, M. & Arnould, E.J. (1988) "My favorite things": A cross-cultural inquiry into object attachment, possessiveness, and social linkage. Journal of Marketing Research, 14, 531-547.
ちょっと自分とは縁遠い感じの人類学的研究だけど、多少は仕事の足しになるかと思って、ぱらぱらと目を通した。著者らはマーケティング研究者と人類学者らしい。
研究の目的は:
- お気に入りのモノ(めんどくさいので以下MFTと略記)への愛着の本質をあきらかにする
- 特定のMFTへの愛着と、より一般的な愛着という現象との関係を示す
- MFTへの愛着のレベル、ならびに物質主義のひとつの要素である所有性のレベルについて、文化間で比較する
- 文化、年齢、ジェンダーの役割を示す
調査地はアメリカ南西部(著者所属から見てアリゾナかしらん)、そしてアフリカのニジェール(どうやら第二著者のフィールドらしい)。データ収集は... アメリカでは、(1)質問紙調査、(2)MFTを写真に撮ってもらう。ニジェールでは、(1)アメリカと同様の質問紙調査、(2)FGI。なおアメリカのみ、MFTはリビングにあるものに制限。
結果は... アメリカ人のMFTは思い出と結びついていたのに対して、ニジェール人のMFTは道具としての効率性に依存していた(すぐに換金できるとか)、綺麗なモノだったりした。その他、性差とか年齢差とかいろいろ議論していたけど、飛ばし読み。
考察は:
- USでもニジェールでも、MFTが個人的意味を表している点は共通していた。USではMFTは個人的な対人関係についての情緒的記憶を象徴している。人はコモディティであるモノを、自己を表現するユニークなアイコンへと変換する。いっぽうナイジェリアでは、MFTの意味は個人を準拠集団につなげる役割を果たしている。
- MFTへの愛着は、物質主義の一要素としての所有性(possessiveness)という一般的傾向とは異なる。そもそも文化的文脈を超えて「これが物質主義だ」というものを示すことはできないのではないか。
- MFTへの愛着と社会関係とは異なる。つまり、MFTは社会的ネットワークの代替物にはなっていない。
云々。ふーん。
気楽に読み流してしまった。こういうタイプの研究を読みつけていないので、良し悪しはさっぱりわからない。
アメリカで集めた写真の分析方法、いまいちよくわかんなかったんだけど、写真における対象者とMFTとの物理的近接性をコーダーが5段階評定したんだそうだ。「あなたとあなたのお気に入りのものが両方うつっている写真をください」とでも教示したのかしらん。Collier & Collier (1986) "Visual Anthropology: Photography as a Research Tool" という本が引用されている。
Chiksezentmihalyu & Rochberg-Halton(1981) は、「私は物質主義的じゃありません、だって特別な意味を感じるモノなんて持ってないですから」と主張する人は親友がいない、と書いているのだそうだ。ひえー。翻訳書を読んでみないといけないな。
論文:マーケティング - 読了: Wallendorf&Arnould (1988) 「マイ・フェイバリット・シングス」の文化差