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2014年2月21日 (金)

Kieser, A., & Leiner, L. (2009) Why the rigour-relevance gap in management research is unbridgeable. J. Management Studies. 46(3), 516-533.
 調べものをしていて偶然みつけた論文。いろいろあって疲れたので、気分転換に目を通した。掲載誌は経営学の雑誌だろうと思うが、インパクト・ファクターが3.8って、これってかなり有名な雑誌なんじゃないかしらん。

 えーっと... 経営学においてはかねてよりrigour-relevance gapが問題視されており(科学的厳密性と実務的有用性の二兎を追えない、という意味であろう)、雑誌の特集号にもなっているし本も論文集も出ている、のだそうです。このギャップは言い回しやスタイルのちがいだけじゃなくて、問題を定義し取り組む際の論理のちがいでもある。で、このギャップを憂う研究者たちは、実践から問いを立てなさいとか、実務家と協同しなさいとか、そういう提案をする。彼らはたいてい理論的基盤というものを持っていない。アホどもめ。(←そうは書いてないけど、まあそういう趣旨)
 ルーマンのシステム理論の観点から考えよう。近代社会における専門化したシステムの特徴、それはオートポイエティックであるということだ(で、でたぁ...)。それは高度に自律的なシステムであり、その構成要素はヒトでもなければ行為でもない、コミュニケーションである。それらは他のシステムには移せない。ある実務家が、科学雑誌の論文を読み、理解できたと思ったとしよう。彼女は同僚に対して、その研究を引き合いに出してある解決策を正当化することはできるかもしれない。でもそのときには、その論文が基づく理論と方法は失われ、文脈は変わり、引用は異なる意味を持つ。彼女はその論文の科学的内容そのものを、科学というモードのなかで伝えることはできない。
 社会システムは自己参照性(self-reference)と操作的閉鎖性(operative closure)を持つ。システム外部の出来事が内部に直接干渉することはない。社会システムは、その内部において可能なコミュニケーションの範囲を決める枠組みを持っている。コミュニケーションはそのシステムに特有のコードに基づく。科学システムのコード、それは真か偽かだ。経済システムのコード、それは金になるかならないかだ。(以下、科学システムと経済システムのそれぞれの描写が続く)
 確かに、経営学のトップ・ジャーナルの査読者用チェックリストには「実務的有用性」がはいっている。でも書き手は、研究の結果が実務に対してこんな示唆を持ちそうです、と書くだけでよくて、ほんとに役に立ちますという証拠はいらない。つまり、(研究者が社会的に構築したところの)"実務家"がこんな示唆を得ることができるかもしれません、ということを書き、(その研究者が構築したところの)"有用性"という概念が査読者のそれと一致していればそれでよい。有用性の評価はあくまで科学システムの内部で行われている。
 真/偽というコードと有用/非有用というコードの両方に基づくコミュニケーションなんて想像もつかない。優れた実務家が査読者になったりテニュア・コミッティのメンバーになったところで、厳密性からみたランク付けと有用性からみたランク付けができるだけだ。工学や医学とは事情がちがう。ああいう分野は実験ができる。実験においては真/偽というコードと機能する/機能しないというコードが一致する。
 実務家と協同するタイプの研究としてはアクション・リサーチがある(創始者としてEric Tristという名前が挙がっている。恥ずかしながら知りませんでした。調べてみたら、クルト・レヴィンの弟子でタヴィストック研究所の創設者らしい)。でも彼らの論文はたいてい彼らのジャーナルに載るだけで、権威あるジャーナルには載らない。モード2はどうか (マイケル・ギボンズたちのこと)。経営学への適用例はない。だいたいあれは大学の外での知識産出と社会への拡張を目指しているだけで、真に協同的ではない。
 システム理論的に言えば、研究者と実務家のいわゆる「協同研究」というのは「コンタクト・システム」、すなわち、それぞれの主システムにおけるディスコースから切り離されたディスコースをつくりだす一時的な相互作用システムだ。そこでのディスコースはその外側には伝わらない。ないし、協同研究といいつつ教育だったりコンサルティングだったりする。協同研究なんて不可能である。
 科学の基本的な課題、それは現象の記述と分析である。それは研究対象であるシステムの自己記述や自己分析であってはならない。初期の経営学は、実践との距離を失ったが故に、その正当性を失う危機にさらされた。研究者と実務家の実りある関係は、研究が目的でないときのみに可能となる。必要なのは、研究の知識と実務の状況の両方がわかり、一方のシステムで起きている事柄を他方のシステムにメタファーとして伝えることができるバイリンガルである。一方のシステムは他方のシステムに、いらだちや刺激やインスピレーションを与え、それは(たまには)有益であろう。
 
 ... あははははは。
 いろいろ感想はあるけど、書くのが面倒なので省略。ともあれ、きつーい書き方が面白かった。著者の先生方は、なんというかその、なにかつらいことでもあったのだろうか。

論文:その他 - 読了: Kieser & Leiner (2009) 実務家と研究者が手を組むなんて無理に決まってる

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