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2014年3月24日 (月)
どうでもいい話だけど、今月は私の中でちょっとした「想像の共同体」ブームが起きていて(ほんとに面白い本だったのだ)、アンダーソンと関係しているものなら何でも読む!という状態だったのである。で、「いつかすごくヒマな時に読む資料」リストのなかにアンダーソンを引用しているのがみつかり、急遽昼飯のお伴に昇格させたのであった。
Muniz, A.M., O'Guinn, T.C. (2001) Brand Community. Journal of Consumer Research, 27(4), 412-432.
ブランド・コミュニティと呼ぶべきものが存在しますよ、という論文。いまはやりの、企業がつくるブランド・コミュニティの話ではない。ブランド研究に新領域を切り開いた画期的な論文、らしい。
アメリカの中産階級の4世帯を中心にしたエスノグラフィ。Ford Bronco, Macintosh, Saab の3ブランドについて、ブランドを中心にしたコミュニティと呼ぶべきものが生じている、ということを示す。コミュニティと呼ぶべきだという理由は、次の3つを満たしているから。
- ユーザの consciousness of kind. (いま調べたら「同類意識」と訳すらしい)。
- 儀式と伝統。Saab同士ならお互い手を振るとか、ブランド・ストーリーを共有しているとか、そういうの。
- moral responsibility。ユーザ同士助け合うとか。
考察のところからいくつかメモ:
- 近代化と商業化のなかで伝統的コミュニティが崩壊しているといわれて久しい。ブランド・コミュニティは消費者にとってよいものなのか、それとも真の意味と人間性が剥奪された商業的世界のもう一つのサインに過ぎないのか? その両方であろう。コミュニティのメンバーシップは、時には他の社会的レスポンシビリティに干渉することもあるが、いつもではない。家族などの対人的絆を強めることだってある。
- ブランド・コミュニティの良い点: (1)消費者が大きな声を持つ。(2)消費者にとっての情報源になる。(3)なんであれコミュニテイの相互作用というのは社会的に良い面を持っている。
- ブランド・コミュニティはポスト産業社会へのひとつの反応だ。現代文化においては消費がいやおうなしに生活の中心になっているわけだから、ブランド・コミュニティを無視するのも、末期資本主義の放縦だと片付けるのも、目の前の現象と経験を陳腐さへと追い落とし、商業のなかにある人間性を完全に否定することに陥るであろう (←なんでこういう難しい云い方するんですかね、全くもう)
- ブランディングへの示唆。(1)「消費者-ブランド」関係から、「消費者-ブランド-消費者」関係へと発想を変えなければならない。強いブランド・コミュニティの構築によってロイヤルティとコミットメントを高めることができる。(2)ブランド・コミュニティはブランドと消費者の関係を理解するフレームワークを提供する。これまでの、マーケティングを社会的行為者間の交換として捉える相互作用説とか、ユーザとブランドのネットワークにおける関係が大事だと考えるマクロ・ネットワーク説とか、そういう伝統的な見方とも整合する、とかなんとか。(3)マーケターと消費者の間の関係性の構築に際してコミュニティはその基盤を提供する。(4)強いコミュニティはマーケターにとっての脅威にもなりうる。云々。
- 「近代がウェーバーいうところの「世界の脱魔術化」とともにやってきたのならば、コミュニティがブランドの周りに再結集し、「再構築され再魔術化されたコミュニティ」への思慕の念を満たそうとすることはありうるか? 我々はありうると考えている。ブランドは、高度にstylizeされた消費生活スタイルと、その基盤にあるconformityとのあいだにもともと存在している緊張を仲裁する能力を持っている。とかなんとか。
前説と考察のあたりは気取った文章でうんざりしたけど、全体としてはとても面白い内容であった。最初は特殊なブランドの特殊な話だと思ったんだけど、なるほど、まあ確かにそういうのをコミュニティと呼んでもいいかもね、と説得されてしまった。新しい領域を切り開くというのはこういうことか。
マーケティングという観点からはブランド視点で関心が持たれるところだと思うけれど、論文を読んでいて関心を引かれたのは、個人に視点をおいたとき、個々の消費者が参加するブランド・コミュニティはどういう組み合わせを持つだろうか、という点。コカ・コーラのコミュニティに参加する人はほかにどういうコミュニティに参加しやすいか。マクドナルド? ひょっとして、サントリーだったりして...
その手前の問題として、そもそもブランドのコミュニティという共同幻想に参加しやすい人と、そうでない人がいるのではないか、とも思う。早い話、私は事例記述を読んでいて、正直なところ非常にあほらしいと思ったのだが(すいません)、それは私の広い意味でのパーソナリティの問題かもしれないし、私がおかれた社会文化的状況が私にそういう余地を与えていない、ないし必要を与えていない、のかもしれない。
それにしても、 消費を手がかりにしてはじめて饒舌に自分を語り、消費を手がかりにしてはじめて他人とつながることができる、そういう私たちの姿は、なにやら言い知れぬ哀しみを誘うなあ、と思うのだけれど... きっとこの論文の著者たちは、そもそも交換を含まないコミュニティなんてない、哀しんでないでこの新手の現象が持つ可能性に注目しろよ、と答えるんでしょうね。
論文:マーケティング - 読了:Muniz & O'Guinn (2001) ブランド・コミュニティ