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2015年3月30日 (月)

森脇丈子 (2001) 「消費者」から「生活者」へ--大熊信行氏の「生活者」論を素材として. 立命館経済学, 50(3), 286-303.
 内容はタイトル通り、60年代にマスメディアで活躍した経済学者・大熊信行の「生活者」論についてなのだけれど、書き手はきっと若く意欲に燃えた方で(勘だけど)、紀要誌とは思えない面白さであった。いくつかメモ。

[生活者ということばは、]「豊かさ」を実感できない今日の生活から脱却するには、職業生活の部面における問題の解決努力によっては為されないとみる主張を含んでいる[...] そのように主張することで労働運動や政治運動に対して独自のスタンスを持つイデオロギー集団が形成され、また地方政治において一定の活動基盤や支持基盤を固めるような現実的影響力をもつまでに発展している。これらの動向は、市民社会への発展という意味で評価されるべきであると筆者は考えるが、同時に、資本-賃労働関係という客観的な経済関係から全く離れた、超歴史的な「生活者」としての共通利益に基盤を置けば、今日の社会システムで「豊かさ」が実現できるかのような空想性を持ち、労働運動を軽視するなどの点で、現実的な弱点をもっていると考えられる。
大熊氏の提起した「人間中心」の思想はいかなる意味を持っていたのであろうか。それは、行動経済成長と所得倍増のスローガンのなかで、生産力の増大と所得の増大が第一に追及される社会状況であった1960年代に、大熊氏が人間にとっての生産[=財の生産じゃなくて生命の再生産]第一主義を社会に問いかけた点であるといえよう。[...] ではここで、氏の「人間生命の再生産」論に関して検討するべき問題点をあきらかにしておこう。それは、大熊氏が「生産」の概念を物財の生産とともに人間生命の生産としても捉える際に、両者を平面的・同時的に捉えるという観点についてである。[...]そのことによって労働により人間が成長する側面をすべて否定される点に弱点があるといわざるをえない。[...]氏の概念の把握の特徴は、その超歴史的な把握のしかたにある。[...] 氏には、歴史的経済規定をふまえたうえでものごとの分析をおこなう方法をもちあわせていないから、資本主義の経済規定をうけた労働と労働がもつ人間にとっての普遍的な意味を区別して、正確に把握することはできないのである。
氏の論理を辿ると、資本主義の[=物財の]生産と「生活者」との関連は次のようになっている[...] 資本主義の経済は企業の営利追求のために存在するものであり、人間が営利主義にまみれてしまわないようにするためには資本主義の生産の側面から一歩離れて自覚的な生活を送れるように努力することが求められる。つまり、「生活者」は消費の領域にのみ関心を向け、かつその領域での「必要」を超えた消費に陥らないよう努力することが求められるのである。[...]大熊氏は、資本主義の営利主義を批判しようとした試みとは反対に、その営利主義にメスを入れることはなく、消費面での「生活者」の努力による対抗に限定されざるを得ない新しい経済観の提起におわってしまっているのである。
非歴史的に、「自覚的に生きること」という共通項でくくられた「生活者」には、「消費者」から脱却して「生活者」になる道筋についての条件は示されることはない。この点は、大熊氏の「生活者」論の弱点であると指摘できよう。客観的経済関係に規定された階級、もしくは階級のなかで多分に細分化された階層に属する人々の生活状態の分析こそが、生産第一主義の克服につながるのである。

... 要するに、「生活者ていわはるけどそれなんですねん、アナタ労働者ちゃいますのん」ということであろうか。そりゃそうだよなあ。

論文:マーケティング - 読了:森脇 (2001) 「生活者」論批判

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