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2013年2月 8日 (金)

Chen, C., Lee, S., Stevenson, H.W. (1995) Response style and cross-cultural comparisons of rating scales among East Asian and North American student. Psychological Science, 6(3), 170-175.
 たまたま市場調査の関連の仕事をさせていただいていると、まあ経済のグローバル化にあわせて消費者調査もそれなりにグローバル化してるわけで、国際比較の話になることも少なくない。調査結果を比較する際の難題のひとつは、いわゆる回答スタイルの問題である。たとえば、リッカート風のX件法尺度項目に対して「中国の人ってなんでも両端につけちゃうのよ」というのはよく聞く話で、私も何回かそういう調査をみたことがあるから、あながちウソじゃないような気がする。
 そういう文化差って、アカデミックな研究はないんですか、と聞かれたことも数回あって、そのたびに紹介していたのがこの論文であった。前に読んでたけど、このたび都合により再読。
 仙台、台北、エドモントン、カルガリ、ミネアポリス、フェアファクス(バージニア州)の高校生に、39項目の7件法尺度項目について回答してもらう。で、各回答者が中央につけた項目数、両端につけた項目数をカウントする。日本と台湾の回答者は、項目の内容にかかわらず、中央につける傾向がありました。云々。

 前に読んだ時もちょっと面食らったのだが、この論文、終盤でちょっと不思議な展開を辿るのである。いわく... 回答スタイルの文化差のせいで、リッカート尺度項目の文化間比較はできなくなってしまうのか? そこで、7件法の1,2,3段階目と5,6,7段階目をまとめて3件法につぶし、さらに4段階目を抜いて2件法につぶしてみたところ、7件法のときと比べて、国の間で有意差がある項目の数はほとんど減らなかった(US-カナダ間では減るが、北米-東アジア間では減らない)。つまり、回答スタイルに文化間の差はあるが、北米と東アジアの間の調査結果のちがいは、回答スタイルのせいだけで生じているのではない。云々。
 要するに、回答スタイルの文化差ってあるね、という論文が、終盤に至って、でも東アジアと北米の間の文化差は回答スタイルのせいじゃないよ、という話になるのだ。なんだか奇妙な展開だ。回答スタイルの文化差を定量化するという話は、少なくとも原理的には、調査項目の内容とは無関係な議論だ(この調査で使ったのと全然ちがう項目を使って調べていてもよかったはずの話題だ)。いっぽう、回答スタイルを除去したあとでなお文化差が残るかという話は、調査項目の内容に依存する実質的な議論だ(この調査で使った項目が聴取している、まさにその領域についての議論だ)。なぜ急に話がそれるのか?
 おそらく、これは私がこの研究がおかれた文脈をよく理解できていないからだと思う。よく知らないけど、現時点では、東洋と西洋のあいだでの認識の違いを実証的に主張しようとしたら、Holyoak流の実験研究がもはや必須であり、横断調査に頼っているようでは相手にしてもらえないのではないかと思う。しかし、想像するにこの論文の時点では、「認識の文化差が質問紙調査でわかるか」という問題設定がまだ生きていたのではなかろうか。その土俵のうえで「文化差はありますよ、調査でわかりますよ」と主張する立場の人にとっては、回答スタイルの文化差が調査結果にもたらす影響を認めつつも、なお実質的な文化差の存在を示すことが、きっと必要だったのだろう... などと、勝手に納得したりして...

論文:調査方法論 - 読了:Chen, et al. (1995) 回答スタイルの文化差(北米 vs 東アジア)

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