elsur.jpn.org >

« 読了:Graefe(2014) 実はvote expectationが最強の選挙予測だった | メイン | 読了:阿部(2010) アイデア生成課題における身体-環境相互作用 »

2014年12月18日 (木)

Wilson, M. (2002) Six views of embodied cognition. Psychonomic Bulletin & Review, 9(4), 625-636.
 今度の雑誌原稿のために読んだ。あくまで消費者調査について考えるための材料として読んでいるのであります。(そう自分に言い聞かせておかないと、ちょっと気分が悪くなってくる)
 著者いわく、身体化認知(embodied cognition)という概念には異なる6個の主張が含まれている。

主張1. 認知は状況に埋め込まれている(Cognition is situated)。
 situated cognition とは、課題に関連する入出力の文脈で生じている認知、という意味だ。すなわち、ある認知プロセスが実行されているとき、知覚情報の入力がそのプロセスに影響を与え続け、運動能力の遂行が環境に影響を与え続けるとき、それはsituated cognitionだ。
 定義上、あらゆる認知がsituatedなわけではない。たとえば計画とか想起とか白昼夢とかは環境との即時的交互作用からは切り離されており、situatedでない。
 進化の歴史からみて、我々の認知の最基層にあるのがsituated cognitionだ、という主張がある。しかしこの見解は、初期人類の生活における生存関連的な行為の役割を誇張している面がある。初期人類はほとんどのカロリーを狩猟ではなく収集で得ていた。収集を支えるのは記憶とか協調とかだろう。そりゃまあ捕食者から逃げるのは大事だし、それはたしかにsituatedかもしれないが、でもそのためのスキルは非常に古いもので、他の種とも共通している。人間の認知をそういう観点から説明していいものかどうかわからない。また、言語のような道具は人間を特徴づけるものだが、situatedな機能というより現在の環境から切り離された表象を扱っている。
 これに対する反論としては、まずBarsolou(1999, BBSのPSS論文)がある。大先生いわく、言語ってのはもともとはsituatedで即時的で直示的だったんだ、と。でも言語は時空間上で離れたものを指示できるという点ではなっから非situatedなわけで、いや大昔は言語の表象的能力をフル活用してなかったんだよ、なんてのはやっぱりおかしい。Brooks(1999, 書籍)は、非situatedな認知なんてのはずっと後になって出てきたんだ、進化にとっては解決容易な問題なんだとおっしゃっているが、これも妙な話だ。あとになって人間だけが持ちえた能力だからこそ、ラディカルで複雑なイノベーションだといえるんじゃないですかね。
 いま進行しつつある環境との相互作用と密接に結び付いた認知能力というのは確かにあるし(たとえば空間認知)、そこから学ぶべきものは多い。situated cognitionの中心性を野生における生存要求で基礎づけたりしていると、本当のsituated cognitionについての理解が阻害されてしまうよ?

主張2. 認知は時間的制約の下にある(Cognition is time pressured)。
 situated cognitionは"runtume", "real time"という制約を受けている、という主張が多い(Brooks, Pfeifer, van Gelder, Portら)。こういう言い回しは伝統的なAIモデルの弱みを突くために用いられている。時間圧力が重要だという信念はロボティクスでも行動研究でも共有されている。
 時間圧力が注目されるのは、それが表象操作のボトルネックになると考えられているからだ(実際、そもそもsituated cognitionにおいて人は内的表象を使ってんのかという論争さえある。Brooks1991Science, Vera&Simon1993CSをめぐる論争、Beer2000TrendsCS, Markman&Dietrich2000CP)。というわけで、realtime situated actionを認知能力の出発点に位置づける人は多い。
 この手の議論はある想定に基づいている。すなわち、認知主体が表象操作のボトルネックを回避するように作られており、実際に時間圧力の下でもうまく機能しているという想定である。実際には、我々はこのボトルネックを回避できず、往々にして失敗する。また、オフライン的に行動できるときにはオフライン的に行動することが多い。さらに、situated ではあるが時間圧力の下にない活動も多い(クロスワードパズルを見よ)。
 環境との実時間的相互作用を理解することにはもちろん意義がある。たとえば感覚運動協応の研究はこの観点を必要とする。しかし、こうした分野を支配する原理を、人間の認知一般を支配する原理にスケールアップできるとは思えない。

主張3. ひとは認知的作業を環境に肩代わりさせる(We off-load cognitive work onto the environment)。
 ひとがオンライン的課題要求に直面したとき、利用可能な方略が2つある。(1)事前の学習を通じて獲得した、プリロードされた表象に頼る。これは主張6を参照。(2)環境自体を戦略的に用いることで認知負荷を軽減する。つまり、情報をすべて符号化するのではなく、必要な時にアクセスできる形で環境に残しておく(off-loading)。このように環境を変更する行為をKirsh & Maglio(1994CS)はepistemic actionと呼んでいる。たとえばテトリスで、ブロックを心的に回転して解法を求めるのではなく、ブロックが出てきた途端に実際に回してしまう、とか。(たとえばカレンダーに印をつけるような、環境を長期的情報貯蔵として利用する戦略も環境へのoff-loadingなのだけど、これまであまり注目されていないので、ここでは脇に置いておく。)
 off-loadingのこれまでの研究は、世界を「それ自身の最良のモデル」として用いる事例に焦点を当ててきた(たとえばテトリスの例)。しかし考えてみると、紙にベン図を描いてみる、というのも一種のoff-loadingである。それらは目の前の環境にはないなにかについての認知活動である。こういうのをsymbolic off-loadingと呼ぼう。symbolic off-loadingはもはやsituatedではない。

主張4. 環境は認知システムの一部である(The environment is part of the cognitive system)。
 研究者のなかには、認知は精神の活動ではない、精神と身体と環境の相互作用のなかに分散しているのだ、と主張する人もいる。たとえば、Beer(1995AI), Greeno&Moore(1993CS), Thelen&Smith(1994書籍), Wertsch(1998論文集)。
 「認知活動の駆動力は頭のなかだけにあるのではなく、個人と状況とに分散している」というのは正しい。だからといって、「認知の理解のためには状況と認知主体をひとつの統合システムとして捉えて研究しなければならない」というのは怪しい。19世紀、水素の存在と他の化学物質との相互作用についてはよく知られていた。しかしそれらが本当に理解されたのは20世紀になって原子の構造がわかってからだ。
 そもそもシステムとはなんぞや。ここでシステム理論の概念を導入しよう。構成要素が集まっただけではシステムではない。構成要素がそのシステムに参加することでなんらかの影響を受けるような特性を持っているとき、はじめてそれはシステムといえる。では、システムの構成要素に影響を与えるものはすべてシステムの一部か? そうではない。たいていのシステムはオープン・システムだ。それはシステムと相互作用する環境のなかにあるのだ。太陽は生態系の一部じゃないでしょ?
 システムはその組織化、すなわち要素間の機能的関連性によって定義される。その組織化にはfacultativeなものとobligateなものがある。前者は一時的で、特定の場面で組織化されるシステム。後者はある程度まで永続的なシステム。
 さて、精神をシステムと考えるのと、精神と身体と環境中の関連要素をまとめてシステムと考えるのと、どっちが自然で、科学的に生産的だろうか。後者の立場に立つと、そのシステムはfacultativeになり、前者の立場に立てばobgligateになる。後者でなければならないという理由はない。
 精神について研究するだけでなく、精神と状況をあわせて研究するのも良い、というのならわかる。ただし注意点が2つ。(1)この立場に立つのならば、分散された認知という考え方はもう革命的じゃない。(実際、分散システムという主張の中には単に「認知」と呼ぶものの範囲を広げているだけのものもある。ハッチンスの集団行動の研究とか。) (2)長い目で見てそれが良いことかどうかを考える必要がある。科学の目標は特定の出来事の説明ではない、出来事の背後にある原理と規則性の発見だ。分散された認知という見方はシステムがfacultativeになるという問題を抱えている。この問題を乗り越えて理論的洞察にたどり着けるかどうかが問われる。

主張5. 認知は行為のためにある(Cognition is for action)。
 身体化認知アプローチは、認知メカニズムを適応的活動への寄与という観点から捉える。視覚は運動制御を改善するという進化的意義を持っているとか、記憶は三次元環境における知覚・行為を助ける機能として進化したとか。
 伝統的な仮説によれば、視覚システムは知覚世界の内的表象を構築する。背側視覚路と腹側視覚路はそれぞれwhatとwhereの視覚路だ。しかし最近では、腹側視覚路はむしろhowの視覚路だと論じられるようになった。その証拠として、視覚入力が運動をプライムするという知見が多く得られている。記憶もまた環境との相互作用という観点から捉えられるようになってきた。[...このくだり、いろいろ書いてあるけど面倒なので省略]
 では、目的や行為に対して中立的な表象、表象のための表象という考え方は、もう捨て去るべきなのか? まさか。視覚処理の背側ストリームはパターンと対象の同定、いわば知覚のための知覚に関与している。視覚事象のなかには相互作用の機会を提供しないものもあるし(沈む夕日とか)、知覚運動的な相互作用が可能な物理構造ではなくて視覚的な全体性に依存して認知が成立するような対象もあるし(「人の顔」とか「犬」とか「家」とか)、物理的相互作用がほとんどないようなパターン認識の活動もある(読書とか)。知覚的符号化は「行為のための知覚」という観点だけでは説明できない。記憶に目を転じればさらに明白だ。牛乳と豆乳は知覚的性質も行為のアフォーダンスもほぼ同じだが、豆乳は乳製品じゃないぞ。
 認知は行為のためにある、という言葉は究極的には正しい。問題は、認知機構が行為にどのように寄与しているかだ。個別の近くなり概念なりが具体的な行為パターンのためにあるというのは無理がある。むしろ、認知は多くの場合、間接的で洗練された戦略を通じて行為に寄与するのだ、と考えた方がよい。すなわち、外的世界の性質についての情報を将来のために貯蔵しておく(どうやって使うかにはあまりコミットせずに)、という戦略である。部屋にピアノがあったとして、それは座るものだとも飲み物を置く台だと考えられる。しかしあとになってから、そうだみんなの注意を惹くために大きな音を立てるのに使おうとか、侵入者に対するバリケードとしてドアの前に置こうとか、吹雪で停電になったから叩き壊して燃料にしようとか、ピアノという表象からいろんな使い道を引き出すことができる。我々の心的表象は、おそらくかなりの部分まで目的中立的だ。
 
主張6. 環境から切り離されているときの認知も身体に基づく(Off-line cognition is body based)。
 たとえば指で数を数えるとき、指はちょっと動かすだけで役に立つし、なんだったら全然動いてなくても本人の役には立つかもしれない。このように、いっけん抽象的な認知活動も、情報表現や推論のため、感覚運動機能を利用して物理世界のシミュレーションを行っている可能性がある。身体化認知のこういうオフライン的側面は、situated cognitionに比べてあまり注目されてこなかったが[←そうなんですか?]、長年にわたって証拠が静かに蓄積されている。

身体化されたオフライン的認知についての探求は他の分野でも行われている:

結論。[ここ、面白いので全訳]

 私たちは、身体化された認知をひとつの視点として扱うのをやめて、複数の特定的な主張として扱い、それぞれの利点について論じる必要がある。議論をもっと特定的にすることによって、身体化された認知のオンライン的な諸側面とオフライン的な諸側面とを区別できるようになる。
 身体化された認知のオンライン的諸側面は、課題関連的な外的状況に埋め込まれた認知活動の領域であり、時間圧力の下にあるケースや、情報ないし認知的作業を環境に肩代わりさせているケースを含むだろう。そこでは、精神は実世界状況と相互作用している身体の要求にこたえる働きとみなすことができる。これらの領域は伝統的には無視されていたもので、学ぶべき事柄が数多い。しかし、これらの原理をスケールアップさせればすべての認知を説明できる、という主張に対しては警戒しなければならない。
 これに対して、身体化された認知のオフライン的諸側面は、指示対象が時空間において離れていたりすべて想像上のものだったりするような心的課題のために感覚運動資源を利用する、あらゆる認知的活動を含む。たとえばsymbolic off-loadingがこれにあたる。そこでは、そこには存在しないものの心的表象と操作を助けるために外部資源が用いられ、さらに心的シミュレーションという形で感覚運動表象が純粋に内的に利用されている。これらのケースでは、精神が身体を助けて働いているのではなく、むしろ身体(ないしその制御システム)が精神を助けているのである。精神によるこの乗っ取り、そして時空間において離れているものを心的に表象するという能力こそが、人間の知性を原人から引き剥がした暴走機関車(the runaway train)の動力源のひとつだったのではないかと思われる。

 embodied cognitionというのは壮大なテーマなので、この分野の議論は奇妙に衒学的なフレーバーがかかってしまい、風呂敷ばかりが先行して肝心なところが曖昧模糊となってしまうことが多いように思う。しかしこの論文は視野広くして論旨きわめて明晰、さすがはASLや共感覚の研究でその名を知られたMargaret Wilsonである。特に主張1に関する進化心理学的主張への批判、感銘を受けました。
 著者の見解を整理すると、主張1,2,3,5は部分的に支持、主張4は支持しない、主張6は支持、ということになる。しかしいちばんの批判の的になるのは、この見立てそのものではなく、その基盤にある表象主義的認知観ではないかと思う。共通の土俵でまともに議論することさえ困難な、怖い論点だ...

論文:心理 - 読了:Wilson(2002) 身体化認知という概念を解剖する

rebuilt: 2020年11月16日 22:57
validate this page