elsur.jpn.org >

メイン > 論文:心理

2019年8月14日 (水)

荒川歩, 菅原郁夫(2019) 裁判員裁判を想定したフォーカスグループの効果の検証. 社会心理学研究, 34(3), 133-141.
 仕事の都合で目を通した論文。

 いわく、
 米国では裁判の前に陪審コンサルタントを雇い、フォーカス・グループ・インタビュー(ないし質問紙調査や模擬評議)をやって、陪審員がどう反応するか、公判で何を示す必要があるか、自分たちに有利な判断をする陪審員はどんな人か(選任手続きに備えるため)、キャッチフレーズとアナロジーとかがうまく働くかどうか、などなどを調べることがある。[←へええええ!!! 最初のページからもうびっくりですよ]
 しかしフォーカス・グループ(FG)の利用の有効性については検証がない。やってみましょう。
 題材は次の架空の事件。被告人は職場(工事現場)でいじめを受けており、いじめていた人物に暴行を受けている際に工具で反撃し死に至らしめました。目撃者はいません。正当防衛の構成要件の一つである「急迫性の侵害」はあったでしょうか。話を簡単にするため、急迫性の侵害があったら無罪ということにする。

 予備調査。
 著者二名がインタビューガイドを作成、学生6名と5名の2組のFGをつくってインタビュー[詳細略]。それとは別に法科大学院生3名に調査。
 結果。たとえば「違法性阻却事由」について、法科大学院生は一般人でも主旨自体は理解しているだろうと予測したが、実際の学生の一部は、本来の意味と逆の意味に捉えていた(正当防衛っぽいけど正当防衛にならないこと)。このように、一般人がどのように理解しているかはFGなしには気づきにくい。
 さて、別の法科大学院生に、まず争いのない事実と検察官の主張のみを渡して弁護人の弁論を作ってもらい(A)、次にFGの発言録を渡してもう一度作ってもらった(B)。

 本実験。学生31人に、争いのない事実、検察官の主張、弁護人の弁論(上記AかB)を読ませて調査票に回答させた。
 結果。有罪と判断する割合に有意差はなかった。
 「よくわかっていないかもしれないと思われる言葉や文章」をマークさせて文字数を数えて目的変数とし[二つの弁論はそもそも文字数が違うので、実は何を調べているのかいまいちはっきりしないんだけど]、弁論(2)x有罪無罪判断(2)のANOVAをやったら交互作用が有意で、FG情報がない群では有罪無罪判断間に文字数の差がないが、ある群では有罪判断のほうが文字数が多かった。著者ら曰く、わかりやすさには「論としてよくわかるか」と「意味が分かりやすいか」の両方が混じっていて、(後者の意味で)わかりやすいせいで有罪と判断したからこそ、有罪という立場からして(前者の意味で)なぜそのように主張できるのかがわからないところが明確になったのではないかとのこと。[おそれながら、これかなり強気な説明では...]
 有罪無罪判断の確信度にも交互作用があり、FG情報あり群では無罪判断のほうが確信度が高かった。
 云々...

 考察。FGには有用性があるのではないか。云々。

 ...勉強になりましたです。
 なにはともあれ、フォーカス・グループについての実験研究というのを見つけることができたのがうれしい。探してみるもんだな。

 実験・分析の手続きには、ちょっと良くわからない点もあって...
 予備実験で、法科大学院生に弁論を2種類つくらせるくだり、FGからの結果を見たかみてないかという違いと、1回目に書いたか2回目に書いたかという違いが交絡していると思う(仮に弁論が良くなったとして、FGの結果をみたおかげなのか、2回目に書いたからなのかの区別がつかない)。これ、普通の実験だったら結構深刻な瑕疵だと思うんだけど... でも、ここまでレアでユニークな題材だと、もはやなにもいえないっすね。
 本実験の分析で、弁論を読ませてマークさせた文字数を目的変数にとり、弁論タイプと有罪無罪判断の要因にとったANOVAをしているところもなんだか不思議であった。弁論タイプ→文章の読解プロセス→有罪無罪判断 という因果関係を考えると、A→B→CかつA→CというDAGがあるときにAとCで層別してBの差を見ていることになるわけで、あたかもシンプソン・パラドクスの例題のような奇妙さがある。むしろ、弁論タイプ→読解プロセスという分析と、{弁論タイプ & 読解プロセス}→有罪無罪判断という分析をやるのが筋じゃなかろうか。(いやまてよ、もしかすると、本文中でちらっと触れられているように、有罪無罪判断は弁論理解に先行してなされるという視点での分析なのかもしれない。ひょっとして、この分野ではそういう風に考えるのだろうか? だとしたら、それってものすごく怖い話ですね。私が被告人だったら、裁判員には弁論をちゃんと読んだ上で判断してほしい...)

 引用されていた研究をいくつかメモ:

読了:荒川・菅原(2019) 弁護士にとってフォーカス・グループ・インタビューは有用か

2018年6月17日 (日)

Ozimec, A.M., Natter, M., Reutterer, T. (2010) Geographical Information Systems-Based Marketing Decisions: Effects of Alternative Visualizations on Decision Quality. Journal of Marketing, 74, 94-110.

 差し迫った原稿の準備のために集めた論文のひとつ。アブストラクトを眺めた段階で「これはちがう... いま探してる奴じゃねえ...」と気が付いたのだが、しかしあまりに面白そうで、ついつい最後まで読んでしまった。なにやってんだか。こういうことだからダメなんだろうな。

 マーケティング分野でのトップ誌 Journal of Marketing に載ってはいるが、これ、Applied Cog.Psy.とかに載ってても全然おかしくない。要するに、地図上での情報視覚化についての実験研究なのだ。

 先行研究。
 意思決定支援において視覚情報は大事だ。その効果は視覚表現によってもちがう。
 先行研究には大きく3つある。

 本研究は3番目に属する。マーケティングでGISを使うという文脈に注目する。Clevelandらの研究をそのままあてはめることはできない。なぜなら、

 概念枠組み。
 GIS上で主題図を見て、いろんな基準に基づき、それぞれの位置における収益レベルを評価する、という場面について考える。
 マーケにおいて用いられるGIS上の主題図のうち、以下の4種類に注目する。

ここでsqueezing/overlap/dislocationのちがいは、過負荷のハンドリングのちがいと捉えられる。
 これらが意思決定のパフォーマンスの測度に与える効果を調べる。測度として、決定の正確性(決定者が選んだ位置の収益が最適位置の何パーセントだったか)、決定の効率性(所要時間)、決定者の確信度、課題の容易性の知覚、を用いる。
 さらに、効果のモデレータとして、課題の複雑性(決定基準の数、選択肢の類似性)、ユーザ属性(空間能力、地図の経験)、時間圧力に注目する。
 
 仮説。

  1. 色の濃さより、円や柱を使った方が、決定課題の成績が良くなる。なぜなら、Bertin(1983)のサインシステム論によれば...[とひとしきり理屈が書いてあるが、要するに色の濃さを比べる際には「こっちのほうが何倍大きい」という読み方ができないから、という話]
  2. 色の濃さと歪みを併用すると[カルトグラムのこと]、単一のシンボル化を複数種類使うよりも成績が良くなる。なぜなら、Wolfe(1994)のGuided search理論によれば、単一のシンボル化の場合はひとつづつ系列的に処理するようになるから。
  3. 柱を使うよりも円を使った方が成績が良くなる。Clevelandらとは逆の仮説だけど、地図研究では先行研究がある。柱は狭くて視覚的に不安定だから[←この説明もよくわからん]
  4. 円の重複よりも柱の重複のほうが悪影響をもたらす。なぜなら...[面倒くさいので省略するけど、理屈が縷々述べてある。ゲシュタルト心理学まで引き合いに出して]
  5. 柱をずらすと重複しているときより成績が悪くなる。場所との関係をつかみにくくなるから。
  6. 決定課題において選択肢間の類似性が高くなると、色の濃さだけを使うのと比べて、色の濃さと歪みを併用するほうが成績が良くなる。なぜなら、色の濃さだけ使っている場合、面積は(実際には意味がないのに)その地域の重要性として受け取られてしまい、決定課題が複雑なときには特にそのバイアスが効いてくるから。[面白い理屈だ]

 お待たせしました、実験です。
 オンライン実験。被験者数1349、うち3割強が仕事でGISを使っている[←どうやってリクルートしたんだ...]。
 課題は、GIS主題図をみせて、「家具小売の新規出店候補地5つのなかから、もっとも魅力的な場所をひとつ選べ」。GIS主題図には決定の基準となる変数が全部載っているんだけど、コロプレス図と比例シンボルは地図一枚あたり1変数しか表せないし、カルトグラムは2変数、ダイアグラム図は3変数までにしたので、たとえば決定基準の数が6ならば、コロプレス図と比例シンボルは6枚、カルトグラムは3枚、ダイアグラム図は2枚を並べてみせることになる。
 要因は次の4つ:

 要するに、被験者間が7x2=14水準、被験者内が2x2=4水準である。

 結果。どの仮説もだいたい支持。

 考察。
 シンボルのタイプは、円、色の濃さ+歪み、色の濃さ、柱の順に優れている。柱は重複に弱いし、重複を避けるためにずらすのもやはり良くない。マーケターのみなさん、円をもっと使うといいよ。
 云々、云々。
 
 ... いやー、楽しいなあ。
 正直なところ、仮説を導入する際の理屈の長さに閉口したが(仮説自体はそりゃそうだろうよというようなものなので特に)、論文たるものかくあるべきだよな、という気もする。全く同じ実験データを得ていても、仮説を先に述べずに結果を後づけで解釈してたら、きっと大変にしょぼい感じの論文になっていただろう。もちろん、実際には結果を先にみてから仮説を考えてるんだろうけど、これがお作法の美しさというものだ。

 というわけで、マーケティング研究の皮を被った人間工学的実験研究を堪能した次第だが、課題状況を実務場面に近づけましたと主張するタイプの実験研究が往々にしてそうであるように、この課題状況が本当に実務場面に近いのか、実は誰にもわからんのではないかという気がする。
 早い話、BIツールの担当者が「なるほど、出店候補地を比較する上で検討したい変数が6つあるんですね、わかりました、じゃ地図を6枚並べて表示しますんで眺めて下さい」なんてことをいってると、出店計画の担当者は「てめぇふざけんな」と怒り出すのではないか。ふつうは、6変数をなんらか組み合わせて収益性を予測し一枚の地図上に表現するか、地図でみせるのを諦めるんじゃないかと思うのだが、そんなことないですか?
 このへんが「実務場面に近い」という言い方の怖いところで、「実務」というのはあいまいで幅が広く、それがなんなのか、実は誰も知らないのである。

読了:Ozimec, Natter, Reutterer (2010) マーケティング実務家のみなさんのために、地図上でなにかの変数を表現する際の良い描き方について調べました

2018年5月25日 (金)

 こないだ学会(消費者行動研究学会)のワークショップを拝聴していて気が付いたんだけど、反応時間についての私の知識は古い。全然勉強してないんだから当然である。
 まあいまさら私が勉強してもしょうがないのかもしれないが、いずれ反応時間を使ってやってみたいこともあるし、少しでも勉強しておくか... と思って、適当そうな論文を読んでみた。当座の仕事とは関係ないわけで、まあ半分趣味みたいなもんである。

Krajbich, I., Bartling, B., Hare, T., Fehr, E. (2015) Rethinking fast and slow based on a critique of reaction-time reverse inference. Nature Communications, 6, 7455.
 第一著者はオハイオ州立大の心理学者。ワークショップで某先生が口走っていた名前をカタカナでメモし、しばしの試行錯誤の末に突き止めた。反応時間の研究で有名な研究者らしいのに、恥ずかしながら初耳だ...と思ったが、調べたところ2011年に学位取得とのこと。そりゃあ知らないわ。

 いわく。
 意思決定プロセスの研究は、二重過程説の観点に立ち[直観的・自動的過程と熟慮的過程、Type IとType IIってやつですね]、ある行動はどっちの過程の結果か、と問う。それを区別する手段のひとつが反応時間(RT)の検討である。直観的過程は熟慮的過程より速かろうという理屈である。
 というわけで、意思決定の研究ではRTに基づく主張が溢れている。しかし、ある自動的過程が熟慮的過程よりも速いだろうと予測するということと、ある選択についてこれは速いから自動的だと分類するということとは、別の問題である。
 RTに寄与する認知過程にはいろいろあることがわかっている。RTに基づく推論はそれらの認知過程についても説明しないといけない。たとえば、RTは弁別性と関連する。これは記憶・知覚から経済的選択にいたる広い範囲で示されている。90年代、視覚探索過程が系列的か並列的かを区別するためにRTが使えるかという点についての論争があったが、そのとき批判者は、RTの主要な規定因がむしろ弁別性であることを示したものである。また経済的選択の分野では、選択肢が類似している決定課題は遅いことが示されている。
 つまりこういうことだ。選択は実は単一の熟慮的過程によってなされていて、RTの変動は複数種類の過程の競合のせいで生じているのではなく、むしろ選択肢の類似性知覚のせいで生じている... こういう可能性について、ちゃんと検討しないといけない。
 本論文は社会的選好と対人的選択の文脈において、上記の点を詳細に示す。選択肢をうまいこと作り込めばお望みのRTが得られる、その様子をとくとご覧いただきたい。RTは二重過程理論の証拠にはならないのである。

 まず、RT逆向き推論問題(RT reverse-inference problem)について紹介しよう。
 「人が直観的に好むのはエールかバーボンか」を調べる実験について考える。エールの選択肢セットからひとつ、バーボンの選択肢セットからひとつを提示し、どちらかを選ばせる。これを繰り返し、選択とその反応時間を調べる。
 当然ながら、選択の結果は選択肢セット次第である。いま、実験者1がつくった選択肢セットではエールの勝率が高く、実験者2がつくった選択肢セットではバーボンの勝率が高かったとしよう。
 選択課題のRTはどうなるか。RTは選択肢間の差異の知覚に依存する。いま選択肢AとBの間で選択するとき、横軸に選好の差(A-B)、縦軸にRTをとると、0を中心にした山形になると期待できる。実験者1の場合、選択肢のなかに良いバーボンが少なかった、つまり左裾に位置する選択肢ペアが少なかったわけだ。だから、Bが選ばれる試行(真中から左側)のRTの平均は、Aが選ばれる試行(右側)のRTの平均より高くなる。こうして、実験者1は「人はエールを直観的に選ぶ」とうっかり結論してしまうことになる。実験者2はその逆になる。
 [こういう順序で説明されると、いやあそんな勘違いはしませんよ...とつい思ってしまうけど、実際にはこういうの結構多いですよね。「XXの選択率は高くRTは短かった、つまりXXは消費者に直観的に選ばれているのだ」的なの]

 ここからは実際の研究に即して説明しよう。3つ例を挙げる。

 その1、社会的選好。
 独裁者ゲームというのがある。独裁者役の被験者が、独裁者と受け手に金をどう配分するかについて、自己中心的選択肢と向社会的選択肢のどちらかを選ぶ。
 実験やりました。独裁者役は25名、ひとり70試行。
 まずは選択タイプとRTの関係をみてみよう。自己中心的選択のほうがRTが短かかった。ってことは、自己中心的意思決定は直観的で、向社会的意思決定は熟慮的だ...と思っちゃいますよね?
 こんどは各被験者について、自己中心的選択肢の選択率、自己中心的選択のRT、向社会的選択のRTを調べる。すると、自己中心的な選択をしやすい被験者は自己中心的決定が速く、向社会的な選択をしやすい被験者は向社会的選択が速かった。また、自己中心的選択肢の選択率が5割近辺の人は、RTの差も0に近かった。
 さらに、全体を通して、自己中心的選択肢の選択率が高かった。これは選択肢の作り方の問題であって、各試行において「向社会的選択肢を選ぶことで独裁者が損する金額」がもっと低くなるようにしておけば、向社会的選択肢の選択率はもう少し上がったはずである。
 というわけで、選択肢の作り方のせいで自己中心的選択肢の選択率が高く、よって自己中心的選択をしやすい被験者が多く、よって自己中心的選択のほうがRTが短くなった、と解釈できる。
 分析してみよう。自己中心的選択肢$i$と向社会的選択肢$j$のペイオフを$x_i, x_j$とする。選択肢ペアの効用関数を次のようにあらわす。
 $U(x_i, x_j) = (1-\beta r - \alpha s)x_i + (\beta r + \alpha s) x_j$
$r, s$は独裁者のペイオフが受け手のペイオフより高い/低いことを示すダミー。$\beta,\alpha$は個人パラメータ。
 それぞれの試行について、推定した効用を横軸、RTを縦軸にとると、どちらを選んだ場合でもRTの分布は変わらない。混合効果回帰でも確認できる。このように、「自己中心的選択は速い」というのは実験パラメータのアーティファクトである。

 その2、時間選好。
 被験者41名が選択課題216試行を行った。選択肢は「25ドルをいまもらう」「xドルをt日後にもらう」の2択(xは25より大)。全試行の約半分(53%)で即時選択肢(25ドル)が選ばれた。RTに有意差はなかった。
 以下では、一部の選択肢ペアだけを取り出し、即時選択肢のほうが魅力的であるデータを作って分析する。するとRTは即時選択のほうで速くなる。即時ペイオフの選択は直観的だと結論しかねない。
 遅延ペイオフについて次の時間割引関数を考える。
 $U(x, t) = x / (1+ kt)$
$k$は個人パラメータ。このモデルで推定した効用差を横軸、RTを縦軸にとると、どちらを選んだ場合でもRTの分布は変わらない。混合効果回帰でも確認できる。

 その3、Rand, Greene, & Nowak (2012 Nature)。[←読んでてだんだん眠くなってきてうとうとしはじめてたんですが、急にシャキッとしました! 性格の悪い論文大好き!!]
 彼らは人間の利他的協同が二重過程に支配されていると主張している。彼らによれば、直感的システムは協同を支持し、熟慮的システムは自己中心性を支持する。
 彼らが行った公共財ゲームについてみてみよう。被験者を4人ずつのグループにする。各被験者に40単位の金銭を与え、いくらを手元に残し、いくらを公共財のために寄付するかを決めさせる。実験者は寄付金を倍にしてメンバーに均等に配る(1単位の寄付につき0.5単位が戻ってくる)。
 彼らの結果では、は多く寄付するという選択でRTが短かった。なお、彼らはほかにもいろんな手続きをやっているんだけど、ここでは脇においておく。
 この実験を次のように改変した場合について考えよう。
 A1. 1単位の寄付につき0.9単位が戻ってくる(全額寄付すると36単位戻ってくる)。
 A2. 1単位の寄付につき0.3単位が戻ってくる(全額寄付すると12単位戻ってくる)。
 A1において向社会的な被験者はRTが短くなり、A2において自己中心的な被験者はRTが短くなるだろう。
 再現実験やりました。{オリジナルと同じ設定, A1, A2}のそれぞれについて被験者175名。二重過程説の説明によれば、どのバージョンでも、寄付金額とRTは負の相関を持つはずである。
 結果。A1では正の相関、オリジナルでは0に近く、A2では負の相関になった。オリジナル条件での元論文とのずれは被験者の寄付額のちがいのせいだろう。

 このように、RTの解釈に際しては選好の強度を考慮しなければならない。RTによる二重過程理論の支持には落とし穴がある。証拠蓄積モデルやベイジアン更新メカニズムのような単一過程モデルだって、選択バイアスとRTを同時にうまく説明できる。
 要約しよう。ある行動が二重過程理論でいう直観的コンポーネントによって支配されているかどうかを推論する際に、決定タイミングを根拠とするのは問題がある。選択タイプによるRTのちがいは、背後にある過程のちがいのせいではなくて、選好強度や弁別性のちがいのせいかもしれない。意思決定のモデルを比較しようとするみなさん、反応時間データはもっと注意して扱いなさい。

 ... いやー、面白かった!
 メモを読み返しながらあれこれ考えるわけだけど、この論文はあれだろうか、反応時間にはいろんな要因があるから、そこからあるモデル(例, 二重過程モデル)に基づく示唆(例, 向社会的行動は直観的だ)を引き出すのはそもそも難しい、という悲観的な教訓として捉えるべきであろうか。それとも、ちょうど著者らが個人ごとの主観効用の差を推定して回帰に放り込んでいるように、うまい実験計画なりうまい分析計画なりを組む必要があるのだ、という楽観的な教訓として捉えるべきだろうか。
 早い話、もしRand, Greene, & Nowakがいろんなインセンティブ設計を通じて寄付金額とRTとの負の相関を示していたとしたら、選好強度説は排除され、二重過程説に基づく「向社会的行動は直観的だ」という示唆が得られていたのではないかしらん? それとも、排除しきれない第三の説がありえたかしらん?

 これは私のような立場の素人にとってもちょっと切実な話で...
 マーケティングのための消費者調査で回答の反応時間を分析するとしたら、それは判断の背後にある認知過程のタイプを知るためではないだろう。おそらく、(1)回答態度が反応時間と関連するというモデル(「長すぎる/短すぎる回答は真剣でない」)に基づき回答態度について推論しようとするか、(2)態度の強度が反応時間と関連するというモデル(「選好判断が速いブランドは選好強度が強い」)に基づき態度の強度について推論しようとするか、のいずれかであろう。でもよく考えてみると、反応時間に影響するであろう要因は他にいっぱいあり(「自動的認知過程に支配されていると速い」「知覚的流暢性が高い刺激に対する判断は速い」)、いつだって代替的説明が可能なのである。
 そういうのを潰すうまい手続きはありうるのか? それとも、反応時間というのは結局はよくわからんもんだと割り切り、あるドメインにおけるある事柄に対して反応時間が予測的妥当性を示すという知見を、そのドメインのなかで地道に積み上げていくべきなのか? ...という問題である。

読了:Krajbich et al.(2015) 直観的判断は速く熟慮的判断は遅いと考えられているが、では速い判断は直観的で遅い判断は熟慮的だといえるか

水野将樹 (2003) 心理学研究における「信頼」概念についての展望. 東京大学教育学研究科紀要, 43, 185-195.

 仕事の都合で目を通した。えーっと、信頼ってのは測定の信頼性とか推定の信頼区間とかの話じゃなくて、日常用語でいうところの信頼、trustのことね。
 修論のまとめだと思うんだけど、とにかくレビューというのは助かります。

 いくつかメモ:

...職場における信頼関係についての研究っていっぱいありそうな気がするけど、ああいうのはみんなBに分類されるのかしらん。そうしてみるとBもずいぶん幅がありそうだなあ。

読了:水野(2003) 心理学における「信頼」概念レビュー

2018年5月 5日 (土)

 SNSを検索していて、「マスメディアの世論調査はあてにならない」という強烈な感情表現を数多く目の当たりにし(その論拠はピンキリだが、ほとんどはキリのほう)、サーベイ調査に対する人々の信頼とは... と、深い感傷に浸ったのであった。

Nir, L. (2011) Motivated reasoning and public opinion perception. Public Opinion Quarterly, 75(3), 504-532.
 とはいえ、ぼけーっとしていてもしょうがないので、これを機にちょっと勉強してみるか、と関連しそうな論文を探して読んでみた。予備知識ゼロだけど、タイトルからして面白そうなので。

 ハバーマスいわく[おっと、カッコ良い出だしだね]、publicとはただの個人の集まりでない。publicはコミュニケーション行為を通じて意見を形成する。それを可能にする主要な情報源がマスメディアである。
 しかし、個々人が他人の政治的選好についての情報を求めるかどうかは別の問題である。人々が自分の意見を支持する意見ばかりに耳を傾けるようでは、熟議は成り立たない。
 motivated reasoning(目標志向的な認知処理方略)の研究では、accuracy目標とdirectional目標のちがいが注目されている。前者は正しい信念を維持しようという目標で、推論に投じられる努力が大きくなり、情報処理が深くなる。後者は望ましい結論を維持しようという目標で、それを支持する証拠が重視される。Kunda(1990, Psych.Bull.)をみよ。
 Lodge & Taber (2000)はmotivated reasoningと政治的評価のタイポロジーを提案している。横軸にaccuracy目標の強さをとり、縦軸にdirectional目標の強さをとる。

 先行研究が主に注目してきたのは党派的推論者の情報処理だった。意見にバイアスを与えるメカニズムとして、選択的接触、選択的処理、選択的知覚が指摘されてきた。しかし、Lodge & Taberのタイポロジーは、以下の3つの方向の研究を示唆している。

 仮説です。

 推論目標をどうやって操作的に定義するか。accuracy目標はCacioppo & Petty(1982 JPSP)のNeed for Cognition尺度で測る。direction目標はJavis, Blair, & Petty(1996 JPSP)のNeed to Evaluate尺度で測る。[←すげえ... 社会心理学版の打ち出の小槌だね...]
 
 方法。
 Electronic Dialogue 2000 (ED2K)プロジェクトのデータを使う。脚注もみながらちょっと詳しくメモしておくと...
 対象者はKnowledge Networks社のパネルから抽出した。これはまずSSI社が世帯をRDDで抽出し、そのうちWebTVのデータベースにない世帯をリクルートして、WebTVの装置をただで配るかわりに毎月40分程度の調査に参加してもらいますという全米パネル。年齢や人種が代表性を持つようにリクルートしている。
 ここから2000年2月に3967人抽出し、2014人の同意をとった。ベースライン調査は長いので2回にわけてやった(2~3月)。回答者は1684人。これを「議論」群(900人)、「コントロール」群(139人)、「セットアサイド」群に割り当てた。議論群とコントロール群は毎月調査参加する羽目になる。議論群は、10-15名ずつの60チームにわかれ、モデレータつきのオンライン議論に毎月参加する(調査はその前後)。実は60チームはうまく組んであって、20チームはリベラルor中道、20チームは保守or中道、20チームは混在である。最終の調査が2001年1月(これも2ウェーブに分けた)。実に一年がかりのプロジェクトであった。お疲れ様でした。
 Need for CognitionとNeed to Evaluateの項目は、4回目の議論のあとの調査(2001年1月)、ないし最終調査に含まれていた(うまいこと設計されていて、ある対象者にはこのうちどこかで一回だけ訊いている)。
 分析に使う指標は以下の通り。

 お待たせしました!結果です!

 考察。
 本研究の貢献は以下の3点。

  1. motivated reasoningの研究の拡張。推論タイプと意見知覚の関係を示した。
  2. 観察研究における、推論タイプの操作的定義を示した。
  3. 人々の推論過程の個人差、それが近くにに及ぼす影響についての我々の理解を示した。

 本研究の限界:

 今後の研究への示唆。

 。。。いやー、さっすがはPOQ。私のような素人の心も掴んで離さない、すごく面白い論文であった。
 Lodge & Taberのタイポロジーというのがとにかく面白い。引用されている論文はLupia, et al. (eds.) "Element of Reason"に所収。第一著者のMilton Lodgeについて調べてみると、世界のあちこちに同名の宿泊施設があって困ったが、どうやら政治心理学者。70年代にJPSPに書いているほかは、政治心理学の専門誌での論文が多いようだが、Sageの緑本でマグニチュード尺度について書いていたりする。67年に学位取得というから結構なお年であり、今年お弟子さんたちかなにかによる記念論文集が出ているようだから、さぞや偉い学者なのだろう。2013年にTaberと共著で"The rationalizing voter"という本を書いているが、残念ながら翻訳はないようだ。

 書き方から推測するに、著者自身はED2Kプロジェクトにはタッチしておらず、あとでデータを借りてきたような雰囲気だ。こんなんあれですよ、凡百の心理学者がやったら、「回帰分析してみたら、認知欲求が高い人はxxxが高くて、評価欲求が高い人はxxxが高かったですー」的な、吹けば飛ぶよな相関研究ですよ。つくづく、大事なのはデータじゃなくて理論的枠組みなのである。

 自分の仕事に当てはめると、消費者に対して他者の選好を推測させるcitizen forecastを考えた時、うっかりしていると「カテゴリ関与が高いほうが推測が正確」と素朴に仮定してしまいそうになるが、正確性を目標にした推論をもたらすようなカテゴリ関与もありうるし、自分の選好の支持を目標にした推論をもたらすようなカテゴリ関与もありうるわけだ。その違いは、もちろん環境との相互作用の履歴が生んだ産物ではあるんだけど、カテゴリを超えた個人的傾向の尺度で、ある程度は予測できるかもしれない。

読了:Nir (2011) 推論の動機づけ的個人差が、世論についての知覚のバイアスと関連している

2017年9月21日 (木)

Axley, S.R. (1984) Managerial and Organizational Communication in Terms of the Conduit Metaphor. The Academy of Management Review, 9(3), 428-437.
 経営・組織研究におけるReddyの導管メタファ説の意義を語る、意見論文というかエッセイというか。
 良く引用されているので気になっていた文献。このたび発表準備のついでに読んでみた(現実逃避ともいう)。あいにくPDFが手に入らなかったので、JSTORの無料レンタルで、ディスプレイ上で...

 まず、人間とはシンボルを使う動物だ、というような能書きがあって...それこそアリストテレスから始まって、古今東西の学者の名前がてんこ盛り。こういう書き出しがお好きな方って、いらっしゃいますよね...

 人間の行動と思考はメタファによって組織化されている... [という説明が半頁]
 Reddy(1979)いわく、こうしたメタファの分析は言語そのものに適用できる。コミュニケーションについての英語の表現の多くは、(1)言語は人から人へと思考・感覚を運搬するものだ、(2)話し手・書き手は語に思考・感覚を挿入する、(3)語は思考・感覚を含む、(4)聞き手読み手は思考・感覚を語から抽出する、という想定を比喩的に表現している。Reddyはこれを導管メタファ(conduit metaphor)と呼んだ。[英語表現の例を使った説明が1頁]

 いっぽうコミュニケーション研究者はコミュニケーションについて異なる見方をしている。たとえばRedding(1972, 書籍)をみよ。
 コミュニケーションにおいて生じるのは意味の運搬ではなく意味の創造だ。[ここでまたぐだぐだと...] 聞き手がどんなメッセージを見出すかはわからない。そして問題となるのは聞き手が見出したメッセージだ。[ここでまた延々と...] コミュニケーションにはある程度の冗長性が必要だ。伝言を繰り返すとメッセージはどんどん変わる(serial communication effect)。

 多くの教科書における組織的・経営的コミュニケーションについての説明は導管メタファと整合している。このように、組織において、導管メタファに由来する「コミュニケーションなんて努力しなくても大丈夫」仮定が広がっている。
 その結果、以下の事態が生じるのではないか。(1)組織内のコミュニケータが自分のコミュニケーション効率性を過大視してしまう。(2)マネージャーがコミュニケーションの冗長性を嫌い、努力を怠る。(3)ミスコミュニケーションの危険が見過ごされる。(4)組織内教育においてコミュニケーションのスキルと行動が軽視される。 

 今後の研究の方向:(1)上で指摘した可能性の実証。(2)ある人が導管メタファにどのくらいコミットしているかを評価する手段の開発。(3)導管メタファへのコミット度と他の変数との関連性についての検討。他の変数としては、コミュニケーションの効率性, 努力の程度, 冗長性が必要だという要求, フィードバックへの努力, 冗長性の程度, 組織内の諸問題がコミュニケーションの問題だと捉えられる程度、が挙げられるだろう。
 云々。

 ... いやはや、文章が大変くどく、言い回しが妙に文学的で辟易した。昔の学者さんだなあという感じ。ディスプレイ上で読んでいたせいもあって(言い訳)、あんまりきちんと読んでない。
 いい点を探すと、「ある人が導管メタファに毒されている程度を測定しようぜ」というのは面白いなあと思った。もともと導管メタファというのは社会文化のレベルの話であって、個人差があるというような話ではないと思うのだけれど、さすが、視点が組織研究っぽい。

読了:Axley (1984) 経営・組織研究者よ、導管メタファに注目せよ

2017年9月17日 (日)

Kappes, H.B., Morewege, C.K. (2016) Mental simulation as substitute for experience. Social and Personality Psychology Compass, 2016, 1-16.
 社会心理学分野でのメンタル・シミュレーション研究レビュー。仕事の役に立つかと思って読んだ。
 聞いたことない誌名だし、webをみてもIFが書いてないし、不安だったんだけど、2007年発刊のオンライン・ジャーナルなのだそうだ。ScimagoというScopusがやってるランキングでは社会心理で27位だったので、じゃあ目を通してみるか、と。
 
 Taylor et al. (1998 Am.Psy.)いわく、メンタル・シミュレーションとは一連の事象のimitative なエピソード表象である。それはふつう特定の事象(現実かどうかは別にして)の詳細な心的表象を含む。
 メンタル・シミュレーションに関わる神経システムと概念システムは、シミュレート対象の行動に関与する知覚運動システムと重なっている。[イメージング研究とかをいくつか引用...] メンタル・シミュレーションは経験の代替物として働くことがあると思われる。

 代替効果について。
 これは人間の資源が有限だという認識に由来する概念である。経済学とかマーケティングとかだと、複数の選択肢に対する時間なり金銭なりの支出は負の関連を持つことがある。これが代替効果。目標志向的行為はモチベーショナルな特性を持っているから代替効果が生じる。[...しばらく社会心理系の研究の引用が続き...]

 行為じゃなくてメンタル・シミュレーションでも代替効果が起きる。以下では4つのカテゴリ(網羅的じゃないけど)にわけてレビュー。

A) 物理的エビデンスの代替をシミュレーションが提供する
事象のシミュレーションが価値を持つ:

シミュレーションで期待が変わる(cf.期待-価値モデル):

 シミュレーションが期待に影響するのは利用可能性を高めるからだと考えられてきた。でもそれだけではない。
 一般に人は、自分が行為者であるときよりも観察者であるとき、行為の原因を傾性に帰属しやすい。これがシミュレーションにもあてはまる。Libby & Eibach(2011 Adv.ESP), Libby, Shaeffer, Eiback, & Slemmer (2007 Psych.Sci.), Vasques & Bueler(2007 PSPB). [←なるほどね...シミュレートされた行為の原因を自分の傾性に帰属するって訳か。面白い説明だ]

B) 物理的練習(practice)の代替をシミュレーションが提供する
 [本項、いま関心ないのでかなり端折る]
 この現象はimaginary practice, covert rehearsal, symbolic rehearsal, introspective rehearsalなどと呼ばれている。
  認知課題や運動課題でスキルが必要な奴にメンタル・シミュレーションが良く効く。このタイプの研究はいっぱいあってメタ分析まである。とはいえメンタル・シミュレーションだけだとあんまり効かず、実際の練習との併用が必要。
 なぜ効くのか。2説ある。(1)複雑な行為の表象的枠組みが作られたり再構築されたりして、行為の単位のチャンキングと関連づけが起き、計画が促進されるから。(2)実際と同じ視覚・筋運動プログラムが活性化されるから。最近の研究は(1)を支持。

C) 実際の消費の代替をシミュレーションが提供する
 [ここは関心があるので丁寧にメモると...]
 食刺激に関連する感覚手がかりを想像すると、実際に接触したときと類似したsensitizationが生じる(初回接触における刺激への反応性が増す):

 実際の刺激への繰り返し接触が引き起こすhabituation(モチベーショナルな反応が減ること)やsatiation(ヘドニックな反応が減ること)が、刺激接触の想像でも起きる:

食経験のメンタル・シミュレーションは自発的に起きる:

自発的シミュレーションが実際の行為を促進する:

 背後のプロセスについて直接示した研究はないけれど、記憶における心的表象が、初期状態→活性化→減衰→初期状態と移行しているからだろう。cf. Epstein et al.(2009 Psych.Rev.)。

D) 実際の達成の代替をシミュレーションが提供する
 未来を想像することで満足の先延ばしを可能にしその場の行為を抑制するのは、実際にその場で満足を手に入れようとするのがまずい場合には有益だけど、達成の代替物になっちゃって目標追求を阻害することもある。

 背後のプロセスは2つある。(1)想像上の成功が現実とごっちゃになっちゃって努力しなくなるから。(2)想像上の成功がプランニングを阻害するから。

統合
 このように、メンタル・シミュレーションは経験の代替となり、さまざまな代替効果を引き起こす。

云々、云々...

 ...オンライン・ジャーナルと思って正直なめてましたが、きちんとしたレビューであった。疲れた。

 読んでいる途中で気がついたんだけど... メンタル・シミュレーションって、なんとなく技能学習の文脈のなかで捉えていたのだが(この辺は伝統的な心理学の体系に知らないうちに縛られているのかも知れない)、質問紙調査法の研究でいうところの質問-行動効果とか、いま流行の身体化認知とか、いろんな問題の基盤として考えることができる。
 調査手法研究の文脈でいうと、メンタル・シミュレーションは回答時課題であって調査者にとってポジティブなもの、質問-行動効果は回答行動がもたらす予期せざる影響であって調査者にとってネガティブなもの、身体化認知は意外な回答方略でありポジティブともネガティブといえない... という漠然とした思い込みがあったけれど、著者らが最後に述べているように、認知的プロセスはかなり共通しているのだろう。
 なんだかなあ。面白そうでいやになるなあ。

 もう一点、面白かったのは、こういうレビューはべつに網羅的でなくていいんだな、ということ。
 率直にいって、著者らが選んだ4つのテーマがメンタル・シミュレーションの研究史をどこまで包括しているのかわからないし、なぜこの4つを選んだのかという点にも、ちょっと恣意的な感じを受ける。でも、いいんだなあ、これで。4つのテーマを統合して、あるビジョンを示したわけだから。

読了:Kappes & Morewedge (2016) メンタル・シミュレーションが引き起こす代替効果レビュー

2017年9月15日 (金)

McMahan, R.P, Gorton, D., Gresock, J., McConnel, W., Bowman, D. (2006) Separating the effects of level of immersion and 3D interaction techniques. Proc.ACM Symp. Virtual Reality Software and Technology. 108-111.
 これも仕事の都合で目を通したやつ。今気が付いたけど、なんてこった、この前に読んだComputer誌の記事と同じ著者だ... 探し方が悪いのだろうか...

 いわく。
 仮想環境の視覚的没入性が課題の成績にどう効くか、という研究は多い。また入力装置や3D相互作用技術のちがいがどう効くかという研究も多い。でも両者を一緒にみた研究がない。だから実験やりました。

 課題は3次元空間でモノを動かすゲーム。
 ディスプレイはCAVEという4面プロジェクタ(装置故障のため床面はなし)。立体視と頭部トラッキングを提供する。
 相互作用技術は[...あんまし関心ないので読み飛ばしちゃったけど、要するに...]杖だかなにかを使ってリアルに操作する奴(HOMERとGo-Go)と、マウスでどうにかして操作する奴(DO-IT)を用意。
 実験計画。要因は、立体視({あり, なし})、呈示面の数({1面, 3面})、相互作用技術({HOMER, Go-Go, DO-IT})。立体視・呈示面は被験者内、相互作用技術は被験者間で操作。
 被験者は各群3人、計12名。[←す、少ない... 心理学でいえば学部の卒論のレベルだ... 工学系はこれでもいいのかな...] 被験者内要因の水準が2x2=4、各1試行で計4試行。

 結果。[...詳細は端折って、要するに...] 相互作用技術はゲームの成績に効くけど、立体視や呈示面の数は効きませんでした。[←はっはっは。チャートをみると、マウスでやるのがよっぽどつらいゲームらしい]
 効いたのは相互作用技術自体なのか、それとも入力装置なのかはわからない。今後の課題です。
 云々。

 ... いっちゃなんだが、実験はかなりしょぼい。どこの卒論かと。でもあれなんでしょうね、見た目より全然大変なんでしょうね。マウスで操作するシステムは自前で作りましたって書いてあるし。
 実験の結果はどこまで一般性があるのか、よくわからない。ゲームの性質がちがえば視覚的没入性が効くかもしれない。このケースは、ゲームは比較的簡単、でもマウスで操作するのがよっぽど難しかったということではないだろうか。
 それはともかく、問題設定が面白いと思った。ほんとに知りたいのは、視覚入力におけるリアルさみたいなものと、環境との相互作用のリアルさみたいなものが、どう相互作用するのか (ことば遊びみたいだけど) ということなのであろう。

読了:McMahan, et al. (2006) VRで大事なのは視覚的没入性か相互作用テクニックか、実験してみた

Bowman, D.A,, McMahan, R.P. (2007) Virtual reality: How much immersion is enough?, Computer, 40(7), 36-43.
 仕事の都合で読んだ(なんというか、節操のない仕事だ...)。掲載誌はIEEEの一般向け機関誌みたいな奴だと思う。結構引用されている(Google様的には366件)。
 眠くてふらふらになりつつメモをとったので、中身には自信がない。

 いわく。
 これまでVR研究者は没入的なVRに取り組んできた。ユーザは驚いてくれる。でも実用事例は少ない。コストに見合う価値はあったのだろうか。

 没入的VRの成功例として、恐怖症の治療、軍の訓練、エンタメが挙げられる。それらはすべて、仮想環境が提供する経験が現実的であることが鍵だった。言い換えると、それらはすべて、ユーザがある環境のなかにいると感じるということが重要であるような事例であった。逆にいうと、そういうのに注目していたからこそ実用事例が少ないままなのではないか。

 別の戦略について考えてみよう。没入性から得られるベネフィットは他にないのか。そもそも没入性というのは単一の構成概念なのか。
 たとえば、石油・ガス産業のために、地価の油井のパスを視覚化するシステムをつくるとしよう。この場合、別に「自分が地下にいる」と感じさせる必要はない。視覚化はあまり現実的では困る。むしろ適度に抽象的なほうがよい。Gruchallaらはデスクトップディスプレイと没入型プロジェクタを比較し、後者のほうがパフォーマンスが上がることを示している。たぶん空間理解が促進されたのだろう。では没入型プロジェクタのどんな要素が空間理解を促進したのか。視野の広さか、頭部運動のトラッキングか。それがわかれば、もっと簡単なシステムで十分だということになるかもしれない。

 上に挙げたような研究は数が少ない。たくさんの問いが残されている。同じようなベネフィットを実現してくれる課題や応用がほかにもあるのではないか。没入性のどのような要素が利点をもたらすのか。もっと低レベルな没入性でも十分なのではないか...
 複数の要因について効果を検証する実験が望ましい。最初にGruchallaのような実践的研究をやり、次に要因を分解していくというやり方もできる。

 [ここで著者らの実験紹介...]
 いくつかの実験を通じてわかったことを挙げる。

 まとめ。
 実践的にはふたつの目標がある。没入的VRを成功させるという目標と、高価なVRシステムなしで済ませるという目標である。このふたつは別に矛盾していない。没入性というものを連続的なものとして捉え、どんなレベルの没入性がなにを生み出すかを考えればよい。
 云々。

 本文よか、途中で挿入されている解説コラムのほうが役に立った。
 没入性(immersion)とはVRシステムが提供する感覚的fidelityの客観的レベルのこと。presenceとはVRシステムに対する主観的・心理学的な反応のこと。
 没入性の要素としては、同時にみることができる視野の広さ、ユーザを取り囲む視野の広さ、ディスプレイのサイズ、解像度、立体視、ヘッドトラッキングによるレンダリング、リアルな光線、フレームレート、リフレッシュレート、などがある。提示しているモデル自体のリアルさをここに含めていないのは、課題によって必要性が異なるから。
 この定義でいうと、相互作用のリアルさは没入性とは別の問題。むしろ、(入力装置による)相互作用と(ディスプレイによる)没入性がループしていると考えるべきだ。云々。

 VRの没入性がユーザの行動に与える効果の研究として、Meehan et al.(2002 Proc.ACM Siggraph)というのが挙げられていた。

読了:Bowman & McMahan (2007) ヴァーチャル・リアリティってのは視覚的没入性が高ければ高いほどよいというものでもないだろう

2017年8月27日 (日)

Gambrel, P.A., Cianci, R. (2003) Maslow's Hierarchy of Needs: Does it apply in a collectivist culture. The Journal of Applied Management and Entrepreneurship, 8(2), 143-161
 タイトルの通り、マズローの欲求階層説を集団主義的文化に適用できるか、という話。ちょっと思うところあって手に取った。正直、世に溢れるマズロー的与太話にはあまり付き合いたくないんだけど(すいません)、ほんとに世に溢れているんだから仕方がない、と思って。
 掲載誌についても著者についてもよくわからない(掲載誌は国内所蔵館なし、もしかすると紀要のようなものかもしれない。著者らは博士課程在籍中)。

 いわく。
 動機づけの理論は内容理論とプロセス理論に大別される。前者は行動をひきおこす要因に注目し、後者は行動が引き起こされるありかたに注目する。前者の代表例が、マズローの欲求階層説、ハーツバーグの二要因理論、マクレランドの三要因理論である。これらの研究はアメリカ生まれ、被験者もアメリカ人である。
 欲求階層説の多文化研究としてすでにHofstede(1983, J.Int.BusinessStud.)がある。Hofstedeの個人主義-集団主義の次元は動機づけの理論と直接に関連している。
 本研究ではマズローの欲求階層説が集団主義文化に適用できるかどうか調べます。

 ... 途中で気が付いたのだが、これ、HofstedeとかSchwartzとかの論文を読んでまとめましたというものであった。タイトルにマズローの名を挙げつつもマズローを一本も引用しておらず、すべて孫引き。あっちゃー...
 というわけで、読んでないけど読了にしてしまおう。えーと、欲求階層説は中国にはあてはまらないんじゃないでしょうか、というようなお話である模様。

読了:Gambrel & Cianci (2003) マズローの欲求階層説は中国人にあてはまるのかどうか、文化差の先行研究を集めて読んで考えてみました

Koltlo-Rivera, M.E. (2006) Rediscovering the later version of Maslow's Hierarchy of Needs: Self-Transcendence and Opportunities for Theory, Research, and Unification. Review of General Psychology, 10(4), 302-307.
 調べ物のついでにざっと読んだ奴。掲載誌については全く知らないのだが、いちおうAPAの出版物でもあるし、そんなに変なものではないはずだ、と思って。(ciniiによれば所蔵館3館...)
 かの有名なマズローの欲求階層説は世間でなにかと誤解されておるので、マズローの晩年の著作に基づいて無知迷妄を正します、という論文である。なお、マズロー理論の実証性とかその批判的評価とか他理論との比較とか改訂とか、そういうのはこの論文の目的じゃないのでよろしくね、とのこと。

 時系列で辿ると、マズロー先生の1943年, 1954年の著作では、よく知られているように欲求階層は5階層だった(生理学的, 安全, 所属と愛, 自尊, 自己実現)。50年代末からマズローはpeak experiencesに関心を持つようになり(美的経験とか神秘的経験とか)、そこに関わる認知的活動を"Being-cognition"と呼んだ。ただし、これと自己実現との関係についてはよくわからんと述べていた。で、いろいろ考えた末 [ここ、逸話的な話が続くので中略]、マズローは階層の最上位に自己超越 self-transcendenceというのを付け加えるようになった。
 なお、自己実現と自己超越は異なるもので、どっちかだけを経験することがありうる。また、自己超越を経験するということと、人生において自己超越の欲求が優越的になるということとはまた別の問題。

 これまでのマズロー理解において自己超越という概念が無視されてきたのはなぜか。マズローがメジャーな著作できちんと説明する前に死んじゃったから、自己超越という概念が当時の心理学にとって受け入れがたいものだったから、そもそもマズローの動機づけ理論自体に問題があったから(それは厳密な意味での階層モデルではない)... といった理由が考えられる由。

 では、自己超越が追加された欲求階層説にはどういういいことがあるのか。

  1. 人生の目的という概念についての研究に貢献する。人生の意味とか目的というのは我々の世界観の一部を構成しているわけだけど、マズローの欲求階層はそれらの概念を組織化する枠組みを提供してくれる。自己超越という階層が追加されたことで枠組みがよりリッチになった。
  2. 利他的行動と社会的進歩とか知恵とかについての動機づけ上の基盤を提供する。社会学者Starkいわく、一神教は社会的進歩や科学の進歩の駆動力となった。これは自己超越に重心を置く動機づけ的立場と関係があるかも... さらにStanbergいうところの知能のバランス理論は自己超越という概念を含んでいて.. [申し訳ないけど関心なくなってきたので中略]
  3. 自爆テロみたいな宗教的暴力を理解するために自己超越という概念が有用。
  4. マズローの階層に自己超越という段階を含めることで、宗教・スピリチュアリティとパーソナリティ心理学・社会心理学との橋渡しができる。
  5. 自己超越は文化を構成する共通要素のひとつだ。伝統的ヒンズー文化とかを見よ。また、個人主義-集団主義という次元は自己実現と自己超越を動機づけ理論に含めることで概念化しやすくなる。

 云々。

 うーん...
 あらゆる理論的枠組みが直接に実証可能であるべきだとは思わない。だけど、2つの理論的枠組みを比べたとき、「こっちのほうが枠組みがリッチだから、きっと現象理解もリッチになるにちがいない」と主張するのは、果たしてアリなのだろうか? 仮にそうならば、理論は際限なくリッチになっていきませんか? どうもよくわからない。
 まあいいや、次にいこう、次に!

読了:Koltlo-Rivera(2006) マズローの欲求階層説の6個目の階層、それは自己超越だ

2017年8月21日 (月)

 たまたま見つけた面白そうな論文。仕事が押している折りも折り、夕方のお茶菓子代わりに読んだ。なにやってんだか。
 キャッチーなタイトルもさることながら("The Heart Trumps the Head", もちろん米大統領の名と掛けている)、基礎心理学分野の最高峰誌にして重厚長大な論文が多いJEP:Generalに、こういうショート・リポートが載るのね、という驚きがある。

Tappin, B.M., van der Leer, L., McKay, R.T. (2017) The heart trumps the head: Desirability bias in political belief revision. Journal of Experimental Psychology: General. Advance online publication.

 いわく。
 信念に新情報を統合するやりかたについて2つの仮説がある。

このふたつの分離はふつう難しい。信念を確証する情報は望ましい情報でもあることが多いからだ。本研究では、政治的信念の更新という文脈で分離を試みます。舞台は2016年米大統領選。自分の支持とは別の問題として、きっとクリントンが勝つだろうと思っていた人が多かった。望ましさバイアスと確証バイアスが分離できる好例である。

 手法。
 事前登録研究です。対象者はAmazon Mechanical Turkで集めた米居住者900名。フィラー課題で一部除外し、結局811名を分析する。
 手順は以下の通り。

  1. スクリーニング質問:
    • a. 誰が勝つのが望ましいか:{トランプ、クリントン、どちらも望ましくない}
    • b. どちらが勝つと思うか:クリントン(0点)-トランプ(100点)の両極スライダーで回答
  2. aで「どちらも望ましくない」と答えた人、bでちょうど真ん中に回答した人は対象者から除外する。通過者は次の通り。<望ましい候補者-勝つであろう候補者>の順に、
    • <トランプ-トランプ>127人
    • <クリントン-クリントン>279人
    • <クリントン-トランプ>91人
    • <トランプ-クリントン>314人
    [おおっと... AMTでリクルートしたら、トランプ支持者のほうがやや多かったわけね...]
  3. フィラー課題。
  4. 証拠提示。全国世論調査の結果を読ませる。{クリントン有利, トランプ有利}の2条件。
  5. またフィラー課題。
  6. 本課題。上記b.を再聴取する。

 というわけで、2(望ましい候補者)x2(勝つであろう候補者)x2(証拠提示)の被験者間8セルができるわけだが、以下では候補者名は潰して2x2デザインとして捉える。つまり、(事前信念と証拠の{一致/不一致}) x (事前信念と望ましさの{一致/不一致})。
 設問b.(1回目, 2回目)の回答を、50点から事前信念方向へのずれとしてスコア化したのち、証拠方向への差を正として1回目と2回目の差をとり、これを信念更新スコアとする。[たとえば1回目の回答が80点, 提示された証拠は「クリントン有利」、2回目の回答が70点だったら、信念更新スコアは+10、ということであろう]

 結果。
 信念更新スコアの平均は以下の通り。

 1回目スコアを共変量にいれたANCOVAだと、望ましさの主効果は有意、確証の主効果もいちおう有意、交互作用も有意で、望ましさバイアスは確証時に高い。
 スコアの分布が歪んでいるので、それを考慮してあれこれ分析すると[すいませんちゃんと読んでません]、望ましさバイアスはロバストだが、確証バイアスはそうでもない由。
 政治的に右の人のほうが望ましさバイアスが強いんじゃないかという仮説があるが、そちらは支持できなかったとかなんとか。[ちゃんと読んでない]

 考察。
 望ましさバイアスはロバスト。確証バイアスは限定的。
 本研究からの示唆:

云々。
 
 なるほどねえ... 興味本位でめくったんだけど、仕事とも案外関係がある話であった。
 予測研究の文脈ではcitizen forecastという言葉があって、たとえば選挙予測で、あなたは誰に投票しますかと聞くより、あなたは誰が勝つと思いますかと聞いたほうが、集計結果の予測性能が良いという話がある。いっぽうこの研究はcitizen forecastにおける強い望ましさバイアスを示していることになる。
 citizen forecastに限らず、未来の事象について集合知による予測を試みる際には、予測対象について強い事前信念を持っている人を外すより、強い願望を持っている人を外したほうがいいのかもしれない。

読了:Tappin, et al.(2017) 確証バイアスと望ましさバイアス、どちらが深刻か?(あるいは:トランプ勝利を予測できなかったのは頭のせいかハートのせいか?)

2016年1月26日 (火)

Camerer, C.F., Ho, T.H., Chong, J.K. (2004) A Cognitive Hierarchy Model of Games. The Quartarly Journal of Economics, 119 (3), 861-898.
 私にはよくわからないが、行動ゲーム理論というのだろうか、そういう分野では有名な論文らしい。しばらく前に読んだScienceのレビュー論文で紹介されていて、興味を惹かれて手に取った。
 正直いって私ごときの歯が立つ代物ではないのだが(掲載誌は経済学のトップジャーナル)、まあ何事も経験だよな、と目を通した次第。いいじゃん、素人が何を読んだってさ。

1. イントロダクション
 たとえば美人投票ゲーム。参加者に0から100までの数字を挙げさせ、回答の平均の2/3に一番近い数字を挙げた人に賞品を与える。参加者にとっての合理的で整合的な選択はゼロだ。なぜなら、均衡理論によれば参加者はこう考えるはずだ:「仮に他のすべての参加者の推測値が100だとして、答えるべき値は67だ。他の参加者もそう考えるだろうから、答えるべき値は45だ。他の参加者もそう考えるだろうから...突き詰めると答えるべき値は0だ」。しかし実験では、回答の平均はたいてい20から35くらい。
 たとえばビジネス参入ゲーム。n 人の参加者に、需要 d の市場に参入するかどうか決めさせる(dはnより小さい)。参入者の人数がd以下だったら参入したほうがよくて、そうでなかったら参入しない方が良い、というようにペイオフを設定する。均衡理論によれば、参入する人数は d に近くなるはずである。実験すると、確かにそういう結果になる。
 このように、均衡理論による予測は当たらない場合もあれば当たる場合もある。この違いはなぜ生まれるのか?
 それではご紹介しましょう、認知階層理論(cognitive hierarchy model)です!

2. ポワソンCHモデル
2.1 決定ルール
 認知階層理論では、ゲームのプレイヤーたちが以下のグループに分かれると想定する。[←話の先取りになるけど、以下でいうステップ数とは「他者の選択について何手先まで読むか」というような概念である。]

...以下続く(ただし、人数はどんどん減っていく)。
つまり、$k$ステップ・プレイヤーが持つ、他者に占める$h$ステップ・プレイヤーの割合についての信念$g_k(h)$は、すべての$h \geq k$について $g_k(h)=0$。人は「俺だけが他の奴らより一手先まで読んでいるぜ」と過信しちゃうものだ、という想定である。

 さらにこう想定する。$k$ステップ・プレイヤーの信念$g_k(h)$は、自分よりステップ数が少ない人におけるステップ数の相対的割合について正確である。つまり、実際の頻度を$f(h)$として、$g_k(h) = f(h) / \sum_{l=0}^{k-1} f(l)$。$k$が増大すると$g_k(h)$と$f(h)$のずれは小さくなる。[←2ステップ・プレイヤーは「2ステップ・プレイヤーはこの俺様だけだ」と考え、3ステップ以上のプレイヤーが存在するとは夢にも思わない。その点で彼は間違っているのだが、0ステップ・プレイヤーと1ステップ・プレイヤーの相対的サイズに限って言えば、彼は実際の分布を知っている。ということであろう]

 プレイヤー $i$ が$m_i$個の戦略を持っているとしよう。$j$番目の戦略を$s_i^j$と書く。彼が$k$ステップ・プレイヤーだとして、彼がその戦略を選ぶ確率を$P_k (s_i^j)$と書く。別のプレイヤー$-i$が持っている戦略が$s_{-i}^{j'}$であるときのペイオフを$\pi_i (s_i^j, s_{-i}^{j'})$と書く。
 戦略$s_i^j$のペイオフの期待値は、彼のステップ数を$k$として下式となる。
 $E_k (\pi_i (s_i^j)) = \sum_{j'=1}^{m_{-i}} \pi_i (s_i^j, s_{-i}^{j'}) \{ \sum_{h=0}^{k-1} g_k(h) \cdot P_h(s_{-i}^{j'})\}$
 [←いやいや、ここで諦めてはならん。さあ深呼吸!
 k=2として考えよう。まず、相手$-i$の選ぶ戦略が$j'=1$である場合について。そのときのペイオフは$\pi_i (s_i^j, s_{-i}^{1})$。では相手が$j'=1$を選ぶ確率は? 相手は確率$g_2(0)$で0ステップ・プレイヤーであり、戦略$j'=1$を選ぶ確率は$P_0(s_{-i}^1)$。相手は確率$g_2(1)$で1ステップ・プレイヤーであり、戦略$j'=1$を選ぶ確率は$P_1(s_{-i}^1)$。あわせて考えると、相手が$j'=1$を選ぶ確率は $g_2(0) \times P_0(s_{-i}^1) + g_2(1) \times P_0(s_{-i}^1)$。
 オーケー、じゃ次は相手の選ぶ戦略が$j'=2$である場合について考えよう... というわけだ。なるほどね、この式で合っている]

 各プレイヤーはどのように戦略を決めるか。以下のように仮定する。
 0ステップ・プレイヤーには戦略的思考がない。彼はある確率分布に従って戦略を選ぶだけだけである。ここでは一様分布に従うとしよう。彼が戦略 $j$ を選ぶ確率は $P_0 (s_i^j) = 1/m_i$である。
 1ステップ以上のプレイヤーは期待値が最大の戦略を選ぶ。すなわち $P_k(s_i^*) = 1$ iff $s_i^* = argmax_{s_i^j} E_k (\pi_i (s_i^j))$。もし期待値最大の戦略が複数あったらランダムに選ぶ。

 こうして、プレイヤーのステップ数の分布$f(0), f(1), \ldots$が与えられれば、順に戦略の選択確率$P_0(s_i^j), P_1(s_i^j), \ldots$を算出できるわけだ。これをCHモデルと呼ぶ。

2.2 $f(k)$の分布
 さて、$f(k)$の分布をどうやって手に入れるか。
 ひとつの方法は、ステップ数の最大値を適当に決めてデータから最尤推定するという方法。著者らはこれまでこの方法を試してきた。だいたい0,1,2ステップまで考えればよいことがわかっている。
 もうひとつは、分布にパラメトリックな仮定を置く方法。ステップ数は作業記憶に制約されるから、大きくなるほど人数が減るとみてよいだろう[←サラッと強気な仮定を置くねえ...]。$f(k)/f(k-1)$が$k$に反比例すると考えると、$f(k)$はポワソン分布 $f(k) = \exp(-\tau) \tau_k / k!$だ。パラメータは$\tau$のみ。この仮定でも$f(0), f(1), \ldots$を自由推定するのと同じくらいの適合が得られることが、これまでの研究でわかっている。これをポワソンCHモデルと呼ぶ。

3. ポワソンCHモデルの理論的特性
3.1 支配-可解ゲーム (dominance-solvable games) [←支配される戦略を逐次削除すると最後に戦略の組が一つだけ残る、という意味らしい]
 ポワソンCHモデルによれば、$f(k-1)/f(k-2) = \tau(k-1)$だ。$\tau$が大きな値であるとは、$k$ステップ・プレイヤーが「ほぼ全ての他者が$k-1$ステップ・プレイヤーだ」と考えることを指す。
 [ここから私には難しかったので、ほぼ全訳]

ポワソン分布の持つこの特性は、思考のステップを被支配戦略の繰り返し削除と結びつけるかんたんなやりかたを提供する。まず、1ステップ思考者は弱被支配戦略を選ばないだろう。なぜなら、0ステップ・タイプのランダム戦略への反応として、これらの反応は決して最良でないからだ。さて、$\tau$が非常に大きいと想定しよう。このとき、2ステップ思考者は、(ほとんど)すべてが1ステップ思考者で、ごく一部が0ステップ施行者であるような相手とプレイしているかのようにふるまう。1ステップ思考者はすでに弱被支配戦略を削除しており、0ステップ思考者はランダムである。こうして、2ステップ思考者は、強被支配戦略をプレイしないだろうし、他の人が弱被支配戦略プレイを削除したあとで弱被支配である戦略もプレイしないだろう。この論理を拡張すると、被支配戦略を好きなだけ繰り返し削除できる。なぜなら、kが$\tau$より十分小さい限り、kステップ思考者はあたかも他の人がすべてk-1ステップ思考者であるかのようにふるまうだろうからである。

[←被支配戦略が逐次削除されて解が決まるという話と、他の人はほぼすべてk-1ステップ・プレイヤーだと思ってしまうという話との論理的関係がつかめないんだけど、これは私の知識不足のせいなので、いずれは理解できる日も来るだろう...]
 さらに次の性質がある[証明がついているけど略]:kステップ・プレイヤーが(純)均衡戦略をプレイするならば、それより高いステップのプレイヤーもそうなる。したがって、$\tau$→ $\inf$ とすると、ポワソンCHモデルによる予測は、弱被支配戦略を繰り返し削除して到達されるナッシュ均衡へと収束する。

3.2 協調ゲーム [CHモデルは複数の均衡を持つゲームにおける均衡選択をうまく説明できる、という話。略]
3.3 市場参入ゲーム [なぜ市場参入ゲームの結果は均衡解に近いのかという説明。略]

4. 推定とモデル比較
 ポワソンCHモデルをいろんなゲームの実験データにあてはめてみよう。
4.1. 美人投票ゲーム。先行研究における24の美人投票ゲームにモデルをあてはめそれぞれの$\tau$を算出する。平均してだいたい1.5くらい。ただし、均衡がどこかとか、教育程度とか、報酬とかでちょっと変わってくる。
4.2. $\tau$はどのくらい一定か。[略]
4.3 どのモデルがもっともよくあてはまるか。あるパネルにいろんなゲームをさせた先行研究データを使う。ポワソンCHモデルはデータによくあてはまる。同じパネルでもゲームごとに$\tau$が動くと考えるともっとよくあてはまる。いっぽうナッシュ均衡は全然あてはまんない。云々。
4.4 ゲームを通じた予測。同一のパネルに複数回ゲームをさせたデータで、一部のゲームをホールドアウトしてポワソンCHモデルをあてはめたとき、同じ$\tau$でホールドアウトをうまく説明できる、という話。
4.5 事例。[略]

5. 理論の経済的価値
 あるプレイヤーの立場になってシミュレーションしてみると、ナッシュ均衡解に従うよりもCHモデルの予測に従ったほうが期待される利得が大きい。云々。

6. 戦略的思考の限界が持つ経済学的含意
6.1 投機
 合理性が共通知識であれば、リスク回避的プレイヤーはヘッジング以外の投機的行動をしないはずだ。これをグルーチョ・マルクスの定理という。[←なぜそう呼ぶのだろう?]
 実際には投機は始終起きる。CHモデルはこれをうまく説明できて...[略]
6.2 マネー・イリュージョン
 インフレの時に収入と価格を調整しそこねること。たとえば、4人一組のゲームで、プレイヤーに1から30までの整数を選ばせる。これが価格。ペイオフは自分の価格と、残り3人の価格の平均の組み合わせで決まる(プレイヤーに30x30のペイオフ表を示す)。「他の人より高い価格を云うと儲かる」というルールの場合と、「他のプレイヤーと一致する価格を云うと儲かる」というルールの場合について調べる。前者では価格は戦略的代替(substitutes)となっており、後者では価格は戦略的補完(complements)となっている。なお、どちらのルールでもナッシュ均衡は11か14になっている。実験データでは、代替の場合のプレイヤーの答えは均衡に近いが、補完の場合には22から23になる。これはポワソンCHモデルでうまく説明できる。[←元のゲームの構造が理解できていないので、残念ながらまるごと理解できない。元のゲームは、どうやら「字面の数字の大きさに引っ張られる」バイアスを示すゲームらしい。面白そうだなあ]

7. 結論
 ワンショットのゲームでは、$\tau$はだいたい1.5くらいと思われる。
 今後の課題: (1)$\tau$を内生変数にする[endogenize. いかにも経済学者っぽい言い方だなあ。普通の言い回しでいえば「$\tau$がどういうときにどういう値になるのかを説明する」であろう]。これは認知制約のもとでもう一手余計に考えることの限界利益の問題であろう。(2)プレイヤーに信念を述べさせる、脳イメージング、情報検索、反応時間、などによる研究。(3)不完全情報ゲームへの拡張。(4)実際の経済行動への適用。
 
 いやー、これは!!超面白かった!!
 どこが面白いといって、規範モデルをちょっとだけ手直しして、すごく説明力のある記述モデルをつくる、というところ。CHモデルのプレイヤーは期待効用を最大化する合理的経済人なのだ。ただちょっぴり頭が悪くて(?)、他人の戦略を読む手数が限られているだけなのである。いやあ、こういうの、痺れるなあ。
 さらに面白いのは、比較的に単純なミクロ・モデルに個人差を取り入れることで、マクロにみると複雑な現象をうまく説明しているところ。大昔にL.Lopesの「プロスペクト理論がなくたってリスク志向性の個人差を考えればリスク下意思決定の複雑な現象がうまく説明できる」という論文を読んでいたく感動したことがあるんだけど(若かったなあ)、あの感銘を思い出した。

 でもそのいっぽうで、読んでてすごく気持ち悪かったところもあって...
 モデルが現実と比べて単純だというのは当然のことなので、細部をあげつらって「この仮定は現実的でない」といっても仕方がないんだけど、著者らはステップ数の限界を認知的な制約(作業記憶による制約)として述べているわけだから、ほかの部分でも、認知的にあまりに不自然な仮定を置くのは宜しくないと思う。この論文を読んでいて一番気持ち悪かったのは、「2ステップ・プレイヤーは2ステップ・プレイヤーが自分しかいないと誤解しているが、0ステップ・プレイヤーと1ステップ・プレイヤーの相対的サイズについてだけは正しく知っている」というところ。なんでそんなふうに、わざわざ認知的基盤が想像しにくい仮定を置くんだろう? あるゲームに参加したとき、他のプレイヤーがどのくらいアホか、僕らはどうやって知ることができるんだろうか。
 むしろ、最初から「ステップ数の共通事前分布があり(正しいとは限らない)、各プレイヤーは自分自身のステップ数をシグナルにしてそれをベイズ更新する」ようなモデルを考えたほうが、ずっとリアルな感じがするし、かえってシンプルに推定できちゃったりしないのかなあと思うんだけど... そんなことないのかなあ。

 もうひとつ、この感想もきっと専門の方には馬鹿にされちゃうだろうと思うんだけど... 作業記憶制約のせいでステップ数に限界が生じるっていうんなら、なんでもっと直接的な証拠を探さないの、先生!とイライラしながら読んでいた。プロトコル分析すればいいじゃん。ゲームの参加者の口元にマイクつけて、ずっと独り言いってもらいながらプレイしてもらえば、個々の参加者が何手先まで読んでる人か分かったりするんじゃない? そこまでいかなくても、せめて反応時間くらい調べようよ! さらにいえば、無関係な数字を暗唱する並行課題かなんかで作業記憶を妨害しながらプレイしてもらったときの選択確率の変化が、CHモデルにおけるステップ数の減少として記述できるとかさ、そういう実験やろうよ先生! と...
 幸いこういう行動実験の話は、論文の最後のところでちらっと触れられていたので、全くやらないってわけでもないんだろう。Camerer, Prelec, & Loewenstein (forthcoming, Scandinavian J. Econ.), Rubinstein(2003, Working Paper), Chong, Camerer, & Ho (in press, incollection), Costas-Gomes & Crawford (2004, Working Paper)というのが挙げられていた。

 というわけで、途中で「キタキタ...」「おおおーっ」などと小声で呟いたりしつつ、しばし楽しいひとときを過ごしたのだけれど、あいにく当面の仕事には役に立ちそうにない。なにやってんだかなあ。

読了:Camerer, Ho, & Chong (2004) ゲームの認知階層モデル

2015年3月27日 (金)

 たまたまtwitterのタイムラインを眺めていたら、心理学の世界で有名な逸話についてのちょっとした記事をみかけて、あれれ、と思った。元記事を書いたRichard Griggsさんという人、80年代に推論研究でブイブイいわせていたあのGriggsである。4枚カード問題の主題内容効果についての論文Griggs&Cox(1982)は、いまでも教科書に引用される記念碑的研究だと思う。すいません、よく覚えてませんけど。
 検索してみたら、Griggsさんはいまは心理学史や心理学教育に関心をお持ちのようで、キティ・ジェノヴィーズさんは最近の教科書でどう教えられているかとか(キティさんは心理学の世界で有数のかわいそうな方である)、スタンフォード監獄実験はどう教えられているか(心理学の世界で有数の怖い話である)、アッシュの同調実験はどう教えられているかとか(心理学の世界で有数の面白い話である)、そういう記事をいっぱい書いておられるらしい。時は流れたなあ。

 このGriggs先生、心理学の世界で有数のかわいそうな赤ちゃんである「アルバート坊や」についても一家言お持ちのご様子である。
 アルバート坊やとはですね、一般教養の心理学だとたぶんGW明けに登場する赤ちゃんである。若くしてアメリカ心理学会会長を務めた天才心理学者ワトソンは、アルバートちゃんに白いネズミをみせ、触ろうとしたときに鉄棒を叩いて大きな音を立てた。おかげでアルバートちゃんはネズミを見るだけで怖がるようになり、のみならずウサギや白いふわふわしたものを見るだけでも怖がるようになったのである。かわいそうなアルバートちゃん。
 この実験の様子を示した有名な写真には、ハンマーを持ったワトソン、泣くアルバート、そして見目麗しき大学院生レイナーが写っている。無垢な乳児に深い心的外傷を負わせた罪の意識に耐えかねた、のかどうか知らないけど、天才ワトソンは弟子レイナーと不倫の恋に落ち、アカデミズムを追われて実業界に転じ、のちに広告代理店J. Walter Thompson (現WPPグループ)の副社長となるのだけれど、それはまた別の話。

 さて、心理学の世界にその名を轟かすアルバート坊やとはいったい誰だったのか。こんなひどい目にあわされて後を引かなかったのか。これはちょっと面白いトピックで、たしか日本の心理学者の本でもこの話題に触れたものがあったと思う(今田寛「学習の心理学」じゃなかったっけ?)。実はワトソンの隠し子だったという与太話を見かけたことがあるけれど、さすがにそれはでたらめだろう。
 私と同じくらいヒマな方ならご存知かもしれないが、実は2009年のAmerican Psychologistに、大学の付属施設に勤めていた女性の息子にして重い障害を抱えた赤ちゃんDouglasこそがアルバート坊やだ、という論文が出て、ちょっと話題になった。ところがGriggs先生はAlbert=Douglas説を否定する立場に立っておられる模様だ。いやー楽しそうだなあ。

Griggs, R. (2015) Psychology’s Lost Boy: Will the Real Little Albert Please Stand Up?, Teaching of Psychology, 42(1), 14-18.
 というわけで、たまたま拾ったPDF。掲載誌はIF 0.5という風情のある雑誌である。
 別に読む必要はないのだけれど、気分転換に...

 まずは歴史のおさらい。アルバート坊やについてのワトソンの手による情報は、(1)論文Watson&Rayner (1920, JEP), (2)ワトソンが公開した映像, (3)そしてWatson & Watson (1921)という一般向け啓蒙記事のなかでの言及、だそうである。論文のなかでアルバート坊やは"Albert B."と呼ばれている(実名かどうかはわからない。当時は個人秘匿の倫理規定がなかった)。母は大学の付属施設に勤務する乳母であり、健常な赤ちゃんで、実験後に養子に出された、とされている。

 さて、アルバート坊やの素性には2つの説がある。
 ひとつはBeck, Levinson, & Irons(2009, Am.Psych.)によるDouglas Merritte説。彼らは残された書簡から赤ちゃんの生年月日の期間を絞り込み、一方で母親容疑者である乳母を3人にまで絞り込む。Ethel Carterさんはアフリカ系だったので釈放。Pearl Bargerさんはその期間に出産したという記録がない。残るArvilla Merritteさんが、ちょうどその期間に子どもを産んでいる。Beckらはその孫のIronsさんを探しあて(この方が第三著者)、赤ちゃんの名前がDouglasであったことを突き止める。
 では、"Albert B."のBはどこから来たか。Beckらの推理は次の通り。ワトソンの母はとても信心深い人で、バプテスト教会の指導者 John Albert Broadusの名を取って息子にJohn Broadus Watsonと名付けた。AlbertときたらBroadus。というわけで、これはワトソンの言葉遊びだろう。
 なお、Douglas Merriteは水頭症で6歳で亡くなっている。映像の分析でも、アルバート坊やには障害があるように見える由。論文には健常な乳児だと書いてあるんだから、倫理的な大問題である。

 このBeck説に対して批判が現れる。Powell(2011, Hist.Psych.) いわく、(1)実験が行われた時期はBeckらの推定より遅いはず。(2)ワトソンはアルバート坊やは養子に出されたと述べているが、Douglasは養子に出されていない。
 Powellらは捜査をやりなおし、Beckらの捜査線上に一旦浮かんで消えたPearl Bargerに再び疑いを向ける。新しく発見した証拠によれば、彼女は1921年にCharles Matinekと結婚。1940年の国勢調査記録によれば、夫婦の長男はWilliam A. Barger。大学側の医療記録に戻って探しなおしたら、この子のミドルネームはAlbertとなっているではないか。まさに"Albert B."。さらに、元論文に示されたアルバート坊やの体重はDouglasの記録とは合わないが、この子の記録とはほぼ一致する。なお、彼らは映像も再分析しており、アルバート坊やに障害があるようには見えないと主張している。
 なお、Albert Bergerさんは2007年に87歳で亡くなっている。実験のせいかどうかはわからないが、ご本人は確かに動物があまりお好きでなかった。自分が心理学の世界で超有名だなんて思いもよらなかっただろうが、もし知らされていたら、親族の方いわく、「きっと興奮してたでしょうね」。

 Powellらのこの新説にはBeckらの反論もあるようだが... Griggs先生いわく、いまんとこPowell側に軍配が上がるね(Albert Bergerさんも養子に出されてはいないから、決定的とはいえないけど)。ともあれ、ワトソンとレイナーに向けられている倫理的疑惑は晴らしてあげたほうがよさそうだね。云々。

読了:Griggs(2015) 「アルバート坊や」追跡

2015年3月18日 (水)

Freitas, A.L., Langsam, K.L., Clark, S., & Moeller, S.J. (2008) Seeing oneself in one's choices: Constual level and self-pertinence of electoral and consumer decisions. Journal of Experimental Social Psychology, 44, 1174-1179.
 先日の講演の準備の際に大慌てで読んだ奴。Trople & Libermanの解釈レベル理論の例示として、小粒でぴりっとした実験論文でページ数が少ない奴はないか(ははは)、と探して見つけたもの。これが良い例であったかどうか、ちょっとわからないんだけど...
 まず解釈レベル理論の説明があって... さて、人は自分がなりたい存在になりたいという抽象的な上位目標を持っており、現実の自己概念と理想の自己概念を整合させようとする。ここに自分の行為があるとして(例, 軍隊に入る)、それが高次レベルで解釈されたときは、その結果(国を守る)だけでなく、自己概念との関連(勇敢にふるまう)について検討される。いっぽう解釈レベルが低いと、行動や決定は手元の課題領域のなかに押し込められ、自己概念と関係しない。というような話であった。
 実験は小さめのが三つ。詳細略。

読了: Freitas, Langsam, Clark, & Moeller (2008): 解釈レベルと自己概念関連処理

2015年1月19日 (月)

Tom, G., Pettersen, P., Lau, T., Burton, T., & Cook, J. (1991) The role of overt head movement in the formation of affect. Basic and Applied Social Psychology, 12(3), 281-289.
 うなずきの動作が選好判断に影響する、という論文。

 身体化認知の初期の実験研究に数えられるが、まだembodied cognitionという概念が流行していなかった頃に発表されているわけで、イントロ部分のロジックが興味深い。

 いわく。一般に、選好判断に先行して対象の認知的方向付け(cognitive orientation)が生じると考えられている(Fishbein&AjzenとかPetty&CacioppoとかBettmanとかを引用)。いっぽうZajoncは、選好が認知処理ぬきで自動的・非認知的に形成される場合があると論じている[←ほんとにnon-cognitiveって書いている。この頃の言葉遣いでは cognitive = conscious だったのかなあ]。たとえばWilson(1979)では、被験者に妨害課題をやらせながら音楽を聴かせた際、被験者は再認できないけど、前に接触したことがある刺激[←音楽のことかな]のほうが選好された。
 cognitive orientationとは感情(affect)の表象である。感情は認知的な要素と運動的(somatic)な要素を持っていて、両方活性化すると強い感情になるといわれている(Schacterとかを引用)。
 さて、反論は首の横振り運動とともに、好ましい思考は縦振り運動とともに学習されると考えられている。首の運動が説得に与える影響を示した実験もある(Wells & Petty, 1980 Basic & Applied Soc.Psych. なんと、80年に...)。本研究では選好に与える影響を調べます。

 。。。そうかー、認知活動の身体性がどうこうというより、単純接触効果みたいな、態度形成の自動的基盤という文脈で出てきた研究だったわけか。論文の末尾でも、本研究は表情研究と同様に態度における運動要素の重要性を示唆した、とあくまで態度研究の文脈でまとめている。なるほど、こうしてみると、この研究までさかのぼって身体化認知研究と呼ぶのは、ちょっとミスリーディングな感じだ。

 実験。ひとつしかやってない。この時代はよかったねえ...
 学生120人。スポーツ中のヘッドホンの使用テストですと教示(はっはっは)。音楽を聴きながら首を{縦に, 横に}振ってもらう。その間、目の前のテーブルの上に質問紙とペンを置いておく。で、質問紙に答えてもらい、回収してから、報酬にペンをあげます、どっちか選んでください、と二本示す。一方はさっきのペン(A)、他方は別のペン(B)。要因は首振りの方向、被験者間操作。
 結果: ペンAを選んだ人は、横の首振り群では59人中15人、縦の首振り群では61人中45人。なお、質問紙で訊いた音楽の評定とかヘッドホンの評定とか気分とかには差なし。

 考察。首の運動が態度を形成したとして、なぜそれがペンじゃなくて音楽やヘッドホンと結びつかなかったのか? ずっと目の前にあったからかも。あるいは、音楽ってのはもともとconditioned stimulusになりにくいのかも[←はっきりとは書いていないけど、やっぱり古典的条件付けの発想で考えているのだろう]。

読了:Tom, Pettersen, Lau, Burton, & Cook (1991) うなずいていると欲しくなる

2015年1月18日 (日)

次の仕事にさっさと移るべきなんだけど、目を通した奴はメモをとっとかないと忘れちゃうので、ダラダラとこんなことをしている...

Marin, A., Reiman, M., & Castano, R. (2013) Metaphors and creativity: Direct, moderating, and mediating effects. Journal of Consumer Psychology, 24(2), 290-297.
 この雑誌の2013年の身体化認知特集号に載ったが、通常の身体化認知実験とはちょっと方向性が違う論文。著者にご恵送いただきました、ありがとうございます。
 消費者の創造性をメタファの提示で高めようという研究。

 背景と仮説。
 まずBarsalouらを挙げて心的シミュレーション説、Lakoff&Johnsonを挙げて概念メタファの話。で創造性の話に移って、Friedman&Forsterを挙げて身体感覚運動で創造性を高めることができると説明。というわけで
  H1. 創造的にポジティブ(ネガティブ)なメタファを含むイメージを提示すると、消費者の創造的出力が増大(減少)する

メタファの理解は類推スキルと関係あるといわれている。つまり類推スキルはモデレータであろう。というわけで
  H2. 消費者の類推スキルが高いとメタファが創造的出力に与える影響は大きくなる

Amabile(1996, 書籍"Creativity in context")の創造性のcomponential理論によると、内発的動機づけが環境-創造性のメディエータになる[←え?モデレータじゃなくて?]。というわけで
  H3. 創造的意図はメタファと創造的出力の間の関係に寄与する

 実験を4つ。いずれもAmazon Mechanical Turkで実験。

 実験1. 289人。MednickらのRATという創造性課題を時間制約つきでやらせる(どんな課題だっけ... 単語を発見するんだっけ... 思い出せない...)。成績で報酬が変わると教示(ホントに変えたのかどうかはわからない)。要因は課題画面のヘッダとフッタの画像:{箱から脳みたいなのが出てきている絵(ポジティブ), 魚の絵(ニュートラル), 絵なし(コントロール)}。いったいポジティブ条件の変な絵はなにかというと、だってほら、英語で"I am thinking outside the box"っていうでしょ、という理屈である。いやぁ、正直、吹き出しちゃいました。
 結果: ポジティブ条件で正解が多い。

 実験2. 209人。課題は実験1とほぼ同じ。要因は{電球がいっぱいついている画像(ポジティブ)、割れた電球の画像(ネガティブ)、魚の絵(ニュートラル)、絵なし(コントロール)}。それぞれ"I just had a light go on", "I am burnt out"のメタファだそうです。今度は画面のヘッダに表示。さらに、課題遂行前に60秒間見てもらう(なんと教示したんだろう...)。
 結果: ネガティブ条件で正解が少ない。ポジティブ条件はちょっと多いみたいだけど、有意差はなかった模様。

 実験3. 160人。実験1とほぼ同じ。違いは、ポジティブ条件の画像を電球に変えたのと、別途WAISをやらせた点(WAISはいつやらせたんだろう...)。
 結果: ポジティブ条件で正解が多い。WAISがモデレータになっている(Hayes, 2009 "Beyond Baron and Kenny"を引用している)。

 実験4. ここでは意図がメディエータになっていることを示したいので、実験を2つにわける。こういう作戦のことをtwo randomized experiment strategyという由 (Stone-Romero & Rasopa, 2011 ORMを引用している)。
 実験4a. 129人。実験2とほぼ同じ。ちがいはRATの時間制約をなくしたところ。要因は{ポジティブ, ネガティブ}。結果: RATにかける時間はポジティブ条件で長い。
 実験4b. 126人。(1)文章を読む、(2)時間制約無しのRAT、(3)創造的意図を測る4項目。要因は文章: {創造性は良いものだね云々(ポジティブ), 創造性は悪いものだね云々(ネガティブ)}。結果: ポジティブ条件で正解が多い。

 
 気になって仕方がないのは、実験参加者が画面の上の訳のわからない絵についてどう思っていたか、という点。web画面に向かってクイズを解かされているとき、画面の上に意味不明な魚の絵や割れた電球の絵があったら、相当びびると思うんだけど... ムードが媒介変数になっていたりしないのかしらん。
 学部生の実習かというような素朴な研究なのだが、ビジネス的には案外に大まじめな話なのではないかと思う。写真を貼っとくだけで創造性が高まるってんなら、たとえ微細な効果量であっても悪い話ではない。謝辞のところにGoogleとWPPの資金援助を受けた旨書かれているのも、ちょっと気になる。

 先行研究概観からメモ:

Meier, Schnall, Schwarz, & Bargh(2012 TrendsCS)は、身体化認知研究を"the fascination of novel and surprising findings has often taken priority over the identification of theoretical boundary conditions and mediators"と批評しているのだそうだ。全くその通りですね。やはりそういう問題意識はあるのか。

読了:Marin, Reimann, Castano (2013) 調査参加者をメタファで創造的にする

2015年1月16日 (金)

Jostmann, N.B., Lakens, D., Schubert, T.W. (2009) Weight as an embodiment of importance. Psychological Science, 20(9), 1169-1174.
 対象者に持たせるクリップボードの重さが対象者の回答に影響する、という身体化認知の実験。著者所属は、Jostmannがアムステルダム大、Lakensがユトレヒト大、Schuberがポルトガルの難しくて読めないどこか。

 ほぼ同じアイデアの実験が、有名な2010年のScience論文の研究1と2になっている。そっちの著者はAckerman(MIT Sloan)、Nocera(Harvard), Bargh(Yale)。不思議に思ってAckermanのほうをよく見たら、注にいわく、Jostmannらとは独立に行っていた由。
 もっとも結果指標のほうはちょっと違っていて、Ackermanらが「この履歴書を書いた人の真剣さ」評価や「自分の評価の正確さ」評価をみているのに対して、この論文では判断の整合性とか評定の極化というあたりをみている。クリップボードが重いと判断の重要性の知覚が促進され、より精緻化した思考となるだろう、という理屈。

 全実験で、被験者は立ってクリップボードを持ち回答する。要因はクリップボードの重さ、被験者間操作。重いクリップボードは約1kg、軽いのは600g強、だそうです。Ackermanでは重いほうは2kgもあったから、こちらのほうが人道的な実験であるといえよう。
 実験1. 学生40名。6種類の通貨の金額についてユーロに換算させる質問(例, 100日本円は何ユーロでしょう?)。0ユーロから20ユーロまでの数直線に印をつけさせる。で、その額をもらったらどのくらい満足かを7件法で訊く(変な質問だなあ)。結果: 重いほうが評定額が高い。満足度は変わらない(つまりユーロを安く感じたわけではない)。
 実験2. カネは実体があるからいけねえや、もっと抽象的な奴でいきましょうぜ。というわけで、学生40名。短いシナリオを読ませる。海外留学のための奨学金の額について学生が意見をいう機会を大学の委員会が拒否したという話。で、委員会が学生の声を聴くのはどのくらい重要でしょうか、と7件法で聴取。結果: クリップボードが重いほうが評定値が高い。
 実験3. 学生48人。大学のある街(アムステルダム)の市長の経歴を読ませ、彼のいろんな属性について7件法回答。で、アムステルダムはどのくらいgreatな街か、どのくらいアムステルダム暮らしをエンジョイしているか、を7件法回答。結果: 市長の項目群と市の二項目をそれぞれ平均し合成指標をつくる。重いクリップボードでのみ、市長への態度が市への態度と相関する。
 実験4. 40名。いま工事中の地下鉄建設の是非についてのいろんな意見を提示して、それぞれに対して賛否を7件法回答。うち3つが強い論点、3つが弱い論点。で、自分の地下鉄への賛否についての確信度を7件法評定、最後に賛否を評定(賛成派とまだ決めてない人が多い)。結果: 強い論点のほうが賛成寄りなんだけど、交互作用があって、クリップボードが重いほうが差が大きくなる。また、クリップボードが重いほうが自分の賛否への確信度が高くなる。

 うううむ。。。市長への評価と市の評価の相関が上がったこと、論点への賛否評定が両極化したことをもって思考の精緻化の証拠とするのは、どうなのかしらん? ちょっと弱いような気がするんだけど。精緻化をもっと直接に示す指標がありそうなものだけどなあ。議論の説得性ではAckermanらのほうに軍配が上がると思う。
 著者らも最後に触れているけど、逆に重要性概念のプライミングが重さの知覚を引き起こす、という知見があれば強いと思う。なるほど、Krishna(2011)の言うとおりだ。

 年末からこの種の論文ばかり読み漁っているので、特にイントロの部分を読むのは飽きてきたのだけど、この論文でちょっと面白かったのは、weightとpotencyに言語的な関係があるというくだりで先行研究としてOsgood, Suci &Tannenbaum(1967)を挙げているところ。ああ懐かしのSD法。なんでもつながっているもんだなあ。

読了:Jostmann, Lakens, & Schubert (2009) クリップボードが重いと... (オランダ編)

2015年1月14日 (水)

Ackerman, J.M., Nocera, C., & Bargh, J.A. (2010) Incidental haptic sensations influence social judgments and decisions. Science. 328(5986), 1712-1715.
 身体化認知の実験としてものすごくよく引用される研究。
 説明としては概念発達におけるscaffoldingと概念メタファを持ち出している。だんだんわかってきたんだけど、「いっけん関係なさそうな身体感覚が思考・態度に効く」型実験研究は、数はあるけど理論のバリエーションが少ない。バックボーンはだいたい次の5派で、引用文献をみるだけで見当がつく。(1)概念メタファ。Lakoffを引用する。(2)概念メタファに加えてscaffolding。Barghを引用する。(3)シミュレーション。BarsalouのPSSの論文を引用する。(4)経験による連合。Cacioppoを引用する。(5)ものすっごい難しい理屈。他の人に「標準的」というラベルを貼って罵倒するのが特徴。Gibson、Thelen、Clarkのうち2人以上を引用してたら走って逃げたほうがよい。

 ええと、まずは"thinking about weighty matters"というようなメタファの実験。
 実験1. 通行人54人に、求職者の履歴書を見せ評価させる。要因は履歴書を挟んだクリップボードの重さ: {340g, 2040g}。結果: クリップボードが重いほうが、求職者がこの職に対して真剣だと評価する。でも職場に溶け込めるかどうか評価には差がない。自分の評価の正確さ評価も高くなる。でもどのくらい真剣に評価しましたか回答には差がない。[←美しい実験だ...]
 実験2. 通行人43人。「社会的行動調査」と称し、いろんな公共的問題に政府の資金をどのくらい投じるべきかを問う。要因はクリップボードの重さ。結果: 男性はクリップボードが重いほうが金を出すが、女性はどちらでも最高額。[←この実験はなにをやりたかったんだかちょっとわからない。単純にポジティブになるわけじゃないってことなんだろうけど]

 お次は、"having a rough day" "coarse language" 実験。
 実験3. 通行人64人に、まずパズルをやってもらう。次に、社会的関係についての文章を読ませ、協同的か、カジュアルか、といった評価を求める。要因: パズルのピースが{すべすべ, ざらざら}。結果: ざらざら条件のほうが協同性の評価が下がる。
 実験4. 被験者42人、まずパズルをやってもらい、次に最後通牒ゲーム。最後に社会的価値志向(SVO)尺度というのに回答。結果: ざらざらのパズルをやったほうが、最後通牒ゲームでより多くのオファーを出すが、個人主義的(opp. 向社会的)だと分類された人も多い。つまり、ざらざらの触感によって状況が非協同的でないと捉えられ、バーゲニングが促進された。

 最後は、"she is my rock" "hard-harted"実験。
 実験5. 通行人49人に、これから手品を見せます、ここに{毛布, 積み木}があります、ほかになにもありませんよね、と触って確かめてもらう。次に上司と部下が出てくる文章を読ませ、部下の性格を評定させる。おしまい(手品は見せない。ヒドイ)。結果: 積み木群のほうが、部下の性格を固いと評定する。
 実験6. 被験者86名。まず実験5みたいな印象形成課題。次に交渉課題: 値札16500ドルの新車を購入すると想像し、ディーラーに値段を提案してください、さらにそれが拒否された場合の次の値段を提案してください。要因は実験中に座っている椅子の硬さ。結果: 固い椅子のほうが部下を安定的、非感情的と評定。交渉課題の言い値には差がなかったが、硬い椅子だとひとつめの値段とふたつめの値段の差が小さくなる。つまり、態度が固くなる。

読了:Ackerman, Nocera, & Bargh (2010) クリップボードが重いと判断も重くなる、椅子が固いと態度も固くなる

Klein, A.M., Becker, E.S., & Rinck, M. (2011) Approach and avoidance tendencies in spider fearful children: The approach-avoidance task. Journal of Child and Family Studies, 20, 224-231.
 approach-avoidance task(AAT)という潜在態度測定手法があるけど、その使用例を読みたくてパラパラめくったやつ。子どもの{クモ, 蝶}の写真に対するAAT。研究の視野には不安障害としての蜘蛛恐怖症の診断があるのだけれど、実際に使っているのは普通の子どもであった(9-12歳)。
 写真が出たらすぐに消せという課題の反応時間に、確かにクモに対する回避が現れているんだけど、試行を反復しているとわりかし早く馴化しちゃうみたいだ。そりゃそうだろう。理論的には単純反応課題のほうが純粋であるのはわかるんだけど、ロバストな測定という観点からは、なにかしらの認知的なカバー課題にしたほうがいいのではなかろうか。。。
 しっかし、手続き上仕方ないとはいえ、クモの写真が画面でがががーっと広がるのを見せられるわけで、子どもらも可哀想にね。

読了:Klein, Becker, Rinck (2011) AATでクモ恐怖を測定

Schwarz, N. (2006) Feeling, fit, and funny effects: A situated cognition perspective. Journal of Marketing Research, 43(1), 20-23,
 ええと、この雑誌のこの号にはAvnet & Higgins, How regulatory fit affects value in consumer choices and opinions という論文が載っていて、読んでないけどアブストラクトによれば、制御適合があるときは(つまり、制御焦点が促進で目標追求方略がポジティブ追求のとき、ないし制御焦点が予防で目標追求方略がネガティブ回避のとき... という意味であろうか)、自分の選択の結果の価値がより良く評価される... というような話らしい。この論文に対するコメント。
 いちおう身体化認知関連の記事なので、義理で読んだんだけど、これがのっけから面白くって...

 冒頭にいわく。マーケティングやっているある同僚に訊かれました。「Fishbein-Ajzenの合理的行動理論ってあったじゃない。ああいうモデルって、いまどこにいっちゃったの? 最近の心理学の人の話って、『こんな小さなことが人の感覚や好みを変えちゃうんですよ、可笑しいですよね』ばっかりじゃない?」[←吹き出してしまった。まさにそのとおり!]

 situated cognitionというメタ理論的観点から見ると、認知は文脈、身体、世界に埋め込まれている。認知の文脈依存性にはなんらかの適応的機能がある。ところがその心的過程は、それが適応的機能を果たすための条件を欠いているような実験手続きの下では、びっくりするような可笑しな効果(funny effect)をもたらしてしまう。心理学者は直感に反するような例示が好きなので、結局、可笑しな心理学的現象が蔓延し、マーケティング分野の人を混乱させてしまう。
 感情(feeling)は人々を状況に適応させる鍵となっている。たとえば、物事がうまくいかなくなると気分はネガティブになり、体系的・ボトムアップ的な処理が促進され、うまくいかない原因の追究と新しい方法の探索につながる。制御焦点は感情と関連してるわけで、Higginsさんの制御焦点と思考の関係の研究はこの延長線上にある。
 制御焦点なり感情なりによる処理方略のちがいには状況に対する適応的価値があるんだけど、頭のいい心理学者は全然関係ない手続きでこの処理を操作しちゃうので、いっけん可笑しな効果が得られるわけだ。筋運動が思考に影響するとか(Friedman & Forster, 2000JPSP, 2002JEP)、文字の色が推論を変えるとか(Soldat et al, 1997Soc.Cog.)。
 [...中略...]
 Avnet&Higginsの研究は、促進焦点のほうが感情が判断に効きやすいこと、そして制御適合があるほうが自分の課題遂行に対する感情がポジティブになることを示した。状況化認知という視点から見ると、感情がポジティブになったのは、方略と課題要求との一致性のメタ認知的評価を反映している。課題要求の知覚は、ここではたまたま制御焦点で変わっているけど、他のいろんな要因によっても変わるものだ。
 Avnet&Higginsは、決定の方法という無関係な要因が選択に影響することを示した。でも、製品について注意深く調べ比較検討した人と、たんに製品評を読んだだけの人を比べたとき、全く同じ情報しか手に入れていないとしても、前者のほうが支払意思額が高くなるのは、別にfunny effectではないのでは?

 というわけで、もとの論文を読んでないのでわからないけど、制御焦点とか目標追求方略といった概念を状況への適応という観点から捉えなおせば、この結果はあたりまえだよね... という前向きなコメントだと思う。

読了:Schwarz (2006) 博士の状況化された認知、または如何にして私はただ面白がるのを止めてそこに適応的価値を見出すようになったか

原稿の都合で読んで、記録してなかった論文を総ざらえ。

Barsalou, L.W. (2008) Grounded Cogntion. Annual Review of Psychology, 59, 617-645.
 認知心理学の巨頭 Barsalou さんがお送りするレビュー。ガチの心理学の話なので敬遠したかったのだが、原稿の都合で無理やり読んだ。18頁に内容が詰め込まれており、レビューというよりレファレンスという感じなので、途中からメモも簡略化。

1. grounded cognitionとはなにか?
認知の標準的理論によれば知識表象はアモーダルである。これに対してgrounded cognition(以下GC)は、いろいろあるけど、アモーダル表象を否定するか、モーダル表象と共働すると考える。また、身体の役割を重視したり、シミュレーションの役割を重視したり(心的イメージを含む)、situated actionや社会的相互作用や環境を重視したりする。こういうのをひっくるめて「身体化認知」と呼ぶのはよくない(身体はgroundのひとつにすぎないから)。
1.1 grounded cognitionの源流: [歴史の話。略] 近年GCは認知革命に挑戦している。論点は(1)アモーダル表象の存在を支持する証拠は弱い。(2)知覚・認知・行為の間のインターフェイスをうまく説明できない。(3)アモーダル表象の神経基盤がわからない。
1.2 grounded cogntionに対するよくある誤解: (1)経験主義・反生得主義だ。(2)ただのイメージ記録システムであってイメージを解釈できない。(3)感覚運動表象だけをつかって知識を表象しようとするから抽象概念を表象できない。(4)シミュレーションで経験を完全に再現できると思っている。以上、全部誤解だ。

2. grounded cognitionの諸理論
2.1. 認知言語学。: [Lakoff&JohnsonとかLangackerとかとかとか。略]
2.2. situated actionの諸理論。: [Andy Clark, Thelen, Brooksなど。ロボティクスとかダイナミック・システムとか。略]
2.3. 認知的シミュレーションの諸理論。: (1)Barsalouの知覚シンボルシステム(PSS)。シンボル機能を維持するが、概念とタイプのかわりにシミュレーションシステムを置く。高次知覚、潜在記憶、作業記憶、などなど様々な認知機能は、マルチモーダルな状態を捉えたりシミュレートしたりするメカニズムの違いとして統一的に説明される。云々。(2)Glenberg, Rubinの記憶理論 [略]。
2.4. 社会的シミュレーションの諸理論。: [ミラーニューロンがどうのこうの。略]

3. 実証的証拠
3.1. 知覚と行為: (1)知覚的推論。過去の知覚経験のシミュレーションに基づき知覚的推論が生じる。(2)知覚-運動協応。[ここ、短いけど、運動流暢性効果などの研究がずらずらっと挙げられている。おおお。あとでチェックしよう] (3)空間の知覚。身体によって構成されている。
3.2. 記憶: (1)潜在記憶。その中心は知覚記憶のシミュレーションである[研究がずらっと。略] (2)顕在記憶。エピソード再生においては過去経験のシミュレーションが、未来の構築においてもシミュレーションがはたらいている。モダリティは単一でも記憶は脳に分散している。などなど。(4)作業記憶。視覚的イメージ、運動イメージ etc. 図形の心的回転にもそれを動かす運動のシミュレーションが関与している [へー]。
3.3. 知識と概念的処理: この分野でシミュレーションの役割を指摘する研究は比較的に新しい。(1)行動的な証拠。(2)脳損傷からの証拠。(3)ニューロイメージングからの証拠。
3.4. 言語理解: (1)状況モデル。(2)知覚的シミュレーション。(3)運動シミュレーション。(4)情緒的シミュレーション。(5)ジェスチャー。
3.5. 思考: (1)物理的推論。(2)抽象的推論。Boroditskyのmoved foward two daysの実験とか。
3.6. 社会的認知: (1)身体化の効果。elderを活性化すると歩くのが遅くなるとか。腕で感情をプライムするとか。Smith&Semin(2004,Adv.Exp.Soc.Psych.)というレビューがある由。(2)社会的ミラーリング。
3.7. 発達: 乳児のミラーリングとか、いろいろ。

4. 理論・実証上の諸問題。これから以下の点が課題になる。

5. 方法論的諸問題
5.1. 計算理論と形式理論。grounded cogntionを示すのはもういいかげんにして、計算理論をつくんなきゃ。
5.2. 説明の原理とレベルの統合: 神経科学との統合。知覚、行為、内省の統合。認知、社会、発達の統合。ロボティクスとの統合。
5.3. 古典的研究パラダイムのgrounding: たとえば、再認記憶とか、プロダクション・システムとか。

読了:Barsalou (2008) Grounded Cogntion レビュー

Chen, M. & Bargh, J.A. (1999) Consequences of automatic evaluation: Immediate behavioral predispositions to approach or avoid the stimulus. Personality and Social Psychology Bulletin, 25(2), 215-224.
 潜在態度測定のひとつにapproach-avoidance test (AAT)っていうのがある。誰も指摘していないから不安になるんだけど、あれって身体化認知そのものだと思うのである。というわけで、AATの元の研究を探しているのだけど、いまいちはっきりしない。たぶんこれだと思うんだけど...

 態度-行動の関係についての研究は山ほどあるが、行動の側は意識的に選択されていると想定してきた点で共通している[←そうなんですか...?]。本研究は非意識的な態度が非意識的な行動に影響すると提案する。
 対象を与えるだけで態度が自動的に活性化されることはすでに指摘されている。puppyをプライムにして形容語へのgood判断を速くする、とか。自動的態度活性化が弱い態度でも生じるかという点については議論があって、私らは意識的関与が低い課題なら弱い態度でも生じると考えておる[略... Barghという人はもともとこういう研究をしていたらしい。へー]。思うに、自動的態度活性化というのは刺激の評価が意識的に処理されていないときの適応的バックアップなのではないか。
 さて、自動的評価が影響するものといえばなんでしょう。そう、接近回避傾向ですよね[←そういわれても...]。昔は態度ってのは行動傾性だといわれたものです[...と、古い話が延々続く。略]。というわけで、自動的態度が接近回避傾向に影響すると考えるのは筋が通ってます。
 先行研究として、腕の運動が刺激への態度に影響するという実験はある(Cacioppo, Priester, & Berntson, 1993JPSP; Forster & Strack, 1996JPSP)。本研究はその逆です。また、大昔にOsgoodの弟子のSolarzという人が、単語が好きかどうかの判断をレバー操作でやると、好き反応は引く操作、嫌い反応は押す操作で速い、と報告している[←へええええ! Solarz(1960JEP)]。本研究はその追試からはじめます。

 実験1. 学生42名。画面にモノの名前を提示し、good/badをレバーでなるべく速く答えさせる。92試行。要因はレバー押しの方向:good-badが{pull-push(一致), push-pull(不一致)}、被験者間操作。結果:不一致のほうが遅い (270msくらい差がある)。態度の強度(刺激を事前に分類してある)との交互作用はない。
 実験2. こんどは評価の側を非意識的にする。学生50名。とにかく単語が出たらバーを倒させる[非単語を入れたりはしてないらしい。ちゃんと読んでくれているんだろうか]。92試行。要因はレバー押しの方向:{pull,push}、被験者内操作(前半と後半で切り替える)。結果: positive刺激はpull, negative刺激はpushで速い。刺激強度との交互作用はない[←図をみるとすごく交互作用がありそうなんだけど、強度が弱い方で一致性の効果が大きいので、強度に媒介されているわけではない]。

 論文を通して、態度と運動の一致性の効果を態度の強度が媒介しているかどうかと云う論点に何度も触れている。この話がどういう意味を持つのかいまいちよく理解できていない。研究上のいきさつがある模様。

読了:Chen & Bargh (1999) あなたの態度は腕に出る

2015年1月 5日 (月)

外川拓、八島明朗 (2014) 解釈レベル理論を用いた消費者行動研究の系譜と課題. 消費者行動研究, 20(2), 65-94.
 消費者行動論の学会で発表を拝聴していると、二、三本に一本くらいの割合で解釈レベルという概念が登場し、これはいったいなんだろうと呆れていた。火元は社会心理、JPSPの論文である(Liberman & Trope, 1998)。
 正直言ってあまり関心が持てなかったのだが(私が院生の頃にもそういう流行概念があったような気がします)、勉強のつもりで日本の研究者による最近のレビューを読んでみたら、これが意外に面白くって... とても勉強になりましたです。

 いくつかメモ:

読了:外川・八島 (2014) 消費者行動論における解釈レベル理論レビュー

2015年1月 4日 (日)

Zhong, C. & Liljenquist, K. (2006) Washing away your sins: Threatend morality and phisical cleansing. Science, 313(5792), 1451-1452.
 手洗いと道徳性の関係を示し、身体化認知研究の例として非常によく引用される論文。引用文献のなかに聖書や「マクベス」がある... はっはっは...

 実験1. 被験者60名。過去の自分の{倫理的/非倫理的}行動を思い出させた後、単語完成課題。たとえばw__hというような刺激を与え、cleansing関連語(wish)を生成する割合を調べる。結果: 非倫理的行動を想起したほうがcleasing関連語を生成しやすい。
 実験2. 被験者27名。物語文章を読ませたのち、製品名(Doveのシャワーソープ, SonyのCDケース, etc.)を提示して望ましさ評定。要因は物語文章: {同僚を助ける/同僚を妨害する}。結果: 非倫理的文章群でcleansing関連製品の望ましさが高くなる。
 実験3. 被験者32名。実験1の想起手続きのあとで、報酬として滅菌タオルか鉛筆かを選ばせる。結果: 非倫理的行動を想起したほうが滅菌タオルを選びやすい。
 と、ここまでは、道徳的純粋性への脅威が物理的cleansingを活性化する(マクベス効果)という話であった。では、物理的cleasingは罪を洗い流すか?
 というわけで、もっとも有名な実験4。被験者45名。実験1の想起手続きの後、滅菌タオルで手を{拭く/拭かない}。で、感情状態についての項目について回答。さらに、いまやばい状態に陥っている院生がいるんだけど、無報酬でボランティアやってあげてくれない? と尋ねる。結果: 非倫理的行動を想起した条件で、手を拭くと道徳的感情が下がり、ボランティアへの協力率も下がる。

 いったいどういう理屈付けをするんだろうか、概念メタファ説を持ち出すのだろうか... と期待していたのだが、心的機序についての説明はなかった。さっすがScience。態度でかいな。

読了:Zhong & Liljenuist (2006) 手洗いで罪を洗い流すことができる

Krishna, A. (2011) An integrative review of sensory marketing: Engaging the senses to affect perceptin, judgment and behavior. Journal of Consumer Psychology, 22(3), 332–351.
 題名通り、sensory marketing関連研究のレビュー。まじめにメモを取りつつ読みはじめたんだけど...

感覚知覚の応用としてのセンサリー・マーケティング
 センサリー・マーケティングとは、消費者の感覚に関与し、その知覚・判断・行動に影響を与えるマーケティングのこと。実務的観点からいえば、製品の概念についての消費者の知覚を形成する意識下のトリガーをつくる手段、また知覚品質を変化させる手段を提供する。研究の観点からいえば、消費者行動に関わる感覚・知覚についての理解を提供する。
 消費者行動研究における感覚の研究を数えた人によれば(Peck&Childers, 2008, Handbook of CP), 81本のうち1/3以上が過去5年以内だった由。量的に言えば成長分野だ。

sensory marketingとはなにか
 感覚の研究は昔からあったんだけど、散発的で体系がなかった。2008年に研究者を集めた会議をやって、sensory marketingという傘ブランドをつくった。
 センサリー・マーケティングの概念図式を示す。まず五感の要素があり、これをまとめてsensationと呼ぶ。sensationはperceptionを形成する。perceptionはcognitionと相互作用し(grounded cogntion), またemotionとも相互作用する(grounded emotion)。以上のシステムが、態度、学習・記憶、行動と相互作用する。[←うむむむ。長期記憶を外側においたシステムのなかでperceptionとcognitionを概念的に区別することが可能だろうか? ちょっと曖昧すぎて途方に暮れる面があるが、そこがいいんでしょうね]

sensationとperception
 sensationは生化学的現象で、perceptionはセンサリー情報についての意識・理解だ。たとえばRとLは違う音だが(sensation)、日本人には区別できない(perception)。
 sensationとperceptionのちがいは、マーケティング分野では視覚バイアスという問題として扱われてきた。レビューとしてKrishna(2006 JCR)がある。

触覚
 触覚は重要だ [...Harlowの猿の話...]。

[...と、こんな感じで、以下「匂い」「聴覚」「味」の順に研究概観が続くのだけど (視覚はほぼ省略されている)、どれもいまちょっと関心がないので斜め読み。メモは省略。]

知覚の認知への影響: grounded cognition
 標準的な認知理論では思考はアモーダルであるが、近年ではgrounded cognitionの支持者が増えてきた。たとえばBarsolou(2008 Ann.Rev.Psych.), Hung & Labroo (2011 JCR), Labroo & Nielsen (2010 JCR), Mazar & Zhong (2009 Psych.Sci.), Williams & Bargh (2008 Sci.)。
 マーケティング研究のなかにも、名乗ってはいないけどgrounded cognitionの理論に基づくものが増えている。たとえばCacioppo, Priester, & Berntson (1993 JPSP), Tavassoli & Fitzsimons (2006 JCR)。
 そもそもgrounded cognitionとはなにか。Barsalouらは正確な定義を提出していない。私の理解では、

 grounded cognition 小史。思い切り遡ればJames-Lange説とか、ダーウィンの感情についての説明とかに行き着く。態度にソマティック表象が含まれるというのはZajonc & Markus (1982)だって云っている。最近復活したのは神経科学のせいだ。
 grounded cognitionのなかでも最近人気がある下位領域が、sensorially-richなメタファだ。例, コーヒーカップの温かさが対人関係の暖かさを促進する (Williams & Bargh, 2008 Sci.)。レビューとしてIsanki & West (2010 APSの会報), Landeau, Meier, & Keefer (2010 Psych.Bull.)をみよ。[←ありがとう先生!Isanki&Westって知らなかった!!]
 この手の研究の厳密さはいろいろだ。たとえばLee & Schwarz (2011, Conf.)は、魚のにおいが疑惑を喚起することを示しているが、同時に疑惑が魚のにおいの同定を促進することも示している。こうやって双方向リンクを示さなきゃね。寒さと孤独の双方向リンクを示した研究もある (Ijzerman & Semin, 2009 Psych.Sci.; Zhong & Leonardelli, 2008 Psych.Sci.)。[←これはWilliams & Barghをディスっているのだろうか...]

今後の研究課題。主な課題を5つ挙げる。
 ひとつめ、感覚の相互作用。

 ふたつめ、感覚的イメージ。例, 匂いは視覚的イメージを促進するが視覚は匂いのイメージを促進しない(Lwin, Morrin, & Krishna, 2010 JCP)。
 みっつめ、感覚負荷。例, 利き手でクランプを握ると心的シミュレーションが阻害され購入意向が変わる。こういう操作は感覚と課題の因果関係を調べるためにも役に立つ。
 よっつめ、grounded emotion. たとえばペンを咥える実験がそうだ。心理学では先行研究があるが[略]、商社行動論の文脈ではない。
 いつつめ、アモーダル情報の感覚への影響。たとえばブランド名が味に影響するというのがそうなんだけど、他の感覚ではまだまだ研究が少ない。ブランド名称と実物の違いというのも興味深い。解釈レベル理論でいえば前者は抽象的になるはず。単に実物に触るだけで所有感が上がるという話もある(Peck & Shu, 2009)。
 そのほか: 知覚や能力の個人差 (need-for-smellとか、need-to-speakとか)。自分の感覚についての認識とか。例, 人は自分の感覚は正しいが他の人のはバイアスを受けていると思っている(Gilbert & Gill, 2000 Psych.Sci.)。感覚喚起の個人差。などなど、課題はいっぱいある。

 ...とかなんとか。列挙的なレビューだが、勉強になりましたです。

読了:Krishna (2011) センサリー・マーケティング・レビュー

Larson, J.S. & Billeter, D.M. (2013) Consumer behavior in "equilibrium": How experiencing physical balance increases compromise choice. Journal of Marketing Research. 50(4), 535-547.
 ネットで買い物するときに、ディスプレイの前で椅子を後ろに倒して二本足でバランスを取ると、バランスのとれたお買い物ができるでしょう、という論文。
 こういうの、身体化認知研究の典型的パラダイムのひとつだ(身体経験Xを与えることでそれと対応する一見無関係な高次認知X'が促進されました、ザッツ・オール。突き詰めて云えばプライミングの事例報告である)。次第に飽きてきたんですけど...

 身体経験と高次認知の関係を説明する手はいくつかあるが、この論文の著者らはLakoff&Johnson流の概念メタファ説を採っている。身体経験的概念(ソース)を活性化すると、対応する抽象概念(ターゲット)が活性化する、という説明である。引用をメモしておくと:

なぜ「身体のバランス」に目を付けたのか、という点については明確な説明がない。だって balancing a checkbook っていうじゃないですか、という程度の説明である。
 この論文のちょっと面白い点は、<概念メタファ説 vs. 身体化シミュレーション説>という対立軸を設定し、実験で前者を支持しようとするところ。身体化シミュレーション説では身体運動感覚が活性化しないとターゲット概念が活性化しないはず、いっぽう概念メタファ説では意味的刺激によるプライミングでもターゲット概念が活性化するはず ... というロジックである。申し訳ないけど、このロジックには納得がいかない。Barsalouのいう知覚シンボルシステムは、感覚情報がないと活性化しないんだっけ? 運動抜きの身体化認知という論点はMargaret Wilsonいうところの身体化認知研究の一般的主張その6であって(Off-line cognition is body based)、シミュレーション説とも矛盾しないのではないか。さらにいえば、概念メタファ説とシミュレーション説が対立するのかどうかもよくわからない。前者は仕組みのなりたちの話、後者は仕組みのオンライン的挙動の話ではないのかしらん? まあ面白いからいいけどさ。
 
 実験は6個。(JMRの実験論文は、こんな風に実験を突っ込みすぎの奴が多くて、読むのが辛い...)
 実験の本課題は、「車が三台あります。加速性能は順に低中高、最大速度は順に高中低、さあどれにします?」というような選択課題。中-中の選択肢(妥協選択)の割合を調べる。
 実験1: 椅子を後ろに倒し2本足でバランスをとりながら回答させると、妥協選択率が高くなった。
 実験2: 任天堂Wii Fitのゲームをやりながら回答。ペンギン・スライド・ゲームとヨーガ・ゲーム(両方とも身体のバランスを取る必要がある)をやってた群は、ジョギング・ゲームをやってた群よりも妥協選択率が高くなった。はははは。
 実験3: 片足で立ちながら回答させると妥協回答率が高くなった。選択理由を口頭で尋ねると、"equal"とか"middle"といった語が多くなっており、これが選択への効果を媒介していた(mplusで分析しておられる...)。いっぽう「片足で立っていると妥協選択が起きる」という仮説を事前に伝えると妥協選択率は下がった。
 実験4: 平行棒を歩いているところを想像させてから回答させると妥協選択率が高くなった。
 実験5: 古典的な意味プライミング実験。単語リストを与えて文を作らせた後、課題に回答。単語リストを操作する。balance群(単語リストにstable, balanced, etc.が含まれる)、imbalance群(unbalanced, wobbly, etc.)、parity群(same, symmetric, etc.)、control群(green, tall, etc.)を比較。どの実験群でも妥協選択率が高くなった。つまり、「バランスの回復」という目標の活性化が効いているわけじゃない。
 実験6: 生活の中で"out of balance"と感じた経験について書かせた後に課題に回答させると、妥協選択率が高くなった。つまり、parityという概念を活性化させるのではなく、balanceをメタファ的に使用させてもやはり効く。

 考察でいわく、全米で800万人の人が慢性のバランス障害を抱え、さらに240万人の人が慢性のめまいを抱えている。この人たちはふだんバランスのことを考えているから、妥協選択肢を選びやすいんじゃないかしらんとのこと。さすがだ、風呂敷はこのくらい広くなくっちゃ。

読了:Larson & Billeter (2013) : 片足立ちでネットショッピング

Ealen, J., Dewitte, S., & Warlop, L. (2013) Situated embodied cognition: Monitoring orientation cues affects product evaluation and choice. Journal of Consumer Psychology, 23(4), 424-433.
 たとえば洗剤のボトルの取り手は、ラベルを正面にして右側についている。たいていの人は右利きで、右利きの人は向かって右側に取っ手がついているほうが使いやすいと感じるからだ(運動流暢性効果)。この効果はなぜ生じるのか、という論文。要するに、運動流暢性効果のモデレータとなる変数を示しましょうという研究である。第一著者の博論である由。

 実験1では、実は運動流暢性効果はとことん右利きの人(rigid right-handers)ではなく、場合によっては左手も使うような中途半端な右利きの人(flexible right-hanbers)のほうで強い、ということを示す。実験2では、中途半端な右利きさんに課題の反応キーを左手で押させると、取っ手が左側についている製品のほうが好きになっちゃう、ということを示す。つまり、運動流暢性効果はそんなに自動的過程ではなく、その場その場での製品使用動作の心的シミュレーションから生じているんじゃないかという話だ。
 この研究の白眉は実験3で、並行して数字列の記名課題をやらせると、中途半端な右利きさんの運動流暢性効果がやはり消失する。つまり、彼らが取っ手が右についているボトルのほうを好むのは、それなりに認知資源を費やして取っ手の向きを監視しているからなのだ。いやあ、これは面白いなあ。
 もっとも著者は自動的過程の存在を否定しているわけではなくて、実験3で出ているちょっと説明しにくい結果 (とことん右利きの人は並行課題条件で逆に運動流暢性効果が出る)について、もしかすると彼らはふだん別の製品特徴(色とか)で選好を形成していて、そのプロセスが阻害されると過去の使用経験が自動的に活性化するのかも... なんてことを云うておられる。このへんはちょっとわかりにくいスペキュレーションだけど、ま、自動的過程も制御的過程も効いている、というのがホントのとこなんでしょうね。

 仕事の都合でバババーッとめくったなかの一本なんだけど、面白い研究であった。マーケティングの文脈でこういう研究している方、日本にはいないのかしらん。

読了:Ealen, Dewitte, & Warlop (2013) 洗剤のボトルの取っ手が右側についているほうが使いやすそうに見えるのはなぜだ

2015年1月 2日 (金)

Aggarwal, P., Zhao, M. (forthcoming) Seeing the big picture: The effect of height on the level of construal. Journal of Marketing Research.
 先に読んだ van Kerckhove et al. と同じく、身体化認知と解釈レベルを合わせた研究。著者らはトロント大。
 van Kerckhoveらは<見上げる/見下ろす動作→対象との距離の知覚→解釈レベル>というメカニズムを想定しているが、こちらは<高さ概念→知覚処理スタイル→解釈レベル>というメカニズムを想定している。

 まず解釈レベルについての説明があって... (解釈レベルの先行研究のひとつにRosch(1975JEP)が挙がっているが、これはさすがに牽強付会ではないのか...そんなことないんですかね...) 本研究では、距離じゃなくて物理的な高さという概念が解釈レベルに影響することを示します。

 で、メタファ的連合について。ここはきちんとメモを取ると:
 抽象的心的概念の多くは物理的感覚経験とメタファ的に結びついている(Lakoff&Johnson)。実証研究: 温度と社会関係(Williams&Bargh, 2008 Sci.), 重さと重要性(Zhang&Li, 2012JCR), 手洗いと罪悪感(Lee&Schwarz, 2010 Sci.)。
 物理的高さも抽象的概念と結びついている。上はポジティブで(Meier & Robinson, 2004 Psych.Sci.), パワフルで(Meier & Dionne, 2009 Soc.Cog.), 道徳的で(Meier, Sellbom, & Wygant, 2007 Personality & Individual Diff.), 能力が高い(Sun, Wang, & Li, 2011 PLoS One)。
 さて、なぜ高さが解釈レベルと結びつくと考えるのか。
 人は発達を通じて、直接的経験に基づく物理的概念に基づき、抽象的で複雑な知識構造を次第に構築していく(scaffolding)。だから物理概念の活性化は抽象的概念を自動的に活性化させるのだ (Bargh, 2006 Euro.J.Soc.Psych.; Williams, Huang, Bargh, 2009 Euro.J.Soc.Psych.)。身体化認知の研究者も、物理経験を想像するだけで態度や行動が変わると云うてはる (Barsalou 2008 Ann.Rev.Psych., Elder & Krishna 2012 JCR)。さて、物理的に高いところに位置すると視野が広くなる。この経験を積み重ねることで、高さと知覚処理(global/local)が連合しませんかね。でもって、知覚処理のglobal/localは、解釈レベルのglobal/localと連合しているといわれているじゃないですか。
 というわけで、
 仮説1. 消費者は、自分が物理的に高い(低い)と感じるとき、高い(低い)解釈レベルを採用し、その解釈レベルに整合した製品選択を行う。
 仮説2. 知覚された高さが消費者選好に与える効果は、その基底にある、global/localな知覚処理による知覚的解釈の違いに媒介されている。

 実験は5つ。疲れるなあ...

実験1
 学生46人。「就職説明会が行われています。そのビルにいってみたら、会場はビルの{上の階, 地下の階}だったので、階段で{上がりました, 降りました}」とイラスト付きで説明。「あなたは2つのポジションに関心を惹かれました。AはBusiness Implementation Manager, プロジェクト管理能力と詳細な指揮が必要。BはBusiness Planning Manager, プロジェクト開発能力と大局的な指揮が必要。会社は同じ、給料とか要件とかも同じ。どっちがいいですか?どっちに応募しますか?」ともに両極11件法で回答。要因は会場が{上のフロア, 下のフロア}、被験者間操作。
 結果: 2問の合成得点を指標にする。上の階のほうがAの得点が高い。(←まじか...)
 この実験だと、上の階のほうが心理的に遠いんじゃないかとか、上の階であることがパワーの感覚と連合してたんじゃないかといった反論が可能である。ここから潰しにかかります。

実験2
 学生64人。椅子に座って机に向かう。街の鳥瞰写真を見せ、好きな数の地域に分けさせる。で、椅子の快適さとか権力感とかの項目に回答。要因は、椅子と机が{高い, 低い} x 窓のブラインドが{開いている, 閉まっている}。被験者間操作。写真で笑ってしまったのだが、低条件の椅子は風呂の椅子なみに低い。なお、窓からは遠くが見える。
 結果: 椅子と机が高いほうが分割数が多くなる。ブラインドの開閉は効かない(つまり遠くがみえることは分割数に効かないし、高さの効果とも交互作用しない)。快適さも権力感も差なし。
 ブラインド開けてても窓の外をみていなかったんじゃないかって? よかろう、潰してやろう。

実験3
 学生107人。教室のスクリーンのスライドショーを双眼鏡でみてもらう。で、解釈レベルの尺度(BIF)に回答。要因はふたつ。(1)双眼鏡を{「遠くのものが近くに見える」ように持つか(near)、逆に「知覚のものが遠くに見える」ように持つか(far)}。(2)スライドショーに含まれているモノの写真(マグカップとか)が{上からみているか(high), 下からみているか(low)}。2x2で4セル、被験者間操作。
 結果: BIFには距離も高さも効く。farのほうが高レベル、highのほうが高レベル。交互作用は有意じゃないけど、farのほうがhigh/lowの差が小さい。先行研究でも異なる次元の影響はsub-additiveだといわれているので、筋が通っている由。

実験4。指標を製品選好にします。さらに、仮説2の検証のために知覚的解釈レベル(global/local)を測る。Navon文字同定課題というのを使う。ええと、たとえばFという小さな字を並べてHという大きな字をつくる。こういう文字を8つ並べて、たとえば「大きなH」をみつけるよう求めると、反応時間はlocal処理のときに遅くなる。ここではこの課題を、解釈レベルの操作ではなく測定のために用いている。へー。
 学生105人。ディスプレイで、モノの写真(マグカップとか)を提示、次に文字同定課題。これを繰り返す。で、製品選好課題:あなたは机を買おうとしています、Aは品質3点で組み立て済み(feasibility寄り), Bは品質4点でいろいろ機能がついてて要組み立て作業(desirability寄り)。値段は同じ。どっちが好きですか? 両極10件法で評定。要因はひとつで、モノの写真が{上からみたもの(high), 下から見たもの(low), なし(control)}。被験者間操作。
 結果: 文字同定課題では、大きな文字の同定時間は条件間の差がないが、小さな文字の同定はhighのみ遅くなる。なお、先行研究でも大きな文字の同定では差が出ていない由(速すぎて天井になってるから)。というわけで、デフォルトの解釈レベルは低く、モノを上から見ると解釈レベルが高くなる。
 選好課題は性差が大きいので(そりゃそうか)、要因x性差のANOVA。highのみdesirability寄りになる。で、媒介効果の分析によれば(やはり Preacher & Hayes (2008, BRM)というのが引用されている)、この効果は文字同定課題で測った解釈レベルに媒介されている。

実験5。駄目押しという感じの実験である。主旨は2点:(1)こんどは高さを概念的にプライミングする。Nelson & Simmons (2009, JMR)によれば、南北という概念は高さ概念と連合しているのだ。(2)選好じゃなくて行動を使う(←と仰っているが、要するに選択課題に切り替えただけである)。手続きの元ネタはMaglio, Trope & Liberman (2013JEP:G)である由。
 学生59人。教示は以下の通り。この実験の最後にくじを引いて頂きます。1/100の確率で50ドルもらえます。賞金を差し上げる際にはDistance 18 FundSourceという会社を通します。これはPayPalみたいな電子取引の会社でして、こちらに口座を作っていただきます。FundSourceの中央銀行は2500km離れたところにあるエチュカという小さい街にあります(←架空の地名)。この北米の地図をご覧下さい、我々はいまココ、エチュカはココです(←ここに操作が入っている)。2つの街をつなぐ線を引いていただけますか? どうもありがとう。
 さて、もしくじが当たったら、50ドルすぐにお渡ししてもいいですし(Smaller Sooner, 略してSS)、3ヶ月後に65ドルお渡しすることもできますよ(Larger Leter, LL)。どっちがいいですか? 選択と選好評定(両極10件法)。
 ところで、エチュカの役所はいま観光振興のスローガンをつくっているところで、案がふたつあるんです。(A) "Come to Echuca! Explore a new world to fulfill your dream!" (desirability寄り)、(B) "Come to Echuca! An easy way to explore a new world!" (feasibility寄り)。それぞれの好意度と魅力度を評定してください。10件法。
 要因はひとつ: 地図上でのエチュカの位置が{真北, 真南}。被験者間操作。
 結果。くじ選択・選好では、真北条件のほうがLLを選びやすい。スローガン評定では、真北条件で案A (desirability寄り)の評価が上がる。というわけで、真北をプライムしただけで、解釈レベルが高くなり、くじではLarger Laterが選ばれるようになり選好はdesirability寄りになる。

考察。理論的考察のほうからひとつメモしておくと:

さらに我々は、grounded-cognitionとscaffoldingにおける近年の知見に新しい例を追加することができた。すなわち、新たな人々の選好と選択に対する効果は、直接的な身体的・物理的経験を必ず必要とするわけではなく、むしろ心的シミュレーションによって達成されうるという知見である。高さとglobal/local知覚処理との間には、scaffoldingを通じて獲得された強い連合が存在する。これに基づき我々は、条件間で実際の高さを変えなくても、高い/低いというただの概念を活性化するだけで、解釈の差をもたらすことができると示唆する。

ああそうか、それで実験5を入れているのか。でも、「身体化認知の実験は直接的な身体的経験の操作がないと駄目だ」と言っている人が、はたしているのだろうか。ちょっと藁人形論法っぽい感じもする。
 この雑誌の論文は最後にManagerial Implicationsを書かないといけないようで、皆さん苦労されているようだが(いつもニヤニヤしながら読んでます、すいません)、この論文では...

 。。。いやー、こんな緩い操作で綺麗な効果が出ちゃってて(特に実験5!)、正直、眉に唾つけたいような気分だ。社会的プライミングの研究って怖い。ご研究にけちをつけるつもりは毛頭ないですけど、マーケティングという観点からいえば、果たして実質的な効果量があるのかどうか、慎重に読まないといけないなあ、という感想である。
 途中に出てくるscaffoldingって、元はヴィゴツキーかしらん。きっとBarghという人の論文を読むとわかるのだろう。読まないけど。
 よく昼飯に行く近所のパスタ屋さんは夜はカウンターバーなので、スツールとカウンターがかなり高いんだけど、あそこで飯食ってても、物の見方が大局的になった気はしないんですけどね。あ、でもあまり値段を気にしないで、好きなセットを頼んじゃってるかも。ははは。

読了:Aggarwal & Zhao (forthcoming) 高さのせいでものの見方が大局的になる

2014年12月27日 (土)

van Kerckhove, A., Geuens, M., Vermeir, I. (in press) The floor is nearer than the sky: How looking up or down affects construal level. Journal of Consumer Research, 41. 2005.
 最近は身体化認知と解釈レベル理論を合わせた研究が散見されるが、そのひとつ。著者らはベルギーの人。第一著者の博論である由。
 上ないし下を見る運動が解釈レベルに効くという話。

 いわく、消費者が対象を見る際、下に見下ろす動きを伴う場合と上に見上げる動きを伴う場合では、対象についての意思決定が異なる。なぜなら、(1)下に見下ろす動きは近距離の刺激、上に見上げる動きは遠距離の刺激と連合している。(2)解釈レベル理論によれば、近距離の刺激は具体的に、遠距離の刺激は抽象的に処理される。(3)消費者の意思決定においては、具体的処理によってフィジビリティ属性(opp.望ましさ属性)が重視されるようになり、かつ選好と決定の整合性が増大する... という、風が吹けば桶屋が儲かる級にアクロバティックな筋立てだ。

 先行研究としてreferされているのをメモっておくと:

 実験は6つ。

実験1. 見上げる/見下ろす動作が対象との距離と連合していることを示す。
 被験者は学生45人。椅子に座らせ目隠しし、「海に釣り舟がいる」云々という話を聞かせる。このとき、頭の後ろのヘッドレストのせいで首の角度が固定されている。で目隠しとヘッドレストを外し、舟までの想像上の距離を答えさせる。要因はヘッドレストの角度: {上向き30度, 下向き30度}。著者は動作(movement)っていってるけど、要は姿勢のことね。被験者間操作。
 結果: 回答の平均は、下向き条件で8.9m, 上向き条件で25.2m。

実験2. 見上げる/見下ろす動作が対象との距離の推定を経由して解釈レベルに効くことを示す。
 被験者は学生56人。まず立たせて、1.7m先正面の壁の目印を30秒注視(図には1.6mって書いてあるけど...)。で、壁までの距離を推定させる。次に、解釈レベルを測るBIFという尺度に回答(Behavioral Identification Form. Vallacher & Wegner, 1989 Personality Processes & Individual Diff. 日本語版もある模様。なんでもあるものねぇ)。要因は壁の目印の位置: {高さ250cm, 80cm}。被験者間操作。
 結果: 見下ろし条件のほうが距離を近めに推定し、解釈レベルが具体的。bootstrapping mediation test によれば(←なんのことだろう? Shrout & Bolger (2002, Psych.Methods), Preacher & Hayes (2004, BRMIC) というのが引用されている)、解釈レベルへの効果は距離推定のバイアスに媒介されている。

実験3. 解釈レベルの指標を変えて再現。今度はカテゴリ化課題を使う。解釈レベル理論によれば、抽象的処理ではカテゴリが広くなるはずである。ついでに、視線角度と頭部角度を別々に操作して、どっちが効くかを調べる。
 被験者は学生128人。椅子に座らせ、まずBIF。次に、スクリーンに20個の製品名を提示(「クッキー」とか)、好きな数のカテゴリに分類させる(どうやって回答させるのかしらん...)。ヘッドレストの角度とスクリーン上の提示位置を操作: 首を{30度上向き,30度下向き}にして顔の正面で提示, ないし首はまっすぐで{上方向に提示,下方向に提示,正面に提示}の5セル。被験者間操作。
 結果: 首が下向きでも視線が下向きでも、BIFは具体的、カテゴリ数は増える。首が上向きでも視線が上向きでも、BIFは抽象的、カテゴリ数は減る。カテゴリ数への効果はBIFに媒介されている。

実験4. 今度はfeasibility-desirabilityトレードオフを指標にする。
 被験者は学生151人。椅子に座らせ目を閉じさせ、ヘッドホンで課題を提示。「あなたはプリンタを買おうとしています。Aは信頼性9点、品質8点。Bは信頼性8点、品質9点。どっちにしますか」100点恒常和法で回答。要因はヘッドレストの角度: {上向き、下向き、まっすぐ}。被験者間操作。
 結果: 首が下向きだとAを好み(feasibility志向)、首が上向きだとBを好む(desirability志向)。

実験5. 今度は選好-決定の整合性を指標にする。解釈レベル理論の文脈でこの結果指標はあまり注目されていない由。さすがに媒介効果を一発で語るのは難しいらしく、実験は2つ。
 実験5A。学生60人。椅子に座らせ、(1)M&Mなどキャンディー5ブランドを好きな順に順位づけ。(2)解釈レベルの操作。低レベル条件では、「歌手」「パスタ」など15項目のリストを示し、identify an example for each of the provided categories. 高レベル条件では、同じリストを示して、provide a category for each item. (←これがなぜ解釈レベルの操作になっているのか、よくわからない... Fujita et al. (2006PsychPsy)を読めばいいらしい) (3)目の高さの棚にキャンディー5ブランドを並べて示し、好きなのを選ばせる。結果: 低レベル条件のほうが、順位づけ課題で1位にした奴を選びやすい。
 実験5B。学生115人。椅子に座らせ、(1)順位づけ。実験5Aと同じ。(2)棚にキャンディー5ブランドを並べ、好きなのを選ばせる。要因は、キャンディーがあるのが棚の{上の段, 下の段}。結果: わずかではあるが(p=.07)、下の段のほうが順位づけで1位にした奴を選びやすい。
 (←実験5Bだけ手続きがちょっと素人っぽい。別の実験と相乗りしているようだし、ここで差が出たので始めた研究ではないかしらん) (←末尾の付録をみたらやはりこれが一番古かった。勘がいいなあ俺。誰も褒めてくれないから自分で褒めよう)

 考察。距離は権力感覚とかムードとかが媒介変数になっているという説明は無理だ。云々。
 あれこれスペキュレートしてるのは省略するけど、Eコマースでのパソコンとモバイル端末の違いに影響してんじゃないかしら、というくだりが面白かった。なるほど、タブレットもスマホも見下ろす感じですもんね。

 ざっとめくっただけだけど、ありがたいことに論述がスマートなので、大筋は見落としていないと思う。実験の結果は綺麗すぎてちょっと怖い感じ。ともあれ、勉強になりましたです。

読了:van Kerckhove, Geuens, & Vermeir (in press) ちゃんと考えて選んでほしいなら下の棚に置け

2014年12月18日 (木)

阿部慶賀(2010) 創造的アイデア生成過程における身体と環境の相互作用. 認知科学, 17(3), 599-610.
 学生に正方形のプラスチック板を与え、新しい利用方法をできるだけたくさん提案させる。実験条件は、板の辺の長さが{12cm, 14cm, 21cm, なし}。さらに要因として手の大きさに注目。結果指標はアイデア数、プラ板の変形の有無、有用性、独創性。
 結果:変形案提案者の割合は14cm群で高く、板なし群で低く、サイズと手の大きさに交互作用があった。などなど[すいません省略します]。というわけで、環境と身体の関係が創造的アイデア作成に効く、という主旨であった。
 ええと、推論に対する身体や行為の影響の先行研究として挙げられているのは

読了:阿部(2010) アイデア生成課題における身体-環境相互作用

Wilson, M. (2002) Six views of embodied cognition. Psychonomic Bulletin & Review, 9(4), 625-636.
 今度の雑誌原稿のために読んだ。あくまで消費者調査について考えるための材料として読んでいるのであります。(そう自分に言い聞かせておかないと、ちょっと気分が悪くなってくる)
 著者いわく、身体化認知(embodied cognition)という概念には異なる6個の主張が含まれている。

主張1. 認知は状況に埋め込まれている(Cognition is situated)。
 situated cognition とは、課題に関連する入出力の文脈で生じている認知、という意味だ。すなわち、ある認知プロセスが実行されているとき、知覚情報の入力がそのプロセスに影響を与え続け、運動能力の遂行が環境に影響を与え続けるとき、それはsituated cognitionだ。
 定義上、あらゆる認知がsituatedなわけではない。たとえば計画とか想起とか白昼夢とかは環境との即時的交互作用からは切り離されており、situatedでない。
 進化の歴史からみて、我々の認知の最基層にあるのがsituated cognitionだ、という主張がある。しかしこの見解は、初期人類の生活における生存関連的な行為の役割を誇張している面がある。初期人類はほとんどのカロリーを狩猟ではなく収集で得ていた。収集を支えるのは記憶とか協調とかだろう。そりゃまあ捕食者から逃げるのは大事だし、それはたしかにsituatedかもしれないが、でもそのためのスキルは非常に古いもので、他の種とも共通している。人間の認知をそういう観点から説明していいものかどうかわからない。また、言語のような道具は人間を特徴づけるものだが、situatedな機能というより現在の環境から切り離された表象を扱っている。
 これに対する反論としては、まずBarsolou(1999, BBSのPSS論文)がある。大先生いわく、言語ってのはもともとはsituatedで即時的で直示的だったんだ、と。でも言語は時空間上で離れたものを指示できるという点ではなっから非situatedなわけで、いや大昔は言語の表象的能力をフル活用してなかったんだよ、なんてのはやっぱりおかしい。Brooks(1999, 書籍)は、非situatedな認知なんてのはずっと後になって出てきたんだ、進化にとっては解決容易な問題なんだとおっしゃっているが、これも妙な話だ。あとになって人間だけが持ちえた能力だからこそ、ラディカルで複雑なイノベーションだといえるんじゃないですかね。
 いま進行しつつある環境との相互作用と密接に結び付いた認知能力というのは確かにあるし(たとえば空間認知)、そこから学ぶべきものは多い。situated cognitionの中心性を野生における生存要求で基礎づけたりしていると、本当のsituated cognitionについての理解が阻害されてしまうよ?

主張2. 認知は時間的制約の下にある(Cognition is time pressured)。
 situated cognitionは"runtume", "real time"という制約を受けている、という主張が多い(Brooks, Pfeifer, van Gelder, Portら)。こういう言い回しは伝統的なAIモデルの弱みを突くために用いられている。時間圧力が重要だという信念はロボティクスでも行動研究でも共有されている。
 時間圧力が注目されるのは、それが表象操作のボトルネックになると考えられているからだ(実際、そもそもsituated cognitionにおいて人は内的表象を使ってんのかという論争さえある。Brooks1991Science, Vera&Simon1993CSをめぐる論争、Beer2000TrendsCS, Markman&Dietrich2000CP)。というわけで、realtime situated actionを認知能力の出発点に位置づける人は多い。
 この手の議論はある想定に基づいている。すなわち、認知主体が表象操作のボトルネックを回避するように作られており、実際に時間圧力の下でもうまく機能しているという想定である。実際には、我々はこのボトルネックを回避できず、往々にして失敗する。また、オフライン的に行動できるときにはオフライン的に行動することが多い。さらに、situated ではあるが時間圧力の下にない活動も多い(クロスワードパズルを見よ)。
 環境との実時間的相互作用を理解することにはもちろん意義がある。たとえば感覚運動協応の研究はこの観点を必要とする。しかし、こうした分野を支配する原理を、人間の認知一般を支配する原理にスケールアップできるとは思えない。

主張3. ひとは認知的作業を環境に肩代わりさせる(We off-load cognitive work onto the environment)。
 ひとがオンライン的課題要求に直面したとき、利用可能な方略が2つある。(1)事前の学習を通じて獲得した、プリロードされた表象に頼る。これは主張6を参照。(2)環境自体を戦略的に用いることで認知負荷を軽減する。つまり、情報をすべて符号化するのではなく、必要な時にアクセスできる形で環境に残しておく(off-loading)。このように環境を変更する行為をKirsh & Maglio(1994CS)はepistemic actionと呼んでいる。たとえばテトリスで、ブロックを心的に回転して解法を求めるのではなく、ブロックが出てきた途端に実際に回してしまう、とか。(たとえばカレンダーに印をつけるような、環境を長期的情報貯蔵として利用する戦略も環境へのoff-loadingなのだけど、これまであまり注目されていないので、ここでは脇に置いておく。)
 off-loadingのこれまでの研究は、世界を「それ自身の最良のモデル」として用いる事例に焦点を当ててきた(たとえばテトリスの例)。しかし考えてみると、紙にベン図を描いてみる、というのも一種のoff-loadingである。それらは目の前の環境にはないなにかについての認知活動である。こういうのをsymbolic off-loadingと呼ぼう。symbolic off-loadingはもはやsituatedではない。

主張4. 環境は認知システムの一部である(The environment is part of the cognitive system)。
 研究者のなかには、認知は精神の活動ではない、精神と身体と環境の相互作用のなかに分散しているのだ、と主張する人もいる。たとえば、Beer(1995AI), Greeno&Moore(1993CS), Thelen&Smith(1994書籍), Wertsch(1998論文集)。
 「認知活動の駆動力は頭のなかだけにあるのではなく、個人と状況とに分散している」というのは正しい。だからといって、「認知の理解のためには状況と認知主体をひとつの統合システムとして捉えて研究しなければならない」というのは怪しい。19世紀、水素の存在と他の化学物質との相互作用についてはよく知られていた。しかしそれらが本当に理解されたのは20世紀になって原子の構造がわかってからだ。
 そもそもシステムとはなんぞや。ここでシステム理論の概念を導入しよう。構成要素が集まっただけではシステムではない。構成要素がそのシステムに参加することでなんらかの影響を受けるような特性を持っているとき、はじめてそれはシステムといえる。では、システムの構成要素に影響を与えるものはすべてシステムの一部か? そうではない。たいていのシステムはオープン・システムだ。それはシステムと相互作用する環境のなかにあるのだ。太陽は生態系の一部じゃないでしょ?
 システムはその組織化、すなわち要素間の機能的関連性によって定義される。その組織化にはfacultativeなものとobligateなものがある。前者は一時的で、特定の場面で組織化されるシステム。後者はある程度まで永続的なシステム。
 さて、精神をシステムと考えるのと、精神と身体と環境中の関連要素をまとめてシステムと考えるのと、どっちが自然で、科学的に生産的だろうか。後者の立場に立つと、そのシステムはfacultativeになり、前者の立場に立てばobgligateになる。後者でなければならないという理由はない。
 精神について研究するだけでなく、精神と状況をあわせて研究するのも良い、というのならわかる。ただし注意点が2つ。(1)この立場に立つのならば、分散された認知という考え方はもう革命的じゃない。(実際、分散システムという主張の中には単に「認知」と呼ぶものの範囲を広げているだけのものもある。ハッチンスの集団行動の研究とか。) (2)長い目で見てそれが良いことかどうかを考える必要がある。科学の目標は特定の出来事の説明ではない、出来事の背後にある原理と規則性の発見だ。分散された認知という見方はシステムがfacultativeになるという問題を抱えている。この問題を乗り越えて理論的洞察にたどり着けるかどうかが問われる。

主張5. 認知は行為のためにある(Cognition is for action)。
 身体化認知アプローチは、認知メカニズムを適応的活動への寄与という観点から捉える。視覚は運動制御を改善するという進化的意義を持っているとか、記憶は三次元環境における知覚・行為を助ける機能として進化したとか。
 伝統的な仮説によれば、視覚システムは知覚世界の内的表象を構築する。背側視覚路と腹側視覚路はそれぞれwhatとwhereの視覚路だ。しかし最近では、腹側視覚路はむしろhowの視覚路だと論じられるようになった。その証拠として、視覚入力が運動をプライムするという知見が多く得られている。記憶もまた環境との相互作用という観点から捉えられるようになってきた。[...このくだり、いろいろ書いてあるけど面倒なので省略]
 では、目的や行為に対して中立的な表象、表象のための表象という考え方は、もう捨て去るべきなのか? まさか。視覚処理の背側ストリームはパターンと対象の同定、いわば知覚のための知覚に関与している。視覚事象のなかには相互作用の機会を提供しないものもあるし(沈む夕日とか)、知覚運動的な相互作用が可能な物理構造ではなくて視覚的な全体性に依存して認知が成立するような対象もあるし(「人の顔」とか「犬」とか「家」とか)、物理的相互作用がほとんどないようなパターン認識の活動もある(読書とか)。知覚的符号化は「行為のための知覚」という観点だけでは説明できない。記憶に目を転じればさらに明白だ。牛乳と豆乳は知覚的性質も行為のアフォーダンスもほぼ同じだが、豆乳は乳製品じゃないぞ。
 認知は行為のためにある、という言葉は究極的には正しい。問題は、認知機構が行為にどのように寄与しているかだ。個別の近くなり概念なりが具体的な行為パターンのためにあるというのは無理がある。むしろ、認知は多くの場合、間接的で洗練された戦略を通じて行為に寄与するのだ、と考えた方がよい。すなわち、外的世界の性質についての情報を将来のために貯蔵しておく(どうやって使うかにはあまりコミットせずに)、という戦略である。部屋にピアノがあったとして、それは座るものだとも飲み物を置く台だと考えられる。しかしあとになってから、そうだみんなの注意を惹くために大きな音を立てるのに使おうとか、侵入者に対するバリケードとしてドアの前に置こうとか、吹雪で停電になったから叩き壊して燃料にしようとか、ピアノという表象からいろんな使い道を引き出すことができる。我々の心的表象は、おそらくかなりの部分まで目的中立的だ。
 
主張6. 環境から切り離されているときの認知も身体に基づく(Off-line cognition is body based)。
 たとえば指で数を数えるとき、指はちょっと動かすだけで役に立つし、なんだったら全然動いてなくても本人の役には立つかもしれない。このように、いっけん抽象的な認知活動も、情報表現や推論のため、感覚運動機能を利用して物理世界のシミュレーションを行っている可能性がある。身体化認知のこういうオフライン的側面は、situated cognitionに比べてあまり注目されてこなかったが[←そうなんですか?]、長年にわたって証拠が静かに蓄積されている。

身体化されたオフライン的認知についての探求は他の分野でも行われている:

結論。[ここ、面白いので全訳]

 私たちは、身体化された認知をひとつの視点として扱うのをやめて、複数の特定的な主張として扱い、それぞれの利点について論じる必要がある。議論をもっと特定的にすることによって、身体化された認知のオンライン的な諸側面とオフライン的な諸側面とを区別できるようになる。
 身体化された認知のオンライン的諸側面は、課題関連的な外的状況に埋め込まれた認知活動の領域であり、時間圧力の下にあるケースや、情報ないし認知的作業を環境に肩代わりさせているケースを含むだろう。そこでは、精神は実世界状況と相互作用している身体の要求にこたえる働きとみなすことができる。これらの領域は伝統的には無視されていたもので、学ぶべき事柄が数多い。しかし、これらの原理をスケールアップさせればすべての認知を説明できる、という主張に対しては警戒しなければならない。
 これに対して、身体化された認知のオフライン的諸側面は、指示対象が時空間において離れていたりすべて想像上のものだったりするような心的課題のために感覚運動資源を利用する、あらゆる認知的活動を含む。たとえばsymbolic off-loadingがこれにあたる。そこでは、そこには存在しないものの心的表象と操作を助けるために外部資源が用いられ、さらに心的シミュレーションという形で感覚運動表象が純粋に内的に利用されている。これらのケースでは、精神が身体を助けて働いているのではなく、むしろ身体(ないしその制御システム)が精神を助けているのである。精神によるこの乗っ取り、そして時空間において離れているものを心的に表象するという能力こそが、人間の知性を原人から引き剥がした暴走機関車(the runaway train)の動力源のひとつだったのではないかと思われる。

 embodied cognitionというのは壮大なテーマなので、この分野の議論は奇妙に衒学的なフレーバーがかかってしまい、風呂敷ばかりが先行して肝心なところが曖昧模糊となってしまうことが多いように思う。しかしこの論文は視野広くして論旨きわめて明晰、さすがはASLや共感覚の研究でその名を知られたMargaret Wilsonである。特に主張1に関する進化心理学的主張への批判、感銘を受けました。
 著者の見解を整理すると、主張1,2,3,5は部分的に支持、主張4は支持しない、主張6は支持、ということになる。しかしいちばんの批判の的になるのは、この見立てそのものではなく、その基盤にある表象主義的認知観ではないかと思う。共通の土俵でまともに議論することさえ困難な、怖い論点だ...

読了:Wilson(2002) 身体化認知という概念を解剖する

2014年12月16日 (火)

 朝、本棚を眺めていてしみじみと思うに、私は私が買った本を読み終えることなく死ぬことになるだろう。本を読むより早いペースで本を買っているんだから、そうなって当然である。
 残り時間は少ないものと考えるべきだ。「いずれ時間ができたら読もう」なんて言い訳はもうおしまいにして、本当に読みたい本から先に読もう。それが仕事かなにかの役に立つか立たないかなんて、もはやどうでもよいではないか。
 というわけで、ながらく本棚に飾ってあった分厚い本に手を付けることにした。いまさら勉強してもしかたがないけど、それを別にしても、純粋な趣味としてでも読んでみたいと思っていた、思い出深い本である。思えば、2000年に出版されたときは高くて手が出せず、経済状態が好転して自分の本棚に置けるようになった頃には、今度は時間がなくなっていたのである。皮肉なものだ。
 A.Tverskyの遺した業績と関連研究からなる論文集。全42章、ほとんどの章は公刊済論文の再録という、聳え立つ山脈のようにヘビーな内容である。全部読み通せるとも思えないのだけれど...

Kahneman, D. & Tversky (1984) Choices, values, frames. Kahneman & Tversky (eds) "Choices, values, frames". Chapter 1. Cambridge University Press.
 American Psychologistの論文の再録。元論文を読んだはずだが、もちろん覚えていないので、手始めにはちょうど良い。

 前半は、リスク下選択における主観価値の話。
 意思決定の精神物理学的分析は18cのベルヌーイに遡る。ベルヌーイはすでに、富の増加に際してのリスク回避傾向を主観価値の凹型関数で説明していた[わかりにくいけど、上に凸な関数ってことね]。800ドルの主観価値は1000ドルの主観価値の8割を超えている、だから確実な800ドルは確率80%での1000ドルよりも主観価値が大きい... という説明である。
 決定の伝統的な分析では決定の帰結を富の全体の観点から考えるが、実際には人は富の変化に注目する。というわけで我々はプロスペクト理論を提案しました(1979)。ポイントは、(1)富の全体ではなく利得と損失を考えること、(2)利得については凹型、損失においては凸型の関数であること、(3)利得のほうで傾きが大きいこと(損失回避)、である。これまでに指摘されてきた、損失におけるリスク志向性もこの理論で説明できる。
 決定の規範的理論の分野ではノイマン-モルゲンシュタインの公理というのがある。たとえば遷移公理とか、代替公理とか[もしAよりBが選好されていたら、「5割の確率でAかC」より「5割の確率でBかC」が選好される]。ただし代替公理は規範理論のなかでも批判が多い。しかし、優越性(dominance)の原理と不変性(invariance)の原理は合理的選択のあらゆる分析の前提となっている。オーケー、ここからは、実際の決定が優越性の原理や不変性の原理を充たしていないことを示しましょう。

 その1、フレーミング。
 わしらの1981年の研究では[...アジア病問題の紹介...]。ごらんのように、記述のしかたによって選好順序が変わってしまう。不変性の原理が満たされていない。
 さらに[... くじ課題の紹介。利得だか損失だかの状況下で不確実選択肢と確実選択肢を示す奴ね ...]。ごらんのように、優越性の原理も満たされていない。
 選択が不変性を充たすようにするための方法は二つある。(1)どんな問題でも同じカノニカルな表現に変換してしまう。でもそんなの無理でしょう? (2)どんな選択肢でもその結果を心理的な結果じゃなくて保険統計的(actuarial)な結果に変換してしまう。これも生命の話でないかぎり難しい。
 
 その2、確率の精神物理学的特性。直感的にいって、主観確率pが0の近辺では、その決定上のウェイト \pi(p) は大きめになり、ほかの範囲では小さめになると思われる。この結果、次の問題ではAの選択率は74%だが:
 「2ステージのゲームです。最初のステージで75%の確率で終了、25%の確率で次に進めます。第2ステージでどちらを選びますか: (A)確実に30ドルもらえる (B)80%の確率で45ドルもらえる」
次の問題では42%になる:
 「どちらを選びますか: (A)25%の確率で30ドルもらえる (B)20%の確率で45ドルもらえる」
これは確率のフレーミング、そしてウェイトの非線形性のせいである。我々はこれを疑似確実性効果と呼んでいる(前者の選択肢Aが確実であるかのように捉えられているから)。
 別の例。「保険料は半額、そのかわり奇数日の地震のみ補償」というような確率的保険は好まれない。この例は次の点で重要である。(1)期待効用理論では説明できない。(2)多くの防止的な行為は確率的保険の形をとっている(泥棒の警報システムとか)。(3)保険の受容可能性をcontingenciesのフレーミングで操作できる。たとえば「病人の半分に効くワクチン」より「ウィルスの半分に効くワクチン」のほうが好まれる。

 視点を変えて、フレーミングをどうコントロールするかを考えよう。アジア病問題では「助かる」や「亡くなる」というワーディングでフレームが形成された。別の研究では、手術と放射線治療との選択が治療の結果を生存率で占めすか死亡率で示すかで変わってくることが示されている。ほかに、「クレジットカード割増」じゃなくて「現金割引」っていうとか。こういうコントロールは現実場面で広く行われている。
 選択肢の評価という文脈だと、人は異なる形式の等価なメッセージを自動的に同一の表象へと変換することができないわけだ。他の文脈なら簡単なのにね[←Clark&Clarkの言語理解の教科書が挙げられている。現在の研究者はこの点についてももっと悲観的でしょうね]。

 後半は取引(transactions and trades)の話。選択肢の属性が複数になる。
 心的会計についての我々の研究はThalerに多くを負っている[リチャード・セイラー、いまじゃ行動経済学のえらい人だ]。次に挙げるのはSavege(1954)やThalerが取り上げた問題。
「あなたは125ドルのジャケットと15ドルの計算機を買おうとしています。計算機の販売員いわく、20分走ったところにある別の支店でこの計算機が10ドルで売ってますよ。さて、その支店に行きますか?」
 フレーミングの仕方が3つある。(1)minimal account: 別の支店に行けば5ドルの利得だ。(2)topical account: 別の支店に行けば計算機が15ドルから10ドルに下がる。(3)comprehensive account: 別の支店に行けば(たとえば)月の支出額が節約できる。
 さてここで、topical accountが、知覚でいうところの「良い形」、認知でいうところの基礎レベルカテゴリのように、決定をフレーミングする役割を果たす。つまり、5ドルの節約はジャケットとは無関係に計算機の価格との関連で捉えられる。その証拠に、この問題では68%が支店に行くと答えるが、価格を入れ替えて計算機の価格を125ドルにすると、5ドルのために支店に行く人は29%になる。
 他の例を挙げると[... 劇場で購入済みのチケットを失くしたことに気が付いた場合と、チケット購入前に金を落としたことに気が付いた場合の比較...]。
 [このくだり、ちょっと面白いので逐語訳]

規範理論において心的会計の効果が占める地位についてははっきりしない(questionable)。公衆衛生問題のようなこれまでの例では、問題のバージョンの間の違いはその形式のみであった。それらとは異なり、計算機問題やチケット問題のバージョンの違いは内容に及んでいる。特に、15ドルの買い物における5ドルの節約はもっと大きな買い物における5ドルの節約より喜ばしいだろうし、[10ドルの]同じチケットを2度買うのは10ドルなくすよりも嫌なものだろう。後悔、フラストレーション、自己満足もまたフレーミングに影響しうる。もしこうした二次的結果を正当なものとみなすならば、ここで観察されている選好は不変性の規準を破っていないことになり、不整合や誤りとして簡単に排除するわけにはいかなくなる。[なるほどね...]
 いっぽう、二次的な結果はよく考えれば変化するかもしれない。15ドルの品物で5ドル節約できたという満足は、200ドルの買い物で10ドル節約するために自分は同じ努力はしないだろうなあと気づけば弱められてしまうかもしれない。
 我々は、一次的結果が同じである2つの決定問題は常に同一のやり方で解決されるべきだと推奨するつもりはない。しかし我々は、異なるフレーミングについての体系的な検討によって有益な内省装置が得られるということ、それを用いて意思決定者は自分の決定の一次的・二次的結果の価値を適切に評価できる、と提案したい。

 次に、Thaler(1980)の「授かり効果」(endowment effect)の話[...略]。一般に損失回避は安定を支持し、後悔・妬みに対する防衛を提供する(他の人の授かりものや過ぎ去った選択肢の魅力は減衰するから)。
 通常の経済交換では、出ていくお金は損失ではなくコスト、入ってくるお金は利得ではなく収入とみなされるから、損失回避や授かり効果は生じにくい。しかし出ていくお金がコストとしても損失としてもフレーミングされうる状況がある。
 例, 「確実に50ドル失うのと25%の確率で200ドル失うのとを選べ」。ギャンブルだとみなすと80%が後者を選ぶが、前者を保険だと捉えると35%に減る[Slovic, Fishhoff, Lichtenstein, 1982 in Hogarth(ed.)]。
 このように、ネガティブな結果は損失ではなくコストだと捉えると主観的状態が改善される。dead lossの現象もこれで説明できる。

 おわりに。
 効用・価値という概念は2つの意味で用いられている: (1)経験された価値, (2)決定における価値。この2つは決定理論では区別されない。理想化された決定者は将来の経験を完璧に予測できるからだ。
 これに対し、ヘドニックな経験と客観状態との精神物理学的関連性についての体系的検討は少ない。参照点はふつう現状維持だが、期待や社会的比較に影響されることもあるので、客観的改善が損失として経験されたりすることさえ起きる。云々。さらに、決定と経験におけるフレーミング効果と不変性の違反が事態をややこしくする。云々。

 私の思い込みかもしれないけど、この頃のTversky-Kahnemanの論文は、同時代の認知科学と比べてもどことなくオールドファッションな雰囲気が漂っていて、ちょっと楽しい。たとえばプロスペクト理論にしても、主観確率の非線形性にしても、「なぜそうなっているのか」は問われず、「心理量と物理量はきっとこういう関係にあるにちがいない」というところからスタートする。著者らが実際に頻繁に使っている言葉だが、精神物理学(psychophysics)と呼ぶにふさわしいアプローチである。そういうところが、なんというか、風雅な味わいがあるなあと思う次第である。おそらく、意思決定の分野には強力な規範理論が先行して存在し、認知プロセスの探求それ自体よりもまずは規範理論との対決のほうに意識が向いていたから、こういうことになるのであろう。

読了:Kahheman & Tversky (1984) 選択、価値、フレーム

2014年12月 8日 (月)

Wilson, A.D. & Golonka, S. (2013) Embodied cognition is not what you think it is. Frontiers in Psychology, 4(58), 1-13.
 無駄に強気な題名だが、要するに、認知科学における身体化認知(embodied cognition)研究の批判的レビュー。

 序文によれば、身体化認知という概念が多義的に用いられているという指摘はすでにあるそうだ。Shapiro(2011, 書籍), Wilson(2002, Psychon.Bull.Rev.)というのが挙げられている。よく見たら、後者はこの論文の著者ではなくてUCSCのMargaret Wilson、以前手話の研究をしていた人だ(こんなことを覚えていても仕方ないのだが)。
 
 著者らいわく。
 認知科学の出発の時点では、知覚情報の貧困が強調されており[マーとアーヴィン・ロックが挙げられている]、認知科学は心的表象とその利用のされかたをその中心課題としてきた[Dietrich&Markman(2003, Mind&Lang.)]。いっぽうギブソンの直接知覚論から身体化認知という概念が生まれた。それを文字通り取れば、概念とか内的能力とか知識とかは、脳と身体と環境に分散する、全然違うタイプの対象と過程(知覚-行為の非線形的・動的システム)にとって換えられることになる。これがShapiroのいう「置換仮説」である。
 身体化認知研究が取り組むべき問いは4つある。

 実際の研究をみてみよう。

 研究例1. ロボット。

みよ、これらの研究はQ1, Q2, Q3に答えている。

 研究例2. 動物。鳥の群れは個体の行動の単純な3つの原理(separation, alignment, cohesion)で説明される、とか。狼の狩りとか。Portiaっていうクモの話とか。[パス。眠い...]

 研究例3a. 野球の外野手はどうやってボールを取るか。標準的な説明は、軌跡を内的にシミュレーションして予測する、というもの。これに対し、身体化認知アプローチはこう答える。

研究例3b. ピアジェのA-not-B エラー。乳児から直接見えない位置Aにモノを隠してみつけさせるのを繰り返した後、目の前でモノを位置Bに隠すと、7ヶ月から12ヶ月ぐらいまでの乳児に限り、なぜかAを探しちゃう、という話。標準的な説明にはいろいろあるけど[それはもう腐るほどあるでしょうね]、おしなべていえば、(注視で調べられるような)コンピテンスと、(探索行動で示される)パフォーマンスを区別する。これに対して、Thelen et al. (2001, BBS)は身体化認知アプローチで説明していて...

 さて、身体化認知の研究の多くはこういう「置換仮説」ではなく「概念化仮説」に属している。すなわち、我々の世界認識は身体に制約されているのだ、という仮説。たとえばLakoff & Johnson のコモン・メタファーがそうだ。概念とその使用が身体に支えられているという話であって、概念を別の過程に置き換えようとはしていない。この路線の研究例を2つ挙げよう:

こういう研究は課題について分析していないし、課題解決時に利用できる資源についても分析していない。課題が認知過程によって内的・表象的に解決されているというのが前提になっており、ただその過程が身体状態によって左右されているだけだ。外野手はボールを捕るために動かなければならないし、赤ちゃんはA-not-B課題のために手を伸ばさなければならない。そこで引き起こされるダイナミクスが行動を構造化するのだ。しかるにエッフェル塔の高さは体を傾けなくても推定できる。この手の研究は身体を課題解決に必要不可欠な資源として捉えていないので、課題解決における身体の役割を説明できないのだ。[なんだかお怒りのご様子です]
 
 身体化認知のこれからの研究領域に言語がある。ここでは言語行動において利用される資源について考えよう。Chemero(2009, 書籍)はBarwise&Perryの状況意味論に基づき... 云々[よくわからんのでパス。語の意味をどう学ぶかと問うのではなく、言語情報の使用と反応をどう学ぶかを問え、とのこと]。Barsolouみたいに心的シミュレーションを考える立場とか、Glenbergの行為-文一致効果とか、Stanfield & Zwaan (2001, Psych.Sci.)の絵-文検証課題とか、ああいうのは課題分析をやってないからみんなダメだ。云々。

 左様でございますか...
 この先生の立場からいうと、身体化認知を名乗るためには、心的表象という概念を葬り去るべく日々努力せねばならんわけである。そう主張するのは勝手だが、embodiedという概念に多くを負わせすぎじゃないか、ちょっと行き過ぎじゃないか、という気がしてならない。別にいいじゃん、表象主義の内側から身体に着目したって。
 話がここまでくると、素人の耳には、昔のヒットチャートのリバイバルのようにも聞こえますね。たとえば野球の外野手の話、表象主義的な説明がそこまで嫌いなら、いっそなにもかもスキナー型条件づけで説明しちゃえばいいんじゃないかしらん。何度も練習していて、ボールが取れないと嫌悪刺激が随伴するんだから。言語の意味ではなく使用を問えという話だって、ただのスローガンでよろしければ、ウィトゲンシュタインの昔から綿々と続いている。いやそういう問題ではない、メカニズムをあきらかにするところが認知科学なんだ、って叱られちゃいそうですが、だとしたら、頑張ってください、としかいいようがない。

読了:Wilson & Golonka (2013) この身体化認知は出来損ないだ。明日ここに来てください、本物の身体化認知を見せてあげますよ

2014年9月 9日 (火)

小川祐樹、山本仁志、宮田加久子 (2014) Twitterにおける意見の多数派認知とパーソナルネットワークの同質性が発言に与える影響: 原子力発電を争点としてTwitter上での沈黙の螺旋理論の検証. 人工知能学会論文誌、29(5), 483-492.
 先日読んだピューリサーチセンターの自主調査が面白かったので、たまたま目に留まったこの論文も読んでみた。第三著者は昨年亡くなった高名な社会心理学者である。

 ええと... 2012年2月末に楽天リサーチのモニターからツイッター利用者を集めて調査。1276人を分析。
 まず調査票で、原発への賛否、自分の意見がtwitterで多数派だと思うか少数派だと思うか、原発問題の主観的重要性、原発についての知識の程度、政治への関心、を聴取。
 で、調査参加者にtwitterのアカウントを訊いておいて、その人ならびにその人がフォローしている人の3月中のツイートを収集し紐づける。うわあ、ネット調査のモニターさんが、twitterのアカウントまで教えてくれるかなあ...? ふつうの市場調査ならかなり厳しそうだ。調査主体の名前が大学であるところが勝因かもしれない。
 ある対象者の原発関連のツイートを抜き出し、オリジナル、メンション、公式RT, 非公式RTに分ける。また、ネットワーク構造の指標として、フォロー数、フォロワー数、クラスタ係数を使用する。さらに、ここからが面白いんだけど、(1)2月の調査票と突き合せると原発への賛否がわかるわけで、全対象者のデータを使い、ツイートから賛否を推定する分類器をランダム・フォレストで組んでしまう。(2)このモデルを使い、ある人がフォローしている人々のそれぞれについて、原発への賛否を推定しちゃう。(3)5人以上フォローしている対象者614人について、その人がフォローしている人がその人と同意見である割合を求める。これを推定同質性と呼ぶ。

 結果。フォロー数・フォロワー数が多いと推定同質性が低い(なるほど)。クラスタ係数が高いと推定同質性も高い(友達と友達が友達な人は友達たちと意見が似ているわけだ)。多数派認知と推定同質性は無相関(なるほど、タイムラインで世の中を判断しちゃうほど能天気ではないってわけか)。
 原発関連ツイート数を従属変数にした回帰モデルを組み、デモグラや知識や主観的重要性や政治関心を投入した上で、多数派認知と推定同質性の効果を調べる。(ちょ、ちょっと待って、原発問題に限らない全ツイート量は調整しなくていいの? このモデルだと、原発関連ツイート数との関連を見ているのか、日頃のツイート頻度との関連を見ているのか、わからないんじゃないかしらん? うーむ...)
 ともあれパラメータをみると、

 考察にいわく:

 というわけで、いろいろ疑問はあるものの、態度調査一発ではなく実行動を押さえているという意味で、先日のピューのリリースより面白い研究であった。勉強になりました。
 思うに、分析対象者のなかでもtwitter上での匿名性の程度にはばらつきがあるはずで、そこんところを測定できていたらさらに面白かっただろう。匿名のまま空気読まずに吠えるのは簡単なわけで、フォロワーとの間でオフラインでの社会的関係がある人ほど「沈黙の螺旋」が効く、というような関係がありそうなものだ。

 先行研究概観のところからメモ: 沈黙の螺旋理論の研究では、従属変数を個人の意見表明意図、独立変数を個人の意見と意見分布の認知とすることが多い由(先日のピューリサーチセンターのリリースもこのパラダイムであった)。すでに研究はいっぱいあり、メタ分析もあり(Glynn, Hayes, Shanahan, 1997 POQ)、沈黙の螺旋が生じている程度を測定する指標なるものさえ提案されているそうな(Sheufele, Shanahan, Llee, 2001 Communicatin Res.)。ひゃー。

読了:小川・山本・宮田 (2014) 原発関連tweetに「沈黙の螺旋」は生じたか

2014年7月 9日 (水)

Cohen-Cole, E., Fletcher, J. (2008) Detecting implausible social network effects in acne, height, and headaches: Longitudinal analysis. BMJ, 337.
 昨日、ふとしたきっかけで「社会的ネットワーク上で幸福が感染する」と主張する論文に目を通し(Fowler & Christakis, 2008)、そ、そうなの?... と思いながら試しにwebを検索してみたら、結構な話題になった研究らしく、日本語での紹介記事がいっぱいあった。その多くは自己啓発系の超くだらないブログ記事であった。幸せになるためには幸せのオーラを出しましょう、とか。ああいう文章を書いている人の頭の中って、どうなってんでしょうね。
 しかし、なかにはまともな紹介もあって、そのひとつであるwiredの翻訳記事によれば、研究の方法論に対しては批判もある由。なんと、同年のBMJに真正面からの批判が載っていた。いやー探してみるものねー。

 いきさつとしては、誰かが「××は社会的に感染する」という研究を世に出すと、他の人が追いかけてって「いや普通に分析すりゃ感染してないよ」と批判する、というのが繰り返されているらしい。「肥満が感染する」(Christakis & Fowler, 2007, NEJM) に対して「いやそれピア効果だから」(Cohen-Cole & Fletcher, 2008, J. Health Econ.)。「薬の処方は感染する」(Coleman, et al., 1966, "Medical Innovation")に対して「いやそれマーケティングの効果だから」(Van den Blute & Lilien, 2001, Am.J.Soc.)。

 著者らいわく。
 健康の研究においてネットワーク効果(ある人の状態が、その人とつながっている他の人の状態に影響すること)を取り出すのは難しい。理由1: homophily (健康な人同士、不健康な人同士はリンクを持ちやすい)。理由2: confounding (同一の準拠集団に属している人はある環境を共有している)。
 これに対する対処法がいくつかある。homophilyに対しては、ランダム割付(大学の新入生の寮の部屋割りをランダム割付した研究があるらしい。頭いいなあ。Sacerdote(2001, Q.J.Econ.))。そしてラグつき変数をいれた統計モデル。confoundingに対しては、共通の環境を表すいろんな変数の統計的統制。
 ところが、統計的な対処ってのはなかなか難しい。ここ、さらっと書いてあるけど大事だと思うのでメモを取っておくと、

実証研究におけるシンプルなやりかたは、データセットにおいて利用可能な情報がなんであれ、それこそが人々が生きている社会環境を記述する情報なのだ、と仮定してしまうことである。特に、それらの変数こそが環境内の交絡因子(confounders)を真のネットワーク効果から区別するために適切な変数なのだ、と仮定するのはよくある話である。問題は、そこで使われているデータセットがこの種の分析のために構築されたものであることはまずないという点である。[データセットに含まれている] 個人特性・集団特性は、ふつうは個人レベルの健康上のアウトカムを評価するために適切なものであって、集団レベルの相互作用を評価するためのものではない。たとえば、肥満に対するネットワーク効果と交絡因子を区別するためには、その社会的ネットワークにとって利用可能なファスト・フード店のパターンとか、学校のカフェテリアのメニューのカロリーといったことを知る必要があるだろう。個人の人種や年収などの変数は、ある種の研究にとっては合理的な代理変数になるかもしれないが、環境は異なるが他の点では似ている2つの集団を区別する助けにはならない。ある学校の隣にファスト・フード店があり他の学校の隣にはないとき、この顕著な情報を含まない回帰の推定は、どんなタイプのものであれ [偽りの]「ネットワーク効果」を示してしまうだろう。

ははは。前半のご批判、ネットワーク効果に限らない話で、耳が痛いですね。

 Christakis&Fowlerの肥満の研究では、人の体重の回帰式にその友人の体重を入れるだけではなく、友人の過去の体重を投入することでhomophilyを分離したと主張しているが、これは怪しい。たとえば、友人関係が自尊心のような諸特性に基づいて形成されているとしよう。で、自尊心が現在の体重と将来の体重に異なる形で影響しているとしよう。この場合、友人の現在の体重を統計的に調整しても、自尊心に基づくhomophilyが将来の体重に及ぼす影響を分離したことにはならない。また、禁煙しようかなと思っている喫煙者は、この人は将来禁煙できそうだなと彼らが思っている人を友達にするのかもしれない。ここで個人の喫煙状態を統計的に統制しても、homophilyを分離したことにはならない。
 confoundingのほうも怪しい。学校の隣にファスト・フード店があるのにそのことを統制していないと、同じ学校に通っている二人は友達であることが多いから、偽りのネットワーク効果が生じてしまう。リンクの向きを調べても解決にはならない。いまAくんがBくんを友達だと考え、しかしBくんがAくんを友達だと思っていなかったら、Aくんには偽りのネットワーク効果が生じBくんには生じないが、どのみち偽りであることにはかわりない。

 実例をお見せしましょう。Add Health (青少年の健康についての全米規模の縦断研究)のデータを使う。どうみても社会的に感染しない変数である、肌のトラブル、頭痛、身長に注目する。3時点分のデータをつくって分析。自分の状態を説明する回帰モデルで、自分と友達の前時点での状態を投入しても、友達の現時点での状態が有意になってしまう。つまり、偽りのネットワーク効果である。性別・年齢・人種などなどを投入してはじめて効果が消える。

 ううむ、なるほどね。
 この批判はネットワーク効果の推定に向けられたものだが、より広く捉えれば、観察研究においてある変数の効果を示すために、「それと交絡している変数をすべて統計的に統制しました」と誰かが主張したとき、その「すべて」ってのはなにを根拠にしているの?... というタイプの批判である。面白味がないので見過ごされがちだが、忘れてはならない視点だと思う。
 正直、耳やら胸やらがかなり痛む。観察集団におけるYの分散が、ほかのいかなる変数のせいでもなくX1のせいだと示すために、X2, X3, ... を片っ端から投入した傾向スコア調整を行った、というような経験は私にもある。受け手の人は「ああそれならX1のせいだ」とわりかし簡単に信じてくださるんですが、この話、ホントはX2, X3, ... の豊かさ次第、選び方次第なのです。

 というわけで、著者らの批判には仰せの通りと同意するしかないし、Christakis&Fowlerの示したネットワーク効果が真水の値かどうかは怪しいところだと思うんだけど、ではこれがChristakis&Fowlerの「幸福の感染」という主張を完全に打ち崩しているかというと、そうとも言いがたい。統制できていない交絡変数があるかもしれないよね、という批判と、いや統制できていると思いますよ、という反論は水掛け論に終わるからだ。そうこうしているうちに、「ハーバード大学の研究によれば、幸せな人に出会うとあなたは以前よりxx% も幸福になる」なあんて、Christakis&Fowlerの示した数値が一人歩きしていくわけで、ポピュラー・サイエンスというのは大変に難しいものだと思う。言うても詮無いことではありますが、いま私が生計を立てているビジネス・データ解析にもそういう面はあって、胸が痛む次第である。

 思うに、勝手に形成され変容するネットワークのノード状態の変化を、その原因を押さえないままにひたすら観察している限り、いくらリッチな縦断データであっても、ネットワーク効果をhomophilyやconfoundingから区別するのは困難なのではないだろうか。
 逆にいえば、ネットワーク自体が変容しないくらいの短期間の勝負で、変化の原因があるノードにしか影響しないと言い切れるような局面なら、縦断データからネットワーク効果を取り出せるのではないかと思う。住民同士の交流がさかんな団地やマンションに研究者が入っていって住民の幸福感を追跡し、誰かが内緒で飼っている室内犬が死ぬのを待つのはどうだろうか。

読了:Cohen-Cole & Fletcher (2008) 幸福が感染するって? その理屈だとニキビも感染することになるけど?

2014年7月 8日 (火)

Fowler, J.H., Christakis, N.A. (2008) Dynamic spread of happiness in a large social network: Longitudinal analysis over 20 years in the Framingham Heart Study. BMJ, 337.
 このたび、Facebookの中の人がやっていた実験が倫理的批判を浴びてニュースになった。好奇心でその論文を眺めていたら、感情感染のフィールド研究をいくつか挙げる中で、フラミンガムでの研究というのに言及していて、正直、目を疑った。それって、現代医学にその名を轟かせるフラミンガム・コホートのことか。マジか。
 マジでした。フラミンガム研究(1940年代から続く大規模地域コホート研究)のデータを用いた社会ネットワーク分析。著者らの名前をよく見たら、この先生方、Petty & Cacioppoのあのカシオポと孤独感の研究してた人たちだ(←芸能人みたいな言い方だなあ。チャゲアンド飛鳥のアスカ、みたいな)。

 フラミンガム子孫コホート(フラミンガム研究の第二世代コホート)の対象者をegoと呼ぶ。手書きの管理シートに、それぞれの家族、近隣住民、同僚、友人などが記載されているそうで、ここに登場した人をalterと呼ぶ(あるegoがほかの人のalterになることもある)。フラミンガム研究全体で、12067名のegoとalterのネットワークを構築できた由。住所はフラミンガム市に限らない。で、1983年から幸福感を聴取しているので、83年から2003年まで追跡できた4739人のegoとそのalterを分析対象とする。幸福感はCES-Dからとってきた4項目で、ここから1因子を得る。
 ネットワークを調べると、幸せ(不幸せ)な人は幸せ(不幸せ)な人とつながっている傾向がある(3次のつながりまで効果がある)。幸せな人は中心性が高い。云々。

 いま、ネットワーク上でつながっている2人の幸福感のあいだに関連性があったとして、その理由は3つ考えられる。(1)induction. 一方の幸せが他方の幸せを引き起こした。(2)homophily. 幸せな奴は幸せな奴とつながりやすい。(3)confounding. つながっている二人は同時に同じことを経験する(景気後退とか)。
 そこで、ある調査時点におけるegoの幸福感を従属変数にしたGEE回帰モデルを組み、そこに本人の前時点での幸福感、alterの同時点での幸福感、デモグラ情報etc. を投入するだけでなく、alterの前時点での幸福感も投入する(homophilyの効果を分離するため)。また、alterのタイプを投入して、友達の方向性に注目する。もしconfoundingだったら、「alterはegoの友達だが逆は真ならず」だった場合とその逆だった場合で差が出ないはずだ、とかなんとか。詳細は付録を読めとのこと。
 その結果: alterが幸せだとegoも幸せである。特にnearby mutual friendが幸せだと最強で、next door neighbourがこれに続く。同僚の幸せは効かない(ははは)。nearby ego-perceived friendが幸せである効果のほうが、nearby alter-perceived friendが幸せである効果よりも大きい(クラスの人気者が幸せだったら、彼ないし彼女を勝手に友達だと思っている教室の隅の目立たない人も幸せになるが、逆はそれほどでもないってことですね)。物理的な距離の効果、時間差のパターン、SESの類似性が効かないところなどをみるに、これは幸せの感染であると考えられる。とかなんとか、いろいろ分析しているけど、面倒なので省略。

 うーん... 著者らはこれを明確に、幸福の社会的感染として捉えているのだが、分析のロジックになにかもやもやした印象が残り、正直、いまいち納得できなかった。付録を含め、丁寧に熟読しなければならない論文だと思う。残念ながら読みませんけど。
 それにしても、フラミンガム・コホートでこういうデータも取っていたとは知らなかった。日本には久山町研究という超有名なコホートがあるけど、社会的ネットワークに関するデータはとっているのかなあ。

読了:Fowler & Christakis (2008) 幸福の感染 in フラミンガム・コホート

2014年6月30日 (月)

Kramer, A.D.I, Guillory, J.E., Hancock, J.T. (2014) Experimental evidence of massive-scale emotional contagion through social networks. PNAS, 111(24), 8788-8790.
 心理学に感情感染(emotional contagion)という話題があるけど、Facebook上のフィールド実験で再現しちゃいました、という研究。第一著者はFacebookの人。この論文、発表直後から大きな話題になっている模様。原文をみたらたった3pしかないので、昼飯のついでに目を通した。

 まず問題設定。感情感染は実験室実験では確立している(Hatfield, Cacioppo, Rapson, 1993, Curr. Dir. Psych. Sci というのを引用している。彼女たちは94年に感情感染についての本を出してたはずだから、その要旨であろうか)。いっぽうフィールドでは、研究はあるんだけど(Fowler, Christackis, 2008, BMJ; Rosenquist, Fowler, Christakis, 2011, Mol. Psychiatry. 前者はなんとフラミンガム研究らしい。まじか)、そもそもなんかの文脈変数で引き起こされたただの相関かもしれないし、単なる他者感情への曝露だけで感染が起きるのか社会的相互作用が大事なのかがわからないし、非言語的手がかりがどのくらい効くのかもわからない。FBでの感情感染の研究もあるんだけど(Proceedingsを2本挙げている)、それらも観察研究だ。

 というわけで実験をやりました。実験期間は2012年1月の一週間。対象者は英語でFacebookを見てる人、約69万人(ははは)。えーっと、Facebookにログインするとニュース・フィードというのがあって、友達の投稿が並んでいるわけだけど、ひとつひとつの投稿がLIWCでいうところのポジティブ語やネガティブ語を含んでいるかどうかを前もってカウントしておく。投稿の22%がネガティブ語、46%がポジティブ語を含んでいた。
 実験条件は次の4つ: (1)ポジティブ非表示群、(2)ポジティブ統制群、(3)ネガティブ非表示群、(4)ネガティブ統制群。非表示群では、ポジティブ投稿なりネガティブ投稿なりをある確率で非表示にしちゃう(確率は10%から90%まで、対象者にランダムに割り振る)。統制群は、対応する非表示群で非表示にしたのと同じ割合の投稿をランダムに非表示にする。うーむ、非表示群で非表示にされる投稿の割合は蓋をあけてみないとわかんないと思うので、たぶん非表示群と統制群を個人ベースでマッチングして制御したのだろう。

 ニュースフィードからポジティブ投稿ないしネガティブ投稿を非表示にしていくと、それにつれて対象者の投稿の総語数も減ってしまった(ポジティブ投稿を非表示にするほうが効き目が大きい)。そこで、対象者ごとに期間中投稿の総語数におけるポジティブ語ないしネガティブ語の割合を出し、これを実験/統制条件を表すダミー変数で説明するWLS回帰モデルを組んだ。ウェイトは非表示にされた投稿の割合。(なぜそんなモデルを組むのかなあ。単に非表示確率を独立変数にしてはいかんのか。線形モデルでオッケーなのか。語数ベースでのネガ語ないしポジ語の割合じゃなくて投稿数ベースでのポジ投稿ないしネガ投稿の割合を使った方がよかないか、投稿の長さが何で決まってんのかわかりゃしないんだから)
 結果: ポジティブ非表示群ではポジティブ語が減りネガティブ語が増え、ネガティブ非表示群ではネガティブ語が減りポジティブ語が増えた。効果量には差がなかった。
 考察: (1)ニュースフィードの投稿は誰に向けたものというわけでもない。つまり感情感染は社会的相互作用ぬきでも起きる。(2)感情感染はテキスト情報だけでも起きる。(3)ある方向の投稿を非表示にしたことで逆向きの投稿が増えているんだから、これはただの模倣ではない。(4)ポジティブ投稿の非表示とネガティブ投稿の非表示の効果量が同じくらいだということは、内容だけの問題じゃないということだ(内容が効くんだったらネガティビティ・バイアスが出るはずだから)。(5)社会的比較か何かにより、他人のポジティブな投稿のせいでネガティブ感情が生じると予想する向きがあるが、結果はその逆だった。(6)効果量はすごく小さいけど (d=0.001くらいしかない!)、FBくらいの大きさの社会的ネットワークだと、公衆衛生に対するインパクトは馬鹿にならない。

 うーん... 勉強になりましたですが...
 実験室実験における感情感染の研究なら、「みんなが笑うとつい自分の口角も上がっちゃう」というような表出レベルでの影響を示すだけで十分に価値がある。そのメカニズムの性質がある程度特定できるし(自動的・非認知的であろうとか)、顔面フィードバック仮説によれば感情表出は感情の主観的経験と切り離せないからだ。しかし、こういう高次な認知課題(投稿)を指標にした研究だと、いったいどういうメカニズムで、対象者のなにが変わっているのか、という点がシビアに問われると思う。
 著者らの意図としては、これは社会的ネットワークを通じた感情感染の実証実験なわけで、最後に公衆衛生との関係に触れているところからみても、ただの投稿行動の変容だとは思っていないのだろう。その観点からいえば、これはいわばメディア強力効果論に一票入れる研究であって、その限りにおいては、著者のいうとおり、たとえ効果量が小さくても社会に対する示唆は大きいかもしれない。
 でも、この研究でいちばん気になるのは、もしかするとユーザは単に空気を読んで同調的に投稿しているだけで、主観的経験としての感情は別に影響を受けてないんじゃないか、という点である。たとえば、ユーザはニュース・フィードがネガティブなムードのときはポジティブな投稿を自重し、ネガティブな投稿で調子を合わせているだけなのかもしれない。かわりにインスタグラムにはものすごいハッピーな写真を載せてたりしてね。はっはっは、嫌な奴だなあ。
 その意味では、どちらの非表示群でも投稿総語数が減っているという知見のほうが、むしろ面白いと思った。投稿数が減ったのか、投稿が短くなったのか。もしかすると、投稿をもっとも促進するムードのバランスというのがあるのかもしれない。もっと面白い従属変数は、ニュース・フィード上のムードに同調させる必要のない行動変数、たとえば友達のwallへの書き込み、ダイレクト・メッセージやチャットの利用、はたまた広告クリックやFB閲覧そのものなのではないかしらん。もしネガティブ非表示群で広告クリック率が上がってたりしたら、これは研究的にもビジネス的にもビッグ・ニュースだ。きっと調べているんだろうなあ。

 ところで、この研究がいま話題になっているのは、内容というよりむしろ倫理的な側面からである。単に論文をさらっと読んだだけだからよくわかんないけど、確かに、うええ、同意取らずにこれやるの、そりゃあナイよ... という印象である。研究の目的よりも、友達の投稿の表示/非表示をその感情価で操作しちゃっているという点が気持ち悪い。しかし、それは結局Facebookの運営上の問題だから、共著者の大学の倫理委員会は通っちゃうだろうとも思う(実際、第三著者が所属するCornell大の委員会をパスしているらしい)。それに、仮にこういう論文を出せないようにしたところで、SNS事業者がひそかにこういう実験をやってサービスを最適化するのを止めるのは難しそうだ。ううむ。
 どうでもいいけど、この論文のエディタは偏見の研究で有名なフィスクさん。取材に対して、いやぁ通しちゃったけどこれって微妙だったかもね、というようなコメントをしていて、おいおい、と笑ってしまった。エディタが後からこういうことを言いだすのって、すごいですね。風通しが良くて良いことだと思うけど、日本的な感覚だと、その言い方は無責任じゃないか、と妙な批判が集まりそうだ。

読了: Kramer, Guillory, Hancock (2014) Facebook上での感情感染

2013年8月24日 (土)

Hekkert, P. (2006) Design aesthetics: Principles of pleasure in design. Psychology Science, 48, 157-172.
 昨年ざっと目を通していたのだけど、都合により再読。著者はインダストリアル・デザインの研究者。みたこともない誌名だが ("Psychological Science"ではない!)、ドイツの学術誌で、紆余曲折あって現在はPsychological test and assessment modelingという誌名になっているらしい。日本にも購読している大学図書館があるようだから、そんなに変な雑誌ではなさそう。

 えーっと、経験には3つの側面がある。著者はそれぞれについていろいろな言い回しで呼んでいるので、目に留まったのを書き出すと、

 この3つは概念上の区別で、現象としては分けられない、とのこと。はっきり書いていないけど、どうやら生起の順序として、aesthetic → meaning → emotion というふうに考えているらしい。してみると、著者のいうaestheticをなんと訳せばいいのか、難しいところだ。日本語で「美学的経験」などと呼んでしまうと、高次なappraisalのことになってしまう。「感覚的な喜び」という感じだろうか。
 でもって、僕はねえaestheticsには進化心理的な基盤があると思うのよ、などという与太話をはさみ(ごめんなさい。でもこういうの、ほんとに与太話にしか聞こえない)、すべての感覚様相を通じてaesthetic experienceを支配する4つの原理、というのを挙げる。いわく、「最小の手段で最大の効果を挙げている」「多様性の中に統一性が見いだされる」「受容可能な中でもっとも進んだものが採用されている」「異なる感覚様相の間で最適なマッチングがなされている」とかなんとか。

 今回もまた、途中から飛ばし読みになってしまった。残念ではあるが、こういう種類の文章を読んでいると、なんと申しますかその... 心情的に耐えがたいのである。「飛行機に乗っていて、離陸後に窓の外を見たら雲の上だった」というのなら大丈夫だけど、「新幹線に乗っていて、ふと窓の外をみたら雲の上だった」ら、それはものすごく怖いだろう。そういう恐怖を感じるのであります。いま読んでいるのが実証的議論なのか、そうでないのかがわからなくて。

読了: Hekkert (2006) デザインにおける美的経験とはなにか

2013年8月18日 (日)

半泣きでひたすら机に向かっている週末だが、飯の合間に目を通した論文。いや、仕事はしてます、ほんとです。

Kross E., Verduyn P., Demiralp E., Park J., Lee D.S., et al. (2013) Facebook Use Predicts Declines in Subjective Well-Being in Young Adults. PLoS ONE 8(8).

 Facebookの使用と主観的幸福度との関係を時系列で調べたという研究。著者らはミシガン大の心理学者。日本のメディアで短く報道されているのをどこかでみかけて(それこそFacebookだったかも)、ひょっとしてこれ、経験サンプリングやってんじゃない? と思って原典を探してみたら、まさにビンゴ!であった。我ながら勘がいいぞ。ちょうど仕事の関係で、経験サンプリングを使った研究にいくつか目を通してみたいと思っていたところだったのである。

 対象者はFacebookユーザでスマフォを持っている人たち。まず事前調査票であれこれ聴取。で、14日間、タイミングを揺らしながら一日五回、スマフォにテキストメッセージを送ってリマインドし、即座に調査票に回答させる。項目は5つ:

順序は最初が(1)、次に(2)(3)をランダム順で、最後に(4)(5)をランダム順で。回答は100点満点のスライダー。最後に、事後調査票でいろいろ聴取。ふむふむ。
 対象者はチラシで募集、平均20歳。インセンティブは$20、さらに抽選でiPad2をプレゼント。82人でスタートして3人脱落、完遂者のリマインダに対する反応率は全体で83%、うち反応率33%以下の対象者を2人除外して分析、だそうだ。経験サンプリングの実証論文を読むのははじめてなので、この反応率がどの程度の水準なのかわからないが、なかなかたいした実査チームだという気がする。

 お待ちかねの分析方法。基本的に、ある対象者の時点t_2における情緒的幸福(項目1)を、時点t_1からt_2のあいだのFB使用(項目5)で予測する階層回帰モデルである(betweenレベルでは人を単位に、withinレベルでは人x時点を単位にモデリングする)。withinモデルはランダム切片・ランダム係数。時点t_1における情緒的幸福を投入してコントロールするが、日をまたぐ投入は避ける。情緒的幸福は寝るとリセットされるという発想であろう。
 こんなモデルを組んじゃうと、無回答の時点があるぶん話がややこしくなるだろう、いったいどうするつもりだ、と勝手にハラハラしていたのだが、そこはあっさりしたもので、無視して詰めて分析してしまっている。そっか、まあ別にいいのか。

 結果は... 時点t_2における情緒的幸福は、時点t_1からt_2のあいだにfacebookを使用しているときに低くなる。逆のモデル(「情緒的幸福がfacebook使用に影響する」)だと有意にはならない。facebook使用を直接的対人接触(項目5)に差し替えると、逆向きに有意になる(他人と直接に会うと情緒的幸福が向上する)。いやあ、狙った結果が出てよかったですね。

 そのほか、まあツケタリではあろうが、いろいろ分析している。

 というわけで、楽しい論文であった。facebook使用の心理的効果を調べようとする際に、従属変数をムードや自尊心といった純粋に心理学的な指標にしないで(普通そうするわね)、「情緒的幸福」というなにやら社会厚生的な感じの変数として位置づけているところが面白い。ちょっと大向こうを狙いすぎというか、評価が分かれるところかもしれないけど、私は好きです、こういうの。
 これ、きっとfacebookの普段利用頻度や情緒的関与がモデレータになるだろうと思ったのだが、事前・事後の調査票でfacebook利用の理由とか友達の数とかを聞いているのに本文中に報告がないから、きっと効いていなかったのだろう。

 正直言って、facebook使用がユーザの幸福度と関係しようがしまいが、そんなことはどうでも良いことだと思うのである。案外、facebookの表示アルゴリズムがちょっと変わっただけで、結果は変わってしまうのかもしれない。それに、もしfacebook自体の研究に価値があるというのなら、じゃあ次はtwitterでやりますか、instagramでやりますか、mixiはどうよ、という話になりかねない。不毛だ。
 そんなことより、SNSの使用が幸福度の低下につながることがあるとして、それはいったいどういうメカニズムによるのか、という問いのほうがはるかに大事だ。著者らも触れているように、社会的比較と関係があるのだろう。きっとこれからそういう研究が量産されるんだろうな。モデルなんかできちゃったりして。教科書に載っちゃったりして。あー、やだやだ。してみると、やはり草創期のほうが面白いですね。

読了:Kross et al. (2013) Facebookにアクセスした後は幸福感が低くなる

2013年7月29日 (月)

Hsee, C.K., Yang, Y., Li, N., Shen, L. (2009) Wealth, warmth, and well-being: Whether happiness is relative or absolute depends on whether it is about money, acquisition, or consumption. Journal of Marketing Research, 46(3), 396-409.
 人の幸せは、絶対的に決まるものでありましょうや、それとも他人との比較を通じて相対的に決まるものでありましょうや? それは幸せの種類によるのです。お金を手に入れた幸せやモノを手に入れた幸せは、他人との比較で決まるもの。いっぽう消費することの幸せは、他人との比較で決まったり絶対的に決まったりするのです。という研究。この雑誌に載っているのには、ちょっぴり違和感があるんだけど...

 実験は4つ。
 実験1はこんな感じ。被験者は中国の学生さん。2群に分ける(poor群とrich群)。各群のメンバーにランダムにミルク飲料のクーポンを渡す。クーポンの額面のポイント数だけミルクを増量してもらえる(どうやらこの飲み物、そのままではまずく、ミルクを入れれば入れるほどおいしくなるらしい)。額面は、poor群は1ポイントか2ポイント、rich群は5ポイントか10ポイント。群内では他人のクーポンの額面も見ることができる。
 クーポンを受け取った直後に幸福度を18件尺度で評定。で、実際に飲んでもらって、また幸福度を評定。要するに、2x2=4セルの被験者間デザインで、評定を2回求めるだけ。拍子抜けするくらい簡単な実験だ。著者らの意図としては、一回目の評定が金銭上の幸福度、二回目の評定が消費経験上の幸福度である。
 結果は... 2x2のANOVAで、一回目の評定には群の主効果なし、額面の主効果あり。二回目の評定には両方の主効果あり。poor群のrichメンバー(2ポイント)とrich群のpoorメンバー(5ポイント)を比べると、一回目の評定では前者が高く(群内で勝ち組だから)、二回目の評定では後者が高い(ミルクが多いから)。つまり、金銭上の幸福は相対的だが、消費経験上の幸福は絶対的である、とのこと。

 実験2は、実験1と同じデザインで、クーポンでなく飲み物をいきなり渡す。一回目の評定は飲む前、二回目の評定は飲んだ後。著者らの意図としては、一回目の評定は獲得経験上の幸福度である。結果は実験1と同様。つまり、獲得による幸福もまた相対的である。

 で、著者らいわく、消費経験のなかにも、生得的な基盤に基づいて評価可能な変数と、そうでない変数があるだろう。どちらにしたって社会的比較や外的参照枠の影響を受けるだろうけど、たとえば暑いの寒いのってのは生得的な基盤があるが、ダイヤモンドが大きいの小さいのってのにはそんな基盤はないでしょう? という議論である。前者による幸せは絶対的に決まりやすく、後者による幸せは相対的に決まりやすいはずだ。
 というわけで実験3。デザインはさっきと一緒で(2x2の被験者間デザイン)、課題は2つ。

 結果は... ダイヤ課題では、群の主効果と群内の差の主効果の両方が有意。大きいダイヤを渡されたほうが幸せだが、rich群のpoorさん(5.8mm)よりもpoor群のrichさん(4.4mm)のほうが幸せ。いっぽうボトル課題では、群内の差の主効果のみ有意。4セルを通してみると、水温が高くなるほど幸福度が高い。

 実験4はフィールド実験。中国の31都市、計6591名に電話調査。季節は冬。設問は:

 結果は... 横軸に室温平均、縦軸に幸福度平均をとって都市の散布図を書くと正の相関がみられる。Haikou(海南島の都市・海口)、Hearbin(ハルビン)あたりは室温が高くて幸福度も高く、Nanchang(南昌)、Chongqing(重慶)あたりは室温が低くて幸福度も低い。都市内で見てもやはり正の相関がある。いっぽう、横軸をジュエリーの値段にすると(ちなみに値段の平均が一番高いのは上海)、都市の散布図では無相関で、都市内でみると正の相関がある。この知見を、性別・年齢・居住変数をコントロールした回帰分析で確認。

 「読者のみなさんは、この研究は21世紀と関係あるのかね、と思うことでしょう。今世紀のたいていの人々は、食べ物や部屋の温度といったAタイプの[=生得的な評価基盤を持つ]出来事について、もはや心を煩わせてなどいないのではないか、と。いいえ、私達は関係あると思ってます。[...] 発展した国々においてもAタイプの領域における欠乏がいまだ続いています。多くのアメリカ人が、必要な暖房設備を持たずに冬をすごし、偏頭痛や社会的孤立や不眠や性的不能やうつに苦しんでいるのです」... と著者は力説しておられる。大きく出たね。
 なお、著者らのいう「生得的な評価基盤があるかないか」と、「いったん出来事を経験しちゃったらそのことについて情緒的に鈍感になるかどうか」(「快楽の適応」。Diener et al, 2006 Am. Psych.; Frederick & Loewenstein, 1999, Chap.) とは、理論的にはちがう問題である。しかし著者らは、ある程度は相関があるんじゃないか (Aタイプの幸福には慣れが生じにくいんじゃないか) と思っている由。

 というわけで、個別にみれば突っ込みどころ満載の小さな実験を、うまくつなぎ合わせて大きなストーリーに仕立てあげ、結論だけ聞けばアタリマエだと思われるような主張を堂々と実証してみせ、それがあまりに堂々としているのでもはや頭を下げるしかない... という、実験研究のお手本のような論文であった。

読了: Hsee, Yang, Li, & Shen (2009) お金がもたらす幸せは他人との比較で決まるが、消費がもたらす幸せは絶対的に決まることもある

2013年7月26日 (金)

Krueger, A.B. & Schkade, D.A. (2008) The reliability of subjective well-being measure. Journal of Public Economics, 92(8-9), 1833-1845.
 先日読んだ論文で幸福度尺度のレビューとして引用されていたので、探してみたのだけれど、期待に反してレビュー論文ではなかった。
 主観的幸福度の測定手法のうち、一般的質問(人生への満足度とか)、ならびにKahneman らの Day Reconstruction Method (DRM) から得られる諸指標について、2週間あけて再検査信頼性を調べました、という研究。信頼性は意外に低いんじゃないか、だから主観的幸福度を従属変数にした研究では独立変数との関連性が希釈されているんじゃないか... という問題意識がある。
 細かい議論は読み飛ばしたのだけど、信頼性はだいたい r = .50 から .70 というところ。一般的質問も DRM もたいして変わらない (DRMは「昨日のあなた」についてしか訊かない手法なのに)。この結果を標本サイズの決定に使ってください。とのこと。
 主観的幸福度についてのレビューはKahnemanらの本を見ろとのことだが("Well Being")、それって1999年の本である。新しいのはないのだろうか。
 それにしても、幸福度についてこんなに山ほど研究があるとは知らなかった。参るね、どうも。

読了:Krueger & Schkade (2008) 主観的幸福度は信頼できるか

2013年7月24日 (水)

Hervas, G., Vazquez, C. (2013) Construction and validation of a measure integrative well-being in seven languages: The Pemberton Happiness Index. Health and Quality of Life Outcomes. 11.
 多言語かつ簡略な主観的幸福度尺度をつくりました、という論文。著者らはスペインの心理学者。尺度研究であるからして、読んでて楽しいものではない。
 著者らいわく、幸福度を測る質問紙尺度は多々あるが、この尺度の売りは:(1)生活への一般的満足も、情緒的な幸福も、eudaimonicな幸福も(心理的機能が最適に働いているというような意味での幸福のこと)、社会的な幸福も、全部含みます。(2)過去についての回想的な幸福と、現在経験されているところの幸福の、両方を測ります。(3)はなっから多言語で作ります。

 日本を含む9カ国でネット調査。ちなみに実査はMillward-Brownさんがやっておられます。
 こういう尺度構成の際には、大きな項目プールをつくっておいて、そこから性質の良い項目を拾うのが普通だと思うのだが、この調査ではいきなり37項目からはじめて、それを21項目に減らすだけ。最初から多言語でつくったので... というのが言い訳である。当然ながら、アルファや項目間相関や国間の差を調べるだけで、CFAやIRTの出番はないし、(今後の課題に挙げられてはいるが) 測定不変性の検証はない。コトの良し悪しはよくわからないが、ちょっと拍子抜け。
 妥当性は別の指標を基準にして検証する。基準に使うのは:

 なお、メモしておくと、主観的幸福の尺度としては他にこんなのがあるんだそうだ:

レビューはないのかと思ったら、Krueger & Shkade(2008, J. Public. Econ.) というのが引用されているのをみつけた。

 話の本筋ではないんだけど、リッカート尺度で11件法ってのは悪くないんだよ、むしろいいんだよ、という言い訳がぐだぐだと載っていて面白かった。あんまり段階数を増やしてもしょうがないという実証研究は少なくないと思うのだが、著者らはその逆張りで、Alwin (1997, Social Method Res.) というのを引き合いに出している。段階数が多いほうがいいという研究らしい。へー。

 というわけで出来上がりは、回想的な11件法項目が11項目、昨日の経験についての2件項目が10項目、計21項目。著者らのwebページに日本語訳があった。
 それにしても、本文中には一切説明がないが、尺度の名前 (Pemberton Happiness Index) はあきらかにスポンサー様の意向であろう。す、すごいなあ。パナソニックが助成した研究でつくった心理尺度に「幸之助指標」とつけるようなものではないか。

読了: Hervas & Vazquez (2013) スカッとさわやか幸福度指標

2013年7月 2日 (火)

Shafir, E., Simonson, I., Tversky, A. (1993) Reason-based choice. Cognition, 49, 11-36.
 Tversky先生晩年の論文。選択の文脈効果に関連してよく引用される、かなり有名な論文だと思う。仕事の都合でめくった。まっさか、いまになってCognitionの論文を読む羽目になるとは。。。

 あらすじはこんな感じ。
 選択の際、葛藤の解決のために人は「自分の選択を正当化する理由」を求める。この観点からいろんなことが説明できる。

最後の考察で面白かった話。実験から得た知見を説明する際に「理由」に頼る、というのは社会心理学者の十八番だ。不協和理論をみよ、自己知覚理論をみよ、帰属理論をみよ。でもそれらが注目しているのは決定のあとの合理化であり、彼らは決定が思考に及ぼす影響を調べているのである。いっぽう我々は、決定の前の葛藤に注目し、思考に登場する理由づけが決定に及ぼす影響について考えている。こういうアプローチもこれまでなかったわけじゃなくて、社会心理学ではBilligという人、決定研究ではPennington & Hastie、そして哲学では倫理推論における論拠についてのトゥールミンの研究が挙げられる... とのこと。

 時間をかけて熟考して選択しているにもかかわらず、自分の選択理由や選択時重視点について消費者がうまく回答できないという現象は珍しくないと思う。あれはいったいなんだろうか、というのが、わざわざこんな論文を読んだいきさつであった。この論文の線でいくと、理由について語る人と語れない人では選択のメカニズムが異なるということになるかしらん(どちらの選択が合理的かは別にして)。でも、選択時の葛藤解決のために選択を正当化する理由を探すということと、その理由を言語化できるということは、またちょっとちがう問題かもしれない...
 5年ほど前に講義の準備で調べたときにも思ったんだけど、選択の文脈効果をめぐる議論には似た概念を指すことばがいっばい出てきて困る。たぶん、現象のカテゴリの名前(「妥協効果」とか)と説明原理の名前(「極端の回避」とか)がごっちゃになってしまっているからだろう。不幸なことだ。
 この論文のようにあれもこれも全部 reason-based choiceで説明しちゃうという考え方は、どのくらい支持されているんだろうか。うろ覚えだけど、たしか妥協効果をめぐっては対抗する説明がいくつもあったと思う。

 ネットのあっちこっちに落ちているPDFのひとつで読んでたんだけど、OCRでつくったものらしく、文字や図があちこち化けていて参った。いくら探してもそういうPDFしか見当たらない。なんでこんなファイルが流通しちゃうんだろうか。

読了: Shafir, Simonson, & Tversky (1993) 理由に基づく選択

2013年7月 1日 (月)

田中吉史・松本彩希(2013) 絵画鑑賞における認知的制約とその緩和. 認知科学, 20(1).

 洞察的問題解決の文脈では、問題空間に対する心的な制約が緩和されるプロセスとして洞察を捉えるアプローチがあるけれど(それ自体は大昔からあるような気がする。「機能的固着」という概念はたしか1940年代だ)、これを絵画の鑑賞に適用した心理実験。
 美術の専門教育を受けていない人は絵の写実性にこだわる傾向があるのだそうで(なるほど、私もそうかも)、これを創造的な鑑賞に対する制約とみなし、その緩和のための要因を操作して、自由記述や印象評定への効果を調べる。何枚かの絵について、(そこに描かれているモノについてではなく)構図や色使いについての解説文を読みながら絵をみた人は、そのあとにたとえばゴッホの「夜のカフェテラス」をみたとき、自由記述が多様になり、あまり指摘されない事柄への言及が増え、主観的印象についての記述も増えた。これは自由記述そのものへの影響というより、絵画鑑賞における認知の変化だと考えられる由。つまり、絵の解説文が、そのあとでみる別の絵に対する鑑賞のありかたを変え、(ある意味で)創造的な鑑賞を引き起こしたわけだ。

 とても興味深く拝読いたしました(急に丁寧な口調に)。このたび機会を得て、著者をお招きし勤務先の同僚たちとともに研究のお話を伺ったのだが、その際にとても面白かったのは、いっけんビジネスとは縁遠い研究なのに、制約緩和とその支援という一点を突破口にして、消費者イノベーションというホットな話題と密接に結びつく、という点であった。市場調査という比較的に受け身な観点からいっても、創発的な製品使用はどのような消費者をどうやって調べれば観察できるか、という問題とつながっていると思う。これが基礎研究の強み、理論の強みというものだろう。
 多くの人々を導き縛っている認知制約から、個々の消費者がなぜか解き放たれる状況、あるいは消費者がそこから脱出せざるを得ない状況とは、どんな状況だろうか...制約が緩和されることと類推のあいだにはどういう関係があるのか...認知制約にはそれなりの適応的価値があるだろう、では絵画の写実性制約の適応的価値とはなんだろうか...絵画への鑑賞が多様になるのは素晴らしいことだろうけど、創造的な消費者を量産しちゃうような環境は消費者自身にとって幸せか...などなど、あれこれ思い巡らせた次第であった。とても勉強になりました。

読了: 田中・松本 (2013) 絵画鑑賞における制約とその緩和

2013年6月19日 (水)

Sperber, D., & Mercier, H. (2012) Reasoning as a social competence. in Landemore, H., & Elster, J. "Collective wisdom". Cambridge Univ. Press.
集合知についての論文集の一章。こんどの読書会で取り上げられる章なんだけど、予習のつもりでぱらぱらめくり始めたら、変に面白くって最後まで読んでしまった。

 えーっと、主旨としては... いわゆるdual process理論を踏襲するんだけど、System1は多様な領域固有メカニズムによって実現され、いっぽうSystem2は単一のモジュールによって実現されていて、それは個人的推論のためっていうより、はなっからコミュニケーションのための機能なのである。というわけで、関連性理論のあとのSperberたちが唱えているargumentative theoryの紹介になる。いわく、reasoningってのはreasonを産出・評価する能力だ。ヒトがそれを獲得したのは、コミュニケーション効率を高めるため、すなわち騙されなかったり騙したりするためだ。という、進化心理学的な、サツバツとしたご意見である。

 argumentative theoryを支持する証拠として以下を挙げている。

云々、云々。

 途中でちょっと混乱したが、それはスペルベル先生のせいではなく私が適応論的な話が苦手だからで、全体には面白かった。かつて著作を必死になって勉強したので、懐かしかったという面もある。(いまブログを調べたら、前に論文を読んだのは2005年、会社勤めを始めたけど仕事がなくて暇つぶしに、だ。川のように時は流れる。ハイホー)
 心の理論の話が出てくるかと期待して読み進めていたのだが、結局出てこなかったように思う。どういう関係があるのか知りたかったので、ちょっと残念。先日BBSに論文が出ていたから、あれを読めば早いのかしらん...絶対読まないけど。(いま調べたらそれだって2011年だ。ハイホー)
 argumentative theoryという言い回しからは、アリストテレスの「弁論術」とか、西洋修辞学のかびくさい印象を受けてしまうのだけれど、わざわざこういう命名をするのは、なにかの冗談だろうか、それとも(P. リクールのような)レトリック再興という意味合いがあるのだろうか。この論文では、先行する論者として科学哲学のトゥールミンの名前を挙げている。
 それにしても、集合知はなぜ生じるか、という問いに対して、そもそも推論というものは社会的能力だ、と答えるのは、答えになっているような、なっていないような。。。お前らの問いの立て方が悪いんだってことなんでしょうね。

読了:Sperber & Mercier (2012) そもそもヒトの推論能力は議論に勝つためにあるものなのよ

2013年3月13日 (水)

木野, 岩代, 石原, 出木原 (2005) モノへの愛着の分析: 対人関係とのアナロジによる測定. 感性工学研究論文集, 6(2), 33-38.
大学生に愛着のあるモノを挙げさせ、それを家族とか友人とかにたとえた文章を提示し、当てはまるかどうか答えさせる。さらに、それに愛着を持つ理由を9項目のMAで聴取する。前者を後者で説明するロジスティック回帰をやると、「使いやすい」「役に立つ」は「××は身体の一部だ」評定に効くが、「××は自分自身だ」評定には効かない。なるほどね。

話の本筋からは離れるが、Okada(2001, J. Consumer Res.)という研究は、古いものを十分に使い切ったかどうかの主観的判断が買い替え阻害要因になることを示しているのだそうだ。おおお。。。

読了:木野ほか (2005) 愛着あるモノを人にたとえると

小川, 原田, 菊池 (2012) エージェントによるユーザ特性の把握が愛着感に与える影響. HAIシンポジウム 2012, 35-40.
 著者らは早稲田の所沢の方々。RFIDタグをかざして音声で対話する本の貸出管理システムがあって、その端末がちょっと可愛いロボットみたいな形をしてて、タグをかざすとロボットは「こんにちは」といい、ユーザの返事の音声を適当に分析してその人が元気かどうか判別し、「元気ですね」ないし「元気がありませんね」という。このロボットの使用前後でロボット君へのユーザの愛着がどう変わったかという話。きれいな結果じゃないけど、元気かどうかちゃんと判別したほうが愛着感が増した、という主旨。卒論とか修論とかかしらん。

 こういう風ないわゆるaffective computingの研究って、いまや山のようにあるんだろうなあと思って検索してみたら、なんとAffective Computing and Intelligent Intaractionという隔年の国際会議が、すでに2005年からあるらしい。へー。

読了:小川ほか(2012) 察してくれるロボットには愛着がわく

橋本, 寺内, 久保, 青木, 鈴木 (1998) モノに対する愛着の体系化. 日本デザイン学会研究発表大会概要集, 45, 28-29.
 仕事の都合で集めた資料のなかのひとつ。たった2ページの大会発表要旨だけど、頭の整理のためにとても助かったので、感謝を込めてメモしておく。著者らは千葉大のデザイン科学の方々。
 愛着のあるモノについての質問紙調査とインタビューの報告。まとめによれば、(1)性能、(2)素材感の良さ、(3)差別的特徴、の3つの要素に、(4)出会いの経験や思い出などの二次的価値観が付け加わることで、モノへの愛着が発生する。なるほど。

読了:橋本ほか (1998) モノに対する愛着

2012年8月18日 (土)

Kahneman, D., & Frederick, S. (2005) A model of heuristic judgement. Holyoak, K. J. & Morrison, R.G. (eds.) "The Cambridge Handbook of Thinking and Reasoning," Chapter 12. Cambridge University Press.
 70年代初頭のTversky&Kahnemanにはじまる、ヒューリスティックスとバイアスの研究を振り返り、著者らの最新の道具立て(2システム・モデル)によって整理する内容。有名な代表性ヒューリスティクスや利用可能性ヒューリスティクスは、ここでは属性代用 (attribute substitution) のプロセスとして説明される。

 いくつかメモ:

 この論文は、ちょっといきさつがあって以前著者にご恵送いただいたのだが(ありがとうございました...)、そのときはどうしても読めなかった。このたび仕事の都合で淡々と目を通したのだけれど、自分が心理学の理論論文を再び読もうと思うことがあるとは全く思わなかったし、こうして穏やかに読めるようになる日が来るとも思わなかった。ずいぶん節操のないことだとも思うし、時間とともに変わらないものなどなにもないのだなあ、という感慨もある。

読了:Kahneman & Frederick (2005) ヒューリスティック的判断のモデル

2012年2月 1日 (水)

Palmer, S.E. & Schloss, K.B. (2010) An ecological valence theory of human color preference. Proceedings of the National Academy of Sciences, 107(19), 8877-8882.
 第一著者はUCBの知覚心理の先生。いま研究室のwebページを見たら、日本の超有名な知覚の先生と同じ顔をしてたのでビックリした。もちろん別人で、単に一緒にスナップ写真に写っていただけでした。

 32枚の色チップを用意し、(1)被験者に各チップを提示、その色をしているモノの名前を挙げさせる。赤なら「いちご」とか。(2)別の被験者に、集めたモノの名前を提示し、感情価(ネガティブかポジティブか)を評定させて集計する。「いちご」はポジティブだそうです。(3)また別の被験者に、モノの名前と色を提示し、類似性を評定させて集計する。赤はいちごとそこそこ近い。(4)各色チップについて、モノの感情価を類似性で重みづけ平均した値を求める。これを著者らは重みづけ感情価推定値(WAVE)と呼んでいる。赤のWAVEは結構高めになる。で、このWAVEと、別の被験者で調べた色チップそのものに対する好意度評定の間には、すごく高い相関がありました。という論文。
 なんでこんな不思議な実験をやっているのかというと、もともと色の選好は進化的選択で決まっているという壮大な説明があって(女性が赤を好むのは果実を採集してたからだ、というような奴)、それに対して著者らは、まあそういう基盤もあるかもしんないですが、色の選好は学習によっても決まるでしょう、一言でいえばその色を持っているモノに対するvalenceで決まるのです、と主張しているのである(ecological valence theory)。ここでいうvalenceをなんて訳せばいいのかわからないけど、適応上の価値とでも訳すのが近いだろうか。実験手続き上は、まあ要するに好き嫌いのことである。
 集計値レベルの分析しかせず、かつモノの名前を被験者から集めているところにトリックがあるなあ、と思いながら読んでいたのだが(人は好きな色に対して好きなモノを挙げる傾向があるのかもしれないから)、そんな突っ込みは先刻御見通しのようで、さらに別の被験者を用い、WAVEと色選好を同一の被験者から採っておき、WAVEのパターンで被験者を2群にクラスタリングする、というのもやっている。モノのセットは群間でほぼ同じ、WAVEと色選好の相関は同一群内のほうが高い。巧いなあ。
 さらにecological valence theoryの補強証拠として、学生の愛校心の高さと自校のスクールカラーへの選好に相関があったという話と、モノの写真を事前提示して直後の色選好をプライミングできたという話も報告している。ふうん。

 ナイーブな疑問で恥ずかしいのだが、読んでて不思議だったのは、「色チップへの評定」という課題がなにを測定している(と考えられている)のか、という点である。色チップへの好意度評定がその色と結びついたモノへの好意度と関係している、というのは、人の色選好を規定する一般的メカニズムについての大きな主張なのか? それとも、「人は色チップへの好意度評定という奇妙な課題を与えられたとき、どう答えたらいいのか困っちゃうので、仕方がなくその色と結びついたモノへの好き嫌いで判断してしまう」という小さめの主張なのか? どちらにしても価値ある知見だと思うけど、理論的含意の及ぶ範囲が全然異なる。著者らの意図は前者だろうが、後者の説明のほうがparsimoniousだという気がする。
 この疑問がほんのわずかでも当たっているとして、ここからの個人的教訓は、測定の妥当性はholisticに捉えないといけないなあ、という点である。ある指標が測りたい概念をうまく測れているかと考えるとき、我々はついその指標と概念の関係だけに目を向けてしまうけれど(「色チップへの好意度評定は色選好の指標として妥当か」というように)、実はその周りの理論ネットワーク全体に目を向けないといけないなあ... なんて考えたのだが、自分でもなんだかよくわかんなくなってきたので、このへんでストップ。

 などとつらつら書きつつ、実はご研究そのものには全然関心がなくて(すいません)、単に色の選好実験で色をどう定量化し色刺激をどう設計しているかに関心があって読んだ論文であった。CIELAB色空間を使っている。こういうときにマンセル色空間を使うのはまずいのかしらん。

読了:Palmer & Schloss(2010) 好きな色、それは好きなモノの色のことだ

2011年12月10日 (土)

小林光夫, 吉識香代子 (2001) PCCSトーン、PCCS三属性値, およびマンセル三属性値間の数学的関係, 日本色彩学会誌, 25(4), 249-261
仕事の都合で読んだもの。内容は表題の通り,PCCS表色系とマンセル表色系を変換する数式をつくったという論文。こういうの,PCCSをつくった会社が提供すればいいんじゃないかと思うのだが。

読了:小林・吉識(2001) PCCS表色系とマンセル表色系の変換

2011年12月 8日 (木)

仕事上の必要に迫られて、選択モデルの資料の山を机の脇に押しのけ,急遽読んだ文献。

小林光夫(2002)「色名による表色法」, 日本色彩学会誌, 26(4), 253-260.
小林光夫(2003)「心理的な表色系PCCSとNCS」, 日本色彩学会誌, 27(1), 56-71.
 研究論文というより、学会誌に連載された啓蒙記事。表色系(色を表すシステム)のひとつに日本産のPCCSというのがあるんだそうで、その解説。
 読者がマンセル表色系に詳しいことを前提に説明しているので、詳しくない俺にはちょっとつらかった。さらに、Ciniiで買ったPDFはモノクロなもので、ほとんど真っ黒なチャートを見ながら読み進めることになり。。。9割がた理解できていないけど、ま、いっか。

松田豊・加藤美奈子・嶋崎裕志(2000)「色の記憶ーPCCSカラーカードの再認」, 日本色彩学会誌, 24(3), 146-155.
 PCCSのカラーカードを使った色の再認記憶実験。あるカードを30秒記銘、リハーサルを妨害しつつ2分間保持、ランダムに並べられた47枚のなかから選択。色空間のなかで誤再認が生じる方向性を、これでもかというくらいに細かーく記述している。おそらく第二著者の方の卒論であろう。
 PCCSではhueとtoneという二次元の空間を考える。マンセル空間と性質が違うようだが、toneってのはまあvalueとchromaがコミになったようなものらしい。で、誤再認はhueよりもtoneで起きやすいんだそうだ。さらに、hueによってtone誤再認の方向性が違う由。へえー。
 全然知識がないので、この研究の基礎研究としての位置づけについてはよくわからない。色の記憶メカニズムという問題と、色刺激をどんな表色系で表すかという問題とは本質的には別だろうから、「OSA色カードを使った実験はあるけどPCCS色カードをつかった実験はないからやってみます」という問題設定にはどういう意味があるのかしらん、と。しかし一読者としては、知見をマンセル表色系の難しい言葉で説明されるより、もっと簡易な表色系で説明してくれるほうがうれしい... という面はある。それに、表色系間の色の変換はそんなに簡単な話ではないそうだから、そういう面でも価値がある研究なのだろう。

読了:小林(2002,2003) PCCS表色系; 松田ほか(2000) PCCSカラーカードの再認

2006年8月 6日 (日)

Zelazo, P. D., Qu, L., & Mueller, U. (2005). Hot and cool aspects of executive function: Relations in early development. In W. Schneider, R. Schumann-Hengsteler, & B. Sodian (Eds.), Young children's cognitive development: Interrelationships among executive functioning, working memory, verbal ability, and theory of mind. pp. 71-93. Mahwah, NJ: Erlbaum.
心の理論というのはただの現象であって,executive functionと同じく,前頭前野の発達のひとつの現れにすぎないのだ,という主旨。ふうん。
ひょんなきっかけで,久々に心理学の論文を読んだのだが(おまけにレジュメまで切った。丸二年ぶりだ),つくづく思うに,やっぱり基礎研究は面白い。これを一生続けることができれば至福であっただろう。
しかし,いまさらこんなの読んでも仕方ないわけで,なにやってんだかなあ,という気もする。

読了:08/06まで (A)

2005年6月 1日 (水)

Sperber, D. & Hirschfeld, L.A. (2004) The cognitive foundations of cultural stability and diversity. Trends in Cognitive Sciences, 8(1), 40-46.
 文化の多様性にも関わらず,素朴物理学とか心の理論とかに普遍性が見られるのは,領域固有な認知モジュールのせいでありましょう。それらのモジュールの対象とする領域が人為的に拡張される,そのありかたに文化差があるのです。とかなんとか,そういう趣旨だったかな。
 成長曲線分析のブームがちょっと一段落して,昼飯時に読むものがなくなってしまったので,気まぐれに手に取ったもの。著者の名前に惹かれたんだけど,関連性理論のかの字も出てこないし,レビューというよりオピニオン論文だったし。別に読むことなかった。

読了:06/01

rebuilt: 2020年11月16日 22:27
validate this page