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2005年12月12日 (月)

 周知の通り,現実はきわめて散文的である。そこには落ちもクライマックスもカタルシスもない。現実はドラマツルギーの基本を徹底的に無視している。葛藤はいつのまにかなし崩しになってしまうし,矛盾は止揚されないままどこかに消えてしまう。純粋な怒りも純粋な悲しみも存在しない。プラットホームで目を見つめ手を取り合って別れを惜しみ,発車のベルが鳴るなか悲しみをこらえて車窓越しに精一杯の笑顔を見せていると,「列車の不調により発車が5分遅れます」とアナウンスが流れる,とか。いまどうしているだろうかと懐かしく思い出す人に,いざばったりと会ってみると特に話すことがない,とか。

 しばらく前の中国の映画に「青春祭」というのがあった。あれを観たのは建て替え前の池袋文芸座だっただろうか。
 舞台は文革期の中国,下放青年を題材にした映画だ。都会の女子学生が高い理想を胸に農村へと向かうのだが,列車とバスと荷車に何日も揺られた末にたどり着いたその行き先が,雲南の少数民族の村だ,というのが面白い設定だった。これが極貧の寒村だと「子どもたちの王様」になるし,牧畜で暮らす未開の荒野なら「シュウシュウの季節」になるところで,どちらにしてもあまり救いがないが,この映画の場合,なにしろ気候は亜熱帯なので,なんだかのどかなのである。食べ物はあるし,郵便も届くし。
 主人公の娘は次第に村の生活にも慣れ,秋祭りでは地元の若者とちょっといい感じになったりするんだけど,唐突に文革は終わり,下放青年たちは都会に戻り始める。
 ラストシーン,いきなり時間が数年後に飛ぶ。原色のスーツを着た,もう別人のように都会的な装いの主人公が,黒い泥におおわれた広大な斜面を前に立ちつくし,涙を滂沱と流している。かつて青春の一時期を過ごしたその村を訪ねてみたら,村と村人たちは超巨大な地滑りに飲み込まれ,きれいさっぱり無くなってしまっていたのだ。
 もう涙無くしては観られない,素晴らしい名場面だ。ここで,地滑りが起こらなかった場合について想像してみよう。村はそのときこそ消滅する。さわやかな好青年は不幸な結婚によって意地汚くなっているかもしれない。友人たちに再会しても話すことが見つからないかもしれない。村の老人たちもいま接してみると案外冷たいものかもしれない。当時を思い出すよすがを探し,記憶と現実とを重ね合わせてみたりした末,やや気まずい思いを抱きつつ帰路につくのが関の山だ。その点,地滑りは素晴らしい。あの村も,あの青春の日々も,泥の中にまるごと永久保存されたのである。もう届かないところにあって,それはいつまでも輝きを失わない。こんな甘い涙があるだろうか。
 これが映画だ。現実に一番欠けている要素がここにある。

 朝の通勤電車の窓から大学の建物がみえる。その大学は俺がずいぶん長いこと通った場所だ。ふつう大学というものは4年で卒業するものだが,諸般の事情により俺はその何倍ものあいだその大学に籍を置いた。諸般の事情とはすなわち,職業的な研究者になるつもりだったということなのだが,別の諸般の事情により,その期間を寝て過ごしたのとあまり変わらないような結果となった。とはいえ,野心・努力・希望・絶望などなど,俺の人生のハイライトシーンがその期間にすっぽりと収まっている。どんなつまらない人生にもハイライトシーンがもれなく存在するとすればの話だが。
 ニュータウンのはずれを走る列車がスピードをあげ,短いトンネルを抜けると,窓の向こうにゆるやかな丘が広がる。木々に覆われた丘の上に茶色の建物群があって,緑に半ば埋もれているように見える。徐々に近づいてくると,高い階の青い窓ガラスが朝日を反射して白く光る。
 列車は丘を回り込むようにして減速する。アスファルトが斜面に灰色の曲線を描いている。その横には小さな神社があった。その裏に小さな池があって,その脇の細い坂道が図書館に通じていた。
 図書館の灰色の壁面が,木々のあいまにちらりと見える。それに連なる校舎群の濃い茶色い屋根が見える。駅に滑り込む直前,キャンパスの端にある塔がみえる。その下には銀杏の並木があり,秋には一面の落ち葉を踏んで歩いた。その向こう側の建物には実験室があった。実験室の窓からは薄い色の広い空だけが見えた。
 ドアが開いて閉じる。列車が再び動き出すと,立体駐車場の側面が視界を覆う。しばらくして再び視界が開けると,列車は高架を走っており,眼下にはベージュ色の小さな住宅がひしめくようにして並んでいる。丘はもう見えない。
 俺はシートに身体を預け,口を半開きにしてぼんやりと眺めている。痛みはない。全くない。目を閉じて思うのは,一面に広がる黒い泥の斜面のことだ。あの丘のなだらかさから考えて,地滑りは起こりそうにない。
 このように,現実とはきわめて散文的なものだ。

雑記 - 現実について話をしよう

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