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2010年4月17日 (土)
夢というのは不思議なもので,見ているときは胸を裂かれるほど哀しいのに,目覚めてから思い出してみるとなんだか可笑しかったりすることがある。ひょっとしたら,実生活で感じる感情も,本質的には夢の中のそれとおなじく,目覚めてしまえばどうでもよい,可笑しなものなのかもしれない。死ぬまで目覚めることがないという点がちがうだけで。
夢には他にも不思議な点があって,たとえば最近みた以下の夢に出てくる「小杉礼子」という名前がどこから出てきたのか,さっぱりわからない。教育社会学者で同名の方がいるが,それがなぜここで出てくるのか。突然ビートたけしが出てくるという豪華キャストぶりも無軌道すぎる。「妻」役を演じていたのも誰か有名な女優だったと思う。
通路が奇妙に入り組んでいる食品スーパーのエスカレータ脇で,俺は古ぼけたPHS端末のキーをつついている。妻に電話を掛けようとしているのだが,電波が弱く,発信音さえ時折ガリガリという音とともに途切れてしまう。電波の状態が良い位置を探して数歩移動すると,周囲の人々が俺を見遣ってひそひそと話す気配がある。「あら,あの人が旦那さんなの。そぉー」俺はうつむいたままPHSを耳に当てる。ようやくつながった回線からは,しかし英語の早口のテープが流れ,ぶちん,と切れる。
「礼子さん」「礼子さんだわ!」売り場の遠くからざわめきが聞こえてくる。見ると,バックヤードに通じるドアから,パステルカラーのスーツ姿の妻が早足で歩み出てくる。後に従えた男たちを置き去りにして,ピンク色の小さな帽子をかぶった高齢のパート店員に駆け寄り,両手を広げて抱きつく。他の店員たちが仕事の手を止めて集まりかけるのを笑顔の身振りで止め,しきりに話しかける数人の店員たちに言葉を返し,親しげに肩を叩く。何度かカメラのフラッシュが光る。このスーパーこそ,かつて彼女がその伝説をつくった場所であり,彼女はいまも従業員たちから偶像視されているのだ。
短い会話を交わした後,彼女は大きなハンドバックから取り出したクリップボードを構え,冷蔵ケースを真剣な表情で見つめながら,ケース沿いにゆっくり歩いてくる。周囲の人々は気を遣って距離をおく。
小杉礼子とは妻のペンネームだ。もはやその名前を知らない人はいない。俺は歩み寄り,おずおずと声をかける。「電話かけたんだけど...通じなかった」妻はレタスに目を向けたまま,「Vodaphoneに変えたから。いまちょうど切り替え中」「え,Vodaphone?」 携帯電話業界の度重なる再編劇の末,超富裕層だけを顧客とするラグジュアリ・キャリアとして復活した,あのVodaphoneか。目の飛び出るような金を払ったに違いない。「国際ローミングがね...」妻はなにか理由らしきことを呟く。
A4のペーパーを恐る恐る手元に差し出し,俺は口ごもる。「その...」「なに?」「事業計画書。書いてみたよ」彼女は黙ってペーパーに目を落とす。
事業計画書というものには,市場環境とか商品の特徴とかターゲットとか販売方法とか,そういうことを書くのだろうと俺は想像していた。実際に事業計画を書くことになってはじめて知ったのだが,人体には腹部に事業のツボが4つあり,そこにごく小さなネジを埋め込み微妙な角度で回すことによって,血液の流れが良くなり,事業は成功する。事業融資申請の際にはそのネジを回す角度について明示する必要があり,その書類を事業計画書というのである。その書き方を身につけることは起業家の必須条件といえる。妻はそれをどこで学んだのだろうか,と俺はふと不思議に思う。俺は一昨日,ようやくその初歩を習い覚えたばかりだ。沖縄の真っ白な砂浜で,身内との抗争のなかで自らの命さえ風前の灯火となったアロハシャツのヤクザが,遠慮がちに制止する子分達を無視し,仰向けに横たわる女の脇にどっかりと腰を下ろして,俺に対して静かに「あんちゃん,よく見てな」と云った。シャツを捲り上げて陽光にさらけ出した女の腹部に祈るように顔を寄せ,芥子粒ほどの赤いネジを柔らかい皮膚にゆっくりと埋め込んでいく。あの手腕があれば,きっと堅気の事業家として成功できたはずなのに。彼は今日はもう生きてはいないだろう。
妻は紙にさっと目を通す。「いいんじゃない。あとは事業本部と相談して」あっさりと紙を突き返してくる。俺はなにか冗談を言おうとする。「それにしても,変わったもんだね」あのVodaphoneがねえ,と続けようとして,妻が俺の言葉にはっと胸を打たれるのがわかる。勤務先を解雇され,途方に暮れたあの頃。家計を助けるためにはじめたスーパーのパートで,思わぬ才能が芽を吹き,たちまちにカリスマ店員として名を馳せ,その成功譚は大ベストセラーに。コンサルタントとして独立し,勤め先を首になった無能な夫の食い扶持をも稼ぐべく,歯を食いしばり必死に働いた。ああ,長い長い長い道のりを私は歩いてきたのだわ。という内心の独白が聞こえるようである。数秒宙を見つめ,それから妻は俯いて「そう,変わったものね。いろいろなことが」と呟く。なんだか余計な琴線に触れてしまったようだ,どうしよう,と思ったところで,あら,小杉さんじゃない,小杉さん!テレビいつもみてます! と嬌声があがり,妻は一瞬にして満面の笑顔を浮かべ,声の方向に顔を向ける。俺はそっと歩み去る。
そもそも今の俺にはさしたる情熱などないし,世の中と積極的に関わりたいという気持ちは薄いし,特にやりたいこともないし,家でじっとしているのも嫌いじゃないし,妻のおかげでいまのところ食うには困らない。働く必要などないではないか。それなのに,なぜ事業計画書などを書いているのか。いきさつは思い出せないが,要するに,世間体を保つためになにか働いているふりをする必要があっただけではないのか。というようなことをぼんやりと考えながら,俺は駅から自宅に向かう道をとぼとぼと歩いている。日射しは柔らかいが風が冷たい。路上に散ったドラッグストアのチラシが舞い上がる。
なにもかも止めてしまおう。家に閉じこもって,静かに,規則正しく暮らそう。天気の良い日には洗濯する。台所の床をこまめに拭く。ぬか漬けをつくったりするのもいいだろう。そして,いまも時々そうしているように,夕方になったら近所の公園に散歩に行こう。そこまで考えてはっと気がつき,俺は腕時計を見る。16時20分。しまった,すっかり忘れていた。この時間には公園のベンチに座っていたいのに。俺は早足で公園に向かって歩き始める。
毎日この時間には,近所の女子高の生徒たちが,若い汗を散らしながら公園をジョギングする。それをただ眺めるために,夕方のベンチには暇そうな初老の男達が詰め掛ける。だから少し早めに席を確保しておかなければならないのだ。今からでも間に合うだろうか。急がなければ。ベンチに座れなくなってしまう。若い娘たちを眺めることができなくなってしまう。ベンチの目の前を娘たちはあっという間に通り過ぎていく。それはほんの一瞬のことだ。その一瞬を初老の男たちは愛おしむ。若さはあっという間に過ぎ去っていく。俺には時間がない。急がなければ。
後方から娘たちの掛け声が聞こえてくる。わっせ,わっせ,ファイト,ファイト。どんどん近づいてくる。ああ,間に合わなかった。振り返る間もなく,娘たちの集団が俺に追いつく。紺と白の湿った布に包まれた,激しく律動する若い肉体が俺を取り囲み,両側をすり抜けていく。俺は足取りを乱し,よろけて立ち止まり,俯いて耐える。熱気と汗と,さびた鉄のような血の匂い。
その嵐は突然過ぎ去っていく。こらえていた息を吐いて顔を上げると,公園に通じるまっすぐな道を,何十,何百,何千という女子高生たちが波のように遠ざかっていく。後ろ姿がどんどん遠のいていく。強い哀しみと痛みで俺は身動きできない。娘たちは走り去っていく。老いに向かって。死に向かって。
雑記 - 夢