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2010年5月31日 (月)

 このあいだ勤務先で打ち合わせをしていたら,若い社員が,句読点が間違ってます,直してください,という。「え? 句読点?」「ク・ト・ウ・テ・ン! ほら!これ!」 ばんばん,と人差し指で指す先をみても,なんのことだかわからない。「テンがテン(「、」)じゃなくて,カンマ(「,」)になってる! これは間違いです! 日本語の横書きはテンとマル!」 はいはい,承知しました,直します。
 このような指摘を受けたことは以前にも何度かあって,素直にご指摘に従うことにしているのだが,そのたびに面白いなあと思うのは,この話が,書式を組織内で統一するためにこの句読点を使えという実務的な視点ではなく,正しい句読点はこれだ,他は日本語として間違いだ,という規範的視点から語られるという点である。なぜだろう? いったいどうやったら,そういう強い信念を持つことができるのか。
 そういえば,いまの勤務先(市場調査の会社)で働きだしたばかりの頃,(上記とは別の)若い社員に,「質問紙」じゃなくて「調査票」です,直してください,と叱られて面食らったことがあった。questionnaireは質問紙ではなく調査票と呼ばなければならない,というのである。その言い方が,単に「この会社では(ないし,市場調査の業界では)皆がそのように呼んでいるからそう呼んだほうが良い」というアドバイスとしてではなく,自明な規範として語られていた点が,とても印象的だった。

 規範的にみてテン・マルが正しいかカンマ・マルが正しいか, questionnaire は質問紙か調査票か,といった問題には,俺自身は全然関心がない。あえて歴史を温ねるならば,昭和27年の内閣依命通知「公用文作成の要領」は日本語横書きの句読点を「,」「。」としている(いまwikipediaで調べました)。いっぽう「、」「。」も広く使われていて,あれはマスコミの社内基準の影響,もっと具体的に云うと,共同通信社の「記者ハンドブック」の影響じゃないかと勝手に想像しているのだが,詳しいことは知らない。まあとにかく,横書き句読点についての社会的規範はいまのところ存在しないはずである。質問紙か調査票かという話は云わずもがなだろう。世の中には似たような意味の言葉がいっぱいあるのだ。
 それはともかく,「日本語の横書き句読点にはなんらかの正解が存在するに違いない(なにが正解かは別にして)」,「questionnaireの日本語の呼称にはなんらかの正解が存在するに違いない(なにが正解かは別にして)」...という強い信念が,いったいどこからやってきたのか。そこのところがとても面白いと思うのである。すべての事物にはそれを定義する特徴がある(自分がそれを正しく知っているかどうかは別にして),という考え方のことを指して「心理学的本質主義」と呼んだ心理学者がいたが,用語に対する規範的感覚の背後にもまた,一種の本質主義的な態度があるのではないか。
 不勉強でよく知らないのだけれど,心理学的本質主義にはそれなりの適応的意義がある,という指摘があったと思う。子どもが新しい概念を獲得するとき,本質主義的信念を持っていた方が効率が良い,というような。それと同じく,用語に対する規範的な態度にもまた,なんらかの適応的意義があるのではないか。そのほうが物事の習得が早いとか,組織への正統的周辺参加がスムーズになるとか,世の中がシンプルに見えるとか。

 話は変わるが,自分よりも年上の人と話していて時折感じるのは,年配の方は(1)規範的言明にコミットすることに臆病でありつつも,(2)しかし気づかないうちに種々の規範に深くコミットしている,という点である。たとえば,夫婦別姓の問題について話しているとして,家族たるものはXでなければならないという強い規範的信念が見え隠れしたりする。そこで「ところで,家族はXでなければならないんですかねえ」と尋ねると,いや,一概にそうとはいえないが。。。と,奇妙な戦線後退がはじまる,というような感じである。これは世代論の問題ではなくて,要するに,年を取るということのひとつの帰結なのではないかと思う。現に俺自身も,自分が知らないうちにたくさんの規範に縛られていることを感じるし,しかし(いや,それゆえに),あからさまな規範的言明に踏み込むことに対して,次第に臆病になりつつあるようにも感じる。

 というわけで... 横書きの句読点はテン・マルが正解です。質問紙ではなくて調査票が正解です。こういう明快な規範的態度が,まあいささか面倒くさくはあるけれども,ちょっとまぶしく感じられる今日この頃である。俺がいつのまにか失っていた,(昔の劇作家の言葉を借りれば)「真情溢れる軽薄さ」のようなものを,抜き身のまま見せつけられているような気がするのである。

雑記 - テンとマル,調査票,そのほか

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