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2010年12月31日 (金)

この私という存在はそれが何であろうと結局ただ肉体と少しばかりの息と内なる指導理性より成るにすぎない。書物はあきらめよ。これにふけるな。君には許されないことなのだ。(マルクス・アウレリウス「自省録」)

 大昔のローマに英邁と名高い皇帝がいて,彼は国中を駆けずり回って生涯を終えた。実のところ,彼は読書と瞑想を愛し,皇帝などではなく哲学者になりたかったのだが,それを果たすことができなかった。彼は自ら軍の先頭に立って戦ったが,陣営での空き時間にはコツコツとメモを書いた。それは誰に見せるためのものでもなく,ただ自分自身に向けた手紙だった。
 どういういきさつなのか知らないが,その記録をいま我々は日本語で読むことができる。俺が読んでいるのは神谷恵美子訳で,岩波文庫に入っている。

あけがたから自分にこういいきかせておくがよい。うるさがたや,恩知らずや,横柄な奴や,裏切者や,やきもち屋や,人づきの悪い者に私は出くわすだろう。この連中にこういう欠点があるのは,すべて彼らが善とは何であり悪とは何であるとかを知らないところから来るのだ。しかし私は善というものの本性は美しく,悪というものの本性は見にくいことを悟り,悪いことをする者自身も天性私と同胞であること-それはなにも同じ血や種を分けているというわけではなく,英知と一片の神性を共有しているということを悟ったのだから,彼らのうち誰一人私を損ないうる者はない。

 皇帝の残した言葉は,いっけんあまりに高潔な建前ばかりのように見えるけれども,読み進めていくと,その言葉の厳しさがこの人の深い苦しみに根ざしたものであることがひしひしと感じられる。周囲の人々にとって彼は温厚かつちょっと堅苦しい人物だったのだそうだが,もし人々がこの手記をこっそり目にしていたら,きっと彼の隠れた絶望に驚いたのではないかと思う。

ところで君はどんな被害を蒙ったのか。君が憤慨している連中のうち誰一人君の精神を損なうようなことをした者はないのを君は発見するだろう。君にとって悪いこと,害になることは絶対に君の精神においてのみ存在するのだ。

皇帝はときおり神々について言及する。実際,彼は神々の存在を確信している。でも彼は,その神々がどんな姿を持っているかとか,どんな風に呼びかければよいかとか,そういった事柄には全く関心を示さない。どうやら彼にとって,神々はあらゆる物事のなかに遍在し,すべてを支配する原理のようなものだったらしい。当然,人のなかにも神々の一部が含まれていることになる。彼が依拠したストア哲学では,人間の理性こそが,一人一人の中に埋め込まれた神だった。

君が求めるのはなんだ。生き続けることか。しかしそれは感じるためか。衝動に動かされるためか。成長するためか。つぎに停止するためか。言葉を用いるためか。考えるためか。以上の中でなにが望むに足るものと思われるか。もしなにからなにまで取るに足らないものであるならば,とどのつまりは理性と神への服従に向かうがよい。

 勤務先の仕事納めの打ち上げを終え,少々痛む頭を抱えて,乗り換え駅の本屋にふらふらと立ち寄ったら,目の前にちょうど歴史書の棚があった。分厚い専門書を適当に手にとってストア哲学の項をめくると,こんなことが書いてあった。その存在論,その宇宙観には,現代の我々にとってもはや学ぶべきことがない。しかしその高く美しい倫理性は,いまも人々の胸を撃ち,その生を導くだろう,と。

 そんな都合の良いことがあるものだろうか。ある人の信念のうち,この部分は良いが,この部分はいまいちだ,というようなことが。皇帝はまるごと信じていたのだ。善なる神々,神々によって遍く支配された宇宙,人々の心に潜む神性を。だから皇帝は,それを強く信じ続け,それによって自分を律することができた。

 俺はなにかをまるごと信じることができるだろうか。混み合った電車のつり革につかまって揺れながら考えたのは,その日に起きたあれこれのことだ。長い長い,実に長い一日だった。俺は確かこんなことを口にした。正しい判断なのかどうかわからないけれど,でもやってみようと思うんです。ほら,みるがいい,俺はもう言い訳を探し始めている。俺は俺の決断をどこかで疑っている。それが俺の弱さだ。

 自分や自分につながる人々の人生を変えてしまうような重要な決断や,心が折れそうな危機の際に,祈るべき神を持たないことは,ひとつの弱さにつながるだろう。かといって,いまこんなときばかり神社やお寺に駆け寄って頭を下げるのも,それはそれで不誠実であるような気がする。

 神々はなにもできないか,それともなにかできるか,そのいずれかだ。もしなにもできないならば,どうして君は祈るのだ。もしなにかできるならば,これこれのことが起こるようにしてくれとか起こらないようにしてくれとか祈るよりも,これらの中の何ものをも怖れず,何ものをも欲せず,何ものについても悲しまぬようにして下さいとなぜ祈らないのか。[...] ある人はこう祈る。「あの女と一緒に寝ることができますように」と。ところが君はこう祈るのだ,「あの女と一緒に寝る欲望を持たないことができますように」と。他の者は祈る。「あの人間を厄介払いできますように」と。ところが君は「厄介払いする必要を感じないことができますように」と祈るのだ。もう一人の人間は祈る。「どうか私の子どもを失うことのないように」と。ところが君は「失うことを恐れずにいることができますように」と祈るのだ。

 祈るべき神を持たない俺としては,マルクス・アウレリウスに倣って,全てのもの,全ての事柄に向かって祈ることにしよう。公園のベンチ,駅の階段の手すり,蛇口から流れる水,夕暮れの空,冬の風。そうした全てに祈ろう。私にもう一度力を与えてください。私のこの選択が正しいと,そう信じ続ける力を私に与えてください。

雑記 - マルクス・アウレリウスに倣って

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