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2010年12月23日 (木)

Louviere, J.J. (1994) "Conjoint Analysis." in Bagozzi, R.(ed.) Advanced Methods of Maketing Research. Wiley.
 社内研修の教材作成のために読もうと思って上司様の蔵書をコピーし,時間がとれずに結局読まなかった奴を,今頃になって読了。著者は斯界の偉い人だと思う。
 コンジョイント分析の現状についての紹介。ちょっと古いものだから,HB推定などという話は出てこない。重点は執筆時点における最新の話題に置かれているのだけれど(多項ロジットモデルに個人差を組み込むとか,順位づけ回答の正しい分析法とか,Best/Worse法とか),そっちはあまり関心がないので適当に読み飛ばした。むしろ,その手前の部分が面白かった。

 個人効用を推定するのと,集団レベルで効用推定するのとを比べると,素人目には当然前者のほうが気が利いているような気がするのだが,そうでもないのだそうで...

 コンジョイント分析では,与えられた属性・水準の下で,ある種の直交配列を用いて水準の組み合わせ(「プロファイル」)をつくるのが普通である。[...] 伝統的なコンジョイント技法では,たいていの場合,「主効果計画」と呼ばれる組み合わせを用いてきた。[...]
 主効果計画をつかうことのジレンマは,厳密に加法的な効用しか推定できないという点である。消費者の反応が,実は属性間の交互作用を含む効用モデルでよりよく記述できるようなものであったとしても,そのことはわからないどころか,反応過程が加法的だという想定を反証することさえできないのである。[...]
 主効果計画の過度の重視は,個人効用関数のモデル化の過度の重視と関連しているように思われる。コンジョイント分析では伝統的に,属性の水準についての個々の消費者の効用が測定されてきた。個人に特定的な効用を推定するということは,直交配列のサイズ(つまり,一人の対象者が判断するプロファイルの数)が制約されるということである。そのせいで,デザインと分析の可能性が限られてしまい,属性の交互作用の推定は全く行われないか,少数についてしか行われないのが普通となっている。[...]
 個人レベルの分析が重視されてきた背景として以下の点が挙げられるだろう。(a)コンジョイントの理論と方法はもともと個人レベルに重点をおいていたから。(b)個人の多様な選好を,どうやって累積すべきかという確たる理論もないままに累積してしまうことへの,健全な懐疑。(b)個人レベルでの測定が,消費者のセグメンテーションのための論理的でアクショナブルな基盤を与えてくれるという信念。
 これらの点は確かにもっともだが,それも消費者が誤差のない加法的効用関数を用いていればの話である。もし個人レベルの反応のなかになんらかの原因に起因する誤差が含まれていたら,どんな場合でも個人レベルの分析が最適だといえるかどうか,はっきりしなくなる。
 例として,個人レベルの効用の特徴づけにおける誤りについて考えよう。[...]選好データから加法的コンジョイントモデルをうまく推定できたとき,そのモデルは必ずといっていいほどデータに適合するし,ホールドアウトの選好データをうまく予測できてしまう。[Daws& Corrigan(1974), Wainer(1976), Anderson&Shanteau(1977)の紹介。真の選好構造がどうであれ適合するという話]
 こうしてみると,個人レベルの属性効用の測定によってセグメンテーションができるということが,果たして伝統的なコンジョイント分析の主要な長所であるといえるのかどうか,怪しくなってくる。[...] 第一に,もし個人効用関数が加法的でなかったら,バイアスを受けた効用測定に基づいてセグメンテーションをすることにどんな利点があるのか(セグメントレベルでの効用もバイアスを受けることになる)。第二に,生の反応データをつかってセグメンテーションしたほうがよいという見方が出てくるだろう(モデルに依存しないから)。[...] 第三に,反応なり効用なりはサンプリング誤差を含むのに,セグメンテーションのたいていの手法(例, クラスタ分析)は誤差のないデータを仮定しているわけであり,その仮定を破っているせいでなにが起こるのか定かでない。第四に,[プロファイルに対する反応の尺度水準の話...]

そうか,そういう見方があるのか。

恥ずかしながら,前々から不思議に思っているのは,非補償的選好モデルが正しいかもしれない問題に,にもかかわらずコンジョイントモデルを適用しちゃうことが妥当だといえるのか,いえるとしたらそれはいつか / なぜか... という点である。こんな古い論文をわざわざ読んでみたのも,そのへんについて言及があるかと思ったからである(俺のこんな疑問など,決して新しくないはずだと思うので)。果たして,まさにその点について述べている論文であったものの,著者の立場は俺の予想のはるか斜め上を飛び去っていくものであった。

 コンジョイント分析は両刃の剣である。コンジョイント分析は,コンジョイント課題から得た選好データによく適合するし,条件さえ整えば選択を予測できるだろう。しかしその予測力は真の理解を犠牲にして得られたものかもしれない。[...] 予測的妥当性についてのこれまでの学術研究で,いったい何が得られたのか定かでない。なぜなら,[...]コンジョイント調査の典型的な条件下ではコンジョイントモデルは良いパフォーマンスを示すだろうということが,アプリオリに期待できるからである。[...]
 要約すると,コンジョイント分析が学術・商用の両方で蓄積してきた20年以上の経験にも関わらず,加法的効用関数が真の決定過程の正しい表現なのかどうか,正しい表現なのはどんなときなのか,わかっていない。わかっているのは,加法的コンジョイントモデルが(全く誤っているときでさえ)コンジョイント反応データに非常に良く適合するということ,さまざまな状況下での選択をうまく予測できるということ,特に一位になる選択肢がどれか予測するのは容易だということ,である。

つまり,モデルに予測的妥当性はあったとしても,部分効用から正しい示唆が得られるかどうかは定かでない,というわけだ。そ,そういわれても。。。

論文:マーケティング - 読了:Louviere(1994)

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