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2013年12月22日 (日)

Bookcover キリスト教の歴史 (講談社学術文庫) [a]
小田垣 雅也 / 講談社 / 1995-04-28
読み終えて時間が経っちゃったので、感想も記録できないのだが... 興味深かったところをメモしておく。大正年間のキリスト教についてのくだり。人格主義的に内面化したキリスト教と、賀川豊彦のように社会運動に対応したキリスト教の二つの流れについて述べたあとで、

そしてこのような状況のなかに輸入されたのがバルト神学である。バルトは「神の言」と、宗教としてのキリスト教を区別し、上記の対立を超えた絶対他者なる「神の言」に聞くことこそが信仰であるとしたのである。信仰は文化や社会と同一水準でそれらに対立したものではない。これは[...信仰的次元と社会的次元という]近代ジレンマへの回答でもある。バルト神学は日本のキリスト教にも大きな影響を与えたが、日本でのその受け入れられ方は皮相的であった面もある。すでに触れたように、ヨーロッパでは「神の言」の神学はナチズムへの抵抗を生み出した。しかし日本でのバルト・エピゴーネンの間ではそのような運動は起きなかった。[日本のキリスト教の戦時体制協力についておさらいし] そのことの言い訳の一つにバルト神学がある。バルト神学は[...] 信仰に関して文化や倫理に積極的な意味を認めない。このことは逆に人間の責任を喚起すべきはずのものであるのに、教会が教会の中に閉じこもり、この世界に対して無責任であることの言い訳にされた面がある。その結果は教会の主体性の喪失である。これはバルト神学に対するみじめな誤解であるが、それと共に、[内村鑑三の掲げた] 二つのJ的な心性、すなわち自分の国の文化や伝統を尊重する心性を欠いた、神学の直輸入は、なんの意味もないばかりか、逆に有害であることの例である。

うーん。著者の先生はきっと、正しい信仰は世界に対して正しい責任を果たす、と信じておられるのだ。特に信心を持たない私のような俗人としては、その前提自体が容易に受け入れがたく、どんな信仰者であれナチズムに加担したり抵抗したりするだろう、信仰の正しさは行為の正しさを保証してくれないだろうし、行為の正しさの側から信仰の正しさを基礎づけるのは話が逆転している、と思ってしまうのだけれど。

哲学・思想(2011-) - 読了:「キリスト教の歴史」

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