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2018年6月 4日 (月)
木山幸輔 (2017) RCT至上主義とその問題:E・デュフロと開発経済学の潮流について. 同志社グローバル・スタディーズ, 8, 93-113.
最近、仕事の関係で「ABテスト最高!」的な発想、いわばRCT至上主義に出会うことが多く、ううむ、それは場合によるのでして...と心のなかでぶつぶつ反論したりすることがある。なにかの足しになるかと思って読んでみた。あまりに魅力的な題名なもので。
えーっと、開発経済学という分野には、最近「RCT至上主義者(ランダミスト)」と呼ばれる立場があるのだそうだ。その代表的研究者であるDufloという人の立場を紹介し、批判する論文であった。この人には「貧困と闘う知」という著書があり、訳書もある模様。面白そうだな、今度読んでみよう。
蓋を開けてみたら、「RCT至上主義」という題名から想像していたのとはかなりちがう内容だったのだが、それはそれで面白かった。勉強になりましたです。
以下、読みながらとったメモなのだが、とにかく全くの門外漢なので、全然信用できません。
- 人は、将来的に利益になる行為とを短期的な利益を秤にかけて後者をとり、結局は損害を被ることがある(腸内寄生虫を除去しないとか、健保に入らないとか)。これに介入する公共政策は正当化できるか。デュフロさんは正当化できると考えた。しかし著者いわく、これは怪しい。なぜなら、(1)人は自分の時間選好を問題として捉えず、むしろ肯定的に捉えているかもしれない。(2)善は多様、リスク評価も多様なのかもしれないのに、これを尊重してない。
- RCTを設計するときや、RCTから得られた結果を解釈したり一般化したりするとき、RCT以外の方法で蓄積された知が必要になるし、デュフロさんも実際にはそうしている。いっぽうでデュフロさんはRCTに集中しようと主張している。もしそれが資源をRCTに集中するという話なら、それはちょっとまずいんじゃないでしょうか。[←なるほど...]
- デュフロさんには施策の「意味」を軽視するきらいがありませんかね。たとえば調査対象をとりまく社会的文脈。デゥフロさんは教員の「欠勤率」が高いことをもって教員のモチベーションの低さをみなすが、教員が村落の「知識人」としての機能を果たしている場合もある。社会システムを無視して教育システムだけのなかで内部最適化を図ってていいのか。
- 実験結果にはエコロジカル妥当性(調査環境と調査から得られた知見を適用したい環境とがちがうかもという問題)と外的妥当性の問題が付きまとう。後者については「人間社会に本質的な要素、それはこれこれだ」という想定が必要になるけど、帰納的に考えるとスカスカになってしまう(「ええと、人間はニーズを有するよね...」とか)。逆に、まず人間の本質を考えてそこから社会の本質的要素を演繹していくとしても、その本質的要素が社会のなかに遍く存在するかどうかはわからない。
云々。
いやもう、ど素人もど素人なので、全然よくわかんないんですけど、「あるアウトカムに対するある施策の効果測定という課題がある、RCTで推測しましょう」という、(外的妥当性という難問を含むとはいえ)価値フリーでノンシャランな話と、いやあなた、その課題設定自体が暗黙のうちにコレコレな価値にコミットしてない?社会的文脈を軽視して局所最適に墜ちてない?といったもっと大きな話とは、マーケティング・リサーチの場合ならば、それはもう、スパアッ!ときれいに分けちゃうわけである。その良し悪しは別にして。
しかしこの論文にはその両方が入り組んだ形で入っているし、きっとこの論文が扱っている分野では、そうそうきれいに分けられないんだろうなあ...と思った。そこんところは教育測定によく似ている。
論文:その他 - 読了:木山(2017) RCT至上主義 (in 開発経済学) とその問題