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2019年9月30日 (月)
コミュニティ (ちくま学芸文庫)
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バウマン,ジグムント / 筑摩書房 / 2017-12-07
ここんところずっと鞄のポケットに入っていた本。原著は2001年。面白いんだけど、難しい...
いくつかメモ:
- コミュニティ(ゲマインシャフト)と近代社会(ゲゼルシャフト)とのちがいは、前者においてはすべてのメンバーがひとつの理解を共有しているという点。その理解(コンセンサスではない)は暗黙的で自明であり、語られない。コミュニティが壊れるとき、その代用品としてのアイデンティティが生まれる。(1章)
- 近代資本主義には2つの傾向があった。(1)コミュニティの自然な「理解」を、人工的・強制的ルーティンによって置き換えようとする傾向(cf. テイラーの科学的管理法)。(2)コミュニティ感情を無から復興・創造しようとする取り組み(cf. メイヨーら人間関係学派)。(2章)
- 40年代にバーナムが提唱した「経営者革命」とは、所有者に対する経営者の勝利であり、経営者と従業員の相互関与の物語であった。やがて規制緩和、不確実性、撤退の時代が到来した。(3章)
- 成功者は精神的・道徳的な脱領域性を求める(cf. ゲーテッド・コミュニティ、グローバル・エリートのコスモポリタニズム)。(4章)
- 成功者はコミュニティから逃走するが、彼らもまたコミュニティなき生活のリスク社会化・アノミー化に気づき、不安のなかで専門家の権威に頼る(カウンセリング・ブーム)、ないし多数者の権威に頼る(偶像・イベント・関心事を中心とした美的コミュニティ経験)。美的コミュニティは倫理的責任のネットワークを形成しない。(5章)
- 液状化した近代において、政治的戦略家は、実質性・包括性を目指す社会的公正のモデルを放棄し、かわりに形式的・無制限な人権の原理を支持する。つまり、制限からの解放という近代的情熱によって突き動かされつつ、最終目的についてのビジョンを持たない(近代主義なき近代)。文化的差異の承認を求める闘争が差異の絶対化を促す。この闘争を、平等のための再配分の闘争と再統合することによって、承認への努力は相互関与や対話を育む土壌となるだろう。(6章前半。この章は他の章に増してわかりにくい...)
- 近代以前、剥奪に関する不満は不平等からではなく、昨日の状態との比較から生じた。近代社会は人が幸福になる権利のあることを宣言し、相対的剥奪は通時的なものから共時的なものに転じた。剥奪を受けている人々がともに闘うようになるには、(1)自分の利害がわかる典型的な状況が同一ないし類似しているという事実、(2)利害対立が重大な局面にある際に敵対者に注意を向けることができること、(3)容易に団結しうる技術を持つこと、が必要である。しかし現代においてはこのいずれも満たされない。準拠集団は崩壊し、相対的剥奪という概念は個人化した。このことが、平等への要求を衰退させ、承認の要求を文化主義的に変形させた。(6章後半)
- エスニック・マイノリティは外部からの囲い込みの産物である。国民国家建設というプロジェクトは民族的コミュニティに同化と消滅という2つの選択肢を押しつけた。そこで生じるコミュナリズムは国家による強制収容の産物であった。現在、グローバリゼーションによって国民国家が次第に権力を失うとともに、領域的政府は脱領域的な市場の力に協力しはじめ、地球全域に民族的ディアスポラが広がっている。排他性を強化し合う悪循環を打破する政治的代理人はどこにもいない。(7章)
- グローバリゼーションの途上において地理的場所への人々の関与はむしろ増している。実存的不安が安全としてのコミュニティへの欲求に転化し、自発的ゲットーを生み、さらなる社会的分解をもたらす。(8章)
- 現代においては、権力や支配は撤退という新しい戦略をとる。規範による統制は過剰という誘因力に置き換わった。多文化主義とはこの状況への服従の宣言に過ぎない。(9章)
ノンフィクション(2018-) - 読了:「コミュニティ 安全と自由の戦場」