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2007年6月 4日 (月)

 先週だったか,新聞に子どもの生活についての調査研究が紹介されていた。いわく,小学5年生を対象にした調査で,起床時間と「学校が楽しいかどうか」との間に相関が見られた由。早起きの子どものほうが,学校を楽しいと感じている割合が高いのだそうだ。ふうん,と適当に読み流して,それきり忘れていた。
 ところが,数日前にぼんやりネットを眺めていたら,この調査をぼろくそにやりこめている人がいた。あれこれ見てみると,そういうブログがたくさんあって(一例),ちょっと驚いた。なんというか,世の中には正義感に満ちた人が多い。
 批判や罵倒の数々を眺めているうち,なにやら形容しがたい感情がこみ上げてくるのを感じて,自分でも意外であった。以来数日,このことをあれこれ考えていたのだが,これは誰が悪いという話ではなくて,構造的な問題なのではないか,と思い至った。

 生活サイクルの地域差を指摘するものから,学者はみんなアホばかりだ式の悪口まで,ブログにみられる議論のレベルは様々だが,批判の主旨を煎じ詰めると,(1)標本に無作為性がない,(2)因果関係はわからない(早起きのせいで学校が楽しくなるわけではない),という二点に尽きるように思う。
 (1)はまた別の話になるので横に置いておくとして,(2)については,なるほどその通りだ。起床時間と学校の楽しさに相関があるとしても,どちらが原因でどちらが結果かはわからないし,そもそもこの2つの変数は共になんらかの変数の影響下にあるのかもしれない(たとえば,東京圏よりも地方都市の子どものほうが早起きで,かつ学校を楽しく感じるのかもしれない)。ではこのツッコミは,この調査に対して(ないし報道に対して),果たして正当な批判となっているだろうか。
 たとえば朝日新聞の記事(05/29)はこうだ。

早起きの子どもは学校が好きで、楽しいとも感じている――。早起きと学校好きの間にそんな関係があることが、教育学や食物学の専門家でつくる「子どもの生活リズム向上のための調査研究会」の調査でわかった。

調査の概要が述べられ,最後に

「研究会代表をつとめる明石要一・千葉大教授は「起床が早く、バランスのいい朝食を食べている家庭は、生活にリズムがある。学校も家庭も、もっとこの問題に関心を持ってほしい」と話す。

早起きの「せいで」学校が好きになるとは,どこにも書かれていない。他社の記事では別の知見が紹介されているが(朝食が和食の子どものほうが早起きだ,云々),書き方は同様である。記事で述べられているのはあくまで相関的知見であって,因果的知見ではない。「××な人は○○の傾向がある」という記述を「××であることは○○をもたらす」と勝手に読み替えるのは,あまりに軽率というものだ。そんな読み方が許されてしまうようでは,相関の記述などおよそ不可能になってしまう。
 この調査の報告書を読んだわけではないけれども,生活スタイルと学校への態度の間に因果関係が主張されているとは思えない。横断調査から因果関係はわからない,というのは調査のイロハであり,研究者はもちろん新聞記者だって先刻ご承知である。鬼の首を取ったかのように悪口を書く前に,もう少し丁寧に文章を読んだほうがよいのではなかろうか?

 と,いうのが最初に感じたことなのだが,あれこれ考え合わせると,この人たちの言うことにもそれなりの説得力はあるのかもしれない,と思う。
 たとえば上記のように,早起きの「せいで」学校が好きになるわけじゃないだろう,と批判する人がいる。そんなことは記事のどこにも書かれていないわけで,あきらかに勇み足である。しかしもしこれらの報道を,多くの人が因果的説明として理解しているとしたらどうだろうか。現に,いまwebでこの調査について言及しているブログを検索してみたら,その半分は「くだらない調査だ」というツッコミだが,もう半分は「なるほど,規則正しい生活って大事だ」「やっぱり朝は和食にしようかしら」といった,驚くほど素直な感想なのである。こうしてみると,勇み足にも理由がないとはいえない。
 この学者たちは学校の問題を家庭に押しつけようとしてるんじゃないかしら,と嫌悪感を示す人もいる。もちろんこれは,批判というよりは勘ぐりである。しかし,研究会代表である教育学の先生は,中教審分科会委員を勤める,文教政策に関わりのある学者である。この調査もおそらくは,文科省が只今鋭意推進中の「早寝早起き朝ごはん」国民運動と関係があるのだろう。決して無理な勘ぐりとはいえない。
 
 というわけで,あちこちで目にする批判は,正当とはいえないけれども,社会的文脈を踏まえれば一定の意義を持っているのかもしれない,と思う。
 にもかかわらず --- ここからが本題なのだが --- ブログをあれこれ眺めるうちに,なんともいえない感情がこみ上げてくる。ありのままに言ってしまえば,強い不快感といらだちを感じる。いったいなぜだろう?

 上記調査についての各社の報道を,いまwebで眺めていて感じるのは,ああみんな上手く書くものだなあ,ということである。 
 日経の記事はこうだ:

 主食と主菜、副菜、一汁の4品がそろった朝食を食べている小学5年生の61.8%が「学校がとても楽しい」と感じていることが28日、千葉大の明石要一教授(教育社会学)ら研究者グループが2006年に実施した調査でわかった。

あくまで相関の記述に留まっている。実に正しい文章である。しかし同時にこの記事は,「朝食が学校への態度に影響する」という因果関係を読み手にうまく暗示している。この因果関係は,家庭生活が大事だ,という社会的通念と合致しており,それゆえにわかりやすい。こういうところが,ああ上手いなあ,と思う。
 書き手の立場で考えると,相関の記述だけではつまらないのである。人は常に説明を求める。学校が楽しいと感じる子どもの特徴について知りたい,などという奇特な人はいない。その子たちはなぜそう感じるのか,学校を楽しい場所にするためにはどうしたらよいのか。人は理解可能な原因,実行可能な方策を求める。だから書き手は,たとえそれが横断調査の結果に過ぎないとしても,つまり手元にあるのは相関的知見だけであるとしても,嘘にならない範囲内で,なんとかして因果的なニュアンスを醸し出そうとする。こうしてセクシーな報告ができあがる。
 だから,たとえばこういう文章を書いてはいけない。

 「学校がとても楽しい」と感じている小学5年生には,主食と主菜、副菜、一汁の4品がそろった朝食を食べている傾向があることがわかった。

同じく相関を記述しているのだが,このタイプの文章を読むと,多くの人が「わかりにくい」という(おかげで,俺は延々悩んだことがある)。正確には,わかりにくいのではない。ただセクシーさに欠けるのである。なぜなら,(社会的通念によって想定されるところの)結果側が先,原因側が後に書かれているせいで,因果的なニュアンスを読み取るのが難しくなっているからである。
 さらに高度な例を朝日の記事にみることができる。先生のコメントの素晴らしさといったらない。「起床が早く、バランスのいい朝食を食べている家庭は、生活にリズムがある」 よく読むと,この文には特になにも述べていない。ある種の家庭のありかたを,「生活にリズムがある」という言葉で形容しているだけである。にもかかわらずこの文章は,ああ生活のリズムが大事だなあ,と読み手に感じさせてくれる。内容がないのにわかりやすさだけが感じられる。これが技術である。
 
 では,責めるべきは新聞記者なのだろうか。彼らは文章上のテクニックによって,ただの相関関係を因果関係に見せかけ,「早寝早起き朝ごはん」国民運動のお先棒をかついでいるのだろうか。マクロにみれば,そういう批判も可能かもしれない。しかしミクロにみたとき,そこにあるのは単なる仕事熱心さだと思う。読み手の関心を少しでも惹き付けようとするのは,書き手にとって当然の工夫である。
 教育学者たちを責めるべきだとも思えない。彼らがなにを推進しようとしているにせよ,子どもの家庭生活と学校生活の関係を調べる調査には一定の価値があると思う。そのメディア向けリリースの際に,「朝ごはんが子どもにとって大事だ」という信念なり,社会的通念なりが顔を出しても,それは仕方のないことだ。
 この記事を読んで,ああ朝ご飯は大事だなあ,と素直に信じる人がいたとしても,その人を馬鹿にする気にはとてもなれない。調査結果からなにを読み取るのかはその人の勝手である。
 では,ブログでこの調査を罵倒し,マスコミと学者と無知な大衆を馬鹿にする人たちはどうだろうか。上で考えたように,その(いささか軽率な)批判にも,ある種の意義があるのかもしれない。でも,彼らは結局のところなにも破壊していないし,なにも建設していない。
 相関は因果を意味しない,という指摘は正しい。しかし,相関から因果を読み取ろうとする人々を押しとどめることはできない。新聞記事を読んで早起きは大事だと得心したお母さんは,なるほどあなたの仰る通りかもしれません,この調査結果は早起きが大事だということの直接の証拠にはなっていないんでしょうね,でもわたしやっぱり早起きって大事だと思うわ,というだろう。研究者たちにしたところで,仰るように学校の楽しさを支える因果的メカニズムについては今後の研究課題です,わざわざご指摘頂いてどうも,というのが落ちである。この手の批判者が何人いても,たとえば「早寝早起き朝ごはん」国民運動はとまらないのである。皮肉な言い方をすれば,そうやって批判することで自尊心を満たすことができたんだから,あなたもこの調査の受益者のひとりなんじゃないか,という気がしてしまう。
 どこにも悪い人はいない。それぞれの行いは正しい。でもマクロにみると,つまらない調査が量産され,根拠のない因果的説明が漠然と宙を漂い,社会を不可思議な決定へと導いていく。あえていうならば,調査者も伝達者も受け手も,全員が共犯なのではないだろうか。

 延々と書いてきたけれども,実はこの話はどうでもよくて,書きながら念頭にあるのは,いまの仕事であるところの市場調査のことである。調査会社,発注側の担当者,調査報告の受け手の全員が,誠実に調査にあたり誠実に報告し誠実にそれを批判し,でも結局はあいまいな共犯関係から抜け出ることができない,そんな事態がありうるのではないか,そのループから抜け出すためにはどうしたらいいのか,などと考えこむわけである。

雑記:データ解析 - 「早起きの子どもは学校が好きだ」