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2015年4月15日 (水)

Hoek, J., Gendall, P., Esselemont, D. (1996) Market segmentation: A search for Holy Grail? Journal of Marketing Practice, 2(1), 25-34.
 調べものをしていてたまたま見つけたもの。いちおう論文なんだけど、内容は啓蒙的エッセイという感じ。掲載誌もみたことのない雑誌で(CINIIによれば大学図書館所蔵は3館)、なんだかよくわからん。

 市場セグメンテーションはマーケターの常識のひとつだ。でもビジネスがうまくいかなかった時、その原因はいろんな要因のせいにされるけど、「セグメンテーションが悪かったんだ」って反省することは少ないよね。ほんとはセグメンテーションなんて大概ろくな結果を招かないんじゃないの? と、煽りに近い前振りがあって...

 セグメンテーションにおいてリサーチャーが決めないといけない事項をリストアップすると:

解釈上の諸問題:

 結論。セグメンテーションには主観的判断が多く含まれる。リサーチャーはリサーチの方向性と知見を事前に規定している暗黙的な理論の存在に気が付いていない。必要なのはデータ解析のテクニックではなく、セグメンテーションのためのデータ解析戦略を構築することなのに、リサーチャーはそれに気が付かない。
 マネージャーのみなさん、セグメントの妥当性が確認されるまで結果を信じてはいけません。妥当性が確認されたとしてもアクションは自分で決めないといけません。

 ううむ。。。
 エビデンスに基づき意思決定を支援するという活動に対し、そこには主観的判断が入っているよね? 客観的でないよね? と指摘しても、その活動の価値を下げることにはならないし、改善する必要があるとも言い切れないのではないかと思う。たとえば、その優れた主観的センスを酒造りに生かしてはいるが、実はさまざまな測定機器を駆使しないと手も足も出ない、という新世代型の杜氏さんだっているかもしれない。主観とエビデンスは相互作用しながらひとつのシステムとして機能する。その機能が優れていればなんの問題もないだろう。
 この論文の話題に即して言うと、セグメンテーションのプロセスには、なるほど、さまざまな主観的判断が入っている。だからといって、そのことがセグメンテーションという活動の限界となっているとは言い切れないと思う。著者らは「マーケターはセグメンテーションの結果を懐疑的に捉えないといけない」と仰るし、まったくその通りだと思うけど、そのことと主観的要素の有無とは別の話題だ。正しい主観的判断をうまく引き出せているおかげで、信頼できる結果が得られているかもしれない。あたかも自動販売機のように自動化されたセグメンテーション手続きが開発されたとしても、そのアウトプットはやはり懐疑的に捉えないといけないかもしれない。
 だから、著者らの主旨を勝手に汲み取ると、先生方が本当に主張しないといけないことは、(1)セグメンテーションは主観的な判断を含んでおり(2)「それゆえに」失敗しやすいのだ、ということなのではないかと思うのである。後段を説得的に示すのは、もちろん難しいことではあろうけれど...

論文:マーケティング - 読了:Hoek, Gendall, & Esselemont (1996) セグメンテーションという見果てぬ夢

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