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2014年12月 8日 (月)
Wilson, A.D. & Golonka, S. (2013) Embodied cognition is not what you think it is. Frontiers in Psychology, 4(58), 1-13.
無駄に強気な題名だが、要するに、認知科学における身体化認知(embodied cognition)研究の批判的レビュー。
序文によれば、身体化認知という概念が多義的に用いられているという指摘はすでにあるそうだ。Shapiro(2011, 書籍), Wilson(2002, Psychon.Bull.Rev.)というのが挙げられている。よく見たら、後者はこの論文の著者ではなくてUCSCのMargaret Wilson、以前手話の研究をしていた人だ(こんなことを覚えていても仕方ないのだが)。
著者らいわく。
認知科学の出発の時点では、知覚情報の貧困が強調されており[マーとアーヴィン・ロックが挙げられている]、認知科学は心的表象とその利用のされかたをその中心課題としてきた[Dietrich&Markman(2003, Mind&Lang.)]。いっぽうギブソンの直接知覚論から身体化認知という概念が生まれた。それを文字通り取れば、概念とか内的能力とか知識とかは、脳と身体と環境に分散する、全然違うタイプの対象と過程(知覚-行為の非線形的・動的システム)にとって換えられることになる。これがShapiroのいう「置換仮説」である。
身体化認知研究が取り組むべき問いは4つある。
- Q1. 生体がそのときどきに解決している課題はなにか。
- Q2. その際に生体がアクセスしている資源はなにか。
- Q3. それらの資源をどのように組み合わされば課題が解決できるか。
- Q4. 生体は実際にはどのように資源を組み合わせて使っているか。
実際の研究をみてみよう。
研究例1. ロボット。
- 初期の研究にMaris & te Boekhorst(1996, Proc.)というのがある。Didabotsと呼ばれる、単純なセンサーと制御構造しかもたない小さなロボットの群が、結果として部屋を片付けちゃう、という話。[こういうロボティクス研究について詳しくはR. Pfeiferの本を読め、とのこと。調べてみたら2冊とも訳が出ている: 「知の創成」「知能の原理」]。
- 歩行。歩行の最終的な形式についての表象なしに歩行を可能にするアルゴリズムが開発されている。
- メスのコオロギのオス選択。[詳細略。詳しくはBarrett(2011, 書籍)を読めとのこと。これも訳がある:「野生の知能」。この分野は読者層が厚いようだなあ]。
みよ、これらの研究はQ1, Q2, Q3に答えている。
研究例2. 動物。鳥の群れは個体の行動の単純な3つの原理(separation, alignment, cohesion)で説明される、とか。狼の狩りとか。Portiaっていうクモの話とか。[パス。眠い...]
研究例3a. 野球の外野手はどうやってボールを取るか。標準的な説明は、軌跡を内的にシミュレーションして予測する、というもの。これに対し、身体化認知アプローチはこう答える。
- Q1. 生体がそのときどきに解決している課題はなにか。正しいときに正しい場所に居られるように移動することだ。
- Q2. その際に生体がアクセスしている資源はなにか。[ここ、なにかすごく深いことを仰っているかと思って逐語訳してみたが、法外に回りくどいだけであった。ガッデム]
利用可能な資源のすべてを同定するために、我々はまずボールが飛ぶという出来事の物理的な諸特性を理解しなければならない。この出来事は時間を通じて明らかになり、その基盤にあるダイナミクス(つまり、システムが時間を通じてどのように変化し、その変化がどんな力によって産み出されているかを記述するもの)によって区別される。この例で言うと、この問題に関連するダイナミクスとは、発射物の動きである。ここで例に挙げている発射物の動きのダイナミクスは、そのはたらきのなかで、観察者が検出・利用可能な運動学的(kinematic)な情報を産み出す。運動学的記述は、システムががどうやって変化するかだけを含んでおり、その基盤にある力については言及しない。知覚システムが検出できるのは運動学的なパターンだけである。いっぽう観察者が本当に望んでいるのはその基盤にあるダイナミックな出来事について知ることである。これが知覚のボトルネックである。しかし、運動学的情報はその基盤にあるダイナミクスを特定(specify)できる。運動学的パターンを検出するということは、その基盤にあるダイナミクスを知覚するということと等価である(Gibsonいうところの、ボトルネック問題の解決、そして直接知覚である)。したがって、外野手が将来のボールの位置に対して行為する、その行為を連続的にガイドしている情報は、運動学的情報であり、ボールの将来の位置に特定的なものであるに違いない。
バッターはボールの軌跡の初期状態を与える。その後、発射物の動きのダイナミクスに従い、ボールの飛翔があきらかになる。発射物の動きのダイナミクスは、放物線状の軌跡に沿った動きを産み出す。その運動形式とは、ボールがまず上昇し、頂点に達するまで加速度を減らし、頂点において速度0となり、今度は加速度を増しながら落ちていくという形式である。この動きは観察者に利用可能な運動学的情報である。
なお、外野手は自分自身の資源も持っている。すなわち、運動学的情報を検出し、野球場において任意の軌跡にそってさまざまな速度で移動する能力である。 - Q3. それらの資源をどのように組み合わされば課題が解決できるか。2つの方略が考えられる。(1)optical acceleration cancelation(OAC)。ボールのパスに沿って、ボールが等加速度で動いているように見えるように走る。(2)linear optical trajectory(LOT)。ボールが直線の上を動いているようにみえるように横移動する。どっちの方略がよいかはボールとの相対的位置によって決まる。なお、どちらの場合も、ボールの将来の位置の予測なんてしてない点に注意。
- Q4. 生体は実際にはどのように資源を組み合わせて使っているか。実際の外野手の動きを観察すると、たいていはLOT、場合によってOACに整合することがわかっている。
研究例3b. ピアジェのA-not-B エラー。乳児から直接見えない位置Aにモノを隠してみつけさせるのを繰り返した後、目の前でモノを位置Bに隠すと、7ヶ月から12ヶ月ぐらいまでの乳児に限り、なぜかAを探しちゃう、という話。標準的な説明にはいろいろあるけど[それはもう腐るほどあるでしょうね]、おしなべていえば、(注視で調べられるような)コンピテンスと、(探索行動で示される)パフォーマンスを区別する。これに対して、Thelen et al. (2001, BBS)は身体化認知アプローチで説明していて...
- Q1. 生体が解決している課題はなにか。これは難しい。Thalenらは乳児のパフォーマンスに影響しそうな資源のリストをつくっている。連続的視覚入力、実験者によって喚起された注意、遅延、視覚的にガイドされたリーチ、記憶。
- Q2. その際に生体がアクセスしている資源はなにか。上記のすべて。モノの概念は含まれない。
- Q3. それらの資源をどのように組み合わされば課題が解決できるか。[Thalenらのモデルについての説明。さっぱりわからんので省略するが、運動野が情報をポピュレーション・コーディングで符号化していて...というような話みたいだ。知らんがな]
- Q4. 生体は実際にはどのように資源を組み合わせて使っているか。モデルの予測によれば、リーチングを複雑にしてやれば大人でもA-not-Bエラーが起きるはずで、実際にそうだ。云々
さて、身体化認知の研究の多くはこういう「置換仮説」ではなく「概念化仮説」に属している。すなわち、我々の世界認識は身体に制約されているのだ、という仮説。たとえばLakoff & Johnson のコモン・メタファーがそうだ。概念とその使用が身体に支えられているという話であって、概念を別の過程に置き換えようとはしていない。この路線の研究例を2つ挙げよう:
- Earland, Guadalupe, & Zwaan (2011, Psych.Sci.): 被験者に、たとえばエッフェル塔の高さを評定させる。その際に姿勢を左に傾かせると、評定値がちょっぴり小さくなる。量の心的表象が、左から右に向かって大きくなる数直線の形をしているから。
- Miles,Nind, & Macrae (2010, Psych.Sci.): 未来について考えているとき膝は前に傾き、過去について考えているとき後に傾く。
こういう研究は課題について分析していないし、課題解決時に利用できる資源についても分析していない。課題が認知過程によって内的・表象的に解決されているというのが前提になっており、ただその過程が身体状態によって左右されているだけだ。外野手はボールを捕るために動かなければならないし、赤ちゃんはA-not-B課題のために手を伸ばさなければならない。そこで引き起こされるダイナミクスが行動を構造化するのだ。しかるにエッフェル塔の高さは体を傾けなくても推定できる。この手の研究は身体を課題解決に必要不可欠な資源として捉えていないので、課題解決における身体の役割を説明できないのだ。[なんだかお怒りのご様子です]
身体化認知のこれからの研究領域に言語がある。ここでは言語行動において利用される資源について考えよう。Chemero(2009, 書籍)はBarwise&Perryの状況意味論に基づき... 云々[よくわからんのでパス。語の意味をどう学ぶかと問うのではなく、言語情報の使用と反応をどう学ぶかを問え、とのこと]。Barsolouみたいに心的シミュレーションを考える立場とか、Glenbergの行為-文一致効果とか、Stanfield & Zwaan (2001, Psych.Sci.)の絵-文検証課題とか、ああいうのは課題分析をやってないからみんなダメだ。云々。
左様でございますか...
この先生の立場からいうと、身体化認知を名乗るためには、心的表象という概念を葬り去るべく日々努力せねばならんわけである。そう主張するのは勝手だが、embodiedという概念に多くを負わせすぎじゃないか、ちょっと行き過ぎじゃないか、という気がしてならない。別にいいじゃん、表象主義の内側から身体に着目したって。
話がここまでくると、素人の耳には、昔のヒットチャートのリバイバルのようにも聞こえますね。たとえば野球の外野手の話、表象主義的な説明がそこまで嫌いなら、いっそなにもかもスキナー型条件づけで説明しちゃえばいいんじゃないかしらん。何度も練習していて、ボールが取れないと嫌悪刺激が随伴するんだから。言語の意味ではなく使用を問えという話だって、ただのスローガンでよろしければ、ウィトゲンシュタインの昔から綿々と続いている。いやそういう問題ではない、メカニズムをあきらかにするところが認知科学なんだ、って叱られちゃいそうですが、だとしたら、頑張ってください、としかいいようがない。
論文:心理 - 読了:Wilson & Golonka (2013) この身体化認知は出来損ないだ。明日ここに来てください、本物の身体化認知を見せてあげますよ