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2015年1月13日 (火)
メモをとりつつコリコリと読んでいた Shapiro (2011)、ついに最後の章。「心は脳と身体と世界でできているんだよ」派(構成仮説)への批判である。勝手に忖度しますけど、著者にとってたぶんもっともどうでもよい章だと思う。概念化仮説批判の章に比べると、熱意もちょっと下がっている感じ(私の熱意が下がったからそう思うだけだろうか...)。
[6.1] 標準的認知科学は心が脳の中にあると考えるのに対して、構成主義仮説は身体が心の構成要素だと考える。さらには世界も心を構成していると主張する人もいる (extended cognition)。
なにかが認知過程を「構成している」というのは、単に「因果的な影響を与えている」のではなく、それがなくなったらその認知過程じたいが存在しなくなってしまう、ということである。結局、構成仮説の是非は、「認知」とはなにを意味しているのかという問いである。
[6.2] 脳を水槽につけてコンピュータにつなぎ、あたかも身体があるかのように入出力信号を処理したとしよう。(1)もし脳の外側の過程が認知の構成要素ならば、脳だけでは認知には十分でない。(2)水槽の脳は認知している。(3)ゆえに、脳の外側の過程は認知の構成要素でない。... この議論に対してClarkは、じゃあ視覚野なりどこなりを切除してコンピュータに置き換えたと考えてくださいよ、と反論するけれど... 云々[略]。
これに対して構成仮説の支持者は (2)を否定する。
[6.3] 心理学者O'Regan, 哲学者Noeの知覚経験の理論について(O'Reagan & Noe, 2001 BBS)。[...説明省略...] Gibsonと同様に知覚を不変項の観点から説明し、さらに視覚経験を感覚運動随伴性の過去経験についての知識に基づいて説明する。[...わけわかんなくなってきたので省略 ...] これに対してAizawa らの反論もあって... [略]
[6.4] [さらにAizawaという人の批判が延々続く。略]
[6.5] ジェスチャーは単なるコミュニケーション手段ではなく、思考と深く関わっている。ではジェスチャーは思考の構成要素か、それとも因果的に貢献しているだけか。
[6.7] Clarkによれば、そこには要素のcouplingがあるから構成要素だ。これに対してAizawaは、子供「なぜ鉛筆は2+2=4だと考えるの?」Clark「それはね、鉛筆が数学者とcouplingしてるからだよ」ということになるじゃんと批判する。いっぽうClarkは [... めんどくさい。省略!!!]
こんな感じで延々と議論が続く。後半はClark & Chalmersのparityという議論とか(もしガチョウのようにあるきガチョウのように鳴きガチョウのように飛ぶものがいたらそれはガチョウか、ってことは手帳は記憶か)、計算主義を維持しながら構成仮説を採用する立場とか、さらに過激なextended cognition説とか。いちおう目は通したけど、メモを取る気力は尽きた...
せっかくなので、最後までメモをとっておくことにする。Shapiro (2011) の第5章、身体化認知に関する置換仮説について。具体的には、ダイナミカルシステム理論と反表象主義ロボティクスについて。
[5.1] 置換仮説は認知についての計算論的説明を拒否し、表象の必要性も疑問視する。主にダイナミカル・システム理論(DST)と自律ロボット研究に由来している。
[5.2] DSTは、まずダイナミカルシステムの行動を記述し、部分が変化する可能な方法をすべてmap outする(これを状態空間という)。[... 以下、用語の説明が続く。略] たいていのシステムはダイナミカルシステムである。
[5.3] van Gelder(1998,BSS)のダイナミカル仮説 (DH) によれば、(1)認知エージェントの本質を特徴付けるのはダイナミカルシステムであり(2)認知はダイナミカルなものとして理解しなければならない。
[5.4] ワットの遠心式調速機(centrifugal governor) について [... 説明略]。これはDSTで上手く記述できる。van Gelderにいわせれば、計算論的には説明できない。なぜなら(1)ステップの系列ではないから。(2)表象がないから。ただし、あらゆるダイナミカル・システムの説明に表象の必要がないとは限らない。
[5.5] さて、DSTが認知に対して適切だ(DH)と主張される根拠は何か。(1)認知システムの要素が時間とともに連続的に変化するから。(2)脳、身体、環境がダイナミカルに相互作用するから。ここでembodimentとは脳ー身体相互作用、situatedとは身体-環境相互作用を指す。(3)行動が自己組織化しているから。(4)脳と身体と環境を同じ言語で統一的に説明できるから。
[5.6] Randy Beerのカテゴリ知覚研究について [... 説明略。上から落ちてくる図形を見分けて捕まえたりよけたりする自律エージェントを再帰NNでつくるという話。カラー図版までつけて真剣に説明してくださっているが、難しくっていまいちよくわからない。2003, Adaptive Behavior]
[5.7] そもそも説明とはなにか。[...略] 遠心式調速機について説明する際には、部分と部分間のつながりについて述べる手と、DSTみたいに差分方程式を並べる手がある。後者に対してはただの記述ではないかという声もあるだろうが [...云々云々とちょっと哲学的な話が続く。このくだり、話の筋を見失ってしまったので省略]
[5.8] 60年代末のsense-model-plan-act型ロボットShakeyは失敗した。そこでBrooksはサブサンプション・アーキテクチャを持つ行動ベースのロボットAllen, Herbertを開発した。[... 云々。要はサブサンプション・アーキテクチャについて説明する節である。] BrookはDST以上に反表象主義である。
[5.9] そもそも表象とはなにか。それははなにか別のものの"stand-in"であり、かつ、stand-inとして使われているものである。ドレツキは次のように考えた。脳状態Bが特性Fを表象するのは、BのトークンがFのトークンと相関しているときである。このときBはFのインディケータである。カエルがハエをみたときの脳状態はハエのインディケータである。それはハエを表す生物学的機能として進化的に獲得されたものだ。だからたとえばカエルがうっかりボールベアリングに飛びついたとしても、そのときの脳状態はやはりハエのインディケータだ。この議論を人間の視覚システムに拡張するのはいろいろ工夫が必要だけど。
遠心式調速機に表象は存在するか? van Gelderによれば存在しない。別のものとの相関を持つ部分はあるけど、表象として使われているものはないから。いっぽう哲学者Bechtel、Prinz, 心理学者Barsalouらは表象が存在すると考えている。エンジンの速度が上がるとフライボールが上に上がる、つまりエンジンの速度と相関しているだけでなく速度の表象として用いられているじゃん、という説明。いやしかし[... と、すごく細かい話に突入していく。わかんなくなっちゃったのでスキップ。著者は遠心式調速機に表象がないという考え方を支持している模様]
では、認知システムに表象は不要だといえるか。van GelderやBeerの議論はこうなっている。(1)表象は実際の事物のstand-inだ。(2)エージェントは相互作用すべき事物と連続的に接触している。(3)もし(2)であれば、エージェントはそれら事物とのstand-inを必要としない。ゆえに、エージェントは実際の事物のstand-inとなる表象状態を必要としない。... (3)が怪しい。連続的に接触していているだけではだめで、そこから得られる情報にアクセスする手段が必要である。いやしかし[... また話の筋を見失っちゃったので省略。というか、だんだんどうでもよくなってきたぞ]
BeerとBrooksはさらに、表象のvehicle (意味的内容を担う物理状態のトークン) をシステム内に同定することができないと考えている。しかしそれはたいした問題じゃない。コネクショニズムをみよ。云々云々。
7節と9節の曲がりくねった議論について行けずあきらめちゃったけど、このたびの仕事には不要な箇所なので、ま、気にしないことにしよう。この本と一緒に無人島にでも漂着したらゆっくり読みます。
要するに著者は、ダイナミカルシステム理論や「表象なき知能」アプローチがこれまで表象計算主義で説明されてきた事柄の一部をもっとうまく説明できるという点には同意するが、全部説明できるとは思わない、という意見である模様。
2015年1月11日 (日)
ひつこくShapiro(2011)のメモ。本に書き込みしただけだとすぐに忘れちゃって、せっかく読んだのがもったいないので。
4章、身体化認知アプローチによる標準的認知科学批判のうち、Shapiroのいう概念化仮説(ある生体が獲得できる概念はその生体の身体の諸特性によって制約されているという仮説) についての章。Rosch, Lakoff&Johnson, Barsalou, Glenberg ら斯界の大物に、哲学者の誇りを賭けて(?) 片っ端から喧嘩を売るという、この本のなかで一番論争的な章である。
まず、議論の前置き。
[4.1] 本章では生体が持つ身体とその生体が持つ概念との関係についての研究について検討する。人間が抱く世界を抱くためには人間のような身体が必要だ、というのは本当か。
[4.2] かつてウォーフは、言語は思考を決定すると述べた(言語決定論)。Broditskyは、 時間の概念化(conception)が母語によって異なることを示し [2001, Cog.Psy.]、 英語の名詞の概念化が母語におけるその名詞の文法上の性によって異なることを示した[2003, 論文集]。言語決定論についての一般的問いのかわりに、検証可能な部分的仮説について検証したわけである。なお、言語決定論は言語が非言語的な思考を変えるという主張である点に注意(この点がわかっていない人が多い)。
[4.3] ここで概念(concept)と概念化(conception)を分けて考えないといけない。bachelorについての考え方(conception)は人によって異なるが、それが未婚の人だという点(concept)は誰もが同意する。Boroditskyの実験は言語によるconceptionの違いを示しているだけで、conceptの違いを示しているとはいえない。conceptを必要十分条件で表現できるかどうかは怪しい(cf. Smith&Medin, クワイン, ウィトゲンシュタイン)。conceptとはなにかという理論なしには言語決定論をどこまで支持できるかわからない。身体化認知における概念化仮説も同様である。conceptというconceptの検討にもっと時間をかけるべきだ。
[4.4] 最後にもうひとつ。仮説というのは検証可能なものだ。検証可能というのは、単に実証研究が必要だということではなくて、観察が競合する仮説にそれぞれの尤度を与えるという意味だ。だから検証可能性というのは仮説間の関係のことだ。
ここから本題。
[4.5] Varela, Thompson & Rosch (VTR) は、色の経験があるユニークな種類のembodied couplingを通じて創造されている、と考えている(色の概念化)。couplingってなんのことかはっきりしないんだけど、ある単一の色(たとえば緑)の経験と相関する単一の物理的特性が存在しないということ、色の経験の構造が三種類の錐体細胞の相互作用に依存しているということ、色の視覚システムが照度のコントラストと変化に反応するということ、を指していっている。彼らによれば、色はpregivenでもrepresentedでもなく、むしろexperientialかつenactedな認知領域である。
- 問題点1. VTRの議論はこうなっている: (1)視覚システムが決定する色の経験は、世界の諸特性と一対一に対応していない。(2)もし色の経験が世界の諸特性と一対一に対応していなかったら、世界に色は存在しない。(3)ゆえに世界に色は存在しない。
(1)は正しいだろうけど(2)はおかしい。たとえば、色の経験が不正確なだけかもしれない。 - 問題点2. さらに、色の概念化という仮説はあたりまえである。計算主義・表象主義を否定する理由にはなっていない。VTRも標準的認知科学も、色の経験が神経システムと世界との相互作用から生じると考えている。
なお、問題点1と2は無関係である。標準的認知科学が色の視覚を説明できるかどうかと、世界に色が存在するかどうかとは関係ない。
[4.6] Lakoff & Johnson (LJ)は、身体の諸特性が概念化・カテゴリ化の可能性を決めている、と考えている。その証拠は、まず概念発達におけるメタファの重要性である。LJによれば、メタファによらずに学習できる「基礎概念」が直接の身体経験から引き出され、他の概念は基礎概念に基づくメタファによって獲得される。
LJは概念における類似性が身体における類似性を必要とすると考えているが、これは強すぎる主張だ。
- 無重力世界の球体生物でも、なんらかの手段で身体的な前後の概念を獲得するかもしれない。これは経験的な質問であって、検証する方法を考えないといけない。
- Boroditskyが「言語が異なれば非言語的思考も異なる」ということを示したように、ここでも「身体が異なれば非身体的も思考が異なる」ということを示さないといけない。
というわけで、LJの仮説は確かめるのが難しい。
細かいところにいろいろ問題はあれど、LJによる身体の重視は第二世代認知科学の幕開けだ、と信じている人もいる。Lakoffによれば、第一世代認知科学は(1)心は記号的で認知過程はアルゴリズムだ、(2)思考はdisembodiedで抽象的だ、(3)心はconscious awarenessに限定されている、(4)思考は字義的かつ整合的であり論理によるモデリングが適している、と考えていた。いっぽう第二世代は(1')心は記号的じゃなくて生物学的・神経学的だ、(2')思考はembodiedだ、(3')心のほとんどはunconsciousだ、(4')抽象的思考の大部分はメタファ的であり、身体と同じように感覚運動システムを使っている、と考える。
標準的認知科学が認知における身体の役割を軽視してきたのは事実だけど、LJの主張は維持できない。
- (1): 心の計算主義は心が生物学的だという考え方と矛盾しない。もっともLakoffは計算主義がとにかく間違っていると思ってんだろうけど。
- (2): たしかに計算主義は心をハードウェアから切り離す見方を奨励する(Fodorとか)。しかしLakoffのいうembodimentが計算主義と調和不能とは限らない。身体の諸特性をアルゴリズムで表現すればよいではないか。
- (3): これは単にウソ。標準的認知科学のほとんどの研究はunconsciousな心的過程についての検討である。
- (4): 第一に、「思考は字義的かつ整合的」という意味がわからない。Lakoffは計算主義はどうしてもそうならざるを得ないと思っているんだろうけど、計算主義はそんなのにコミットしていない。Wason課題の研究をみよ、ベースレート無視の研究を見よ。メタファの計算モデルだってあるぞ[Martinのこと]。第二に、認知科学の関心事はLakoffが思っているより幅広い。
[4.7] 心理学者はSymbol Grounding 問題の解決のためにembodimentという概念に注目してきた (Glenberg, Barsalou ら)。Symbol Grounding問題とは思考がどうやって意味を獲得するのかという問題である。
Glenbergらいわく、サールの「中国語の部屋」が示すように、記号の意味は他の記号との関係だけでは獲得できない。ここでは意味と理解が混同されている。中国語の部屋の中の人が操作しているシンボルは有意味か。Glenbergたちは意味がないとと思っているようだが、もちろん有意味である(部屋の外にいる中国人のみなさんをみよ)。ゆえに、中国語の部屋の話は「記号の意味は他の記号との関係だけでは獲得できない」という結論を導かない。さらにいえば、「シンボルがどうやって意味を持つか」という問いに対しては計算理論のの観点からでもいろんな哲学的説明が可能だし、それらはたいてい記号間の関連だけから意味が生じるとは主張してない(つまり中国語の部屋の内側から意味が生じるとは主張していない)。
たいていの心理学者が関心を持っているのは、実は、シンボルのユーザがシンボルの意味がどのように理解するのか、という問題だ。これは記号の意味の成立とは別の問題である。
[4.8] Glenbergはこう主張している(indexical仮説)。意味の理解は3つの段階からなる。(1)語の知覚シンボルへのマッピング。知覚シンボルとはオリジナルの知覚的符号化において出現した形で再構築されたモーダルな表象である。(2)知覚シンボルからアフォーダンスを導出。アフォーダンスとは、生体にとって問題となる環境の諸特性のこと。Gibsonは生体がアフォーダンスを直接知覚すると論じた(あまりに論争的な主張なので脇に置いておく)。(3)アフォーダンスがmeshされ、言語的シンボルの理解を与える。たとえば、掃除機はコート掛けとして使えるか。人は掃除機の知覚シンボルとコートの知覚シンボルから、掃除機がコートを掛けることをアフォードしていること、コートが掃除機に掛けることをアフォードしていることを引き出す。このとき2つのアフォーダンスがmeshしているという。(ここ、わかりにくいので全訳)
さらに次の場面について考えよう。ある人が「コートを掃除機に掛けろ」という文の有意味性(sensibility)について評価するよう求められたとする。この課題の要求について考えると、結局はsymbol grounding問題についての議論に行き着く。symbol grounding問題に対して心理学者が与えた解釈は、この問いは意味の理解についての問いだ、というものである(記号はいかにしてその意味を最初に獲得するか、ではなく)。Glenbergらは、Searleの中国語の部屋を、シンボルをどう結びつけるかについての教示に従っているだけでは、その人にとって言語的記号は有意味にならない、ということを示す例として受け取っている。従って、Glenbergによれば、理解はなんらかのかたちでgroundedでなければならない。適切なgroundingが奪われた状態では、人は「コート」「掃除機」を理解できず、「コートを掃除機に掛けろ」という文がsensibleかどうかを判断することもできないだろう。Glenbergにいわせれば、indexical仮説は、理解がいかにgroundedになるか、そして文がいかに理解されるかを説明してくれる。理解が可能になるのは、言語的思考に含まれているシンボルが「モーダルであり非恣意的であるからだ。それらは指示対象の知覚の基盤にある脳状態に基づいている(Glenberg & Kaschak, 2002)。Glenbergが考えるところでは、知覚シンボルのモダリティによってアフォーダンスの導出が可能になる。「恣意的シンボルの場合と異なり、知覚シンボルからはアフォーダンスを導出することができる。なぜなら、知覚シンボルとその指示対象との関連は恣意的なものではないからだ」。
Glenbergはindexical仮説の証拠として行為-文整合性効果を挙げている。
[4.9] indexical仮説は維持できるか。
ひとつめ、indexical仮説は計算主義と整合しないのか。GlenbergやBarsalouらは、アモーダルなシンボルはプロセッサにとってすでに有意味で、その理解の獲得についてなんらかの説明が必要だが、モーダルなシンボルの理解については説明がいらない、なぜならそれは神経状態においてgroundedだから、と考えているようだ。でも、
- Basolouと標準的認知科学者は、シンボルが知覚状態と世界との間の関係においてgroundedでなければならないという点についてはともに同意できる。アモーダルなシンボルも神経状態においてgroundedなのだと考えたって良いではないか。この場合、symbol groundingのためにembodimentはもういらないことになる [←このくだり、いまいちよくわからない... つまり、たとえば「3」とか「道徳」といった抽象的概念表象が、アモーダルでありつつもそれを経験したときの神経状態を基盤としている、という意味であろうか。この場合、身体かどうかは別にしてあらゆる認知はgrounded cognitionだ、embodimentという概念を持ち出すには及ばない、ってことになるのかな]。
- 知覚シンボルはどこかの段階でアモーダルにならないとおかしい。つまりモーダル表象を統合するアモーダルな表象も必要だ(これはBarsalauも同意するであろう点)。[←話の流れがぴんとこないんだけど、アモーダルな知覚シンボル表象という考え方が計算主義の枠組みの中で扱えるということをいいたいのであろうか]
ふたつめ、行為-文整合性課題で用いられているsensibility判断について。Glenbergによれば、たとえば「コートを掃除機に掛けろ」はsensibleだけど「鉛筆を登れ」という文はsensibleでないことになる。でも被験者は後者の意味を理解することはできているし、だからこそ「そんなの無理だよ」と答えるわけである。文-行為整合課題での被験者の課題は、文の意味の理解だけじゃなくて、ある行為(鉛筆を登る、とか)が自分に可能かどうかの判断を含んでいる。そこで被験者は知覚シンボルからアフォーダンスを引き出しているかもしれない。でもそれが意味の理解において生じているかどうかはわからない。Glenbergらが、車いすの人は「階段を登れ」という文を理解することさえできない、ということを示したら降参するけど、彼らが示しているのはそれじゃない。
みっつめ、上の問題点は別にして、行為-文整合性効果について。単に、(行為とは無関係に成立した)文の理解が、ある種の運動反応をプライムし、それが課題遂行のための運動反応に干渉しただけなんとちがうか。
[4.10] 多くの研究者が、前運動野における標準ニューロンとミラーニューロンの発見を、知覚と行為に共通のコードがあるのだ、対象の認識の一部は身体と対象との相互作用という観点からなされているのだ、という主張の証拠として挙げている。テニス・ボールはsphere-graspable-with-myu-whole-handとして知覚され、バナナに腕を伸ばす他者はreaching for として知覚される、とか。
この説明が正しいとすると、「身体の大きさが異なる霊長類は同じサイズのモノを異なった形で知覚する」ことがわかればLJを支持する証拠になるかもしれないし、「文理解じたいに伴ってミラーニューロンが活性化しそれが課題に干渉する」ことがわかればGlenbergを支持する証拠になるかもしれない。もっとも、ニューロンの活性化が行為の観察と相関しているからといって、行為の理解にそのニューロンが寄与しているかどうかはわからないんだけど。
...こうしてみると、哲学者Shapiroさんにとって、embodied cognitionの実験をやっているたいていの研究者は embodied cognitionの研究者ではなく、標準的認知科学の枠組み(表象主義・計算主義)の内側にいることになるのではないかと思う。たとえば、上腕筋の屈伸運動が動機づけと連合しているという研究はたくさんあって、それらの多くは身体化認知研究を名乗り、BarsalouやLakoff&Johnsonを引き合いに出す。でも実験結果については、高次認知の計算過程で知覚運動表象が利用されているんですね、と解釈するだけであって、身体が概念を制約するとか(概念化仮説)、表象が要らないとか(置換仮説)、身体が認知を構成しているとか(構成仮説)といった主張は全然含意していない。embodied cognitionという言葉に込めるニュアンスは人によってずいぶん違い、Shapiroさんの議論はかなりな空中戦なのだと思う。
2015年1月 8日 (木)
このたびembodied cognitionについて調べていて、大いに助けになった資料のひとつがShapiro(2011)なんだけど、しかしこの本は幸か不幸か表層的な概観ではなく(本音を言うと、もっと上っ面を舐めたようなのが読みたかったんですけどね)、かなり意外な批判的主張を含んでいる。文章は平易なのに、いつのまにか思ってもみなかった結論へと連れて行かれてしまうのである。さすがは哲学者。
あれこれ考えていたら混乱してきちゃったので、頭を冷やすために、空き時間にメモを取った。序章と7章の要約。
Shapiroさんにいわせれば、embodied cognitionには3つの主要テーマがある。
ひとつめ、概念化仮説。
ある生体が獲得できる概念は、その生体の身体の諸特性によって制限ないし制約されている。つまり、生体が自分をとりまく世界を理解する際に依拠する諸概念は、その生体が持っている身体の種類によって決まる。そのため、身体において異なる生体は、世界の理解の仕方もまた異なる。
具体的には、後期のRoschとか、Lakoff & Johnsonとか、Glenbergとか。
彼らの解釈は標準的認知科学(表象計算主義のこと。以下「主流派」)による解釈と競合している。主流派に軍配が上がる。理由:
- 知覚世界が感覚システムのおかげで成立しているからといって、「pregivenな世界は存在しない」(Rosch)と主張する根拠にはならない。
- 「理解は知覚システムにおいて最初に生じたモーダルなシンボルの再創造に依存する」(Glenberg)からといって、アモーダルなシンボルという仮定がダメになるわけではない。アモーダルなシンボルも知覚的源泉を持っているのかもしれないじゃん。
- 概念化仮説派が持ち出すデータは主流派でも説明できる。
- 主流派のほうが過去実績がある。
- 主流派は知覚から問題解決までいろんな領域を統一的に説明するが、概念化仮説にそういう統一性があるかどうかわからない。
- 概念化仮説は検証できない。「身体の特性が異なる生体は異なる概念を持つ」(L&J)ってどうやって検証するんだ。
ふたつめ、置換仮説。
これまでは表象過程が認知の核だと考えられてきたが、環境と相互作用する身体があれば、表象過程はもういらない。つまり、認知はシンボリック表象を扱うアルゴリズム的過程に依存しているのではない。認知は表象状態を持たないシステムにおいて発生しうるし、計算過程なり表象状態なりに訴えなくても説明できる。
具体的には、Esther Thelenとか、Randy Beerという人とか、ルンバの父Rodney Brooksとか。
彼らは自分たちが主流派と競合すると思っている。彼らが扱っているいくつかの現象については彼らの勝ちである(幼児の固執行動とか、ロボットのナビゲーションとか)。でも主流派は絶望しなくてよい。認知科学者の道具箱に新しい説明ツールが追加されただけだ。
みっつめ、構成仮説。
身体ないし世界は、認知処理において単に因果的役割を演じるというだけでなく、構成的役割を演じている。酸素は爆発の原因であるいっぽう、水を構成している。同様に、身体ないし世界は認知に因果的影響を及ぼすだけでなく、認知そのものを構成している。
具体的には、Alva Noeという人とか、Andy ClarkとかRobert Wilsonとか。
みんな驚くと思うけど、構成仮説は主流派と競合していない。構成仮説の批判者たちは、彼らが認知過程を脳の外側に拡張しようとしていると思っているけど、そうじゃなくて、彼らは認知過程の構成要素を脳の外側に拡張しようとしているだけだ。主流派にとっては、認知過程の構成要素が脳の内側だろうが外側だろうがどうでもよいことだ。構成仮説は別に新しくない。
というわけで、embodied cognitionにおける各チームの戦績は以下の通り。概念化仮説は負け。置換仮説は勝ったり負けたり。構成仮説はそもそも戦ってない。とはいえ、神経科学が概念化仮説に勝機をもたらすかも。コネクショニズムが置換仮説をもっと強力にするかも。構成仮説の形而上学的主張はこれから負けが込むかも。戦いはまだ始まったばかりだ! [←とは書いてないけどだいたいそういう意味]
身体化認知における各チームの勝敗(試合解説はShapiroさん)
2015年1月 1日 (木)
仕事の都合でShapiro (2011)をコリコリと読んでいるんだけど、身体化認知(embodied cognition)という概念を持ち出した過去の論者に対する月旦評が面白かったので、ここだけ先にメモしておく(3章)。
まず Varela, Thompson & Rosch (1991)。たしか私が学部生のときに翻訳が出て、数ページでわけわかんなくなって放り出した本だ。
- embodied cognition概念の始祖。その主張のなかには受け入れられているのもあれば無視されているのもある。[←ははは。仏教を持ち出すくだりとかね]。
- いわく: 認知は身体が環境と相互作用する知覚-行為ループに由来する経験に基づいている。人々の感覚運動能力は、人々が共有している生物学的・心理学的・文化的文脈にembodiedである。
- いわく: 世界はpregivenではない。embodied actionの探究のためには、知覚者が彼の局所的な状況のなかで自分の行為をどうガイドしていくかを調べること、すなわちenactiveアプローチが必要だ。(←embodimentの定義からみて話が飛躍している)
- 彼らのembodiment概念は正確さを欠いている。主張にはいろいろと飛躍がある。
Esther Thelen。認知発達の研究者(恥ずかしながら存じませんでした)。主に Thelen, Schoner, Scheier & Smith (2001, BBS) に拠って論じている。
- 動的システム理論を認知現象に適用したパイオニア
- いわく: 認知がembodiedであるというのは、認知が世界との身体的相互作用から生じているということを意味している。
- いわく: embodied cognitionは精神をシンボル操作機械とみなす認知主義的立場と対立する。(←embodimentの定義からみて話が飛躍している)
- 彼女はembodimentという言葉でその定義以上のことを言おうとしている。この背景には、乳児の固執行動への関心があってだな... [A-not-B課題の研究小史とThelenの説明。略] ... このように、彼女の見方では、知覚運動能力「に加えて」認知プログラム・表象・概念があるのだ、という考え方が間違っていることになる。認知は身体と知覚と世界がお互いのステップをガイドするようなダイナミックなダンスから生じるのだ。
Andy Clark。有名な哲学者っすね。翻訳も出ている。
- 彼はembodied cognitionの研究の6つの特徴を挙げている。
- (1)Nontrivial Causal Spread. たとえばスリンキー[=階段を降りるバネのおもちゃ]のように、外的要因をうまく利用して仕事する。
- (2)Principle of Ecological Assembly. 問題解決は、生体がそのとき周囲の環境のなかに持っている資源の関数である。
- (3)Open Channel Perception. たとえば移動に際して、目的地がthe point of zero optical flowであることだけ確認し続ければよい、というような話。
- (4)Information Self-structuring. たとえば運動視差で奥行きをつかむとか。
- (5)Perception as Sensorimotor Experience. たとえば立方体の周囲を移動すると、さっき見えていた辺が見えなくなる。このようにして、知覚経験によって運動と感覚の依存性についての期待が獲得される。いいかえれば、行為が知覚経験を構成する。
- (6)Dynamic-Computational Complementarity. 表象とか計算といった伝統的概念にも役割がある(←この点はThelenと異なる)。
- 疑問点。
- Clarkは主に知覚に関心を持っている。より概念的な認知課題もやはり身体に依存していると主張するのだろうか?
- 身体が認知過程に貢献しているのではなく認知過程を構成しているのだ、と考える根拠は何か。
- 標準的な認知科学とどこが決定的に違う(or 違わない)のか。
2010年1月18日 (月)
こないだNYT Magazineでたまたま読んだんだけど,こんな実験があるのだそうだ。被験者を他の被験者(実はサクラ)と同室にする。サクラは被験者に,実は私は精神疾患にかかったことがあるんです,「子どものころに起きた事のせいで」(心理社会的説明),ないし「生化学的な理由で」(疾病的説明)...と自己紹介する。本課題は,サクラがなにかの課題を行い,間違えると被験者がサクラに電気ショックを与える,というもの(有名なミルグラムのパラダイムであろう。いまどきこんなのが倫理基準をパスするとは知らなかった)。その結果,心理社会条件よりも疾病条件のほうで,被験者はサクラに強い電気ショックを与えちゃうんだそうである。Sheila Mehtaという人の研究だそうだ。入手できないけど,おそらく元論文はこれ (ま,別に手に入れても読みませんけどね)。
精神疾患への社会的差別をなくすために,それが他の病気とおなじように生化学的な病気であることが強調されてきたわけだけど,むやみにそうするのもいかがなものか,という主旨の研究だと思う。ここで典型的な精神疾患として念頭にあるのは,おそらく統合失調症だろう。だからこれはただの連想ゲームに過ぎないんだけど,どうしても,もっと身近な問題と結びつけて考えてしまう。うつ病とか。
たとえば職場のうつ病の問題でいえば,なぜ発症したかという点についての周囲の理解のありかたにはたくさんの可能性がある。「本人の素質のせいだ」「上司/部下のせいだ」「会社の雰囲気のせいだ」「労働時間の長さのせいだ」「運のせいだ」云々。そうした理解のありかたが,復職のプロセスに強く関わってくるのではないかしらん。
いやもちろん,関係者が腹の底でどう考えていようがかまわない,重要なのはサポートそのものだ,という視点も重要であろう。とはいえ実際には,周囲の人々の原因帰属のありかたが,組織の対応を大きく左右するにちがいない。営業部の山田さんがうつで休職したとして,山田さんの復職にあたっては,人事部がつくったマニュアルも大事だけど,営業部のみなさんが社会的に構成する「山田さんの休職を巡る物語」も大事なんじゃないか,と思うわけである。
すごく極端にいえば。。。関係者一同が少しでもハッピーになれるような物語を,我々は選択する必要があるのではないか? もしかするとその物語は,専門家が聞いたら鼻で笑うような,ごく底の浅い,ナンセンスなものであってもかまわないんじゃないか。現象についての正しい理解と,我々が選ぶべき有効な物語とは異なるのではないか。。。最近ふとそんな思いが頭をよぎることがあるのだけれど,これはさすがにシニカルに過ぎるかもしれない。
ぼんやり考えていても埒があかないなあ。世の中に心理学者はとてもたくさんいるから,こういう問題もきっとどなたか調べておられるであろう。まあいいや,寝よう。
2009年1月12日 (月)
今年の非常勤講義がようやく終わった。幸い受講者の学生さんにも恵まれて,苦労しがいがあったなあ,という実感がある。みなさん,ありがとうございました。
民間企業に勤めるようになってはや4年目,思うところあって,今年はカリキュラムの1/4程度を購買行動研究に割り振った。以前から関心を持っていた分野ではあったし,講義の流れからいっても自然なのだが,ここまで時間を割くのは初めてである。本と論文をかき集めての付け焼き刃的猛勉強,いや猛というのもおこがましいけど,とにかく準備が大変だった。そんな講義につきあわされた学生さんにも申し訳ないことだが,評判も悪くなかったようだし,どうか勘弁してください。
講義の無事の終了を祝い,かき集めた消費者行動論のテキストをまとめておこう。誰かが血迷ってクリックして買ってくれるかもしれないし。
Consumer Behaviour [a]
Roger D. Blackwell, James F. Engel, Paul W. Miniard / 2005-12-29
かのEngel-Blackwell-Miniardモデルの原典,ただいま10th edition。 英語圏の学部レベルの教科書を5冊ほどかき集め,並べてめくってみたのだが,一番有益だったのがこの本だった(次点はSolomonの8th edition)。構成が良いし,事例が豊富で,図表もわかりやすい。
消費者理解のための心理学
[a]
/ 福村出版 / 1997-06
心理学畑の人が書いた日本語のテキストでは,残念ながら97年刊のこの本がいまだにベストだと思った。なぜこういう教科書がもっと出てこないのか,きっとニーズがないんだろうなあ。
消費者行動論体系
[a]
田中 洋 / 中央経済社 / 2008-09-26
経営系の人が書いた消費者行動論の日本語テキストは案外たくさんあるのだが,どれも癖が強すぎて困った。ずいぶん本代を無駄遣いしたような気がする。包括性という点で使い物になったのは,云っちゃなんだがこの本だけだった。干天の慈雨という感じでした。
新しい消費者行動
[a]
清水 聡 / 千倉書房 / 1999-05
消費者視点の小売戦略
[a]
清水 聡 / 千倉書房 / 2004-04
戦略的消費者行動論
[a]
清水 聰 / 千倉書房 / 2006-04
素人目には,消費者行動論の基礎研究とマーケティングには相当なギャップがあるように感じられる。そのギャップにうまく橋を架け,ああこれは心理学をほんとに実務に適用していると納得できたのは,集めた日本語文献の範囲ではこの清水先生の本だけであった。実務家でも心理学者でもだめ,マーケティングの研究者じゃないとできない仕事である。正直いって,わざわざ大学院でマーケティングを研究しようと思う院生の気持ちが俺にはよくわからないんだけど,この三冊に限っては,ああなるほど,そりゃ研究したくなるかもね,という感想であった。
Handbook of Consumer Psychology [a]
Curtis P. Haugtvedt, Paul M. Herr, Frank R. Kardes / 2008-4-30
広辞苑より分厚いハンドブック。入手が遅れて講義準備には間に合わなかったのだが,この本は役に立ちそうだ。非常に広範なトピックにわたって,かなり突っ込んだ解説がなされている模様。なぜかamazon.comでは$70で売られている。信じられない安さだ。