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2006年1月30日 (月)

Vandenberg, R.J. & Lance, C. (2000) A Review and Synthesis of the Measurement Invariance Literature: Suggestions, Practices, and Recommendations for Organizational Research. Organizational Research Methods, 3(1), 4-70.
測定不変性についての文献(方法論と実用例)を集めて,どういう段取りを取っているかを整理したレビュー。普通のCFAの分野に絞られていて,知りたかったこと(カテゴリカルSEMの話やIRTとの関係)は載っていなかったのだが,知識の整理になったのでよしとしよう。
こういう長い論文は,去年までだったら二の足を踏んでいたところだが,最近はなぜか気軽に読める。きっと真剣な関心を持っていないからだろう。

Crawford, J.R., Garthwaite, P.H., Howell, D.C., & Gray, C.D. (2004) Inferential methods for comparing a single case with a control sample: modified t-tests versus Mycroft et al.'s (2002) modified ANOVA. Cognitive Neuropsychology, 21(7), 750-755.
先日Iくんにもらって読んだ論文を批判した論文。Google Scholar で見つけた。便利な世の中になったものである。
論点は,(1)Mycroftの帰無仮説はおかしい,(2)患者群の母集団なるものの分布の形状が統制群と同じで分散だけ大きいと仮定するのは変だ,(3)実用性がない(患者群の分散なるものは見当がつかないし検定力も落ちる),(4)それに引き替え我々の手法のなんと柔軟なことか。
 「ひどい論文だけど,まあココロザシは誉めてやるよ」と云わんばかりのコテンパンぶりで,なんだかコワイ。
 先日俺が真剣に考えたことがことごとく網羅されている。最初はちょっと嬉しかったけど(同志よ!なんて思ってしまった),よく考えたらこんなに虚しいことはない(向こうは俺のことを同志だと思ってくれるわけじゃない)。なにやってんだかなあ。

論文:データ解析(-2014) - 読了:01/30まで (A)

Bookcover 御緩漫玉日記 (2) (ビームコミックス) [a]
桜 玉吉 / エンターブレイン / 2006-01-30
うわあ。。。

コミックス(-2010) - 読了:01/30まで (C)

2006年1月24日 (火)

Bookcover プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫) [a]
魚津 郁夫 / 筑摩書房 / 2006-01
W.ジェイムズからR.ローティまで。人物ごとに章立てした平板な記述で,なんだか大学の教科書みたいだなあ,と思いながらめくっていたら,放送大の教科書だった。なあんだ。
事実についての可謬主義は超越的な実在を前提とする。そこのところでローティは誤っている。云々。はあそうですか。

ノンフィクション(-2010) - 読了:01/24 (NF)

2006年1月23日 (月)

Bookcover もっけ(5) (アフタヌーンKC) [a]
熊倉 隆敏 / 講談社 / 2006-01-23

コミックス(-2010) - 読了:01/23まで (C)

Bookcover 身分差別社会の真実 (講談社現代新書) [a]
斎藤 洋一,大石 慎三郎 / 講談社 / 1995-07-17
帰りの電車で一気読み。なんの気もなく手に取った本だったのだが,歴史に疎いこともあって,とても興味深い内容だった。
明治四年,えた・ひにんなどの呼称を廃する旨の布告が出たとき,この布告に反対し民衆が被差別部落を襲撃する事件が,西日本の各地で起きたのだそうだ。これを解放令反対一揆というのだそうである。
そのひとつ,美作で起きた一揆では(美作ってのは岡山の山のほうですね):
「さらぬだに興奮せる群衆は,いっそう殺気だちて,すさまじき勢いをもって押し進みければ,新平民等,初めの程はなかなか手強く抵抗したれども,多勢に無勢,とうていかなわずとや覚りけん,遂に同族中の富豪にて,巨頭たる宰務半之丞および手習い師匠朝日八郎【これは新平民にあらず】・松原治三郎ほか三名をして屈服・陳謝せしむ。...群衆は,これを加茂川の辺なる火葬場のかたわらなる一陣の内に押し入れ,最初に半之丞を引き出し,これを水留のなかに突き落とし,悲鳴をあぐるを容赦なく,槍にて芋刺しに串つらぬき,かつ石を投げつけて,これを殺したり。それより順次に,同一方法を用いて五人を殺し ... 同部落民の家に火を放ち,... 遂に全部落百余戸を灰燼に帰せしめ,また,悲鳴をあげて逃げ迷う,老少婦女を捕らえて,背に藁束を縛し,これに火を放ちて焼死せしむるなぞ,すこぶる残虐を極めたり。このとき,即死十八人,うち男十一人,女七人。」
Bookcover 依存症がとまらない (講談社文庫) [a]
衿野 未矢 / 講談社 / 2006-01
日曜夜の夕食後に読んだ。

ノンフィクション(-2010) - 読了:01/23まで (NF)

2006年1月20日 (金)

Mycroft, R.H., Mitchell, D.C., & Kay, J. (2002). An evaluation of statistical procedures for comparing an individual performance with that of a group of controls. Cognitive Neuropsychology, 19(4), 291-299.
 ひょんなことからIくんが送ってくれた(感謝!)。
 ケース・コントロール研究でケースがN=1のときは,まずコントロール群の分布から母平均と母分散を推定し,それらを使ってケースの値を標準化し,それがN(0,1)の両側5%に落ちるかどうか調べたり,あるいはコントロールの分散だけを使ってANOVAをやったりするのが普通である。しかし,ケース群の真の被験者間変動は,実はコントロール群の被験者間変動よりはるかに大きいことが多い。そんなときはType Iエラーが大きくなってしまうので困る。そこでこのたび,モンテカルロ法で適切なF臨界値を求めました。という論文。
 ケース群のほうが標本分散が大きいから困ったねどうしようか,という話ではなくて,ケースの値がほんとに1個しかない(繰り返しがない)ときにコントロールとどうやって比較するかという話である。そこのところでちょっと戸惑ったけど,でも問題意識ははっきりしているし説明は丁寧だし,わかりやすい論文だと思う。提案している方法は,要するに検定力を削ってαを無理矢理保つという話だと思うけど,こっちの業界ではきっと検定力なんて気にならないんだろう。

 それでもなお,この論文からはなんだか奇妙な印象を受ける。ケースはヤマダさんだけですというタイプのケース・コントロール研究は,「ヤマダさんは(コントロール群に代表される)健常者の母集団からのサンプルだ」というH0を棄却しようとするのが普通だ。だからこそ,コントロール群の分布から推定した母集団パラメータを使ってケースの値を標準化してみたり,コントロールの分散だけを使ってANOVAをやったってみたりするのである。著者はそういう分析について,ケース群の被験者間変動の大きさを無視していると批判するけれども,そういう研究はそもそもケース群というものを考えていないのだ。
 N=1ということは,ケース群の分布についての実証的な証拠が手元に無いんだから,あくまでヤマダさんについてのH0を立てるのが,なんというか,自然であろう。もちろん研究の関心はヤマダさんその人にあるのではなく,ヤマダさんに代表されるナントカ患者の一般的性質にあるのだけれど,ケースから得た知見をナントカ障害へと一般化する推論は実質科学的なレベルの問題だ,というのが,常識的な考え方なんじゃないかと思う。
 ところがこの論文では,ヤマダさんからナントカ障害への一般化を統計的推論の道具立てに繰り込んでしまい,「(ヤマダさんに代表される)患者の母平均は,(コントロール群に代表される)健常者の母平均と同じだ」というH0を設定する。それはそれで一つの考え方だと思うけれど,そういう考え方が必要になるのはいったいどういう問題状況なのか,うまくイメージできない。いいじゃん,ヤマダさんについて検定してれば。
 さらにいえば,臨床研究では「患者の母集団平均」なるものを問題にすることそのものが無意味な場合も少なくないと思う。この点はちょっと自分の中で整理できていないんだけど,たとえば「高血圧患者の血圧の平均」ってなんだろう? 普通の人より高い,ちょっと高い人もいればすごく高い人もいる,としか云いようがないと思う。
 まあいいや,俺にわからんだけで,「ケースの母集団分布」について検討するのが必要かつ有意義であるような問題状況が,きっとどこかにあるのだろう。次のハードルは,その母集団分布について正規性を仮定しなければならないという点だ。さらに,ケースのσがコントロールのσの何倍くらいなのかがわからないと,この論文の手法は使えない。ケースはN=1なのに,どうやって見当をつけるんだろう?
 きっとどこかで役に立つんだろうけど,でもいったいどこで役に立つのか想像がつかない。そういう意味で面白い論文だった。

論文:データ解析(-2014) - 読了:01/20まで (A)

2006年1月17日 (火)

Bookcover 「野宿者襲撃」論 [a]
生田 武志 / 人文書院 / 2005-12
釜ヶ崎でホームレス支援活動をやっている人が書いた本。ちょっとわかりにくいところもあるけど,良い本だと思った。
 90年の西成暴動のとき,投石する人のなかに10代の少年が混じっていたんだそうで,その彼らとの連帯を築き得なかったことが悔やまれる由。「いまぼくたちが中学・高校で『野宿者問題の授業』をやっているのは,すくなくともぼくにとっては『釜ヶ崎についての内容と,いわば連帯の呼びかけのビラ』を10年遅れで撒く行為なのである」のだそうだ。
Bookcover 「ニート」って言うな! (光文社新書) [a]
本田 由紀,内藤 朝雄,後藤 和智 / 光文社 / 2006-01-17
著者三人の分担執筆。ニート概念は有用でないし,雇用側の問題を隠してしまうという弊害がある。必要なのは労働市場の再設計だ(本田)。ニート問題に代表される青少年へのネガティブ・キャンペーンはある種の全体主義だ(とかなんとかそういう話。内藤)。ニートにまつわる言説の整理と分析(後藤)。小杉礼子や玄田有史がばんばん批判されていて,本田由紀って人は労働研究機構の出身じゃないの?それって同僚批判じゃん,とびっくり。
 なんといってもこの本のハイライトは,後藤さんという東北大の学生が書いた章。サンデー毎日とアエラと読売ウィークリーでどうちがうかとか,朝日の「声」欄投書における年齢別ニート観とか。すごく面白かった。

 とはいえ,読んでいてちょっと複雑な気分にもなった。
 たとえば,「子どもの学力が低いのはその子の親のせいだ」という言い方が,もしも教育政策の文脈でまかり通るならば,それはまさに犯罪的だ。そのいっぽうで,たとえば学校の先生がPTAの会合で「みなさん,お子さんに学力を身につけさせるためにこれこれこういう配慮をしてくださいな」と言うとしたら,それにはそれなりの意義がある。その先生を捕まえて,あなたは学力差の背後にある諸問題を個人化することによって社会構造の変革から人々の目をそらせているんですよ,なんて糾弾しても仕方がない。
 ニート対策を巡る議論にも,社会構造に由来する問題を個人化・脱社会化してしまうという弊害が,なるほど確かにあるだろう。しかし,いま「うちの子がよう働かんような人になったらどないしよう」と焦る親御さんを目の前にしたら(焦らせたのは正当かという問題は横に置くとして),なにか個人レベルで実現可能な,多少なりとも役に立ちそうな方策について語らねばならんだろうなあ,と思う。そういう文脈では,たとえば中学生の職業体験をお薦めするというのは,まともな種類の議論だといえるのではなかろうか。

ノンフィクション(-2010) - 読了:01/17まで (NF)

Bookcover 須賀敦子全集〈第2巻〉 [a]
須賀 敦子 / 河出書房新社 / 2000-05
「ヴェネチアの宿」「トリエステの坂道」を所収。一編一編の構成の緊密さときたら,いったいどうやって書いたんだか,もう不思議で仕方ない。あらかじめノートでも取ったのか。それとも,想を練っているうちに,全体が絵のようにすっと見渡せる瞬間がやってくるものだったのか。

しかし,会社の昼休みに読む本ではないな。切り替えが大変だ。

フィクション - 読了:01/17まで (F)

2006年1月15日 (日)

Bookcover 弓道士魂 完全版 レジェンドコミックシリーズ7 (レジェンドコミックシリーズ―平田弘史作品 (7)) [a]
平田 弘史 / 星雲社 / 2006-01-11
昨年から次々と復刻されている平田弘史の劇画が書店の棚を占めており,それらの本がすべてうちの本棚にも並んでいるのをみるにつけ,正直,誰かに乗せられているのかなあ,などと反省していたのである。なぜ60~70年代の劇画をこんなに買い込まねばならんのか。ひょっとすると俺は良いカモではないのかと。
わたくしが悪うございました。まさにこの本に出会うために,わたくしは平田先生の本を忠実に買いそろえてきたのです。冒頭の見開きの病的なまでの迫力,狂気が狂気を呼びエスカレートする物語,屋敷が血の池に沈む(文字通り沈む!)幻想シーン,この作品こそは「薩摩義士伝」に並ぶ世紀の傑作,これはすごい,ほんとにすごい。

コミックス(-2010) - 読了:01/15まで (C)

Bookcover ニッポンの課長 (講談社文庫) [a]
重松 清 / 講談社 / 2006-01-13

Bookcover 死刑はこうして執行される (講談社文庫) [a]
村野 薫 / 講談社 / 2006-01-13

ノンフィクション(-2010) - 読了:01/15まで (NF)

Seltzer, M.H., Frank, K.A., & Bryk, A.S. (1994). The metric matters: The sensitivity of conclusions about growth in student achevement to choice of metric. Educational Evaluation and Policy Analysis, 16(1), 41-49.
著者に送ってもらった(ありがたきかな)。データ解析の論文を読むのはもう止めようと思うのだが(今度こそ縁が切れるかもしれん),そんなわけでこれは大急ぎで読了。
みなさん学力変化を調べるときにGEをつかっていませんか。GEスコアの群平均の変化は宿命的に時間線形になるわけでよろしくないですよ。個人ベースのLGMであってもミスリーディングな結果を呼びますよ。ちゃんとIRTつかいなさい。という主旨。
恥ずかしながらよく知らなかったのだが,GE(grade equivalent)スコアというのは,5年生第7ヶ月目月末の集団の得点平均が60点だとしたら,60点のことを5.7と呼ぶ,というもの(学期だけみるので,1年は10ヶ月)。ってことは,5年生向けのテストでも他学年のサンプルをとっておかねばならんということかね。
主旨自体は当たり前なんだけど,GEを使ったせいで生じる誤解の具体例が面白い(Iowa Test of Basic Skillsで実例を示している)。たとえば,群平均の成長曲線のまわりで個人差がラッパ型になったりする。なんだかもっともらしく解釈しちゃいそうだけど(「学力格差が増大しています」とか),これはGEを使ったせいで起きたartifactなのである。なるほど。

身近な問題に当てはめると,学力変化を捉える際にテストの標準化得点(偏差値)の推移を見ててもだめだなあ,というのは日々考えることだし,現場の人も感じていることだと思う。とはいえ,IRTで等化するのはなかなかままならない(テスト項目を使い捨てる日本の教育評価にもそれなりの事情と美点があると思うので,そこを批判しても仕方がない)。なかなか難しい問題である。それでも,その難しい問題に取り組まなきゃいけないよなあ,と思うのである(その努力を放棄したところに残るのは精神主義だけだと思うから)。標準化得点でできる分析はどこまでか,その限界をはっきりさせたい。
思うに,この論文で指摘されているGEの問題点は,時間に対する変化量を時点間で比較できない(時間関数が構築できない)ということだ。だったら,LGM的なアプローチを捨て,時間経過を定量的に捉えるのをやめちゃって,たとえば反復測定SEMで時点ごとに変化量を推定するのであれば,GEなり標準化得点なりを分析してもかまわないのだろうか。あるいはLGMであっても,時間経過を推定しちゃえばいいのか。うーん,俺の能力を超える問題だなあ。

論文:データ解析(-2014) - 読了: 01/15まで (A)

2006年1月 9日 (月)

 高校生のとき,NHK-FMのラジオドラマの時間枠で,サム・シェパード作の「イメージ」という30分作品が放送された。NPRで放送された短いドラマを翻訳して紹介したものだったと思う。名古屋章と下條アトム,それから女の人が一人だけ出てくる対話劇だった。
 当時はサム・シェパードがどんな人かさえ知らなかったのだけれども,俺はなぜかそのドラマにいたく感銘を受け,テープを何度も巻き戻しては繰り返し聞き込み,しまいにはルーズリーフにシャープペンで全ての台詞を書き出して,この台詞が効いているだのここの場面転換が素晴らしいだのと,一人で悦に入っていたものだった。そうしている間にきっと周りの連中は,東大入学目指して勉強したり,恋愛したりセックスしたりしていたのだろう。
 最初の台詞はこうだ。「OK? 男が二人,街に来る。時代は...1940年代?」脚本家が二人コーヒーショップであれこれとアイデアを出し合っているのだが,決まっていることといったら,冒頭で男が二人登場することだけだ。犯罪物語,恋愛物語,俎上に登るアイデアはみな途中で行き詰まる。しまいには,「やった,ひらめいた,書き取って」と称した若い脚本家(下條アトム)が,昔の心理小説よろしく,登場人物の思考の流れを延々と描写しはじめる。相方は途方に暮れて(ああ,今は亡き名古屋章の名演が耳に蘇る)「ちょちょちょっと待って,それどういう意味があるの?」下條アトムはあっさり「意味?意味なんてないんだよ」
 相方は激怒し,二人は気まずく別れる。店に残った下條アトムがしょんぼり座っていると,コーヒーを注ぎ足しに来た無愛想なウェイトレスが,なぜか物語の続きを語りはじめる。街にやってきた男のひとりがコーヒーショップに入り,ウェイトレスの手を取り裏口から駆け出すと,追いかけてくる銃弾,息をもつかせぬサスペンス。それは創作というよりも,むしろウェイトレスの退屈な日常が必然的に生み出したファンタジーだ。脚本家の前に全く新しい物語が広がる。我に返った脚本家が,コーヒーをもう一杯,と頼むと,一転して生気に満ちた女が,低く力強く「いいわ」とささやき,コーヒーを注ぐ。

 この短い物語(そして思い切って云えば,ちょっとごつごつとした,完成度の低い物語)のどこにそこまで惹かれたのか,その頃の俺には自分でも解らず,戸惑っていたように思う。
 今にして考えれば(まあ,あくまで今にして考えればの話だが),平凡な人々の一人一人が持つ「夢見る力」の大きさに,当時の俺は強く揺り動かされたのではないかと思う。いま仮に,認識世界を現実と空想,「こっち」と「あっち」とに分けたとして,我々がどんな境遇の下でも「こっち」を生きていく,その力と希望を与えてくれるのは,我々一人一人に備わった「あっち」の力,可能な未来を夢見る力なのではないか。とまあ,そういったようなことを感じていたのではないかという気がする。やれやれ。
 残念ながら,今の俺はそうは思わない。なぜなら:(1)ファンタジー自体は善でも悪でもない。夢見る力は人を支えると同時に人を損なう。それは希望のよすがというよりも,むしろ宿命的な病気のようなものだ。(2)結局のところ,ウェイトレスのもとに男は現れない。仮に現れても,(ウディ・アレンの「カイロの紫のバラ」で描かれているように,)男はウェイトレスの手を取ることなく去っていく。我々に出来ることはせいぜい,「夢は現実化する」と信じること,もしくは目の前の現実について「これは過去の夢が現実化したものだ」と信じることだけであって,夢そのものは決して現実化しない。

 うーん,まあそれはどうでもいいや。
 最近気になって仕方がないのは,消えた夢は一体どこに向かって消えていくのか,ということだ。こう書いてしまうとずいぶんナイーブな疑問なのだが,考えはじめると止まらない。実世界での経験が長期記憶に際限なく降り積もり,そのシステムになにかしらの永続的変化を与えるのならば,いま心に浮かんだ突拍子もない空想は,俺の認識にどんな影響を与えて,どうやって消えていくのだろうか。
 竹熊健太郎さんのブログを読んでいたら,電車に揺られているときの暇つぶしに,窓の外の屋根の上を電車と同じ速度で跳び走る忍者を想像する,という話が載っていた。我も我もと賛同するコメントがついていたから,少なからぬ人にとっての日常的空想なのだろう。試してみても俺にはさっぱりイメージできないのだが,電車が止まるたび,この車輌に乗っている何人かの人々の忍者が,窓の外のどこかに佇み発車を待っているのだなあ,と思う。ではその人たちが電車を降りたら,その忍者はどこに行くのか?
 ほれぼれするくらい立派な大便が出たときに,俺は便器の前でしばし夢想するのだけれど,そのファンタジーのなかにレギュラーメンバーとして登場する,流れてきた俺の大便に衝撃を受け人類への畏敬の念を抱く下水道のオオサンショウウオは,俺がその夢想を止めたら一体どこにいくのだろうか?
 この年にしてようやく俺は,世の中には努力が報われるタイプの人生と,あらゆる努力が水の泡になるタイプの人生があって,自分が後者に属するということを知ったのだが,ではそれに気づく前の俺の努力,それを可能にしていたファンタジーは,いま一体どこにいるのだろうか?

 願わくば,象の墓場のように,死にゆくファンタジーが人知れず集まる場所がありますように。そこにはたくさんの忍者,オオサンショウウオ,街にやってきた男,思い出せなくなった夢などが,苛酷な期待から逃れ,そっと安らかな眠りに就いているだろう。

雑記 - ファンタジーの眠る場所

2006年1月 8日 (日)

Bookcover 教育を経済学で考える [a]
小塩 隆士 / 日本評論社 / 2003-02
 正月の新幹線で読んだ。面白かった。
 教育経済学の啓蒙書。著者のあとがきによればポイントは以下の通り。(1)教育には投資という側面もあれば消費という側面もあるので,人的資本論には限界がある。(2)教育需要をもたらすのは不確実性であり,同時に不確実性は教育によって冷却されていく。(3)エリート育成には公平性の観点からの議論が必要だ。(4)公教育のスリム化は格差拡大を加速する。(5)個人ベースのデータがなく,実証分析ができなくて困る。教育統計を整備・開示してくれ。
 面白かったのは(2)の点で,夢と勘違いが教育需要を支えているという指摘はなるほど腑に落ちる。教育支出をオプション取引の類推として捉えるところなど,学問の醍醐味を感じるのだが,そのいっぽうで,所詮合理的な行動モデルじゃないの,という疑念も消えず,服の上から背中を掻いているような気分である。去年,高橋秀実さんが週刊誌に中学受験のルポを連載していて,子どもが進学塾に通う最大の理由は「安心するから」だという主旨の文章を書いていた。もう目から鱗が落ちる気分だったのだが,そのへんは金融理論のアナロジーでは捉えきれないのではなかろうか。
 著者はゆとり教育がよほど嫌いらしくて,さんざん罵倒しているのだが,その根拠は「ゆとり教育は教え惜しみだ」ということに尽きており,それはそれで一面的である。もっとも新学力観の側も,新しい学力概念を実証的な言葉で特徴づけることに失敗しているわけであって,なるほど,学力低下をめぐる議論は本質的に不毛なものだなあと思う。まあどうでもいいや。

また職探しせねばならんかもしれん今日この頃,教育関連本を読む気も失せてきたぞ。といって,就職対策本を手に取る気分にもなれない。当分は気楽な本ばかり読んでお茶を濁すことにしよう。

心理・教育 - 読了:01/08まで (P)

Bookcover 再婚一直線! (Feelコミックス) [a]
安彦 麻理絵 / 祥伝社 / 2005-12-05
しばらく前に読んだのだけど,書くのを忘れていた。
Bookcover みつえ日記―女子〓パソコン事情 (1) (Honwara comics) [a]
青木 光恵 / 朝日ソノラマ / 2005-12
失敗。買うことなかった。
Bookcover 口笛小曲集 (ビームコミックス) [a]
山川 直人 / エンターブレイン / 2005-07-25

Bookcover 機動旅団八福神 3巻 (ビームコミックス) [a]
福島 聡 / エンターブレイン / 2005-12-26

Bookcover ナッちゃん 16 (ジャンプコミックスデラックス) [a]
たなか じゅん / 集英社 / 2005-09-02

Bookcover ナッちゃん 17 (ジャンプコミックスデラックス) [a]
たなか じゅん / 集英社 / 2006-01-05
マット洗い機のモーターに水がかからないようにしないといけないんじゃないかと心配なのだが,その道のプロが描いているんだから,これでいいんだろうなあ。

コミックス(-2010) - 読了:01/08まで (C)

Bookcover 日本人の歴史意識―「世間」という視角から (岩波新書) [a]
阿部 謹也 / 岩波書店 / 2004-01-20
数年前に半分ほどで放り出していた本。なんだか偉い学者の道楽のような気がしたし,よくある日本人特殊論の一変形としか思えなかったのである。今回読み直してもその印象は残っているんだけど,でもとても面白かった。年を食うと日本人論が好きになるというのは一般的傾向だと思うので,ひょっとすると俺も年を取ったのやも知れぬ。
 Grausという人はこう書いているのだそうだ。歴史学は歴史的神話(過去を絶対化して歴史と自己とを関連づけようとする試み)に対して敗北を重ねてきた。しかし子細にみるとそこには分業があった。歴史学はその独自な戦場で,歴史神話に対してその要素が誤りだということを示し,いっぽう「歴史的神話もその活動分野を限定し,学校で教えられる知識を馬鹿にして歴史学者に事実の探求を任せ,歴史神話は歴史家がなおざりにしてきた歴史の追体験に集中し,証明も批判もなしに歴史を追体験し,感情に訴え,過去にある種の意味を与え,歴史の中でいつかは真実が勝利するようにと願う人々の関心に答えている。」(なるほどなるほど。身につまされますね。)「人々がしばしば歴史的神話の虜になるのは愚かさのためではなく,歴史の意味を確かめようとする心からの要請があるからなのである」。だから歴史学は(そして他の社会科学は),事実の位置づけだけに留まっていてはならず,個人や社会に意味を与えるという貢献をすべきだ。
 話はここから,Grausのいう歴史学とはちがう,日本の歴史学の構想へと向かっていくのだが,そっちのほうは,うーん,わかるようなわからないような感じだ。もう何冊かきちんと読んでみたいんだけど,この先生の本は山のようにあるので困る。
Bookcover ワイルドグラス―中国を揺さぶる庶民の闘い [a]
イアン ジョンソン / 日本放送出版協会 / 2005-12
昨日の帰りに読了。農民の集団訴訟,北京のフートンの破壊,法輪功への弾圧の話。面白かった。
Bookcover 囲い込み症候群―会社・学校・地域の組織病理 (ちくま新書) [a]
太田 肇 / 筑摩書房 / 2001-12
出版時(2001年)にほぼ読了していたのだが,最近読み直していた。さきほど読了。

ノンフィクション(-2010) - 読了:01/08まで (NF)

2006年1月 4日 (水)

 これから書く文章の長さとその内容のおぞましさを思うとたじろいでしまう。それでもいまここで書き留めておきたいと思う,その理由がふたつある。
 ひとつには,これから書く文章は本当はすでに書かれてしまっているものだからだ。ごくまれにしか起きないことなのだが,長い文章が頭の中に浮かび,どうしても離れなくなってしまうことがある。それはもうほとんど完成しており,その文章全体を絵を眺めるようにして見渡すことが出来る。目を閉じてA4の紙を思い浮かべれば,横書きの行頭を縦に読めるような気がするほどだ。
 熱に浮かされているような,我ながら不思議な感覚なのだが,それでなにか得することがあるわけではないし,むしろ不都合のほうが多い。ふと目を閉じるとその文章の一節が頭に浮かび,一旦そうなってしまうと,もうその続きを最後まで読むしかなくなってしまう。その文章は一字一句変わらない(ように思われる)のだが,そこから喚起されるイメージはますます子細なものになっていく。日が経てばいずれは薄れていくのだろうが,それを待つのが厭わしい。むしろ,いまここで全て書き出してしまい,陽に当てて,かすれさせてしまいたい。
 二番目の理由はこうだ。これから書く三つの話は,ここ数日の間に見た夢についての話である。それは大変に生々しい悪夢で,目覚めたときには涙の跡が残っていたり,胃液で喉が痛んだりした。しかもその夢は,目を閉じると繰り返し現れる(正確にいえば,これから書く文章が脳裏をよぎり,それによって全てを追体験する羽目になる)。もちろん,こんな夢などみたくない。おぞましい悪夢を,目に見える文章にしておくことで,こんな夢はもう見ないということをはっきりさせたい。俺が見たいのはたとえば,暖かい色をした果実の夢だ。

 コンクリートの天井に大きなレールがあり,そこから全裸の人々が逆さにぶら下げられている。老人や若者,男や女が,両足首を縛られ,そこに取り付けられたフックでぶら下がって,前後左右に揺れ,押し合いながら少しずつレールを進んでいく。両手は背中に縛られているが,誰も抵抗する様子は無く,目をうつろに開いて揺れている。俺もその一人だ。
 つり下げられた身体は背中の側に進んでいくので,先になにがあるのかは見えない。しかし俺の視点は身体を離れて,ドキュメンタリーフィルムのカメラのように,肌色の裸体の列に沿って前に進んでいく。女の長い髪が床に向かってつららのように延びている。男たちの萎びたペニスはへそを指して垂れ,身体と一緒に不安定に揺れている。
 ステンレスのトレイや積み上げられた段ボールの上を揺れながら進んでいった肉塊が,いくつかあるゴムのカーテンをかきわけると,白い蛍光灯に照らされた,広い作業場のような場所に出る。足首の車輪がジャーッと音を立て,身体と身体の間隔が数メートル開く。その右側に,タイガースのユニフォームを着た男が立っている。男は髪を刈り上げ口ひげを生やしており,太ってはいるが尻と足首は締まっている。一瞬だけランディ・バースを連想するが,男の目は細く無表情だ。
 男はバットを構え,腰を捻って,素早く力強くスイングする。風を切る鋭い音と,骨が砕ける鈍い音がする。ぶら下げられた裸の男が一瞬で絶命する。男が再び姿勢を整え,バットを構えると,レールが音を立て,次の身体が男の前に静止する。
 よくみると,縦縞のユニフォームを着た男は毎回微妙にスイングを変えている。ぶら下げられた身体の身長にあわせてバットの位置を調整し,首の骨を一撃で砕いているのだ。死体の首は不自然に長い。目を開いた表情は,これから殺される人たちのものと同じはずなのに,どこかが決定的に違う。息絶えた身体は再びレールを勢いよく滑って,ゴムのカーテンの向こうへと消えていく。カメラはそれを追わないが,そこでは死体が手際よく解体されているのだろうと俺は思う。ここはまさに屠殺場だ。
 見ると,俺の身体も作業場に滑り込み,死を待つ列に並んでいる。恐怖は全くない。ただ漠然とした安堵感だけがある。
 ところが,機械的に進められていた処理がかき乱される。縦縞の男の横に,作業服を着た年配の男と,スーツを着た数人の男が現れる。作業服の男は部屋をあちこちを指さし,なにかを説明している。官僚が視察にきたらしい。
 スーツの男の一人が上着を脱ぎ,縦縞の男を短く邪険な言葉で押しのけると,腕をまくり上げ,日本刀を抜く。大げさな身振りで振り上げ,構えると,バットのように横に振る。刀は吊り下げられた男の肩の肉をそぎ落とし,首に切り込んで止まる。男の悲痛な叫び声が響く。それまで無気力に吊り下げられていた人々の間に動揺が広がる。ある者は震えはじめ,ある者は身体をくねらせて弱々しくもがく。
 そこから先はあまりに残虐で,もう音は聞こえず,スライドショーのように細切れに映し出される。床に肉片と黒い血が飛び散る。縦縞の男は顔を背けている。何度も斬りつけられた男が,首筋から血糊の泡を噴き出しながら,それでも絶命することなく,低いうめき声を上げながらカーテンの向こうに消えていく。スーツの男はなにごとかつぶやき,笑い,ふたたび刀を構える。次の位置に吊り下げられている若い女は,恐怖で目を見開き,顔は笑っているように引きつり,その首筋と頬を伝って,失禁した尿が流れていく。
 そこで視点が切り替わる。逆さに吊り下げられている俺からは,背中を向けた裸の身体の列しか見えない。背中側の数メートル先から獣のような悲鳴が繰り返し聞こえる。ひどい吐き気がする。絶望で身体中が凍り付く。もう何も見たくないし聞きたくない。ぎゅっと目を閉じて,これまでに一度も経験したことがないほどに,強く強く祈る。誰でもいい,お願いだから,あの役人を止めてくれ。

 広大な工事現場の一角に,地面を掘って作られた白いコンクリートの四角い囲いがあって,生コンが流しこまれたばかりのように見える。それは泥のプールだ。冬の空が青く澄み渡り,陽は照っているのだが,冷たい強風が辺りを吹き抜けている。とても寒い。
 プールの周囲には数え切れないほど大勢の人々が横たわっている。コートやジャンパーを着たまま,後ろ手に縛られ,足首にフックをつけられて転がされている。その間を作業員たちが歩き回っている。泥のプールの横には,何台かの小さなクレーンがあって,黄色と黒の縞を塗られたアームを忙しく動かしている。
 横たわった人の足下にアームが寄せられると,作業員が縛られた両脚を無造作に持ち上げ,フックをアームに掛ける。逆さに吊り下げられた人は泥のプールの上に運ばれる。悲鳴をあげていたとしても,強い風にかき消されてしまう。アームが急速に下降し,まるで杭を打ち込むように,吊り下げられた身体がまっすぐ泥のなかに突き刺さる。腰のあたりまでが泥に埋もれると,アームは何度か小刻みに縦に揺らされる(泥を身体に密着させるためだ)。窒息した人々は身体を激しく捩るが,その動きは徐々に弱々しくなり,やがてはぐったりと静止する。十分ほど経ってから,再びアームが上昇し,泥まみれの死体が引き揚げられ(その顔はよく見えない),泥のプールの脇に放り出される。
 俺はうつぶせに横たわった姿勢のまま,人々が次々ともがき死んでいく様子をひたすら見つめている。視線を逸らすことができない。「世の中には死ぬほどの苦しみがたくさんあって」と俺は考える。「病気や事故のせいで,何度も死ぬほどの苦しみを味わいながら,しかし生き延びる人もいる。それに比べれば,一度きりの苦しみで確実に死ねるんだから,この死に方はそう悪くはないはずだ」そう自分に言い聞かせるのだが,死に瀕して苦しげにもがき続ける人々を見ると,恐怖で身体が凍り付く。もっと楽に死なせて貰えないものだろうか。
 若い男の作業員が俺を見下ろし,馴れ馴れしい口調で云う。じゃあこっちにする? 指し示す方向を見ると,もうひとつの小さなプールがある。黒いコートを着た小柄な女性をクレーンが逆さに吊り上げ,プールに突き落とすと,その身体は一瞬だけ痙攣するが,すぐに静止する。特別な薬剤が泥に含まれているのだ。ああ,技術革新というのは有り難いものだなあ,と俺は思う。断然こちらのプールのほうが良い。
 クレーンが上昇し,あっというまに絶命した女の身体を吊り上げる。一瞬,顔が青く塗られているように見える。それは変色した肉塊だ。顔はただれ落ち,原型をとどめていない。垂れている髪の先にひっついている白いものは,溶け落ちた眼球だ。
 俺は激しく吐く。胃が激しく痙攣し,のど元に固く収縮する。なにも出るものがなくなっても吐き続ける。胃液が喉を熱く焼く。もう呼吸ができない。両手を縛られたまま,俺は激しく身を捩らせ,口から粘液を垂らす。まさにこれだ,これが死ぬほどの苦しみだ,と俺は思う。
 長く苦しんだあげく,ようやく目をかすかに開くと,滲んだ涙の向こうで,男が辛抱強く待っている。呼吸を整え,かすれた声で俺は「こっちにしてください」とつぶやき,再び目を閉じる。両脚が持ち上げられ,クレーンに取り付けられたのがわかる。俺は身体を硬くして身構え,一瞬で終わってくれるはずの激しい苦痛を待つ。

 俺は寝たきりの老人で,施設の相部屋のベッドに横たわっている。全身の感覚はまったくなく,指先ひとつも動かすことが出来ない。意のままになるのは呼吸と瞬きくらいだ。深夜の病室は真っ暗で,入り口からかすかに廊下の黄色い光が差し込んでいる。
 かすかな悲鳴が聞こえる。まだ誰も気がついていないが,遠くの病室で,老人たちが一人づつ死んでいるのだ。
 それには名前がない。強いてそれを呼ぶのなら,『なんだかよくわからないもの』としか云いようがない。それは生き物でもそうでないものでもあり,大きいようでも小さいようでもあり,黒いようでも黒くないようでもあって,なんだかよくわからないやり方で,静かに人の命を絶つ。それから逃れることは誰にもできない。遠くで若い娘のかすかな悲鳴が聞こえる。可哀想に,寝たきりの我々はいいとしても,巻き添えを食って殺される看護婦たちはたまったもんじゃないよな,と俺は思う。
 誰にも伝える手段がないが,実は俺は『なんだかよくわからないもの』についてかなりの知識を持っている。ナショナル・ジオグラフィックで読んだのだ。それにはちゃんと正式な名前があるのだが,その長い名前はあまりに禍々しいので,意識することさえできない。その大きさは2メートルとも5メートルとも云われ,その姿は黒い霧のようだと云われている。それは人をすっぽりと包み込むと,足首を持って身体を軽々と吊り下げ,勢いをつけて,後頭部をリノリウムの床に激しく叩きつける。興に乗ると,鉄棒の大車輪のように身体をくるくると数回転させてから叩きつけることもあるらしい(入れ歯が天井にめり込んでいる事例が報告されている)。いずれにせよ,人は苦痛を感じる間もなく死んでいくと考えられている。掲載されていた原色の想像図を思い出す。ベッドににじり寄っていくその黒い霧は,鉛筆を握りしめた子どもの殴り書きのようにも見えた。
 俺はただ横たわり,『なんだかよくわからないもの』が俺の命を絶ってくれるのを心待ちにしている。窓の外の風に乗って時折聞こえてくる悲鳴に,じっと耳を澄ます。しかし,その気配は一向に近づいてこない。このまま夜が明けてしまうかもしれない。苦痛に満ちた一日がまたはじまってしまう。いっそ気がつかなければ良かった。同室のベッドに力無く横たわる老人たちのように,ただ眠っていればよかった。
 じりじりと待っていても仕方がない。若い日々の思い出に身を浸し,最後のひとときを楽しく過ごそう,と俺は考える。しかし,目を閉じて思い出すどんな記憶も,強い悔恨へとつながってしまう。子ども時代の思い出。学生時代。大学院生の頃。どれも即座に,苦い思いだけを引き起こす。なにを考えても突きつけられるのは,俺の人生が失敗だったという事実だ。なにもかも失敗だった。そのことから逃れることはできないのだ。
 目を開けると,病室の暗い天井がある。俺は心のなかで,もういいんだ,なにもかもようやく終わるのだ,と繰り返す。ようやく緊張がほどけ,両眼から暖かい涙がとめどなく溢れる。俺はひたすら繰り返す。救済がやって来る。必ず来る。この夜が明ける前に。

 新年早々,なぜこんなひどい夢を繰り返し見なければならないのか。その原因がわからないことには,安心して眠ることさえできない。下痢と頭痛に苦しみながら(ちょっと風邪を引いたみたいだ),俺は悩みに悩み,考えに考え,昨夜便所で尻を拭こうとした瞬間,突如として洞察を得た。きわめて革命的な洞察だ。
 この3つの夢には重大な共通点がある。足首を掴まれて逆さに吊り下げられる,という点だ。なぜそんな夢を見たか? それはあんぽ柿のせいなのだ。
 年末にスーパーで山梨産のあんぽ柿を買った(4個で300円くらい)。それがあまりに美味いので(濃い煎茶とともに頂くあんぽ柿は夢のように甘い),自宅で作れないものかと思い,Google様にお伺いを立てたところ,案外に簡単なものであることがわかった。薬剤を使って薫蒸や漂白をする場合もあるそうなのだが,要するに,枝のついた柿の皮を剥き,ぶら下げて干すだけである。へえ,来年試してみようかしらん,と思ったのだが,張ったロープにぶら下げられた柿を想像した拍子に,ほんの一瞬,足首から逆さにぶら下げられた人々のことを,確かに俺は思い浮かべたのだ。

 だからなにも怖れることはない。死も,老いも,苦痛も,俺のいるこの場所からは,いまはまだ遠くにある。確かに俺の人生は失敗だったけれども,それでも俺はこれからの日々を,それなりに気楽に過ごしていくだろう。なにも悔やむことはない。怖れることなどなにもないのだ。
 今夜目を閉じたら,吊り下げられた死体のかわりに,俺はあんぽ柿の夢をみよう。暖かいオレンジ色の柿の夢をみよう。

雑記 - あんぽ柿

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