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2007年6月24日 (日)

Bookcover 緋色の迷宮 (文春文庫) [a]
トマス・H. クック / 文藝春秋 / 2006-09
風呂で一気読み。トマス・クックだから覚悟はしてたけど,やはり暗い話であった。

フィクション - 読了:06/24まで (F)

2007年6月22日 (金)

Bookcover 北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる [a]
テッサ・モーリス・スズキ / 朝日新聞社 / 2007-05-08
オーストラリアの日本研究者が,50年代末の北朝鮮への帰国事業について書いた本。特に前半部分が大変勉強になった。帰国事業は日本政府にとって,在日朝鮮人を厄介払いするという意味合いがあった由。

日本近現代史 - 読了:06/22まで (CH)

 一昨年の春に大学を引き払ってサラリーマンの真似事をはじめたとき,もうこれからは専門書や雑誌論文を読むことなどないだろう,と思ったものである。
 俺の予測は大抵外れるのだが,この点についてもまたそうだった。今に至ってもなんだかんだで,心理学系の本を買い込むことがある(これはまあ,大学の仕事を細々と続けているせいもある)。平日の会社勤めでも,その勤務時間の何パーセントかは資料探しに費やしており,探し回った末ようやくみつけた資料が結果的に心理学の論文であった,ということもたまにある。なんというか,残尿感あふれる人生だ。
 で,こういう立場になって気が付いたんだけど,学術論文というのはなかなか手に入れにくいものである。たとえば"Psychological Review"という雑誌は,心理学分野で最高峰の学術誌であって,心理学科のある大学ならばまちがいなく購入している。ここに載っている論文が手に入らないという事態は,ちょっと想像がつかない(まあ,手に入れても読むかどうかは別の問題だけど)。ところが実はこれは,大学に籍がある人に限った話だ。いま一人の市民が突然に,"Psychological Review"掲載の論文を,なぜか読んでみたくなった,としましょう 。近所の公立図書館には? あるわけがない。もっと大きな図書館に行けば? 都立図書館(中央,日比谷,多摩)にもない。では大学の図書館は? 残念ながら,基本的に大学図書館は一般市民に開放されていない。案外に困難な道のりなのである。
 とはいえ,世の中は少しづつ進歩している。まず,国公立大学の図書館は一般市民の利用を認めはじめているようだ。先日ためしに一橋大の図書館に行ってみたら,拍子抜けするくらいにあっさりと入館させてくれて,本当に助かった。さらに,ちょっと時間がかかるけど,国会図書館関西館に申し込んでコピーをとって頂く,という手もある(笑っちゃうくらいに丁寧な梱包で送ってきてくれる)。もしお金が有り余っているのなら,何十ドルだか支払って,電子ジャーナルサービスでPDFファイルを買うこともできるだろう。
 問題は,もう少しマイナーな雑誌の論文を入手する場合である。国会図書館が購入している英文誌は案外少ない。うまいこと大学図書館に忍び込めても,そこで購入していない雑誌だったらもうお手上げである(さすがに,学外者のために資料取り寄せまで提供してくれる大学図書館はみあたらない)。PDFファイルをオンデマンドで買えるかどうかは雑誌次第だし,買えたとしても馬鹿みたいに高い。

 皮肉なことに,これならすぐに役立つはずだ,急いで読んでおきたい,という論文は,権威の高い雑誌にではなく,ちょっとマイナーな雑誌に載っていることが多いのである。俺の場合は,非常勤先の大学の図書館に取り寄せを頼むという最終手段があるけれど,大学によっては非常勤講師の依頼を受けないところもあるようだ。非常勤を掛け持ちして食べている人々や,俺のように一般企業で這いつくばるように働いている人々は,いったいどうしているんだろうか。聞いてみたいものだ。

 。。。と書いていたら,なんと,欲しい論文がいま手元に届いた。ダメもとで著者様に「PDFファイルプリーズ」と頼んでみたら,即座に送ってよこしたのである。ありがたや,ありがたや。直接頼んじゃうという方法もあるなあ。

雑記 - その論文をどうやって手に入れるか

2007年6月17日 (日)

Bookcover 麗しき男性誌 (文春文庫) [a]
斎藤 美奈子 / 文藝春秋 / 2007-06
アエラ連載。当代一流の辛口評論家が,雑誌を通して世の男性たちを斬る,はずの内容なのだが,ついつい矛先が鈍ってしまうところが可笑しい。出版という斜陽産業への愛が邪魔をしているのだろう。

Bookcover 職場いじめ―あなたの上司はなぜキレる (平凡社新書) [a]
金子 雅臣 / 平凡社 / 2007-03
著者は都の労働相談に従事していた人。前著の岩波新書の内容が良かったので期待したのだが,こちらは経験譚と世間話であった。ずいぶんと年寄りめいた教訓を書く人だなあ,1943年生まれなのに,と不思議に思ったが,よく考えてみると43年生まれなら60代半ばだ,そりゃ仕方ないですね。

ノンフィクション(-2010) - 読了:06/18 (NF)

Bookcover 売れないのは誰のせい?―最新マーケティング入門 (新潮新書) [a]
山本 直人 / 新潮社 / 2007-06
仕事の足しになるかと思って,マーケティング論やらブランド論やらの本を買い込んではめくってみるのだが,その質の高低に関わらず,さっぱり面白みを感じないのである。そんなの別にどうでもいいじゃん,良い商品をつくっていればいずれは売れるよ,なんてついつい白けてしまう。これは俺の側に問題があって,要するに,自社の売り上げに一喜一憂した経験がないからであろう。
 そんなこんなで最近は,その種の話題にいい加減うんざりしていて(いいのかそんなことで),この本も全く期待せずに買った。著者は広告代理店から独立したばかりの40代で,そのへんも期待を引き下げる要因であった(フリーになったばかりの人が書いた本はくだらないことが多いと思う。ただの営業上の名刺にすぎないからだろう)。
 ところが予想に反し,これはなかなか面白い本であった。中身は薄くて,30分で読めてしまうけれど,ただの自慢話ではなく,各章の主旨が明確で,筋がとおっている。著者は博報堂の研究開発にいたひとだそうで,なるほど,会社員を舐めてはいけない。
 アサヒビールの「ビールは鮮度」キャンペーンの時期に,「あなたはビールを選ぶときに鮮度を重視しますか?」「では,世間の人は鮮度を重視していると思いますか」という調査を縦断でやったら,まず後者の問いにYesと答えたひとが増え,次に前者で増えたのだそうだ。うーん,シブイ調査だ。ここから著者らは,購入時重視点ではなく,もっと動的な「争点」という概念を提案した由。マスメディアによるagenda-settingのことを言っているのであろう。

マーケティング - 読了:06/18 (M)

2007年6月16日 (土)

Bookcover 消費社会から格差社会へ―中流団塊と下流ジュニアの未来 [a]
上野 千鶴子,三浦 展 / 河出書房新社 / 2007-04
後半は上野千鶴子が聞き手で,三浦展の昔話。パルコ時代はよかった,とかなんとか。正直いって,どうでもいいや。

ノンフィクション(-2010) - 読了:06/16 (NF)

2007年6月15日 (金)

Bookcover 認知社会学の構想―カテゴリー・自己・社会 [a]
片桐 雅隆 / 世界思想社 / 2006-07
あれもこれも全部カテゴリー化の問題として捉えてみよう,という本。社会学についての基礎知識に欠けるもので,その価値はよくわからないが,頭の体操として面白かった。
 Taylorという人の"Sources of the self"という本はなんだか面白そうだ。自己概念の歴史についての本である由。ずいぶん芸域の広い学者だなあと驚いたが,いま調べてみたら,この人は心理学者じゃなくて(Taylor&FiskeのTaylorじゃなくて),カナダの政治家にして有名な思想家だそうだ。それはそれでまた忙しそうですね。

Bookcover ワーキングプア―日本を蝕む病 [a]
/ ポプラ社 / 2007-06

ノンフィクション(-2010) - 読了:06/15まで (NF)

Bookcover 未来町内会(2) (講談社コミックス) [a]
野中 英次 / 講談社 / 2007-06-15

コミックス(-2010) - 読了:06/15まで (C)

Jarvis, C.B., MacKenzie, S.B., & Podsakoff, P.M. (2003) A critical review of construct indicators and measurement model misspecification in marketing and consumer research. Journal of Consumer Research, 30, 199-218.

測定モデルにおいて,指標をformativeだとみなすかreflectiveだとみなすかを正しく定めることはとても大事だ。本論文では
  • 決定に際しての概念的基準を示します
  • マーケティング分野で測定モデルを誤って指定している例をレビューします
  • 誤って指定するとどんな目にあうのかシミュレーションしてみます
  • formativeなモデリングの際のアドバイスを示します
[測定モデルの2つのタイプ,その概念的区別] (略)
[formative指標モデルとreflective指標モデルを区別する基準]
  • 概念的にいって,指標と構成概念の間の因果関係はどちら向きか
  • 指標は入れ替え可能か(formative指標はほかの指標と入れ替えられない)
  • 指標は共変するはずか(reflective指標は共変するはず)
  • 各指標の因果的先件と帰結は指標間で同一か (reflective指標なら同一)
どれかに答えられなかったり,答えが矛盾していたりするのは,構成概念がうまく定義できていないからだ。
[多次元的な構成概念]
マーケティング分野での構成概念は抽象度が高く,そのため多次元的であることが多い。これを二次因子モデルで指定する場合,一次因子が{reflective/formative}×二次因子が{reflective/formative}の4通りがありうる。(それぞれについての実例を紹介。略)
[マーケティング文献のレビュー]
J. Consumer Res., J. Marketing, J. Marketing Res., Marketing Sci.の4誌の1977年以降の論文178本から,構成概念1192個を取り出し,どのようにモデル化されているか,本当はどのようにモデル化すべきだったか,の2点を調べた。68%が正しくreflective, 28%が誤ってreflective, 3%が正しくformative, 1%が誤ってformativeであった。(正しくformativeなモデルの実例を紹介。略)
[モデルの誤指定はどのくらい深刻な問題か?]
formativeな構成概念を含んだモデルから共分散行列をつくり,当該の構成概念をreflectiveだとみなしたモデルで分析する,というモンテカルロ・シミュレーションを行った。モデルが間違っていると,構成概念間のパラメータ推定にとても大きなバイアスが生じた。しかもモデルを誤指定しているということは適合度指標からはわからなかった。
[formativeなモデルをつくるときのお勧め]
  1. モデルを同定可能にするコツ: reflective指標を2つ付け加えるのがお勧め。例: 顧客満足なら全体的満足度や好意度を付け加えるとよかろう。
  2. 外生変数間相関のモデル化: SEMではふつう外生変数間の共分散を自由推定する。これをformative指標モデルにそのままあてはめると,formativeな指標は外生変数なので,仮説のない共分散が無数に生まれてしまう。それらを0に固定するのも筋が通らないし,すべて推定するとモデルの倹約性が失われる。対策:モデルに少しづつ追加して,適合度指標の変化を見ると良い。ないしRNFIやRPNFIのような指標をつかうと良い。
[結論] (略)

formative/reflective論文の第二弾。マーケティング分野向けの啓蒙論文という感じで,Edwards & Bagozziを読んだ直後だからあまり得るところがなかったが,formativeなモデルをどうやって同定可能にするか,という話は役に立った。悩んでるのは俺だけじゃないのね。
 過去論文を集計するくだりでこんな話が出てきた。一般に,心理学的構成概念はreflectiveにするのが自然で,いっぽう経営上の構成概念(業務の成果とか)はformativeにするのが自然であることが多い由。なるほど,なんとなくわかるような気がするけど,たとえばお店の顧客満足のような心理的概念であっても,もし指標が「レジの前の列が短い」「店内が清潔だ」というような項目だったら,それはやっぱしformativeにモデル化すべきだろう。やっぱし結局は,概念と指標の性質によるとしかいいようがないと思う。

論文:データ解析(-2014) - 読了:06/15 (A)

2007年6月12日 (火)

Bookcover 湖中の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫) [a]
レイモンド チャンドラー / 早川書房 / 1986-05
切れ切れに読んでいたので,途中で筋を見失ってしまった。。。
Bookcover 市民ヴィンス (ハヤカワ・ミステリ文庫) [a]
ジェス ウォルター / 早川書房 / 2006-12
犯罪者としての過去は捨てたが,まともな市民にもなりきれないドーナツ屋の店主が,ひょんなことから命を狙われて。。。という筋なのだが,この主人公が新たな人生を掴もうとあがくその象徴が,なんと,大統領選挙に関心を持つことなのである。クライマックスは「俺を殺す前にひとつ頼みがある,投票に行ってみたいんだ」という場面である。なんと斬新なアイデアだろうか。いやあ,面白かった。

フィクション - 読了:06/12まで (F)

Bookcover 郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書) [a]
若林 幹夫 / 筑摩書房 / 2007-03
数ヶ月前に読んだ本。書くのを忘れていたみたいだ。

ノンフィクション(-2010) - 読了:06/12まで (NF)

Bookcover 大本襲撃―出口すみとその時代 [a]
早瀬 圭一 / 毎日新聞社 / 2007-05-23
戦前の大本教弾圧について関心があったので,このような本が出たのはありがたい。悪くない本だと思う。
 しかし,書き手が二代目教主に惚れ込んでしまっている点は評価が分かれるところだろう。80年代の内部分裂の話には触れていないし,大本系の新宗教についても記述がないし,巻末は現教主のインタビューだし,これでは大本の宣伝本だと受け取られても仕方がない。毎日新聞はいったいどうしちゃったんだろう?

日本近現代史 - 読了:06/12まで (CH)

2007年6月 6日 (水)

Edwards, J. R. & Bagozzi, R.P. (2000) On the nature and direction of relationships between constructs and measures. Psychological Methods, 5, 2, 155-174.

ある指標(measure)がreflectiveかformativeかを決めるための一般的原則について論じる。
[構成概念とはなにか,指標とはなにか] (略)
[構成概念-指標間関係の因果方向]
科学哲学の分野で受け入れられている,因果性を確立する際の4つの基準に沿って考えると
  1. 弁別性: 構成概念と指標は弁別できなければならない。たとえば,操作的に定義された知能は構成概念になりえない。
  2. 連関性: 構成概念と指標は共変しなければならない。評価の方法には以下がある:(a)指標間の共変動によって推論する(必要条件を与えるが十分条件を与えてはくれない),(b)頭の中で実験する。どちらも決め手にはならない。
     reflectiveな指標の場合,構成概念と指標の間の関係は,モデルがどうであれ変わらない。しかしformativeな指標の場合,構成概念は指標の関数であると同時に,モデルのなかのなにかの従属変数を予測する合成変数でもあるから,その従属変数がなにかによって,構成概念と指標の関係も変わってくる。というわけで,構成概念の意味はあいまいになる。
  3. 時間的先行性: 構成概念における変化が先か,指標における変化が先か。評価の方法としては:(a)原因側を制御する実験を行う,(b)頭のなかで実験する。
     後者の場合,結論は指標の定義そのものによって決まる。たとえば,態度→項目提示→反応と考えることもできるし,項目提示→態度→反応と考えることもできる。
     Heise(1972)は,SESという構成概念が結果側で,教育・所得などの指標が原因側だ,と論じている。筋は通っているが,たとえば通学年数を教育そのものとみなしているわけで,これは社会経済的現象についてのある種の操作主義である。いっぽう,通学年数が教育のあとに生じ,測定誤差を伴っていると考えれば,これらの指標はそれぞれに対応する構成概念のreflectiveな指標であり,SESはこれらの構成概念の結果である,ということになる。
  4. 対抗する因果的説明の除去: この基準を満たすのが一番難しい。一般的な処方箋はない。ここではライバルとなる説明を同定する方法について考える。(a)準実験のときに妥当性を損なうような脅威について考える。たとえば i)history。原因と結果のあいだに,統制されていない媒介変数があること。ii)instrumentation。原因と結果の間にあるとみなされている関係が,実はデータ収集手法によって引き起こされていること(nuisance factorとか)。(b)頭のなかで実験する。
[構成概念-指標間関係のモデル]
6個の基本的モデルを考えることができる。(同定可能なモデルかどうかはこの際どうでもよろしい)
  1. direct reflective model: (指標 x_i) = (因子負荷 λ_i)×(構成概念 ξ) + (誤差δ_i)。テスト理論,因子分析,などなどはこのモデル。
  2. direct formative model: (構成概念 η) = Σ(係数 γ_i × x_i) + (誤差ζ)。使い道としては:(a)観察変数の合計を表す潜在変数をつくるとき。ζを含めないことも多い(主成分分析,正準相関分析,PLSなど)。(b)いくつかの変数の効果を要約するブロック変数をつくるとき。(b)潜在変数の実験的制御の効果をあらわすとき。例, 睡眠剥奪(formative指標)で疲労(構成概念)を制御し,別の変数で操作チェックする(reflective指標)。
  3. indirect reflective model: reflectiveモデルなのだが,指標と構成概念のあいだをいくつかの潜在変数が媒介していて,それらの変数にもそれぞれ誤差が刺さっているモデル。
  4. indirect formative model: formativeモデルなのだが,指標と構成概念のあいだをいくつかの潜在変数が媒介していて,それらの変数にもそれぞれ誤差が刺さっているモデル。
  5. spurious model: まずいくつかの潜在変数があって(相関もあるかも),それらが構成概念の原因でもありまた指標の原因でもあるモデル。仮に指標の誤差が0ならば,direct formative モデルになる。
  6. unanalyzed model: そのほかいろいろ:(a)構成概念も指標も外生(ただ相関だけがある), (b)指標は外生で,それと相関のある潜在変数があって,それが構成概念の原因, (c)指標は外生で,ほかのなにかの指標と相関していて,そいつらが構成概念のreflectiveな指標, (d)構成概念が外生で,別の潜在変数と相関があり,指標はそいつのformativeな指標。
以上を整理すると
  • reflectiveな指標が構成概念の原因をあらわしている→spurious
  • reflectiveな指標が構成概念の本質的な属性をあらわしている→direct reflective
  • reflectiveな指標が構成概念の結果を表している→indirect reflective
  • formativeな指標が構成概念の原因を表している→indirect formative
  • formativeな指標が構成概念の本質的な属性をあらわしている→direct formative
  • formativeな指標が構成概念の結果を表している→unanalyzed
[適用事例]
  1. ライフ・ストレス。SRRS(社会再適応評価尺度)はライフストレスのreflectiveな指標であるともformativeな指標であるともいわれている。上記基準を適用すれば,弁別性はある,連関性はある,時間的先行性は怪しい(ライフストレスを引き起こすライフイベントよりは後だが,ライフイベントによって生じる生活パターンの変化より前かもしれないから),対抗説明がありうる(ライフイベントがSRRS得点とライフストレスの原因である)。個々のライフイベントを共通原因とするspurious modelが正しかろう。
  2. 組織コミットメント。広く用いられている指標OCQは一次元尺度であると捉えられており,内的整合性で信頼性を評価するのが通例である(つまりdirect reflective modelである)。しかし項目のなかにはコミットメントの原因のreflectiveな指標もあれば,コミットメントの結果のreflectiveな指標もある。spurious modelとindirect reflectiveモデルの混ざったのが正しかろう。
  3. 社会的相互作用。Doney&Cannon(1997)の指標はformativeな指標であるとされている。しかし各項目はイベントの有無について尋ねているので,構成概念のほうが時間的に先行している。さらにそれらのイベントには会話と会合がある。二つの下位構成概念についてのdirect reflectiveモデルが正しかろう。
[要約と含意]
本稿のガイドラインをつかい,かつ構成概念-指標間関係についての補助理論を充実させることをお勧めします。
本稿の原則を適用することによる主な副産物としては:
  • direct formative modelの多くの例は,実はspurious modelにしたほうがよい。モデルが同定できなくなるのならdirect reflectiveな指標を付け加えるがよかろう。
  • 一般的構成概念の諸側面を記述する項目を,一般的構成概念のdirect reflectiveな指標とみなしてはいけない。
  • 信頼性係数が低いからといってdirect formative modelをつくるのはやめろ。formativeかreflectiveかというのはアプリオリな概念的基準で決めるべきだ。

sem-netで紹介されていた論文。ネットで拾った。
 SEMは独りで読みかじっただけなので,基本的なところについていっぱい疑問があって困ってしまう。たとえばこのあいだ,かのトヨダ先生によるAmosのセミナーに行ったらば,弟子の院生が示したすごく初歩的なモデル例のなかで,"講義後の充実感"が潜在変数,講義への満足感・理解度・目的一致度がその指標となっていた。たったこれだけのことで,いやちょっと待って,矢印の向きが逆じゃないの?むしろ理解度が高いと充実感が高くなるんじゃないの?だからこれはformative indicatorであるべきなんじゃないかしら,とすっかり混乱してしまったのである。まあ矢印の向きについて考えるのは大事なんだろうけど(Loehlinの本にもboth possibilities should be kept in mindと書いてある),こういちいち悩んでいたのでは身が持たない。場数を踏んでいない悲しさである。
 会社の仕事でもSEMのモデル構築について悩むことがあったので,暇をみつけて読んでみた。「こんなデータのときにはformativeなモデルをつくるといいよ」というプラクティカルなアドバイスを期待していたのだが,そういうポストホックな発想がいかんのだ,と叱られてしまった。失礼いたしました。
 どうやら「指標が潜在変数の原因側だったらformativeだ」と単純に考えるわけにもいかないようだ(うかつにformativeなモデルをつくると測定誤差がないことになってしまう)。なるほど。やっぱし勉強しなきゃなあ。

論文:データ解析(-2014) - 読了:06/07 (A)

2007年6月 4日 (月)

 先週だったか,新聞に子どもの生活についての調査研究が紹介されていた。いわく,小学5年生を対象にした調査で,起床時間と「学校が楽しいかどうか」との間に相関が見られた由。早起きの子どものほうが,学校を楽しいと感じている割合が高いのだそうだ。ふうん,と適当に読み流して,それきり忘れていた。
 ところが,数日前にぼんやりネットを眺めていたら,この調査をぼろくそにやりこめている人がいた。あれこれ見てみると,そういうブログがたくさんあって(一例),ちょっと驚いた。なんというか,世の中には正義感に満ちた人が多い。
 批判や罵倒の数々を眺めているうち,なにやら形容しがたい感情がこみ上げてくるのを感じて,自分でも意外であった。以来数日,このことをあれこれ考えていたのだが,これは誰が悪いという話ではなくて,構造的な問題なのではないか,と思い至った。

 生活サイクルの地域差を指摘するものから,学者はみんなアホばかりだ式の悪口まで,ブログにみられる議論のレベルは様々だが,批判の主旨を煎じ詰めると,(1)標本に無作為性がない,(2)因果関係はわからない(早起きのせいで学校が楽しくなるわけではない),という二点に尽きるように思う。
 (1)はまた別の話になるので横に置いておくとして,(2)については,なるほどその通りだ。起床時間と学校の楽しさに相関があるとしても,どちらが原因でどちらが結果かはわからないし,そもそもこの2つの変数は共になんらかの変数の影響下にあるのかもしれない(たとえば,東京圏よりも地方都市の子どものほうが早起きで,かつ学校を楽しく感じるのかもしれない)。ではこのツッコミは,この調査に対して(ないし報道に対して),果たして正当な批判となっているだろうか。
 たとえば朝日新聞の記事(05/29)はこうだ。

早起きの子どもは学校が好きで、楽しいとも感じている――。早起きと学校好きの間にそんな関係があることが、教育学や食物学の専門家でつくる「子どもの生活リズム向上のための調査研究会」の調査でわかった。

調査の概要が述べられ,最後に

「研究会代表をつとめる明石要一・千葉大教授は「起床が早く、バランスのいい朝食を食べている家庭は、生活にリズムがある。学校も家庭も、もっとこの問題に関心を持ってほしい」と話す。

早起きの「せいで」学校が好きになるとは,どこにも書かれていない。他社の記事では別の知見が紹介されているが(朝食が和食の子どものほうが早起きだ,云々),書き方は同様である。記事で述べられているのはあくまで相関的知見であって,因果的知見ではない。「××な人は○○の傾向がある」という記述を「××であることは○○をもたらす」と勝手に読み替えるのは,あまりに軽率というものだ。そんな読み方が許されてしまうようでは,相関の記述などおよそ不可能になってしまう。
 この調査の報告書を読んだわけではないけれども,生活スタイルと学校への態度の間に因果関係が主張されているとは思えない。横断調査から因果関係はわからない,というのは調査のイロハであり,研究者はもちろん新聞記者だって先刻ご承知である。鬼の首を取ったかのように悪口を書く前に,もう少し丁寧に文章を読んだほうがよいのではなかろうか?

 と,いうのが最初に感じたことなのだが,あれこれ考え合わせると,この人たちの言うことにもそれなりの説得力はあるのかもしれない,と思う。
 たとえば上記のように,早起きの「せいで」学校が好きになるわけじゃないだろう,と批判する人がいる。そんなことは記事のどこにも書かれていないわけで,あきらかに勇み足である。しかしもしこれらの報道を,多くの人が因果的説明として理解しているとしたらどうだろうか。現に,いまwebでこの調査について言及しているブログを検索してみたら,その半分は「くだらない調査だ」というツッコミだが,もう半分は「なるほど,規則正しい生活って大事だ」「やっぱり朝は和食にしようかしら」といった,驚くほど素直な感想なのである。こうしてみると,勇み足にも理由がないとはいえない。
 この学者たちは学校の問題を家庭に押しつけようとしてるんじゃないかしら,と嫌悪感を示す人もいる。もちろんこれは,批判というよりは勘ぐりである。しかし,研究会代表である教育学の先生は,中教審分科会委員を勤める,文教政策に関わりのある学者である。この調査もおそらくは,文科省が只今鋭意推進中の「早寝早起き朝ごはん」国民運動と関係があるのだろう。決して無理な勘ぐりとはいえない。
 
 というわけで,あちこちで目にする批判は,正当とはいえないけれども,社会的文脈を踏まえれば一定の意義を持っているのかもしれない,と思う。
 にもかかわらず --- ここからが本題なのだが --- ブログをあれこれ眺めるうちに,なんともいえない感情がこみ上げてくる。ありのままに言ってしまえば,強い不快感といらだちを感じる。いったいなぜだろう?

 上記調査についての各社の報道を,いまwebで眺めていて感じるのは,ああみんな上手く書くものだなあ,ということである。 
 日経の記事はこうだ:

 主食と主菜、副菜、一汁の4品がそろった朝食を食べている小学5年生の61.8%が「学校がとても楽しい」と感じていることが28日、千葉大の明石要一教授(教育社会学)ら研究者グループが2006年に実施した調査でわかった。

あくまで相関の記述に留まっている。実に正しい文章である。しかし同時にこの記事は,「朝食が学校への態度に影響する」という因果関係を読み手にうまく暗示している。この因果関係は,家庭生活が大事だ,という社会的通念と合致しており,それゆえにわかりやすい。こういうところが,ああ上手いなあ,と思う。
 書き手の立場で考えると,相関の記述だけではつまらないのである。人は常に説明を求める。学校が楽しいと感じる子どもの特徴について知りたい,などという奇特な人はいない。その子たちはなぜそう感じるのか,学校を楽しい場所にするためにはどうしたらよいのか。人は理解可能な原因,実行可能な方策を求める。だから書き手は,たとえそれが横断調査の結果に過ぎないとしても,つまり手元にあるのは相関的知見だけであるとしても,嘘にならない範囲内で,なんとかして因果的なニュアンスを醸し出そうとする。こうしてセクシーな報告ができあがる。
 だから,たとえばこういう文章を書いてはいけない。

 「学校がとても楽しい」と感じている小学5年生には,主食と主菜、副菜、一汁の4品がそろった朝食を食べている傾向があることがわかった。

同じく相関を記述しているのだが,このタイプの文章を読むと,多くの人が「わかりにくい」という(おかげで,俺は延々悩んだことがある)。正確には,わかりにくいのではない。ただセクシーさに欠けるのである。なぜなら,(社会的通念によって想定されるところの)結果側が先,原因側が後に書かれているせいで,因果的なニュアンスを読み取るのが難しくなっているからである。
 さらに高度な例を朝日の記事にみることができる。先生のコメントの素晴らしさといったらない。「起床が早く、バランスのいい朝食を食べている家庭は、生活にリズムがある」 よく読むと,この文には特になにも述べていない。ある種の家庭のありかたを,「生活にリズムがある」という言葉で形容しているだけである。にもかかわらずこの文章は,ああ生活のリズムが大事だなあ,と読み手に感じさせてくれる。内容がないのにわかりやすさだけが感じられる。これが技術である。
 
 では,責めるべきは新聞記者なのだろうか。彼らは文章上のテクニックによって,ただの相関関係を因果関係に見せかけ,「早寝早起き朝ごはん」国民運動のお先棒をかついでいるのだろうか。マクロにみれば,そういう批判も可能かもしれない。しかしミクロにみたとき,そこにあるのは単なる仕事熱心さだと思う。読み手の関心を少しでも惹き付けようとするのは,書き手にとって当然の工夫である。
 教育学者たちを責めるべきだとも思えない。彼らがなにを推進しようとしているにせよ,子どもの家庭生活と学校生活の関係を調べる調査には一定の価値があると思う。そのメディア向けリリースの際に,「朝ごはんが子どもにとって大事だ」という信念なり,社会的通念なりが顔を出しても,それは仕方のないことだ。
 この記事を読んで,ああ朝ご飯は大事だなあ,と素直に信じる人がいたとしても,その人を馬鹿にする気にはとてもなれない。調査結果からなにを読み取るのかはその人の勝手である。
 では,ブログでこの調査を罵倒し,マスコミと学者と無知な大衆を馬鹿にする人たちはどうだろうか。上で考えたように,その(いささか軽率な)批判にも,ある種の意義があるのかもしれない。でも,彼らは結局のところなにも破壊していないし,なにも建設していない。
 相関は因果を意味しない,という指摘は正しい。しかし,相関から因果を読み取ろうとする人々を押しとどめることはできない。新聞記事を読んで早起きは大事だと得心したお母さんは,なるほどあなたの仰る通りかもしれません,この調査結果は早起きが大事だということの直接の証拠にはなっていないんでしょうね,でもわたしやっぱり早起きって大事だと思うわ,というだろう。研究者たちにしたところで,仰るように学校の楽しさを支える因果的メカニズムについては今後の研究課題です,わざわざご指摘頂いてどうも,というのが落ちである。この手の批判者が何人いても,たとえば「早寝早起き朝ごはん」国民運動はとまらないのである。皮肉な言い方をすれば,そうやって批判することで自尊心を満たすことができたんだから,あなたもこの調査の受益者のひとりなんじゃないか,という気がしてしまう。
 どこにも悪い人はいない。それぞれの行いは正しい。でもマクロにみると,つまらない調査が量産され,根拠のない因果的説明が漠然と宙を漂い,社会を不可思議な決定へと導いていく。あえていうならば,調査者も伝達者も受け手も,全員が共犯なのではないだろうか。

 延々と書いてきたけれども,実はこの話はどうでもよくて,書きながら念頭にあるのは,いまの仕事であるところの市場調査のことである。調査会社,発注側の担当者,調査報告の受け手の全員が,誠実に調査にあたり誠実に報告し誠実にそれを批判し,でも結局はあいまいな共犯関係から抜け出ることができない,そんな事態がありうるのではないか,そのループから抜け出すためにはどうしたらいいのか,などと考えこむわけである。

雑記:データ解析 - 「早起きの子どもは学校が好きだ」

2007年6月 3日 (日)

Bookcover 男子の本懐 (新潮文庫) [a]
城山 三郎 / 新潮社 / 1983-11
城山三郎の経済小説なんて,「課長の愛読書」というイメージで,普段なら手に取る気にならないのだが,浜口雄幸についてはちょっと関心があった。東京駅の新幹線中央口を出たところに,浜口首相狙撃現場という銘板があるのが気になっていたのである。
 風呂の中で一気読み。良い小説だと思ったが,浜口らが命を賭けた超緊縮財政は,後世からみて正しいのかどうか。よくわからん。
 浜口と肝胆照らした蔵相・井上準之助は,東洋文庫設立の立役者である由。へえー。

Bookcover 渡世 [a]
荒川 洋治 / 筑摩書房 / 1997-07

フィクション - 読了:06/03まで (F)

Bookcover 現代の貧困―ワーキングプア/ホームレス/生活保護 (ちくま新書) [a]
岩田 正美 / 筑摩書房 / 2007-05
貧困という概念はそれ自体が価値判断を含んでおり,社会によって「あってはならない状態」として再発見されるべきものである。日本では,貧困の救済基準,つまり生活保護基準が貧困の定義としての役割も果たしている。だから,「保護基準の引き下げがなされた場合でも,多くの人は生活保護を利用している世帯だけにその影響が現れると思っている。が,実は全国民の貧困ラインが引き下げられた,と理解すべきなのである。」
 なるほど,気が付かなかった。そんなこんなで,この本は勉強になりました。

ノンフィクション(-2010) - 読了:06/03まで (NF)

Bookcover 竹光侍 2 (BIG SPIRITS COMICS SPECIAL) [a]
松本 大洋,永福 一成 / 小学館 / 2007-05-30

Bookcover 闇金ウシジマくん 8 (ビッグコミックス) [a]
真鍋 昌平 / 小学館 / 2007-05-30
ニートでフリーターにして30過ぎ,社会から徹底的に切り離された孤独で無気力な青年像を,これでもかこれでもか,と描いているマンガ。読むべき作品だと思うけれど,こういう下流社会物語って,いまやひとつの商品カテゴリになってしまっているなあ,と考えさせられる。

コミックス(-2010) - 読了:06/03まで (C)

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