仕事とはぜんっぜん関係ないけど、読んだものはなんでもメモしておこう、というわけで…
youtubeなどをぼんやり眺めていて(現実逃避)、昔のカンフー映画「拜錯師父叩錯頭」(“Eagle’s Killer”, 1979)の製作会社が「新華影業公司」となっていることに気づき、へーそんな会社があったのか、だれが経営したんだろうか、とふと気になった(現実逃避)。HKMDB(有志による香港映画データベース)をみると、1934年から1983年まで製作作品がみつかる。えええ? 戦前から戦後まで続いているの? とさらに気になった(現実逃避)。
矢野目直子 (1997) 日中戦争下の上海に生きた映画人-張善琨 (上). 中国研究月報, 589, 1-9.
矢野目直子 (1997) 日中戦争下の上海に生きた映画人-張善琨 (下). 中国研究月報, 591, 14-32.
というわけでweb検索して見つけたもの。新華影業公司(戦前の上海と戦後の香港にあったのだ)の創設者、張善琨(1908?-1957)の生涯をたどる。ひょんなことからとんでもない波乱のストーリーを読みふける羽目になった。まったくもう、忙しいのに…
- 浙江省湖州の裕福な家に生まれる。上海での学生生活の間に京劇マニアとなり、娯楽施設に就職しヤクザとも親交を深める。劇場経営で成功、1937年に上海で映画製作会社「新華影業公司」を設立。誇大広告ゆえにインチキ大王と呼ばれるいっぽうで、弾圧下の左翼映画人たちを積極的に招聘する。
- 1937年、日本軍が上海を占領、中心地である租界は抗日の孤島と呼ばれるようになる。1939年、新華は抗日映画「木蘭從軍」を製作。同時期、張はアメリカ籍の「中国聯合影業」を設立し自らの新華を買収(手塚治虫が心酔したアニメ映画「鉄扇公主」は実はこの会社の製作である)。いっぽう日本軍は占領地域で「中華電影」を設立。事実上の責任者である川喜多長政は張に協力を求め、「木蘭從軍」は中華電影の第一回配給作品となる。
- 太平洋戦争が始まる。日本は英米仏の租界を占領。「中国聯合影業」がどうなったのかはよくわからないそうなのだが、新華を含む大小11の映画会社は「中華聯合製片」に統合される。副董事長は川喜多、総経理は張。ここに及んで張は上海の映画王と呼ばれるようになる。なお、この会社の最後の作品が李香蘭主演「萬世流芳」(1943)。大ヒット作にして、のちに漢奸映画と批判される。
- 1943年、「中華電影」「中華聯合製片」を含め、華中・華南の映画製作・配給は汪兆銘政府の「中華電影聯合」に統合される。張はその副総経理となる(あらら、格下げになっちゃうんですね)。1945年、張は重慶政府との内通を疑われ日本の憲兵隊に逮捕されるが、川喜多の尽力もあって釈放され、苦心の末に上海を脱出。
- その3か月後、日本は降伏。張は日本協力者として起訴されるが、香港に脱出。1947年設立の「永華影業公司」の事実上の経営者として再出発する。文化大革命のきっかけとなったあの問題作「清宮秘史」を製作した会社である。ちなみに、張が去ったのちの永華は火災で傾き、1955年、シンガポール華僑・陸運涛に買収される。これがのちの電影懋業、つまり國泰(キャセイ)である。
- 張は1948年に永華を去り「長城影業公司」を設立。のちの長城電影、左派映画会社のひとつである。
- 1950年に退社。こんどは「遠東影業公司」を設立。HKMDBでは1949-1974に製作作品がある。李錦坤(ラリー・リー)主演の「死亡挑戰」(“Bloody Ring”, 1974)とか。
- 1952年、かつての上海での製作会社と同名の「新華影業公司」を香港に新たに設立。張はここで戦後はじめて実名を用いたそうである。これが「拜錯師父叩錯頭」の製作会社ですね。この会社は徹底した娯楽映画路線を突き進んだ。
- 1957年、東京のホテルで心臓発作を起こし、駆け付けた川喜多に看取られて逝去。はたして日本軍協力者であったのか、実は重慶と通じていたのか、謎を残す生涯であった。
記念にWu Tang Collectionがyoutubeで公開している「拜錯師父叩錯頭」全編(英語吹替)を貼っておきます。
プロデューサーとして表示されている童月娟(Tun Yeh Chuen)は戦前の女優にして張善琨の妻。
主演の張午郎(John Chang, チャン・ウーロン)はかつてのカンフースターで、「少林寺三十六房」(1978)では悪い将軍の部下、「プロジェクトA」(1983)ではクラブの店員。いま検索したら「千代の富士に似ている」と書いている方がおられて笑ってしまった。そうかなあ?
本作では悪役・黃正利(Hwang Jeong-Ri, ウォン・チェン・リー)の華麗な足技を堪能できる… はずなのだが、実はまだ観ていない。