読了:伊勢田(2013) ウィッグ史観のなにが悪い?

 調べものをしていて時々思うんだけど、たいていの学術書や論文はイントロで先行研究の限界を指摘する。それはいいんだけど、X学というすでに確立したディシプリンの入門書とか教科書とかのイントロ部分で、それに先行して確立していたディシプリンであるところのY学の限界をいちいち述べていることがあって、あれ、ちょっとうんざりするんですよね。あなたたちは既存体系との比較を通じてしか自らをアイデンティファイできないのかい? いつまで人をディスっているんだい? って思う。具体的にいうと行動経済学の話なんですけど… 素人の感想なので勘弁してください。

 ところで、最近なにかの文脈で「ウィッグ史観でなにが悪い」というような主旨のことを書いている方がいらして、そういわれるとそうなのかなあ、と印象に残った。えーと、ウィッグ史観ってのは、私の浅い理解でいうと、勝ち組史観というか、薩長史観みたいなものね。
 それが許されるくらいなら、いつまでも誰かをディスり続けるというのもアリだということになる、かも、しれない…うーん… 関係ないかな…。

伊勢田哲治 (2013) ウィッグ史観は許容不可能か. Nagoya Journal of Philosophy, 10, 40-24.

 google様にぼんやりと「ウィッグ史観のなにが悪い」と打ち込んだところ(ああ頭の悪い使い方)、上位に出てきた紀要論文。なんとなく読んでしまった。著者は科学哲学者として知られる方。

 著者いわく…
 ウィッグ史観の是非をめぐる議論には用語の混乱がある。以下のように整理しよう。

  1. 視点的現在主義。いまの理論・概念・方法論から問いを立てる。
  2. 消極的現在主義。いまの理論につながらないものには言及しない。
  3. 積極的現在主義。過去の理論・概念・方法論がいまのそれへと直接的に進歩したのだ、といえるように情報を再構成する。
  4. 評価的現在主義。いまの理論につながるものは「合理的」「客観的」として肯定的に評価し、つながらないものは「非合理的」「非客観的」として否定的に評価する。

 許されるのはどこまでか。

  • 科学史家による科学史記述なら、
    • 1.は歴史研究の重要な一部を占めており、許すも許さないもない。
    • 2.については倫理的にまずそうだけど直接の議論がない。
    • 3.は許せんというのがコンセンサスだが、論理的には逆張りがありうるかもしれない(歴史記述が客観的でなくて何が悪い、という立場)。
    • 4.はよく考えてみると単独では批判が難しい。[←なるほど]
  • 科学史の成果を一般に伝達したいという文脈なら、
    • 1.は戦略として不可欠。
    • 2-4は、科学史リテラシーを高めるという意味で避けるべき。もっとも、もし<いまのおまえらへの教訓>を語るという文脈であれば、「そもそも現在主義を心配する必要はないのかもしれない」[←ほんとにこう書いてある。ちょっと笑っちゃった]
  • 研究者養成教育の文脈では、効率性を考えれば2-4.もありかもしれない。バイアスが心配だけど。
  • 科学者自身の振り返りの場合は、そもそも歴史に参加しちゃってんだから、1-4.のいずれも許容すべきであろう。

 問題は、科学史の記述が上の4つの文脈のどこにあてはまるのかを決めかねる、という点である。著作の消費のされ方っていうのは文脈を横断するわけで、たとえば、科学史リテラシー教育という文脈(2-4はナシ)で消費されるのか、研究者育成という文脈(2-4はむしろアリかも)で消費されるのかわからない。慎重な考慮が必要ですね。云々。