読了:矢守(2009) 正常性バイアスとは実はなんのことなのか

矢守克也 (2009) 再論-正常化の偏見. 実験社会心理学研究, 48(2), 137-149.

 本日、仕事のファイルが開かれているディスプレイをぐったり眺めながら、サブディスプレイで講演を流していたのだけれど(←こういう姿勢はよろしくないな…)、いわゆる正常性バイアスについての面白いコメントがあって、へえそうなのか… と思って検索し、たまたま見つけた論文。
 別にいま読まなきゃいけない用事があるわけじゃないんだけど、ついつい読んでしまった。(←こういうのもよろしくないな)

 いわく、
 災害心理学の重要な概念にnormalcy biasというのがある[この論文では「正常化の偏見」と訳している。一般には「正常性バイアス」という訳が多いかな。面倒くさいので以下ではNBと略する]。
 たとえば、水害の被災者に対する事後調査で、避難しなかった理由として「まさか川が決壊するとは思わなかった」の反応率が高いことを根拠に、NBの存在を主張する、というような事例研究が多い。通常NBは災害前の意思決定において生じると考えられている。
 しかし、災害前に真の危険性を評価できなかったこと自体をNBと呼ぶのはおかしい。真の危険性なんて専門家にだってわからないからだ。
 NBは意思決定における認知的バイアスじゃなくて、なされた意思決定を事後的にsense-makingするプロセスのなかで発動するメカニズムなのではないか。

 NBは事前の意思決定を規定する概念に転用されがちだが、その背後には3つの前提がある。

  1. こころの前提。人の振る舞いの背後には、先行する「こころ」の状態が存在するはずだという前提。→ 事前の意思決定過程の存在を全否定するつもりはないけれど、それがNBと呼べるくらいに明晰的な形をとって現れるのは事後のsense-makingによってである。NBは(調査者やマスメディアを含めた)sense-makingの総体によって可視化・維持されている。
  2. 危険評価の前提。災害に際しての振る舞いの背後には、先行して危険性の評価が存在するはずだという前提。→ 仮に「こころの前提」を受け入れたとしても、事前の意思決定には生計とか職務とかから連なる諸要因が重要な役割を果たしているのであって、その中核は危険性評価ではないかもしれない。現に、防災情報による人的被害軽減の効果は限定的である。
  3. 役割分担の前提。危険評価を主導する人、伝達する人、受容する人、という役割分担があるという前提。→ 最近の防災ではこれを前提としない取り組みがなされている。揺れを感じたら無条件に避難しはじめる「率先避難者」をつくるとか。

 今後研究者が為すべきは、意思決定のメカニズムとかの研究じゃなくて、意思決定の存在を実体化させている社会的な仕組みを探ることだ。NBを言説のやりとりの産物として捉えることだ。
 上述の3つの前提に立った防災実践は、NBが存在するという感覚をますます強化している。この円環構造の枠内の実践(防災情報の提供とか)でも被害を軽減できることはあるだろうけど、現代の日本社会ではむしろこの枠組みの外に出た方がよいのではないか。
 具体的には、一般人に防災情報を生成・発信する役割を付与したり、災害対応の主役を期待する動きがある。これは「今災害が迫りつつある」というリアリティを共同構築するという試みである。
 「共同構築」観をとったからといって、仮に意思決定にNBというメカニズムがあったとしてそれに影響するわけではないけれど、NBという用語によるsense-makingを無意味化し、NBの有害性を相対的に減少させることができるだろう。
 真に実践的で有効な防災施策はこうした自己再帰的な視点からしか生まれない。
 云々。
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 とても面白かったけど、難しい論文でした…
 ハッキング先生いわく、科学において「××は社会的に構築されたものだ」という主張が出てきたら、そこに含まれているテーゼは3つありうるんだそうだ。(1)××という概念なしの○○学もありえた。(2)世界の存在のありかたは我々の理解を超えているので我々の理解した構造など世界の構造ではない。(3)あなたのその科学的信念は実は科学外の要因によって安定性を得ている。
 というわけで、「社会的構築主義のタイプ3…?」と呟きながら読んでいた。意思決定過程における正常性バイアスという概念は、それが実在するから安定しているんじゃなくて、人々の事後の語りを通じて安定性を得ているんだよ、という主旨でしょうか。

 ついつい自分の仕事に置き換えて考えちゃうんだけど…
 たとえば、「消費者はあたかも、現金よりも(それと等価であるはずの)ポイントのほうに高い価値を感じているかのような行動をとる」と観察したとして、その背後に「ポイントの知覚価値が高いというバイアス」がある、と解釈したりするじゃないですか(略称をPBとしよう)。あるいは、「消費者は身近に感じている国の製品を選びやすいようだ」と観察したとして、その背後には「身近に感じている国が原産国だと製品への選好が高まるバイアス」がある、と解釈したりするじゃないですか(CBとしよう)。
 それは実は消費者の意思決定の性質ではないかもしれない。むしろ、自分の選択を事後的に解釈した結果生まれたフィクション、もっと真面目にいうと、社会的に構築されたリアリティかもしれない。その構築の片棒は、きっとマーケターが(そしてリサーチャーが)担いでいるのだろうな。という風に思うことは、結構多いです。

 しかしながら、たいていのリサーチャーやマーケターは、まあそれでもいいよ、というと思うのです。ほんとかどうか知らんけど、仮に知覚価値というのがあるとして、ポイントのそれは高いと考えると、うまく説明できる現象の群があるんでしょ? 仮に原産国名の部分効用とか国への親近感とかというのがあるとして、親近感の高い国の部分効用は高いのだと考えると、うまく説明できる現象の群があるんでしょ? それを利用して売上を上げたろうぜ、というだろうと思うのです。ちょうど「避難しなかった被災者はあのときは危険だと思わなかったんだって云ってるんだから危険情報の素早い伝達が鍵だ」という理屈と同じだ。
 いっぽうで、こうした社会的リアリティ(消費者行動の背後にPBとかCBとかいった選好の傾向性が実在するという信念に支えられつつ、それらの信念を絶えず再構築し続けるリアリティ)を破壊し、市場に新しいリアリティを作ってやろうと目論むマーケターもいる。それはおそらく、通常のマーケティング戦略では勝ち目のない状況に追い込まれたマーケターだと思う。きっと防災の世界も、従来の防災戦略に行き詰まり感があるんだろうなあと拝察する次第である。

 ようやく自分の感想に辿り着くんだけど、上記の野心溢れるマーケターに問われるのは、その人の社会構築主義的な批評が正しいかどうかじゃなくて、その人が新たに構築しようとしている新しいリアリティの下で、その会社が勝てる(ないし、なんだか勝てそう)かどうかだ。残念ながら。
 防災の世界ではどうなんだろうか? 正常性バイアスが社会的に構築された概念だと関係者が気づくことによって、災害の被害は減るのかしらん? むしろ、気づけばいいってもんでもなくて、代わりにどんなリアリティが構築されるかによって被害は増えたり減ったりするのではないだろうか? あるいは、こういう疑問はあまりに粗雑なのだろうか?