読了:張(2021) 近年の香港映画における「病」の意味

張宇博(2021) 近年の香港映画における「病」の意味 -『一念無明』、『幸運是我』を例として-, 早稲田大学大学院文学研究科紀要, 66, 483-496.

 読んだものはなんでも記録しておこう、ということで…
 おそらくは院生さんによる紀要論文。たまたまみつけて読み耽った。

 いわく。
 初期の香港映画では、「病は人生で遭遇する困難のひとつであり、その克服を通じて人間賛歌が謳われ」た。[なるほど、云っている意味はわかる。もっとも、例として挙げられている「寒夜」では、主人公は病も嫁姑問題も克服できずに死んじゃいますけどね]
 1960年代以降、恋愛難病映画が作られたけど、病は試練のひとつにすぎなかった。[「つきせぬ思い」とかね。うん、まあ、そうだったよな… 彼女も死んじゃうけどね…]
 80年代末から病は新しい意味を持つ。「フー・アム・アイ」「ゴッド・ギャンブラー」「花火降る夏」をみよ。重大な事件によって記憶喪失が引き起こされる。それは返還が迫る香港の不確実な未来の象徴であり、受動的状況におかれた人々の防衛メカニズムでもあった。[なるほど。もっとも「ゴッド・ギャンブラー」にはそこまで深い意味はなかったような気もするけど…]

 さて、近年の香港映画における病は持続的であり完治できない。むしろ病との共生が問題となっている。
 [2015年以降の作品が表になっている。私にわかる作品だけメモすると、「幸福な私」の認知症、「誰がための日々」の双極性障害、「29歳問題」の乳がん、「淪落の人」の半身不随、観てないけど「G殺」の胃がんと自閉症。ううむ… 恣意的にピックアップしただけなんじゃないの?という疑念も湧くが、確かに「淪落の人」のアンソニー・ウォンの状況設定にはなにか深い含意があるような気がしましたね]

 「誰がための日々」と「幸福な私」に注目しよう。どちらの主人公も最初は健常者とあまり変わらない。しかし中盤に症状は一変し、主人公からみた都市のイメージは変容する。つまり社会の変化が病を媒介として示されるのである。
 […中略…]
 「誰がための日々」のラストシーン、主人公と父との和解は、ふたつの世代が協力しながら都市の病と向き合っていくことの暗示であろう。
 [ううう… そういう見方もあるのか… 私は主人公が「家に帰ろう」と呟いて暗転した瞬間、深い穴に突き落とされたような気持ちになりましたけどね。あの二人が帰る家っていったいどこなのよ]
 云々。

 …というわけで、個別には「そ、そうでしたっけ?」というところもあったんだけど、全体にはとても面白い評論であった。傑作「誰がための日々」に対する理解が深まったような気がします。評論の徳というものである。
 それにしても、カラ・ワイ姐さん主演「幸福な私」の日本での上映が実現しなかったのは返す返すも残念であった。2021年年末に上映されるはずだったのが、謎の理由により、他の作品と共に中止されてしまったのである。あれはやっぱり、「十年」「時代革命」のキウイ・チョウ監督の作品がラインナップに入っていたのがあかんかったんかしら… 悔しいのう…