読了:小川(1997) 沖縄の民俗宗教をまるごとキリスト教に鞍替えさせた牧師の話

 宮田登「弥勒」という本を読んでいて、宮古島に洞窟を崇拝するミロク教という新宗教があったと知り、へええ? と興味本位で検索したところ、下記の紀要論文をみつけた。論文の本題とは別に、登場する松森善正という人の人生があまりに面白いので、その点に絞ってメモしておく。

小川順啓(1997) 民俗宗教からキリスト教へ ある沖縄のキリスト教会の物語. 駒澤大学文化, 17, 45-74.

 松森善正は1911年富山県生まれ。15歳で洗礼を受け、1929年に上京(17歳)、日本ホーリネス教会の東京聖書学院に入学する。
 ホーリネス教会は1917年設立。何度かリバイバル(信仰覚醒運動)というのが起こっており、そのたびに信徒が増えている。松森は入学の翌年、この教会における2回目のリバイバルを経験する。本人の証言によれば… 週に一度、夜遅くまで祈祷してたんだけど、それにどんどん熱が籠もり、夜明けまで祈ったりするようになり、ある朝、聖書の朗読を中断して「あー主よ!といってお祈りが始まっちゃったんです」「爆発的な讃美が始まった。讃美が始まったら、昨夜と同じように踊り出したんです。あれよあれよという間に、みごとに食堂の床がぬけっちゃった(笑)」
 ところがこれを繰り返すうちに、「集会に行って、祈るときに、みんな立って祈り出す」ようになった。「みんな歌って踊りたがる人が出てきた。私はそれを観察しました、悪いけど」「普段祈らなかった、徹夜祈禱会に一遍もこなかった兄弟、 — いいですか、そういう兄弟が一番先に踊るんです」「これみたときに、こりゃあかんなと思いました」
 松森はその後東北の教会の牧師を一年間務めたりするけれど、ホーリネス教会に内紛が生じ(wikipediaによれば1933年~)、離脱して同志社大学の選科生となる。で、リバイバルへの疑念から、仏教・神道や新宗教に関心を持つようになった。とくに、大本系の新宗教・肝川神示に関心を持った。兵庫県の肝川というところに大本の支部があったんだけど、本部と対立し、支部長の妻・車小房の神がかりを中心に独自な活動をするようになっていた。これが肝川神示。

 戦後になりまして…
 東京に神田孝一という人がいて心の科学会というのを主催していた。1962年、この人が車小房らとともに沖縄のユタの調査に出かける。車小房としては宗教的な目的があったらしいが詳細はよく分からない由。松森はこれに参加し、以降断続的に沖縄に渡る。(ついつい気楽に捉えてしまうが、沖縄返還(1972年)の前の話である。結構大変だったでしょうね。松森さんはこの頃はなにして生計を立てていたんだろうか?)
 当時、沖縄にはミロク教というのが隆盛を極めていた。洞窟の中の世界をミロク(弥勒)の理想的な世界と捉え、洞窟を崇拝する新宗教である。調査団は洞窟内の拝みに参加する。教祖の比嘉ハツは神田をオルガナイザーとして重用するようになり、1966年、ミロク教は「沖縄ミロク心の科学会」に衣替えする。
 1969年に内紛が起き、いくつかのグループが離脱する。この内紛には松森も関わっていたらしい。松森は糸満の分派(寿根志会)と親密に関わるようになり、宗教活動にも参加する。なおこの時点での松森は、元牧師であることはあきらかにしていたが、(もちろん)キリスト教の伝道に来たわけではない。

 さて、松森は健康器具メーカーの主催する「眠りのセミナー」の講師として全国各地で講演活動をしていた。年齢とともに漠然と老い先に不安を感じはじめ、不信仰な生活を悔いはじめる。定年退職後の1984年(73歳)、松森は聖書学院の同窓生である牧師を訪ね、なんと、ホーリネス系教会の伝道者となってしまう。まじか。
 いっぽう寿根志会 (改名して誠寿根志会)は指導者の家庭問題や独断専行によって運営が行き詰まり、松森に相談する。1987年、松森は沖縄に渡って伝道を開始。あろうことか、誠寿根志会の信者ら45名を洗礼させ、「主の丘教会」を設立する。実はこのように、沖縄のユタや民俗宗教の担い手がキリスト教に回心してしまうというのはそれほど珍しい話ではないのだそうである。へえええ!?

 主の丘教会の運営は当初それほど順調でなく、十数名が離脱してしまうが、1989年から松森は沖縄に常駐、組織作りの甲斐あって、1995年時点で日曜の礼拝に100人前後が参加する教会に成長している。また松森の現役時代の人脈と、松森が開発した「祈りによる整体治療術」がものをいい、東北から九州までの各地に教勢が広まった(と書いてある)。
 松森は1996年、85歳で死去。
——-
 正直いって、信仰がある人たちの考えることってよくわかんないなという感想なんだけど(だって洞窟を拝んでたんでしょ? 急に神に祈れるもんなの?)、これは私の人間理解の浅さであろう。
 webを検索してみたが、少なくとも「主の丘教会」というキーワードでは、沖縄県内のいくつかの住所しかみつけることができなかった。そのうちのひとつ、浦添の東隣りにある西原町の住所についてgoogle mapのstreet viewでみると、なるほど、同名の看板を持つ立派な教会が建っている。
 「松森善正」で検索しても、この論文を除いてあまり情報がなく、「ヨーロッパの銀行の取締役だった」「独特の伝道方法を持っていた」「ユタたちを沖縄のホテルに集めて伝道した」などという断片的な情報しか出てこない。なんだかさっぱりわからんが、不思議な人生を送った人だったのだろう。