読了: Vosgerau, Scopelliti, Huh (2019) 消費者が実用品より快楽品を選んだからといってセルフ・コントロールに失敗しているとはいえないのではないですか?

Vosgerau, J., Scopelliti, I., Huh, Y.E. (2019) Exerting Self-Control (not equal) Sacrificing Pleasure. Journal of Consumer Psychology, 30(1), 181-200.

 ぜいたく品購買の正当化について調べていてたまたま見つけた論文。食品消費におけるセルフコントロールについての理論的主張論文である。
 この雑誌にはResearch Dialogueという、招待論文と数人のコメントと返答をまとめて載せる企画があるようで、この号には、企画趣旨説明(Aradhna Krishnaさんによる)、この論文、LambertonとMochon & Schwartzという人のコメント、コメントへの返答が載っている模様。最初の説明をざっとみたところ、コメンテーターとの間で鋭い意見対立があるわけではなさそうなので、ま、これだけ読んでおけばいいかな。

(イントロダクション
 消費者研究では、セルフ・コントロールというのは喜びを犠牲にすることだという概念化が広く受け入れられている。Baumeister et al.(1998 JPSP 自我枯渇の論文), Ferraro, et al.(2005 JCR 死の顕著性の効果の論文), Milkman(2012 OBHDP), Rottenstreich et al.(2007 JCR), Shiv & Fedorikhin(1999 JCR)をみよ。
 一方反論もある。Loewenstein(2018 Psych.Sci.Pub.Interest)いわく、たとえば仕事中毒とか過度の節約もセルフ・コントロールの問題である。Liu et al.(2015 MgmtSci.)は典型的な快楽消費機会に魅力を感じない「有徳愛好家」の存在を指摘している。
 本研究では、セルフ・コントロールについての上記の概念化をセルフ・コントロールの諸理論と比べて…[ここからこの論文のあらすじ。メモ省略]

消費におけるセルフ・コントロールの現在の概念化
 1998年から2018年までの、食品消費におけるセルフ・コントロールの論文を、主要誌から125本集めた。[ちなみに主要誌とは、JCP, JCR, JMR, Mktg.Sci., J.Mktg, Mktg.Let., MgmtSci., OBHDB, JPSP, JEP:G, JESP, Psych.Sci. である。JEP:Appliedは入らないのか…]
 以下を記録した: 刺激として用いられている実際の食べ物、消費は観察されているか、セルフ・コントロールの操作的定義、セルフ・コントロールを表現するために用いられた具体的な刺激、刺激が被験者の目標階層に対応すると仮定されているか、目標階層はどう測定・分析されているか、目標階層は操作されているか。
 96%の研究で、セルフ・コントロール失敗は快楽的食品(不健康、魅力的、無節制、おいしい、情緒的に優れた、悪徳的)で、成功は実用的食品(健康的、魅力のない、認知的に優れた、おいしくない、有徳的)で表現されていた。52%の研究ではこのパラダイムで実験をやっていて、なにかの要因を操作し(自我枯渇とか)、快楽的食品と実用的食品とのあいだで選択をさせ、快楽的食品の選択をセルフコントロールの失敗と捉えていた。34%の研究では食べた量、7%の研究では購入量を指標にしていた。
 こういうパラダイムの背後には、Xが即時的にYを上回り長期的にはYを下回るとき、Xは悪徳製品でYは有徳製品だ、セルフ・コントロールとは二つの対立する選好のあいだの葛藤の問題だ、という考え方がある。消費者の目標という概念がはいっていない。66%の研究がそうなっている。

 では消費者はどう思っているのか。実用的選択肢よりも快楽的選択肢を選んだら、それはセルフ・コントロールの失敗なのか。詳細はAppendixを見てほしいが、我々がやったシナリオ実験の結果では、消費者はそう思っていない。

セルフ・コントロールとは何ぞや
 セルフ・コントロールのすべての理論は、長期的ベネフィットのために即時的満足を犠牲にするというアイデアに基づいている。Ainslie(1975)いわく、セルフ・コントロール問題とは現在自己と未来自己の葛藤である。Thaler & Shefrin(1981)いわく、セルフ・コントロールとは長期的視野を持つプリンシパルが短視眼的エージェントの行動をどうやって制御するかという問題である。

 セルフ・コントロール葛藤には以下の必要条件がある。

  • 選好(つまり目標の具現化)の時間的変化。
  • 選好の階層ないし二次的選好。2つの目標の重要性が不均衡だということを指す。即時的満足の重要性は時間とともに急速に消滅するわけで、長期的選好のほうが優越的だといえる。(なお、道徳的葛藤もこういう階層を持っているのかという点は議論となっている。Achtziger et al.(2015 J.Neurosci.,Psych.,Econ.)、Martinsson et al.(2012 Judgment&DecisionMaking), Fehr & Schmidt (2006 Chap)をみよ)[← へええええ]

 たとえば、新しいフレーバーのジェラートを食べてみたらいまいちで、あーあピスタチオにしとけばよかった、というような葛藤はセルフ・コントロール葛藤ではない。先行は時間的に変化しているけれど、探索という選好とリスク回避という選好のあいだに優劣がない。
 では、目標間に優劣があるということはどうやって決められるのか。これは哲学的な問題で、ベンサムにいわせれば喜びの合計を最大化するのが上位目標だし、双曲割引の理論でいえば即時性効果が小さいほうの目標が上位目標だし、Nozickにいわせれば維持されている時間が長いほうが上位目標、Elsterに言わせれば他の目標に影響するほうが上記目標である。

 目標の葛藤を、即時的満足を選ぶほうに解決すると、選択の後悔が生じる可能性がある。消費者は葛藤においてその後悔を予期する。ということは、後悔の予期がない葛藤はセルフ・コントロール葛藤ではない。(実際に後悔が生じるかどうかは別の話である)
 なお、125本のうち後悔の予期を測定している研究は一本もなかった。
 シナリオ実験をやってみたら[…パス]

セルフ・コントロールの2つの概念化のちがい
 というわけで、セルフ・コントロールの失敗とは、上位の長期的目標の違反であり後悔が期待されるものである。
 この概念化と、従来の概念化を比べてみよう。

  • この概念化によれば、セルフ・コントロールの失敗とは主観的である。たとえ快楽的な選択を選んだとしても、セルフ・コントロールの失敗なのかどうかは、本人にしかわからない。
  • この概念化によれば、目標の階層には個人差があるかもしれない。ピザじゃなくてチキンサラダを選んだからと言ってセルフ・コントロールの成功とは言い切れない(その人がベジタリアンなら失敗かもしれない)。
  • この概念化によれば、喜びと健康は葛藤するとは限らない。国際比較研究でも、USなどいくつかの国では不健康とおいしさの相関は弱い。「有徳愛好家」は健康的な食べ物のほうがおいしいと思っている。そもそも食事が健康的であるというのには体重減と一般的健康の2側面があって… [云々。メモ省略]
  • この概念化によれば、セルフ・コントロールは禁欲を必要とするとは限らない。たとえば、単独の無節制のコストは無視可能だと信じているかもしれない。つまり、よくある選択課題は葛藤を引き起こしてないかもしれない。むしろ「快楽製品も実用製品もどっちも選ばない」のがセルフ・コントロールの成功かもしれない。

 セルフコントロールの失敗を、上位の長期目標への違反として定義することで、これまでセルフ・コントロール・アノマリーと言われてきた行動も説明できる。たとえばhyperopiaがそうだ(あまりに実用的必需品だけに注目しちゃう人のこと)。セルフ・コントロールの失敗を快楽消費だと捉えてしまうとhyperopiaは説明できないが、上位目標への違反として捉えれば、彼らにとっては倹約こそが短期目標であって、ひたすら無節制を続けているのかもしれない。

セルフ・コントロール研究のための実験パラダイム
 この概念化に基づく実験研究の例をお見せしよう。

 まずプリテスト。被験者は学部生40人。以下の2問を訊く。「学術的達成と映画を観ること、どっちが重要?」「今夜予定がないならば、勉強するのと映画に行くのとどっちが楽しい?」
 結果。83%が、重要なのは学術的達成で楽しいのは映画と答えた。

 では本研究。学部生93人。映画のバウチャーとペンを提示(ペンのほうが安い)。葛藤条件ではバウチャーの期限は試験前に切れるが統制条件では試験後に切れる。で、もし映画のチケットを選んだらあとで後悔する程度を評定。で、どっちか選ばせる。
 結果。葛藤条件のほうが後悔が大きく、映画を選ぶ人が少なかった。

セルフ・コントロール研究のための方法論的含意
 上記の実験を題材に、方法論上の注意点を述べよう。

  • 被験者がセルフ・コントロール葛藤を経験していることを確かめよ。方法:
    • プリテストで、選択肢のいっぽうが長期的、他方が短期的目標を満たすということを確かめる。欠点は累積レベルでしかわかんないというところ。上の例だと、18%の人にとってはそうでなかったわけだから。
    • 選択肢セットごとに葛藤が含まれているかを測っておき、分析時に入れる。
    • 同じ目標階層を持っている人たちだけを被験者にする。

    以上の方法では必要条件は満たせるけど十分でない。さらに、被験者が上位目標に反する選択肢について後悔を予期していることを確かめるべし。

  • 各条件下で、被験者がセルフ・コントロールに失敗したかどうかを調べよ。上の実験では映画を選ぶかどうかを調べたが、ほんとはもっと量的に測るとよい。
  • 予期された後悔だけでなく、その他の感情も測れ。たとえば、食品消費について社会的規範が内化しているときには罪悪感を測るとか。
  • セルフ・コントロールを測れ、自己制御を測るな。自我枯渇理論のみなさんはこのちがいを気にかけないけど、区別するのは理論的に大事な話で…[メモ省略]
  • セルフ・コントロールの失敗を測れ、遅延した満足に対する忍耐か意志とかじゃなくて。単に即時的報酬への選好を測るだけではこれは区別できない。

一般的考察
 従来のセルフ・コントロール実験はいったい何を検証していたのだろうか。以下にいくつかの可能性を挙げよう。

  • ほんとにセルフ・コントロールについて検証していた。選択肢が被験者の目標階層に対応していた研究については、そうかもしれない。ただし、従来の研究は予期された後悔を測っていないので、そうとも言い切れない。追試が必要だ。
  • セルフ・コントロール以外のなにかについて検証していた。たとえば、自我枯渇課題のあとでチョコレートを選ぶというのは、単に努力への報酬なのかもしれない。ちゃんと予期された後悔を測りなさい。
  • 食品についてのステレオタイプ的知覚を測っていただけだった。これは消費抜きの選択実験で特にいえることである。予期された後悔を測りなさい。
  • 操作と実験パラダイムがまずいせいでなにも検証できていなかった。たとえば、自我枯渇効果って再現に失敗してるじゃないですか。あれはただの認知的疲労、ないしtype-Iエラーだったのかも。
     さらにいうとですね。セルフ・コントロールの研究って、一本の論文の中でさえいろんな実験パラダイムを使うでしょ。研究1では男女にチョコクッキーとフルーツサラダを選択させ(目標階層を無視して)、研究2ではたぶん女性はダイエットしているだろうと仮定して女性を調べ、研究3では再び男女を連れてきてセルフ・コントロール特性を測る、みたいなの。で、指標が操作と交互作用してたらセルフ・コントロール効果があったと報告し、なかったら黙って次に行く、的な。目標階層を調べたとしても調整変数じゃなくて共変量にしちゃっているとか。[いやー堰が切れたようにディスるねえ。楽しいなあ]

実務家・消費者との関連性
 いったいぜんたい、消費者行動研究者や心理学者というものは、あれを食えこれを食うとか、健康的なライフスタイルとはこれこれだとか、そういうことを消費者に語るだけの専門性を持っているわけ? 我々は怪しいと思う。それは栄養学者とか医学専門家の仕事だろう。[はっはっはっは。うけるー]
 私たちの仕事は、セルフ・コントロール葛藤と失敗の経験がなにによって引き起こされなにをもたらすかを調べることだろう。そのうえで、健康についての客観的な基準にもとづき、消費者が目標と行動を整合させるお手伝いをする方法について洞察を得られるかもしれない。後悔の予期を促進する介入をデザインするとかね。
 […中略…]
 快楽的消費はセルフコントロールの失敗だ、などという考え方は捨ててしまったほうが、セルフ・コントロールを働かせるのが容易になるだろう。良い食べ物と悪い食べ物に分けるんじゃなくて、有害な消費のベンチマークとして相対的な量を使う、とか。[…]
 消費者は選好を変えることで食品への欲求を直接に減らすことができるかもしれない。健康的な食べ物を美味しいと感じるようになるとか、食の喜びを塩や脂肪や砂糖だけじゃなくてもっと幅広く捉えるとか。ニコマコス倫理学にも書いてあるよ。人は喜びを放棄することによって有徳な行為に従事するのではない。喜びとは有徳な行為から得られるものなのだ、と。
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 そんなに真剣に読みはじめたわけじゃないんだけど、面白くて最後まで読んでしまった。特に最後のほうが可笑しい。
 それはともかく、このたび消費者の無節制(ぜいたく品の購買とか高カロリー食品の消費とか)についての実験論文をめくってて、無節制的だと解釈されている行動はほんとに無節制なの? ともやもやすることがあったので、この論文のおかげでだいぶすっきりした。変な疑問じゃなかったんだな。