Show, R., Colimore, K. (1988) Humanistic Psychology as Ideology: An Analysis of Maslow’s Contradictions. Journal of Humanistic Psychology, 28, 51-74.
マズロー心理学に潜むイデオロギーを徹底批判しますという論文。Google様いわく引用元は59件、意外に多い。
別にいま読むこたないんだけど、ファイルを整理していてなんとなく目を通してしまった。前に読んだ松井(2001)で存在を知り、面白そうだなとPDFを探して保存しておいたものだと思う。
著者の一人目は博士の院生さん、二人目は大学のmanagerial staffとある。お名前で検索したところ、Karen ColimoreがPrinceton Regional Chamber of CommerceのPresidentに着任しましたという記事があって、その略歴紹介で、別れた夫はビジネス・コンサルタントのRobert Showという人だと書いてあった。若かりし二人の青春の論文なんでしょうね。
いわく。
本論文では、マズローの進歩主義的な心理学が資本主義的思考の基本的教義の具現化であることを示す。彼の研究というのは市場志向的社会を特徴づける信念・実践の肯定である。マズロー心理学はイデオロギーが社会科学理論の形式で現れる事例のひとつである。
[イデオロギーとはなにかという説明がひとくさりあって…]
Aron(1977)いわく、マズロー心理学には人間についての二つの異なる見解が含まれている: (1)民主主義パースペクティブ。個人の自律と自由の重要性を強調する。(2)貴族主義パースペクティブ。マズローに言わせれば、人の優位性・劣位性は生物学的に規定されている。誰しも可能性は持っているけれど、多数の人は少数の「優れた人」を尊敬し倣わねばならない。この二つの見解を同時に維持することができるだろうか?
Hampden-Turner(1977)はこれに反論する。民主主義 vs エリート主義という対立はほんとうの対立ではない。マズローのいう自己実現とはこの偽りの二分法を乗り越えるものだ。
いっぽうBuss(1979)はこう述べる。マズローが抱えた矛盾は、近代自由主義社会における、理念としての民主主義とエリート支配という現実との間の矛盾の反映である。マズローは政治的にはリベラルであり、社会に存在するジレンマを彼の心理学理論に無意識的にうちに統合してしまった人である。彼はうっかり、ある特定の歴史的状況(民主主義的エリート主義)を人間の生物学的事実として描いてしまったのである。
ここで政治と経済の間の密接な関係についてさらに検討しよう。Miller(1957)いわく。リベラリズムは市場における実践を知的・社会的問題における人間の選択にまで拡大する。そこでは葛藤が起きる。たとえば、民主主義的政治組織と、資本主義の特徴である社会階級との矛盾である。
マズロー心理学の民主主義的側面は、利益追求という個人のインセンティブを支持する市場リベラリズムの一形式であり、エリート主義的側面は資本主義社会における階級文化の正当化であると考えられる。個人の主権は望ましいものであるという信念と、社会的関係というのは階層的だという信念が一緒になって、資本主義というイデオロギーを維持しているのだ。
マズローの説明では、自己実現するエリートと自己実現しない大衆との不平等は近代社会と国民国家の必然的帰結である。そうだろうか。不平等は資本主義的経済システムによって作り出されているのではないのか。マズロー心理学は社会的諸条件の反映であるだけでなく、政治的・経済的諸条件の反映である。それは力あるエリートの権威と実践に沿って資本主義システムを正当化する新たなる社会的ダーウィニズムである。[←うぉぉぉ… いうねえ…]
マズロー理論は自律的個人を讃える。マズローに言わせれば、自己実現する人は暇より仕事を好む。それも効率的に働くのを好む。晩年になってマズローはすべての人が自己実現欲求を持つかどうか疑いはじめた。彼のルソー的な楽観主義は次第になりを潜め、ホッブス的シニシズムへと変貌した。もはや彼は、怠惰という罪に打ち勝つのは難しいと信じるようになった。
ハードに働く個人へのマズローの称賛は米国社会の支配的価値システムを肯定する。マズロー心理学にはウェーバー言うところの「資本主義の精神」が現れている。資本主義の行き着くところ、他者は資源であり、自己でさえ資源であり、資源だから開発が必要なのである。それがマズローのいう自己実現である。
個人の生産性のみに焦点を当てることのひとつの帰結は、社会的問題の隠蔽である。マズローはいう、システムに改善が必要かと問うなかれ、私がここでなにを救えるかと問え、と。彼の見方では、個人は自分の運命に責任を持つ。その運命が個人よりも大きな力の産物であったとしてもである。
ヒューマニスティック心理学の多くは人間の行動における集団メンバーシップや集団間関係を重視しない。だから個人レベルの分析を補完してくれるはずの社会学的ビジョンの必要性を見落としてしまう。人間の厚生を改善する政治的手段に関する論争は、こうしたビジョンを発展させようという努力から生まれてきたものなのに。
マズローは、適切な環境の下では、個人の自己中心的利益の発展は究極的には社会にも有益となりうると考えた。個人の利益と集団の利益をマージすることを彼は「シナジー」と呼んだ。彼は健全な社会はシナジーで特徴づけられると信じた。
しかし、そうした協調的環境をどうすれば作れるのか、彼はなにも述べていない。彼には社会プログラムがなかった。マズロー心理学は市場志向的社会に存在する利害対立を単にうやむやにする。[←きっつー]
最後に、マズローが終生関心を持ち続けた階層関係について。
[マズローがいかにエリート主義的な人間観の持ち主であったかを、彼の文章を引用して縷々紹介している。彼は理想の社会として自己実現している人しかいない社会(自己実現できないタイプの人を排除した社会)を構想していた由。自己実現してない人はそのぶん権利も制約されるべしだとか。正直どんびき]
有名なマズローの欲求階層は、階層的に構造化された社会秩序と、そうした社会と結びついた価値を描き出していると解釈できる。多くの人は、彼の理論を個人の欲求の記述と捉えており、彼のピラミッド型の階層にひそむ社会的ビジョンを見落としている。マズロー理論は社会階層が不可避であり望ましいという彼の信念を支持する。
マズローは彼の政治的バイアスを好んで表現するが、彼の理論と、彼が優れていると信じた政治経済システムとの関係についてはきちんと述べない。彼は社会的組織の選択にどのような幅がありうるかという議論を狭めてしまう。
彼の理論は次のような議論を支持するために用いられうる: 社会的不平等は自然であり、突き詰めて言えば公正だ、なぜなら生物学的・心理学的に優れた人と劣った人がいるのだから。優れた人は富と力を持つべきだ。マズローにいわせれば、すべての人に等しく機会が保障されているならば、優れた人を恨まず受け入れるべきだということになる。
機会均等を社会変革の手段として捉えることは、階層分化を正当化し、社会的不平等を個人の能力・努力の問題として位置づける。不平等を生み出すシステムは変わらない。さらにいえば、階層構造を持つ社会で機会均等が実現したためしがあっただろうか。
本論文ではマズロー心理学における民主主義的側面とエリート主義的側面との不整合を説明することを試みた。どちらも市場イデオロギーの要素なのである。
多くの人が、マズローはより人間的な社会をつくりだすべく現状を変えようとした理論家だとみなしている。彼の文章を読めばきっと驚くだろう。知識人というのはしばしば、社会の現状を支持する理論を生み出すという役割を演じるものだが、彼もまたそうであった。
云々。
—–
… 面白く読了。
この論文がこの掲載誌によく載ったね?! という印象だが、学派というものはときに自ら殴り込まれることを求めるのかもしれない。閉塞感があるときとか特に。なんかそういう主旨の特集号とかだったのかな?
いっちゃなんだが私はマズローには全く関心がなく、きちんと勉強したこともなく、かつて講義の準備で無理矢理調べかけたけど、うんざりして適当に放り出したクチなので、この論文の良し悪しについてはわからない。でも、批判としてけっこう本質的なんじゃないかと感じているんだけど、どうなんだろうか。もちろん、あらゆる心理学理論を社会経済的構成物として分解していくことが生産的だとは思わないけれど…
少なくとも、「欲求の五段階はもう古い、一番上の欲求は子育てにしようぜ」的リノベーションより、はるかに意味がある議論だと思うんですけどね。知らんけどさ!