覚え書き: 私はもうε-δ論法を忘れない (たぶん)

 私のやっているようなささやかな仕事のなかでも、なにか技術的な説明を読まなければならないことがあって、たまに「任意の正の数\(\varepsilon\)に対して適当な正の数 \(\delta\)が存在して…」というような説明を目にすることがある。私はそういう難しい話がわからなかったせいで、流れ流れてここに至っているのに。なんでこのトシになってそんなのを読まねばならんのか。人生というのはなにか壮大な罰ゲームのようなものではないかと思うことがある。
 なんでも、こういうロジックは\(\varepsilon-\delta\)論法といい、頭のいい大学に行った学生さんはみんな習うんだってさ。みーーーんな!! 習うんだってさ!!! 知らんけど。
 というわけで、こういう説明を目にするたびに、私はだめだ… という胃液のような苦酸っぱい思いがこみあげてくる次第である。辛い。

 あまりに辛いので、実はしばらく前にこのロジックの歴史をたどった数学史の本をわざわざ読み(中根美知代「ε-δ論法とその形成」)、「\(\varepsilon-\delta\)論法… 完全に理解した…」という境地に達したのであった。もちろん錯覚である。その錯覚はすぐに失われた。胃液がこみ上げてくる。辛い。

 たとえば、\(x \rightarrow a\)のとき\(f(x) \rightarrow A\)である、としよう。これを\(\lim_{x \rightarrow a} f(x) = A\)と書く。\(A\)のことを、\(x\)が\(a\)に近づくときの\(f(x)\)の極限という。
 その意味は直観的にわかる。\(x\)が\(a\)に近づくにつれて\(f(x)\)は\(A\)に近づくんですね。わかります。
 それで終わりにできるんならそれでも問題ないんだけど、この直観的理解というはなかなか怪しい。たとえば\(x \rightarrow a\)のとき\(f(x) \rightarrow A, g(x) \rightarrow B\)だとして、では\(f(x)+f(x)\)は\(A+B\)に近づくか? うーん、なんかそんな気がするけど… いまいち確信が持てない。
 「近づく」という表現を、もっと厳密な形で言い換えたい。

 たとえば小鳥が巣に戻ってくるとき、巣の近くに飛んできてもすぐに巣には入らず、通り越してもう少し向こうまで飛ぶ。引き返してきて巣に向かうが、また巣を通り越し、さっきと比べて少しだけ先まで飛ぶ。これを繰り返しながら徐々に巣に「近づく」、としよう。
 ここで、この「近づく」という表現を次のように言い換える。あなたはカメラで巣を狙え。視界の中央に巣を置いて観察しろ。あなたのカメラの視界半径\(\varepsilon\)は広いかもしれないし狭いかもしれない。もし狭かったら、小鳥はいったん視野に入ってまた消えるだろう。でもじっと待っていると、小鳥が巣につくまでの残り時間がある値\(\delta\)を下回ったとき、小鳥はファインダーのなかを往復し始める。視野半径\(\varepsilon\)が狭いほど、それがやってくる瞬間は遅くなる、つまり\(\delta\)は小さな値となるけれど、\(\delta\)は必ずや存在する。

 このアイデアを使って、\(x \rightarrow a\)のとき\(f(x) \rightarrow A\)であるということ、つまり\(\lim_{x \rightarrow a} f(x) = A\)ということを言いかえると、こうなる。

正の数\(\epsilon\)を任意にひとつ取ったとき、「\(0 \lt |x-a| \lt \delta\)のとき\(|f(x)-A| \lt \varepsilon\) 」を成り立たせる正の数\(\delta\)が存在する。

 わかった、「近づく」って云っちゃいけないんだな? それじゃおまえ好きなだけ小さい正の値\(\varepsilon\)を持って来いよ。おまえがどんな小さい値を持ってこようが、\(a\)と\(x\)の差の幅が\(\delta\)を下回ったら絶対に\(f(x)\)と\(A\)の差の幅がおまえの持ってきた\(\varepsilon\)より小さくなるような、そんな\(\delta\)があることを見せてやるよ。どうだ、俺の言いたいことがわかったか。という感じなんでしょうね。
 
 こういう回りくどい言い方で定義することによって、さまざまなご利益がある。
 たとえば、さっき直観的にはわかりにくかった$$ \lim_{x \rightarrow a}(f(x)+g(x)) = \lim_{x \rightarrow a} f(x) + \lim_{x \rightarrow a} g(x)$$が成り立つことを証明できる。
 なぜなら、\(\lim_{x \rightarrow a} f(x) = A, \lim_{x \rightarrow a} g(x) = B\)として、任意の正の数\(\varepsilon\)について$$ 0 \lt |x – a| \lt \delta_1 \Longrightarrow |f(x) – A| \lt \frac{\varepsilon}{2} $$ $$ 0 \lt |x – a| \lt \delta_2 \Longrightarrow |g(x) – B| \lt \frac{\varepsilon}{2} $$ を成り立たせるような\(\delta_1, \delta_2\)が存在するわけである(話を簡単にするためにあらかじめ2で割っているが、任意の数なのでどうでもよい)。\(\delta_1, \delta_2\)のうち小さいほうを\(\delta\)とすれば、$$ 0 \lt |x-a| \lt \delta \Longrightarrow |f(x) -A| \lt \frac{\varepsilon}{2}, |g(x) -B| \lt \frac{\varepsilon}{2}$$ が成り立つ。証明したい公式についていえば、$$ f(x) + g(x) – (A + B) = (f(x) – A) + (g(x) – B)$$ いまふたつの数があるとして、和の絶対値というのは絶対値の和と同じか、それより小さいから、$$ \leq |f(x) – A| + |g(x) -B| \lt \frac{\varepsilon}{2} + \frac{\varepsilon}{2} = \varepsilon $$ ね? うまく証明できました。

 以上、志賀浩二「微分・積分30講」よりメモ。わたしのようなアホにも志賀先生は優しい。

 志賀先生いわく、「このような論法を強調すると、微分・積分への関心を減じされることにもなりかねない。読者は証明の大体の輪郭を理解すればよいのであって、むしろここでは’近づく’という感覚的なものが、\(\varepsilon-\delta\)式の定式化を通じて、数学の加法とか乗算の演算に、いかになじんでくるかに意を払ってほしいのである」とのこと。へへーっ。わかりましたでございます。