読了:籾山(2013) 「言い訳」とはなにか

籾山洋介(2013) 「言い訳」考(序説). 言語文化論集(名古屋大学大学院国際言語文化研究科), 34(2), 95-109.

 仕事の都合で読んだもの。認知言語学者による、「言い訳」とその認知的基盤についての考察。

 いわく。
 辞書では「言い訳」について、たとえば「自分のした失敗・過失などについて、自分は悪くない、あるいは、責任はないと思わせるために、事情を説明すること」と記述されている。しかし言い訳という言葉には、当事者(A)の事情説明にに対して聴き手(B)が妥当でないとみなす、という意味が含まれている。
基本的な言い訳はこう記述すべきである。

ある人(A)に関して好ましくないことが生じた(E1)という状況で、E1についてAが「自分は悪くない、自分には責任はない」といった趣旨の事情説明を行った(E2)ことに対して、Aとは別の人(B)が、E2はE1に対する妥当な事情説明ではないと判断した場合に、その判断を表すもの。

 妥当な事情説明ではないという判断は文脈に顕現する場合もあればしない場合もある。妥当な事情説明は理由と呼ばれることがある(例,「値上げの言い訳にはなっても理由にはならない」)。

 視点の転換を伴う「言い訳」もある。すなわち、Aが(自分では妥当だと思っている)事情説明をしても、それを聞いた人は妥当な事情説明だと思ってくれないだろうと想定して「言い訳」と呼ぶ場合である。たとえば、キャンディーズを解散し芸能界を去ったはずの伊藤蘭さんはその後女優に転身し、「言い訳に聞こえるかもしれなけれど、戻るというより、女優という新しい世界にゼロから飛び込む気持ちだった」と述べている。
 視点の転換を伴う言い訳はこう記述できる。

Aについて好ましくない(と他者から判断される可能性がある)ことが生じた(E1)という状況で、E1についてAが行う「自分は悪くない、自分には責任はない」といった主旨の事情説明(E2)に対して、他者は妥当な事情説明ではないと判断するとAが推定した場合に、その推定を表すもの。

 自分に対しての「言い訳」もある。

Aについて好ましくないことが生じた(E1)という状況で、E1についてAが行う「自分は悪くない、自分には責任はない」といった主旨の事情説明(E2)を思いついた際に、A自身が、E2はE1に対する妥当な事情説明ではないと判断した場合にその判断を表すもの。

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 勉強になりましたです。
 疑問:

  • 著者は「言い訳」の3つの意味を挙げているが、3番目と2番目をわざわざ分ける必要があるのだろうか。3番目はBさんが文脈に顕現していないだけで、やはり他者の視点を先取りしているのではないか?
  • 著者は「ある人(A)に関して好ましくないことが生じた(E1)という状況で」という風にはじめているけれど、もっと限定的に、Aさんがなんらかの好ましくない行為をおこなった状況で、と考えた方がよいのではないだろうか。たとえばAさんが歩いていたら隕石が空から落ちてきてAさんに当たり、Aさんが「私は悪くない、これは日本政治の腐敗に対する神の怒りだ」と云い、Bさんがそれを聞いて「その事情説明は妥当でないなあ」と思った、としよう。著者のいう基本的な言い訳の条件を全て満たしているが、これを言い訳とはいわないのではないかと思う。
  • 英語の資料を読んでいると、excuseとjustificationを分けて論じることと区別せずに論じることがあるのだけれど、日本語の「言い訳」は両方を含むということでOK? つまり、Aさんがいっけん好ましくない行為を働いたとして、その行為が好ましくないことは認めるがその行為を行った責任を回避するのも(excuse)、その行為が実は好ましくなくないと強弁するのも(justification)、どちらも「言い訳」になりうる、ということでOK? それとも前者だけ?

 著者はこの後、「「言い訳」考(その2)」「「言い訳」考(その3): 「弁解」と比較して」「「言い訳」考(その4): 「言い逃れ」と比較して」「「言い訳」考(その5): 「口実」と比較して」という紀要論文を書いておられるのだけれど(名大と南山大)、機関レポジトリで手に入るのと入らないのがある。日本語の論文って案外手に入れにくいのである。