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2019年8月19日 (月)
仕事の都合で、大企業における女性管理職登用についての日本語の論文をいくつか探して読んでいたんだけど、いずれも「あれも問題だしこれも問題ですよね」というような、なんというかぬるま湯のような内容で、いささか参った。これは誰が悪いって話じゃなくて、きっとそうならざるを得ないタイプの問題なのであろう。
その中で唯一、あっこれ面白い...と思った論文についてメモ。
中川由紀子 (2013) 女性管理職育成・登用をめぐるエージェンシー理論分析 -日米間3社の事例分析-. 経営哲学, 10(2), 82-92.
いわく。
なぜ男女均等処遇が進まないのか。内閣府の男女共同参画白書のまとめでは、ワークライフバランス、女性のキャリア形成支援、意識改革、の三点が挙げられている。他にもいろんなことがいわれている。保育所が足りないとか。
ここではそういうんじゃなくて、企業の側からみてみよう。
50年代、Beckerという人は「経営者は女性労働者に対して差別的嗜好を持っている」と考えた(嗜好差別理論)。しかし上場企業であれば株主価値や利潤を犠牲にしてまで好みを貫くことはないだろう。
70年代、Arrowらは経営者が集団のステレオタイプに基づいて判断すると考えた(統計的差別理論)。たとえば、女性が平均として結婚・出産で離職しやすいから、採用を控えたり昇進させなかったりするという説明。これは、経営者から見て個々人の情報を知るためのコストが高い(と経営者が思っている)という前提での説明である。しかし実際には、統計的差別によって優秀な女性人材を失うという機会コストは大きいから、経営者が個々人についての情報の取得をさぼるとは思えない。
本稿の説明は次のとおり。
ここにあるのはエージェンシー問題だ。経営者(プリンシパル)は長期的な全体効率経営を目指してるんだけど、管理職(エージェント)は短期的・利己効率的に考えているせいで、女性登用に積極的になれない。つまりは全体効率性と個別効率性の対立だ。
とすると、エージェンシー理論からいえば解決策はふたつ、(A)経営者と管理職の情報の対称化、(B)両者の利害の一致、である。
(A)は難しいけど、(B)の方法なら2つある。(1)モニタリング・システム。つまり経営者がなんとかして管理職を統治する。(2)インセンティブ・システム。経営者がなんとかして管理職を自己統治させる。
ここからは3つの企業の比較。比べるのは、日本の総合電機メーカーA社、GE、サムソン。いずれも聞き取り調査(著者はA社とGEの人事におられた方なのだそうで、そういわれるとA社がどこだかなんとなくわかっちゃいますね...)。
A社には管理職の機会主義的な行動を抑制するメカニズムがない。いっぽうGEでもサムソンでも、モニタリングとインセンティブシステムがうまく機能している(紹介が面白かったんだけどメモ省略)。
云々。
... 全くの門外漢なので見当違いな感想かも知れないけど、女性登用をエージェンシー問題という視点からみるという発想がとても面白かった。
すごく面白かったせいなんだけど、いくつか疑問がわいたのでメモしておくと、
- 利己的な管理職が女性を登用しにくいのはなぜか。この論文での説明には、「社会的アイデンティティによる同質性再生産バイアスのせい」という説明と、「女性を登用すると離職による短期的不利益が生じる可能性があると管理職が思っているせい」という説明が混じっているような気がするんだけど、本来別の問題ではないかしらん。
- エージェンシー理論の観点からみてありうる対処のうち(A)情報の対称化については触れられていないんだけど、これは難しいんだろうか。具体的にうまくいくかどうかは別にして、360度評価みたいな多面的な評価は、組織内における情報の非対称性を減らすことにつながっていないかしらん?
- もし私が超・日本的な経営者だったとしたら(女性への差別的嗜好はないものとする)、そもそもの経営理念として統制ではなく関与を重視し、管理職をより高次な内的要因によって動機付けることでプリンシパル=エージェント関係を超えようと目論み(スチュワードシップ理論っていうんですかね)、そういう組織をどうやって作ろうかと考えたあげく社員を禅寺に連れてっちゃったりするかもしれないと思うんだけど、そういう方向の発想って、やっぱしナンセンスなんですかね?
読了:中川(2013) エージェンシー理論から見る女性管理職登用
2019年8月 5日 (月)
知人と世間話していて、そういえば最近「なんなら」という言葉の使い方が変わってきていると思うんだけど... という話になった。うまくいえないんだけど、「もしお望みなら」というような意味合いじゃなくて、なんというか、「あえて強い言い方をすれば」というような意味で使ったりしない?と。
世情にまるきり疎いわけじゃないのよ、ごらん俺のこの鋭いアンテナを、とちょっぴり誇るような気持ちもあったんだけど、さきほど検索してみたら、「なんなら」の意味の変化はとっくに話題になっているようで、NHK放送文化研究所が先月付でコラムを公開しているのを発見した。なあんだ、気がついているのは俺だけじゃなかったのか。そりゃそうだよな。
島田泰子 (2018) 副詞「なんなら」の新用法 -なんなら論文一本書けるくらい違う-. 二松学舎大学論集, 61, 1-23.
上のコラムに載っていた紀要論文。
著者によれば、「なんなら」の従来の用例は次の5つに分類できる。
- a.申し出 (なんなら~しようか)
- b.示唆・提案 (なんなら~したらどうだ)
- c.依頼・注文 (なんなら~してくれ)
- d.妥協点の提示 (なんなら~でもいい)
- e.願望 (なんなら~たい)
で、著者の分析によれば、
I. 何(あなたの意向)が何(OK)なら
II. 何(状況的な前提)が何(許す)なら
という条件節的構造の前半を省略し、後半を「何」に置き換えて、行為への言及を和らげ聞き手の意向への尊重を含意するのが、「なんなら」の旧来の意味用法だ、とのこと。動作主が話し手ならa, 聞き手ならbかcになり、aとcの両方にまたがるのがd。eは後述する新用法の萌芽的観察ではないか、とのこと。へー。
いっぽう新用例として、著者は収集した28個の用例を示す。たとえばつばきファクトリー(アイドルグループとかかな?)の歌詞「なんなら歴史変えちまうくらいのセンセーションを起こそう」。そうそう!それそれ!こういう使い方、最近見かけますよね!
著者の分析によれば、新用法は次の3つの意味の組み合わせとして理解できる由:
- (ア) なお言えば(ついでにいうと)、あえて言うなら(言わせてもらえば)
- (イ) ややもすれば、ともすると
- (ウ) 下手すると、放っておくと、油断すると
(ア)は(事態ではなくて)話し手の言表態度に関わる用法、(イ)は事態に関わる叙述の累加、(ウ)は時間の進行に従った事態のエスカレート、をそれぞれ示している。旧用法とちがい、必ずしも配慮表現ではない。
なるほどねー。学んだところで実生活上で良いことは特にないけれど、ちょっとすっきりいたしました。学問の徳といえよう。
なお、手元の広辞苑第七版によれば(せっかく買ったんだから使わなきゃ...)
なん・なら【何なら】(副詞的に)①事によったら、都合次第では。膝栗毛「-少々は銭を出しても乗るこたアいやだ」②お望みなら。入用なら。「-お持ち帰り下さい」③気に入らなければ。わるければ。浮世風呂「大束が-この下に小束もありやす」「この品が-、別のもあります」
とのこと。①の用法がぴんとこないなあ...
2019年7月31日 (水)
仕事の関連の資料を読んでいるとき、「アリストテレスいわく」なんていう風に、教養に属するであろう人名がぽろっと出現されたりすると、うんうん知っているよアリストテレスね、と知ったかぶりしながら読み進めつつ、心の奥では泣いていたりするのです。どうせ俺には教養がないよ、と。
特に嫌なのは経済学者の名前が出てくるときである。なんというか、当該分野の方々は、経済学における古典的業績を現代人が持つべき一般常識と捉える傾向がありませんか? 「ケインズいわく」とか「シュンペーターによれば」とか、気軽に云い過ぎじゃありません?
聞くところによれば、著名作家の北方謙三さんは人間ができていて、インタビューを受ける際、多くの小説家はインタビュアーが自分の作品をすでに読んでいることを当然の礼儀と捉えるのに対し、北方さんはむしろ知らないことを前提として丁寧に説明して下さるのだそうだ。人間こうでなくてはいけない。いきなり「ケインズいわく」と書かず、「えー、もしかするとご存知かも、あるいはそうでないかもしれませんが、私が研究しております経済学の分野に、かつてケインズと申しますつまらない者がおりまして」と丁寧に前置きしてほしいものだ。謙虚なのがいちばんです。心理学者をごらんなさい、「ウィリアム・ジェームスいわく」と大上段に述べる際には、脚注に「すいません私は読んでませんけど」って付け加えますよ? (そんなことはない)
...それはともかく、このたびちょっといきさつがあって読んでみた論文。
どういう雑誌なのかわからないけど(CiNiiによれば大学図書館の所蔵館は10)、Google Scholar様的には引用頻度69、そんなに変なのではなかろう。
Pech, W., Milan, M. (2009) Behavioral economics and the economics of Keynes. The Journal of Socio-Economics. 38, 891-902.
いわく、
ケインズは、意思決定において心理的要因が重要であること、彼の経済学的分析には心理的要因が埋め込まれていることを常に強調していた。「確率論」をみよ、「一般理論」をみよ。
このことは前から有名で、アカロフいわく、行動マクロ経済学のルーツはケインズにある。しかし、ケインズの著作と心理学との関係に焦点を当てた論文はみあたらない。その理由はいろいろありそうだが、ケインズの書き方があいまいだったという点もそのひとつだろう。
まず、ケインズの考え方についての解釈と論争について簡単に述べよう。
そもそもケインズの業績をどう解釈するかは常に論争の的である。ケインズ理論を個人の心理学的次元を強調したものとして解釈することにも、当然ながら反論がある。
- ケインズ理論が個人に立脚しているという読み方はなるほど可能である(ケインズの著作には細かい方法論的議論がない)。Carabelli(2003)いわく、ケインズにとって経済学の対象とはエージェントの信念・意見であった。しかし、経済という累積的な行動についての問いの中には、個人の行動の総和へと還元できないものもあるでしょう? ... ごもっともだが、本論文はケインズの業績のなかに個人の行動についての重要な洞察があるのだという分析の第一歩なので、以下ではCarabelliらの立場をとる。
- ケインズによれば、不確実性下のもとでエージェントは行為のガイドとして慣習(convention) を用いる。慣習は不確実性に対する個人の対処をうまく助ける限りにおいて合理的であるとみなされる。ここでいう慣習には、個人の期待を構造化するなにかから、個人のrules of the thumb、信念の収束へと導く集合的rule of the thumbに至るまで、さまざまなものが含まれてしまっている。だから、慣習行動の合理性を擁護するにはさまざまな議論が必要である。[←これが反論になっている理由がいまいちつかめない... 知識不足で文意をとれていないのだと思う]
これも大事な指摘ではあるのだけれど、本論文では個人の行為の記述に焦点を当て、合理性とはなにかという議論には深入りしない。そもそも合理性という概念は経済学においてもいろいろな意味で用いられている。Baddeleyいわく[←心理学のAlan Baddeleyとは別人]、合理性には新古典派経済学でいう合理性(実質的合理性)と実世界で個人が用いる合理性(手続き的合理性)がある。オーソドックスな立場では、合理性という仮定のもとで経済学は心理学から独立すると考えられているけれど、そこでいう合理性とは前者。いっぽう、ケインズが投資における主観的要因を強調したり慣習行動の役割を論じたりするときの合理性は後者だ。この論文では、以下で「合理性」といったら実質的合理性のことである。 - 個人の行動についてのケインズの業績において、心理学が重要であることがあきらかだとは言えないのではないか? ... この反論に対して、以下では次の方法で応えたい。(A)ケインズの著作における心理・行動の問題についてケインズ派の人々がどのようにコメントしているかをみていく。(B)ケインズの著作における心理学的主張について注釈する。(C)ケインズの業績と行動経済学・実験経済学の知見を比べる。
(A) ケインズ派の人々のコメント。[...誰それがどういっているという話。パス]
(B) ケインズの著作について。[... ケインズの本に心理的要因についてのこういうくだりがあるという話。パス]
さて、ここからが本題。(C) 行動経済学における重要概念とケインズとの対応について述べる。
重要概念その1、ヒューリスティクス。
主流派経済学は方法論的な個人主義を採用し、効用関数最大化という観点からの合理的選択を仮定する。そこには認知的制約や自己制御問題や社会的選好が含まれない。その意味で経済学は心理学と独立している。いっぽう、
- 個人の行動のもっと現実的なモデルが必要だという異教徒もいた。
- 50-60年代には合理性の厳密な定義に対する挑戦が現れた。Ellsbergのパラドクスとか[えーと、期待効用理論でいう独立性公理からの逸脱ね]、Allaisのパラドクスとか[確率加重関数が必要だという話だっけ?]。H. Simonの限定合理性というのはこの流れ。
- そしてご存知、Tversky-Kahnemanに代表される「ヒューリスティクスとバイアス」アプローチが登場した。
有名なヒューリスティクスとして以下がある。[00年代のKahnemanさんはヒューリスティクスの列挙をやめて、属性代用による統一的説明を行うんだけど、その話はなしっすか、先生]
- 代表性。つまり、事象の尤度をその事象の(あるクラスの事象における)代表性で判断してしまうこと。その結果、ベースレート無視、サンプルサイズ無視、ランダム性についての誤解、平均への回帰への誤解などのバイアスが生まれる。
- 利用可能性。事象の確率を事例の思い浮かべやすさで判断してしまうこと。
- アンカリングと調整。[メモ省略するけど、アリエリーの社会保障番号をアンカーに使った実験が紹介されている]
さて。ケインズは「一般理論」の中で、人々は問題を解決するために「有用な心的習慣」を使うと述べている。ケインズが挙げている事例は利用可能性やアンカリング・ヒューリスティクスとして解釈できる。また晩年の著作には、進化心理学でいう再認ヒューリスティクスにあたる指摘もある。
重要概念その2、慣習。
ケインズは彼の言う慣習的行動をある種のヒューリスティクスとして捉えていた。すなわち、「未来は現在に似ている」「未来についての予測は現在の価格と数量を反映する」「他者が慣習に従うならば個々人はこうした判断・予測に頼ることができる」というヒューリスティクスである。
行動経済学・心理学はこういう慣習の形成について個人の意思決定と戦略的相互作用の両面から研究していた。
- フォーカル・ポイント。プレイヤーのinterestが一致しているせいでプレイヤーから見てどの均衡に到達しようが到達しさえすれば無差別になっているようなゲームのことを純粋協調ゲームという。この場合、古典的ゲーム理論ではどの均衡に到達するかを予測できない。シェリングは、人々の他者についてのなんらかの期待のせいで、均衡のうちあるひとつに到達しやすくなる(よって協調の失敗が起きにくくなる)と考えた。これをフォーカルポイントという。ケインズにおいては、現在の市場の価格と数量によって表現された平均的な意見・判断が、投資決定という協調問題の解を導くフォーカル・ポイントとなっている。
- 順応性。他者の意見のコピーによる慣習形成という問題は古くから社会心理学のテーマだった。心理学では順応性を情報的順応性(知識が欠けているときに他者を模倣すること)と規範的順応性にわけて考える。ケインズは不確実な状況下での慣習形成のひとつとして他者への順応を挙げているが、これは情報的順応性についての指摘であると解釈できる。[...中略...]
- 美人投票。[ここ、関心があるので細かくメモ]
ケインズは、株式市場におけるプロの投資家の行動について記述する際、美人投票というたとえを使った。[...「一般理論」からの引用...] このくだりでケインズは、人々が3水準以上の推論に到達することもなくはないと、おそらくは皮肉を交えて述べている[誰が美人だと思うかが水準1, みんなは誰が美人だと思うかが水準2, 「みんなは誰が美人だと思うか」という問いに対してみんなはどう思うかが水準3... ということであろう]。人々は実際にこうした多数のレベルの反復を行うか? [...] 実証研究によれば答えはノーだ。[...p-美人投票ゲームの説明...] この実験によって、被験者がいくつのレベルの反復を行っているかを調べることができる。[...理屈の説明...] p-美人投票ゲームの実験結果によれば、被験者の多くは1から3ステップの反復を体系的に用いている。 [ナッシュ均衡解である] 0 を選ぶ人は非常に少ない。第一ラウンドにおいては、pがなんであれ50%がフォーカル・ポイントになるようである。繰り返すと平均は下がっていくが、0にはならない。
他の参加者も限定的推論しかしないという仮定の下では、「0」はむしろ悪い回答になる。Camererいわく「秘訣は平均的なプレイヤーよりも1ステップだけ多く推論すること」である。これぞケインズの言う「合理的な投機」、つまり、他者の非合理な行動を合理的に予測することである。しかし、合理的投機者が多数存在するとはいえないようだ。p-美人投票ゲームの成績は、CEO, 経済学のPh.D, ポートフォリオ・マネージャーであっても、普通の学生と変わらない。このことは、いわゆる「専門家」であっても必ずしも「合理的投機者」ではないということを示唆している。美人投票に類比できるような状況で、誰が勝つかは推論ではなく、むしろ偶然によって決まっているようだ。
重要概念その3、アニマル・スピリット。すなわち、「行動しないことよりも行動することを選ぶ自発的衝動」。ケインズによれば、投資行動を理解するために決定的に重要な概念である。
ケインズ自身はアニマル・スピリットをもたらす要因について分析していないが... [以下、overconfidence, 非現実的楽観性、現状維持バイアス、曖昧性回避について、心理学・行動経済学からのの知見を紹介。メモ省略]
重要概念その4、価格硬直性。[名目賃金の下方硬直性については貨幣錯覚による説明と社会的選好による説明があって...云々。これもめんどくさいからメモは省略するけど、意外に面白そうな話だなあ]
重要概念その5、期待。
ケインズは期待の役割についてきちんとした枠組みを提供していない。ケインズ含め、経済学者はふつう期待をスタティックに捉えてきた。例外はカトーナで... [消費者態度指数に至る研究の紹介。とはいえうまくいったのはマクロ経済的な予測で、個人の行動の予測はうまくいっていない]。
従来の経済学的期待のダイナミクスの説明において心理学のインパクトはきわめて小さい(行動経済学を含めて)。楽観・悲観の波についてのケインズ的見解を完全に理解するには、感情状態と期待形成の関係についてのより完全な研究が必要となろう。
重要概念その5、限界消費性向。
ケインズは、現在の行動研究で幅広く取り上げられており、限界消費性向に重要な影響を与えているはずの2つの要因を考慮していない。すなわち、顕示的消費と双曲割引である[...以下略]。
というわけで、個人の行動についてのケインズの理論は、大筋で行動経済学・実験経済学と整合している。云々。
... 大変つまらない感想で誠に恐縮ですが、この論文の後半のようなスタイル(ケインズの著書をひっくり返して行動経済学に通じる主張を見つけていくスタイル)であれば、行動経済学者アダム・スミスはもとより、行動経済学者マルクス、行動経済学者トマス・アクィナス、行動経済学者ブッダ、なんていうのも書けちゃったりしないんでしょうか... そんなことありませんよね、すいませんすいません。
まあとにかく勉強になりましたです。p-美人投票ゲームの実験研究、きちんと勉強しよう。(Lacombらのアイデア市場のように)ペイオフが外的に決定されていないタイプの予測市場がどういうときにワークするのかという問題を考える際に役立ちそうだし、いま取り組んでいるcitizen/consumer forecastingの個人差とも関係しているかもしれない。ううむ、勉強しないといけないことが多すぎる。
経済学の素養はからきしないけど、ケインズ君にはなんとなく親しみが湧くようになった。もはやマブダチといってもよかろう。これからはジョンと呼ぼう。ようジョン、美人の奥さんを大事にしなよ。
読了:Peck & Milan (2009) 行動経済学者ケインズ
2019年7月10日 (水)
Pattee, H. (1987) Simulations, Realizations, and Theories of Life. in Langton, C.G. (ed.) "Artificial Life: The proceedings of an interdisiplinary workshop on the synthesis and simulation of living systems."
先日出席した研究会で「創発とはなにか」というような話題になったとき、Patteeという人を挙げておられた先生がいたので、お話伺いながらこっそり探してみたらヒットしたPDF。この論文であっているのかどうかはわからない。著者は生物学者だそうです。
これからの人工生命研究が、過去のAI研究における哲学的議論から学ぶべき教訓はなにか、というようなエッセイ。
整理の都合上、ざーっと目を通してみたんだけど... 創発には3つのタイプがある、(1)システムの働きについての我々の無知のせいでいま知覚されているイリュージョン、(2)いわゆる創造性、(3)生体が行う外界の測定そのもの... というようなことが書いてあって[きっと誤解してるんだと思います]、正直、途方にくれました。うーん。創造性とは何かというような話が読めるのかと思ったのに...
そんなこんなで、残念ながら私には難しくてよくわからんかったが、まあいいや、次に行こう次に!
読了:Pattee (1988) 人工生命における創発とはなにか
2019年7月 9日 (火)
渡辺勲・伊藤彌彦(2011) 矢野鶴子さんに聞く-蘆花夫妻の思い出. 同志社談叢, 31, 30-140.
明治大正期の作家・徳冨蘆花について読んでいると、兄・蘇峰から幼い娘を養子として貰い受けるものの、兄との絶縁に伴い娘も返してしまう、というなんだかよくわからないエピソードが出てくる。あのねえ蘆花先生、犬や猫じゃないんだから...
その娘さん(鶴子さん)ってその後どうされたんだろうか、とふと検索しみたら、なんと2007年までご存命だった由(101歳にて没)。しかも、1999年から2003年にかけての24回にわたるインタビュー記録というのが、同志社大の紀要に載っていた。びっくり。
晩年の鶴子さんは南青山第一マンションにお住まいで(ありますね、表参道駅の上に。最近は建替で揉めていると週刊誌で読んだ)、聞き書きを読む限り、非常にしっかりとした受け答えをしておられる。そもそもあのマンションは蘇峰の自宅があった場所なのだそうだ。へえええ!
徳冨蘆花についてはほとんど何も知らないんだけど、世田谷・芦花恒春園の展示からは想像できない蘆花夫妻の姿が語られていて、非常に面白かった。鶴子さんいわく、夫妻は「子育てごっこ」をしていたのだ、とのこと。「貴方は『愛子夫人は良妻賢母である』と書いておりますが、愛子叔母は、良妻でも賢母でもなんでもありません。私の記憶では、毎日毎日、朝から晩まで喧嘩、夫婦喧嘩の明け暮れでしたね」へへぇーー(平伏)。
聞き手の渡辺勲さんという方、蘆花の研究家だそうで、「恒春園離騒―蘆花と蘇峰の相克」「二人の父・蘆花と蘇峰」という著書がある模様。ちょっと検索してみたところ、世田谷の小学校で校長をされていた方のようだ。この方の本も読んでみたいけど、部屋に積んである蘆花の「みみずのたはこと」を先にしたようがよさそうだな...
読了:渡辺・伊藤(2011) 徳冨蘆花に養子に貰われたけどまた返された徳富蘇峰の娘さんが語る追憶の世田谷ライフ
2018年9月17日 (月)
貞包英之(2013) 贈与としての自殺 - 高度成長期以後の生命保険に関わる自殺の歴史社会学. 山形大学紀要(社会科学), 43, 2.
たまたまみつけて、興味本位で読んだ。
社会学者だけあって、社会通念上なかなか口にしづらいことをしれっと述べている。たとえばこんな箇所。
もっとも根底的には,生命保険にかかわる自殺の減少がそもそも望ましいとはいえない可能性について考えてみる必要がある。その自殺は企業や家族の成長を可能とする経済的根拠[借金の担保にするってことね]として利用された以外にも,高度成長期以降の社会の急速な発展から取り残された人びとの疎外を償う積極的な社会的機能をはたしてきた。現象的にみれば生命保険にかかわる自殺は,相対的に豊かであるはずの他の被保険者から保険金を合法的に掠めとる戦略的ゲームとして機能する。すなわちその自殺はみずからを残し豊かになりゆく社会に対する命がけの挑戦や復讐の手段として, 社会の発展から取り残された人びとに最後の矜持をあたえる。この意味で性急にその自殺を社会から締めだすことが,ゆたかな社会の実現につながるとはかならずしもいえない。
2018年8月30日 (木)
Bail, C.A., et al. (2018) Exposure to opposing views on social media can increase plitical polarization. PNAS, Aug 2018.
一昨日電子版が出て、メディアに取り上げられ話題になっているらしき論文。ほんとは仕事や学会発表やセミナーでいまそれどころじゃないんだけど、計算の待ち時間にイライラしながらめくった。ううむ、まさに現実逃避である。
いわく。
USにおける政治的極化は深刻な状態にある。その原因としては、「エコー・チェンバー」、つまり対立する政治的見解への接触が限定されていることによって生じる既存信念の強化が挙げられることが多い[ここで以下をreferしている: Bakshy,Messing,&Ademic(2015 Sci.), キャス・サンスティーン(2001書籍)、King,Schneer,&White(2017 Sci.), Beryy & Sobieraj(2013書籍), Prior(2013 Ann.Rev.Polit.Sci.)]。
エコー・チェンバーと極化という問題への懸念はソーシャルメディアによってさらに増している。しかし、SNSが政治的意見を形成しているのか(あるいはその逆か)を調べるのはすごくむずかしい。
というわけで、Twitterで大規模フィールド実験をやりました。仮説は3つ、ちゃんと事前登録してまっせ。
- 選択的接触を妨害すれば政治的極化は軽減される。この仮説、対人接触なら研究があるんだけど(集団間接触とステレオタイプの研究)、SNSでやるところが新しい。
- 異なる政治的見解に接するとバックファイヤが起きてかえって極化する。自分の態度と対立するメッセージのせいで既存信念への関与が高まるから。これは比較的新しい主張である[といいつつ、Load,Ross,&Lepper(1979JPSP)というのを引用しているぞ。Lepperって内発的動機づけのLepperかな?]。
- リベラル層より保守層でバックファイヤが起きやすい。保守は伝統を重視しリベラルは変化と多様性を重視するから。これも研究がいろいろあるけど、大人数でSNSでってのはない。
それでは調査デザインです。[正直、こういう話はデザインが一番面白い]
- 2017年10月から、Twitterユーザに短い調査をかけた。政治的態度、SNS利用、メディア接触など。TwitterのIDも集めた。専門の調査会社に依頼した[どこだろう?]。
- 一週間後、民主党支持者(901名)と共和党支持者(751名)を、{政党支持、Twitter利用頻度、現在の出来事への関心の程度}で層別し、処置群と統制群にランダム割付。で、処置群には11ドル払ってボットをフォローさせた。ちゃんと読ませるために、毎週調査を掛け、このボットが一日に二回ツイートしてくる動物の写真がなんだったかを訊いた[はっはっは]。これが1ヶ月間。
- 最後にまた金払って、最初のと同じ調査。
さて、このボットは一日24件をリツイートする。対象者には説明しないんだけど、実は、共和党支持者に与えられるボットはリベラルなアカウントのツイートだけをリツイートする嫌な奴であり、民主党支持者に与えられるボットは保守アカウントのツイートだけをリツイートする嫌な奴なのである。[この仕組みを作る話も面白くて、有名人のアカウントから出発してフォロー関係のネットワークをつくり、近接行列を対応分析したとかなんとか... 本筋じゃないのでパスするけど、いずれ気が向いたらappendixを読んでみよう]
自分の身になって想像してみると、なんとなく結果は読まなくてもわかるような気もするのだが... お待たせしました、結果でございます。
処置群のcomplianceにばらつきがあるので、分析がかなりややこしくなっているんだけど、そこは無視して主旨だけメモしておくと...共和党支持者は処置によってより保守的になった。民主党支持者はそうでもなかった。
考察...の前に、まずは本研究の限界について。
- USのTwitterユーザでの実験であり、USの全人口に一般化できるかわからないし、他の国でどうかもわからない。
- どっちも支持してない人は調べなかったし
- Twitter利用頻度が低い人も調べなかった。
- ツイートを読めと金払っているのも不自然。
- なによりも、共和党支持者でバックファイアが起きたメカニズムがわからない。
- ホーソン効果じゃないかというご指摘もあろう[←これはAppendixで反証を出しているそうだ]。
- ボットのリツイートの中身じゃなくて、政治的ツイートであることそれ自体が効いていたのかもしれないし[←なるほど]、
- 話題が女性問題とかマイノリティ問題であることが効いていたのかもしれない。
- リツイートしたアカウントも両陣営のエリートに偏っていた。
はいはい、いろいろ限界はありますですよ。
考察。
本研究の意義: (1)対立する政治的見解に接触させても、政治的極化は緩和されるどころか、バックファイヤが起きることが示された。(2)手法的イノベーション。
リベラルのみなさんは、よくSNSを通じて幅広い政治的見解を人々に提示しようなど考えるけど、そんなのろくなことないですよ。政治的分断に橋を掛けるためには、他の工夫をしなければ。云々。
... はっはっは。なかなか面白い論文であった。
なにより、手法が面白いっすね。「対象者に金を渡してツイッターを毎日チェックさせましょう」などという、私が会議室で話したら馬鹿にされちゃいそうなアイデアを、実行に移しているところが楽しい。なぜ処置群をもうひとつ作らなかったかなあと思うけど(「リベラルと保守の両方の政治的意見をリツイートするボット」を与える群を作っておけば、結果の解釈がもう少し絞り込めただろう)、限られた予算の下での実験としては、このデザインで正しいのであろう。
著者らも考察の手前で強調しているけど、この結果をどこまで一般化できるのかは怪しいところである。
この話、twitterの特性と深く関わっていて、実は事前の政治的態度とメディアとの間で適性処遇交互作用みたいなことが起きているんだけど、twitterだけ調べてるから「保守派は対立意見に触れると極化する」という風に見えちゃうのかもしれないな、とも思う。たとえば、自宅の隣人がリベラルだったら保守のおっさんは歩み寄るけど、隣人が保守だったらリベラルのおっさんは世を憂いてよりかたくなになる、とか? そんなこたあないか。
読了:Bail, et al. (2018) Twitterでリベラルなツイートを読むと保守派は少しは歩み寄るか? →それどころかもっと保守的になる
2018年6月 4日 (月)
木山幸輔 (2017) RCT至上主義とその問題:E・デュフロと開発経済学の潮流について. 同志社グローバル・スタディーズ, 8, 93-113.
最近、仕事の関係で「ABテスト最高!」的な発想、いわばRCT至上主義に出会うことが多く、ううむ、それは場合によるのでして...と心のなかでぶつぶつ反論したりすることがある。なにかの足しになるかと思って読んでみた。あまりに魅力的な題名なもので。
えーっと、開発経済学という分野には、最近「RCT至上主義者(ランダミスト)」と呼ばれる立場があるのだそうだ。その代表的研究者であるDufloという人の立場を紹介し、批判する論文であった。この人には「貧困と闘う知」という著書があり、訳書もある模様。面白そうだな、今度読んでみよう。
蓋を開けてみたら、「RCT至上主義」という題名から想像していたのとはかなりちがう内容だったのだが、それはそれで面白かった。勉強になりましたです。
以下、読みながらとったメモなのだが、とにかく全くの門外漢なので、全然信用できません。
- 人は、将来的に利益になる行為とを短期的な利益を秤にかけて後者をとり、結局は損害を被ることがある(腸内寄生虫を除去しないとか、健保に入らないとか)。これに介入する公共政策は正当化できるか。デュフロさんは正当化できると考えた。しかし著者いわく、これは怪しい。なぜなら、(1)人は自分の時間選好を問題として捉えず、むしろ肯定的に捉えているかもしれない。(2)善は多様、リスク評価も多様なのかもしれないのに、これを尊重してない。
- RCTを設計するときや、RCTから得られた結果を解釈したり一般化したりするとき、RCT以外の方法で蓄積された知が必要になるし、デュフロさんも実際にはそうしている。いっぽうでデュフロさんはRCTに集中しようと主張している。もしそれが資源をRCTに集中するという話なら、それはちょっとまずいんじゃないでしょうか。[←なるほど...]
- デュフロさんには施策の「意味」を軽視するきらいがありませんかね。たとえば調査対象をとりまく社会的文脈。デゥフロさんは教員の「欠勤率」が高いことをもって教員のモチベーションの低さをみなすが、教員が村落の「知識人」としての機能を果たしている場合もある。社会システムを無視して教育システムだけのなかで内部最適化を図ってていいのか。
- 実験結果にはエコロジカル妥当性(調査環境と調査から得られた知見を適用したい環境とがちがうかもという問題)と外的妥当性の問題が付きまとう。後者については「人間社会に本質的な要素、それはこれこれだ」という想定が必要になるけど、帰納的に考えるとスカスカになってしまう(「ええと、人間はニーズを有するよね...」とか)。逆に、まず人間の本質を考えてそこから社会の本質的要素を演繹していくとしても、その本質的要素が社会のなかに遍く存在するかどうかはわからない。
云々。
いやもう、ど素人もど素人なので、全然よくわかんないんですけど、「あるアウトカムに対するある施策の効果測定という課題がある、RCTで推測しましょう」という、(外的妥当性という難問を含むとはいえ)価値フリーでノンシャランな話と、いやあなた、その課題設定自体が暗黙のうちにコレコレな価値にコミットしてない?社会的文脈を軽視して局所最適に墜ちてない?といったもっと大きな話とは、マーケティング・リサーチの場合ならば、それはもう、スパアッ!ときれいに分けちゃうわけである。その良し悪しは別にして。
しかしこの論文にはその両方が入り組んだ形で入っているし、きっとこの論文が扱っている分野では、そうそうきれいに分けられないんだろうなあ...と思った。そこんところは教育測定によく似ている。
読了:木山(2017) RCT至上主義 (in 開発経済学) とその問題
2018年5月 5日 (土)
先日ふとした機会に、人々がサーベイ調査に対して持つ信頼感ってどうやって形成されているんだろう?と不思議に思った。茫漠とはしておりますが、結構切実な疑問であります。メディア研究の文脈とかで、きっと理論とか実証研究とかあるんだろうけれど、探し方が悪いのか、ぴったりなのが見つからず...
稲増一憲(2016) メディア・世論調査への不信の多面性:社会調査データの分析から. 放送メディア研究, 13, 177-193.
2015年5月、NHK放送文化研究所の調査でメディア・世論調査への信頼について調べたという報告。著者は社会心理の若い研究者の方。Webで拾って読んでみた。
調査は住基台帳ベース、留置法。さっすがー。
報道媒体への信頼度を5件法で訊いたんだけど、TVニュースと新聞記事に対する回答は意外に高く、T2B(「とても信頼している」「まあ信頼している」で7割越え。
新聞社への信頼とテレビ局への信頼(4件法、こちらはT2Bが3割台)を目的変数として重回帰した(順序ロジットとかではなくて、単純なOLS)。テレビニュースや新聞記事への接触がポジティブに効き、ネットでの他者の意見への接触頻度がネガティブに効いた(ネットの政治ニュースへの接触は効いてない)。テレビ局への信頼には民主党支持がポジティブに効き、政治関心の高さがネガティブに効いた(性・年齢・年齢二乗・学歴・年収をコントロールしてもなお。へー。でもこれ、性x年代カテゴリで入れたほうが良かったんじゃないかな、きっと交互作用があるから...)
途中省略するけど、世論調査の中立性の知覚について調べているところがあるのでメモ。世論調査を「マスメディアが操作している」という項目(5件法)を目的変数とした重回帰で、政治への関心の高さ(自己報告)がポジティブに効き、実際に持っている政治についての知識レベル(簡単なテストで調べている)がネガティブに効く。なるほどねえ。
なお、上記に支持政党は効いていない。ただし、世論調査が「公平に意見を反映している」という項目には、自民党・公明党支持がポジティブに効いている(上と同じく、デモグラはコントロール済なのに)。へー、そうなのか。
考察。Ladd(2012) "Why Americans Hate the Media and How it Matters"という本で、アメリカでは党派的に分極化した政治家たちのメディア批判がメディア不信の一因になっているという指摘があるんだけど、この調査結果をみるかぎり、日本ではそうはなっていない模様。云々。
いまの日本の首相は国会での質疑で、別に聞かれてもいないのに特定の新聞社を口汚く罵るという、私にはよく理解できない振る舞いをなさっているのだが、ああいうのって、メディアへの信頼と内閣支持率にどう効くんでしょうね。反応の異質性がすごく大きいので、簡単には答えの出ない話だろうけど。
読了:稲増(2016) メディア・世論調査への不信感が高いのはどんな人か
2016年8月22日 (月)
Weinberg, M.S., Williams, C.J. (2005) Fecal matters: Habitus, embodiments, and deviance. Social Problems, 52(3), 315-336.
以前、雑誌のコラムのために身体化認知にまつわる論文を片っ端から集めて分類した際、うず高く積まれた「うっかり入手しちゃったけど関係なさそう」論文の山において、もっとも異彩を放っていた論文。このたび資料を整理してる最中にお手洗いに寄り、個室のドアを閉めたところでふと思い出した。別にいまわざわざ読むこたないんだけど、つい探して手に取り、ついつい読み通してしまった。
アメリカの学生172人に、ウンコにまつわる経験についてインタビュー&質問紙。排便の音を他人に聴かれたらどんな気がしますかとか、水を流してもブツが流れなかったらどうしますかとか。異性愛志向/同性愛志向の男/女、計4グループに訊きました、というところがミソである。インタビューは逐語録をコーディングして集計。
インタビューの内容が延々と紹介されているんだけど、途中で眠くなってしまって適当に読み飛ばした。
結果のまとめ。排便関連事象に関する社会的反応にもっとも敏感なのは異性愛女性。ついで、同性愛男性、同性愛女性、異性愛男性の順。このように、排便のハビトゥスは社会文化的要因に媒介される。ジェンダーも性的アイデンティティも効いている。云々。
という実証ベースの話が終わって、やおら3pにわたる理論的考察がはじまるところが、なんというか、社会学っぽい。
近年の社会学では身体に関心が向けられている。そこでは社会構築主義の限界が強調され、身体化という概念を通じて物質的アプローチと構築主義的アプローチとの統合が図られている。
排便という問題を身体化という概念によって理解することには以下の意義がある。
- 排便関連の逸脱が最初に知られる感覚はなにかについて検討することによって、行為が身体化される様子を知ることができる。本研究によれば、視覚(ウンコを他人に見られる)、嗅覚(臭いを嗅がれる)の順で心配度が高い。
- 感情を身体化した思考として捉える感情理論において、身体化は重要な役割を果たす。ゴフマンがいうように、感情は個人的感覚と公的モラリティを統合することによって社会的秩序を強化する。本研究は、排便関連の災難によって人が狼狽し、そこから多様なdistancing行動が引き起こされる例を示した。それは社会的問題回避という認知的な行為であるだけでなく、自分の感情への対処という行為でもある。[distancingってなんて訳せばいいのかわからないが、本研究での事例で言うと、いくら水を流しても流れないのでお手洗いから逃げ出してきました、という発言がそれにあたるのだろう]
- 本研究では身体境界の裂け目への警戒が異性愛女性において強いことが示された。異性愛女性の身体イメージは女性らしさという文化的概念によって媒介されている。ジェンダーはかくも身体化されており、ハビトゥスは不安、困惑、恥を通じてジェンダーの不公平を強化している...[後略]
- ハビトゥスの支配からの意図的無視を示す言説もあって... 異性愛男性は排便ハビトゥスを無視することで力を示し、逆に同性愛男性は身体境界への強い関心によって男らしさヘゲモニーへの抵抗を示す... [略]
- 本研究はスティグマ研究と関連していて... 云々云々云々...[もはや読んでません]
というわけで、身体化という概念は逸脱の社会学へのさらなる貢献をもたらすだろう、とかなんとか...
正直、かなり早い段階から読み飛ばしモードに入っていたんだけど(すいません)、ゴフマンいうところの「身体化」と、身体化認知の研究でいうところの「身体化」ではかなり意味合いに違いがあることがわかった。どうちがってどう通底しているのか、関心があるんだけど、この論文を精読したところでわからんだろう。Goffman(1967)というのを読むとよいらしい。邦訳があるらしい(「儀礼としての相互行為」)。
話は違うけど... 往年の名ピッチャー、たしか金田正一さんだったと思うんだけど、ずいぶん前のTV番組でこんな話をしていた。マウンドでひそかにウンコを我慢しつつ打線を抑え、攻守交代とともにトイレに駆け込んだ。スッキリしたのは良いが、次の回でボロボロに打ち込まれてしまった。「糞力(くそぢから)」という言い回しがあるけど、あれは本当だ、と。
わかる。すごくわかる。「なにくそ」と一生懸命仕事しているときも、途中でトイレに立ってうっかり大きいのを排出すると、席に戻ってきたときには瀬戸内の凪の海のように穏やかな、「許そう...すべてを...」という心持ちになっていて、しばらく元に戻れないじゃないですか。戻れないですよね。
そういう実証研究がどっかにあるだろう、身体化認知とも関係しそうだ、と思うんだけど、先日の原稿準備の際には結局見つけられなかった。探し方が悪いのかなあ。
読了:Weinberg & Williams (2005) ウンコ問題:ハビトゥス、身体化、逸脱
2016年3月11日 (金)
Barnes, D.E., Bero, L.A. (1998) Why review articles on the health effects of passive smoking reach different conclusions. JAMA, 279(19).
しばらく前に昼飯の読み物に読んだやつ。メモを取らなかったので中身忘れちゃったけど、えーっと...
受動喫煙についてのレビュー論文を106本集めてきて片っ端から読んであれこれ評定。受動喫煙に害があるという結論に至った(74%)かどうかを説明するロジスティック回帰モデルを組んだ。効いた変数はただひとつ、著者がタバコ会社から金もらってるかどうかだった。レビュー論文でも著者の利害関係をチェックしないとね、云々。という内容だったと思う。
笑っちゃうような話だが(笑い事ではないけれど)、論文の質の評定は説明変数として効かない、というところも面白いと思った。
読了:Barnes & Bero (1998) 受動喫煙の害についてのレビュー論文の結論は著者がたばこ会社から金をもらっているかどうかで説明できる
2016年1月 4日 (月)
twitterでどなたかが呟いておられるのをみかけて、興味を惹かれて手に入れてしまい、興味を惹かれて眺めているうちに、興味を引かれるままついつい読み終えてしまった論文。仕事とはなんの関係もないっす。すいません、現実逃避です。
Ljungqvist, I., Topor, A., Forssell, H., Svensson, I., Davidson, L. (2015) Money and Mental Illness: A Study of the Relationship Between Poverty and Serious Psychological Problems. Community and Mental Health Journal.
著者ら曰く。
そもそも心的健康と貧困には関係があるといわれている。どっちが原因かは諸説ある。どっちかが原因でどっちかが結果だと割り切れるような話でもないのかもしれない。
因果関係はともかくとして、心的疾患は社会的孤立と結びついており、社会的孤立は貧困と結びついているのだろう。経済状態が好転すれば社会関係が良くなる、という知見はすでにレジストリ研究(register study)で得られている。また社会化支援の介入が心的疾患に与える効果についてはランダム化統制試験(RCT)による証拠がある。社会化支援とは、伝統的な"train and place"モデルを"place then train"モデルに置き換え、とにかくまず望ましい状況をつくっちゃう(ここでは友達をつくっちゃう)、というアプローチである。
スウェーデンといえども相対的な貧困はある。精神疾患患者の社会化支援の必要性も叫ばれている。じゃあ経済的支援は役に立つか? 先行研究ではよくわからない。実験してみましょう。
重度な精神疾患患者(SMI)を被験者にする。ある町の患者さん100人に月73ドル渡した。別の町の患者さん38人には測定のときだけ22ドル渡した(これが統制群。つまりRCTになってないわけで、著者らも言及しているが、 ホーソン効果の可能性は残る)。介入は9ヶ月。介入前と6~7ヶ月時点を比較する。測定したのは不安とか心的機能レベルとかQOLとか[略]。なお、患者さんは統合失調症、双極性障害、重度の鬱、自閉症スペクトラム、などであった由。どっちの群も可処分所得が低かった。
結果。実験群でのみ、鬱、不安、QOL、自己知覚、社会的ネットワークが改善。機能レベルは有意差なし。云々。
考察。
SMIにおける社会的孤立はSMIの症状ではないのではないか。心的状態だって、お金のおかげで生活が変われば改善するのではないか。
へええええ。面白いなあ。
金を渡したら精神疾患の症状が軽減されたという話自体は、視点ががらっと変わる驚きはあるが、よく考えてみるとまあそんなもんなんだろうな、と思う次第である。著者らも最初に述べているように、所得と社会関係と心的状態、すべては絡み合っている。人生のある側面を改善したら他の側面も改善しちゃう、というのは不思議じゃない。
むしろ面白いのは、著者らは触れていないけど、実は患者に金を配った方が薬漬けにするより安上がりかも?常識的なケアより安上がりかも?... と想像が膨らむところだ。
データ解析についていえば、せっかくだからpre-post比較じゃなくて、介入開始後にもう一回くらい測定しておいて、経済状態の好転→社会的関係性の向上→心的疾患の改善、という縦断モデルをつくればよかったんじゃないかと思ったけど、ま、傍で見ているほど楽じゃないんでしょうね。
読了:Ljungqvist, et al.(2015) 重度の精神疾患患者に毎月お金を渡したら?
2015年11月14日 (土)
「孫文の義士団」という中国映画がある。先日初めて観たのだが、なかなか面白い映画であった。正確には香港=中国の合作、2009年の作品。いま調べたら、なんと中国側のプロデューサーは、かつて第五世代と称された気鋭の映画監督の一人、「黒砲事件」「輪廻」の黄建新だ...
この映画は、香港からはジャッキー・チュンにレオン・カーフェイにサイモン・ヤムにドニー・宇宙最強・イェン、本土からは王学圻に范冰冰というオールスター大作なのだけれど、印象的な役どころのひとつを、あんまり女優っぽくない中性的な若い女性が演じている。クリス・リー(李宇春)、中国で大人気のポップ・シンガーである。
他の国はおろか、日本の人気タレントについても全く理解できないのだけれど(先日は喫茶店のお姉さんに呆れられた。「ずっとCD掛かってるけど、これ誰ですか」「(5秒くらい間があって)嵐っていうんだけど、知りません?」)、このクリス・リーさんについても、歌手としてはどのあたりが魅力なのか、私、よくわかんないんですよね。社会文化的文脈なしで、Youtubeで何本か動画をみても、なぜ人気があるかなんてわかりっこないのである。ましてや活字で説明を読んでも、さらに役に立たないんだろうけど...
金明華(2015) 中国における新女性像の受容をめぐって : 李宇春ファンの活動を手がかりに. お茶の水女子大学人間文化創成科学論叢, 11, 41-50.
というわけで、ふと見つけて読んだもの。
えーと、女性たちは大衆文化の消費にあたり、単に男性の視線を内面化し男性の審美基準に従っているのではなく、さまざまな戦略を駆使して主体的に快楽を見出している。中国における女性たちのこうした文化消費が持つ可能性について論じるために、李宇春ファン(女性が圧倒的に多い)の文化実践に注目しましょう。
ファンがアクセスするサイトで調査協力を求め、中国全土から31名のファンのファンレターを収集。さらに北京の20名のファンに半構造化インタビュー。
李宇春はTV番組「超級女声」[リアリティ・ショーのようなものらしい]から生まれたスターで、アンチも多い。その歌唱力を疑問視する声も多いが[やっぱそうですよね...]、なにしろ外見が女らしくない(長身のショートカット)。その自由な発言も賛否を呼んでいる。
熱心なファンたちのなかには、自主的なファン開拓活動や、李宇春さんの組織するボランティア活動に積極的に取り組んでいる人も多い由。彼女たちの活動の原動力は、中国社会における新しい女性像の受容への期待である。女性たちは市場主義のルールを利用して社会に介入し、価値観の多元化を促進しようとしているのである。
とかなんとか、そういう内容であった。へー。
ともあれ、「小朋友」という曲のMVでは、リーさんは原宿通りあたりを楽しそうに歩いておられる。次にお越しの際は、表参道通りを渡ってキャットストリート沿いを散策していただければ、私の勤め先に近いのでありがたいです。瑞穂の豆大福とかいかがですかね。
読了:金(2015) 現代中国におけるクリス・リーのファンの生活と意見
2015年8月13日 (木)
福元圭太 (2013) フェヒナーにおける光明観と暗黒観の相克:グスタフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(5). かいろす, 51, 18-39.
心理学の教科書に必ず出てくるえらい人、精神物理学の父、そして19世紀ドイツの壮大な哲学者というか変人というかなんというか... かのグスタフ・フェヒナーの著作を丹念にたどる、九大のドイツ文学の先生による評伝連作、その第五弾。どうやら、2009年から年一本のペースで書き続けておられた模様(第三弾まで, 第四弾)。楽しみに拝読しております。
すでに古稀を迎えたフェヒナー先生、静かな老後をお送りかと思いきや、なぜか二十歳そこそこの学生と仲良くなり、自らの思想を俯瞰する著書「光明観と暗黒観の相克」の執筆に着手しちゃうのである。なおこの学生はジークフリート・リピナーという人、のちに作曲家マーラーの友達になるんだけど、マーラーの結婚相手に嫌われて絶交する羽目になるんだそうです。なに? それって映画「ベニスに死す」に出てくる主人公の友達?と早とちりしたんだけど、wikipediaによればあの友達のモデルは作曲家のシェーンベルクだそうです。ははは。
で、肝心の著書「光明観と暗黒観の相克」の中身ですが... うーん。汎神論思想ってんですかね。世界のあらゆるものが神の息吹だ、的な? 肉体は滅びても魂は不滅だ、みたいな? とにかくそういう本なんだそうです。何がすごいといって、この本をわざわざ探してきて読んだという著者の先生がすごい。ドイツ文学者おそるべし。
フェヒナー先生もいよいよ晩年を迎えましたが、この大河評伝シリーズはまだ続く由。第六弾が楽しみだ。
2015年7月 5日 (日)
福元圭太(2012) 「精神物理学原論」の射程-フェヒナーにおける自然哲学の自然科学的基盤-. 西日本ドイツ文学, 24, 13-27,.
九大のドイツ文学の先生が、わたし数学苦手なのに...などと脚注でこっそりぼやきつつ書き続けておられる、心理学の教科書に出てくるえらい人・フェヒナーについての評伝、その第四弾。通しタイトルがついていないので気が付かなかった。仕事とは一切関係ないけど、楽しく拝読しております。
- 精神物理学の測定法には極限法と調整法と恒常法があって... とかなんとか、心理学実験で教えた記憶があるんだけど(いまでも教えるのかしらん)、あれの原典がフェヒナー「精神物理学原論」(1860)。しかしフェヒナーに言わせると、そういう物理量と心理量の関係を研究するのは「外的精神物理学」。フェヒナーはそれとは別に、身体と心理との関係をあつかう「内的精神物理学」を構想していたんだそうだ。へー。
- フェヒナーいわく、刺激閾を下回る外的刺激であっても感覚を変化させる。ただその変化が意識されないだけだ。つまり、意識は非連続的に動いているようにみえるが、無意識までひっくるめるとすべては連続的に動く。そこではエネルギーが保存される。ゆえに(?) 身体が滅んでも魂は存続する... という風に考えたのだそうだ。フェヒナー先生は自然科学的な帰納を通じて神の存在を実証できると考えたのである。うっわー。
2015年6月16日 (火)
先日たまたま内村鑑三についての本を読んでいて、不敬事件(明治23年)の際に内村宅に押し掛け玄関に小便して帰った一高生の一人はのちの国語学者・保科孝一だという話を目にし、義憤に駆られた。この人の自叙伝を探して該当箇所を読んでまた立腹。 若い日の過ちを反省するというニュアンスではなく、自慢げに書いておるところが気にくわない。国家主義者だかなんだか知らないが、畳に小便はないでしょう。内村さんちのお手伝いさんか誰かが拭いたんだぞ。
浮田真弓(2015) 保科孝一の国語教育研究における国家主義と「国語」の民主化. 岡山大学大学院教育学研究科研究集録, 158, 63-70.
というわけで、ついでにみつけて読んだもの(物好きにもほどがある...)。国語教育史からみた保科孝一論レビュー、という感じの内容であった。イ・ヨンスク「『国語』という思想」という本、面白そうだ。
読了:浮田(2015) 国語学者・保科孝一についての論文レビュー
2015年5月19日 (火)
ここしばらく大阪の住民投票の話が話題になっていて、それ自体にはあまり関心がなかったのだけど、「基礎自治体の適正規模については学界である程度の合意がある。およそ30~50万人」と主張している大学教員の方がおられて、ちょっとびっくりした。そ、そうなんですか? 小中学校の適正規模についてさえあれだけの複雑な議論があるのに。
仮に、自治体の適正規模についてなんらかのコンセンサスがあるとして、それは一体どういう視点からのコンセンサスなのかしらん。もっともこれは一種の政治的プロパガンダで(「だから大阪市を5つに分けるのは合理的だ」という話につながっていくわけです)、まじめに取り合う必要はないのかもしれないけど、それはそれとして、話として面白すぎる...
増田友也(2011) 市町村の適正規模と財政効率性に関する研究動向. 自治総研, 396, 23-44.
というわけで、興味本位でwebで見つけて目を通してみた(仕事からの逃避の一環である)。著者は若い研究者の方で、これは博論が基になっているそうです。
えーと、まず、自治体の適正規模はこれまでどのように捉えられてきたか。大きく分けて3つある由。
- 均衡点としての適正規模。適正規模を、たとえば「人口当たり歳出総額を最小にする」といった問題と捉えて解く。
- 上限ないし下限としての適正規模。たとえば、「日常生活圏が地域の一体性の上限だ」というような議論があるのだそうだ。
- 適正規模は存在しない。もともとこの分野にはDahl & Tafte (1973) "Size and Democracy" という古典的研究があって、そこでの結論はこれ。
適正規模にはどんな規定要因があるか。
- 効率性。規模の経済・不経済に注目して、一人当たり歳出額が最小となる規模を計量分析で求める、という研究が多い。吉村弘さんという方が有名。変数として、人口、面積、サービス水準、などなどが用いられている。これに対して、たとえば歳出額は交付税などの影響を強く受けているから、ほんとに適正規模を求めているのか、それとも自治体財政調整制度がどう設計されているのかを確認しているのかわかんないんじゃない? という批判もある。[←面白い。観察研究が避けて通れない批判だ]
- 民主性。ギリシャ以来、小さいほうが民主主義が良く機能するという議論が主流だが、実証研究による反論もある。そもそも民主主義というものをどう捉えるかという点にも依存していて、たとえば人々の地方自治への関心の高さは、自治体の規模が小さいほうが高いとはいえない。[←なるほどねぇ]
- 機能。自治体がどんな機能を担うかによって適正規模は変わってくる。たとえば、自治体は一定の行財政能力を持たなきゃいけないという発想の下では(これを総合行政主体論というのだそうだ)、小さいと困るわけで、大きな自治体が必要だ、平成の大合併だぜ、という話になる。でも適切なサイズって機能によって違うんだから、機能を腑分けして重要な奴を洗い出し、それに合わせたサイズの自治体をつくるのがいいんじゃない? という意見もある。
- 一体性。地域政府なんだから、自然環境や産業構造や地域社会に照らして一体的なサイズじゃなきゃ困る。大きくした方が効率的だから併合しましょうなんていうのは、自治体を単に国家統治の行政機関としてみているのだ、許せん。という意見。
- 重層性。そもそも民主主義ってのは特定の包括的な主権単位に存在するわけじゃない。政治システムというのは相互関係を持つ複数の単位からなるのだ。問題はある主権単位に適用するための適切な規則じゃなくて、何層の政府を置くか、それぞれの大きさをどうするか、機能をどうやって配分するか... についての適切な規則を求めることである。要するに、単に自治体の規模について検討してちゃだめだ、全体をみなくっちゃ。という意見。[←なるほどー。超・正論だ...]。
そんなこんなで、著者いわく、適正規模を一般的に求める研究は無理。現状では、解を提示できているのは計量分析だけだが、それだっていろんな前提を置いた上での話であることに注意。
ここからは効率性についての計量分析の話。先行研究のレビューがあって...
著者いわく、従来のモデルは次の3点がまずい。
- 従属変数を一人当たり歳出額にしてる。それが最終目的なのはわかるけど、たとえば歳出額と人口との関係を考えたとき、歳出総額なら人口と直線的な関係があるが一人当たり歳出額とはL字型の関係になるから、前者の方がいいんじゃないか。[←この論点、よく理解できない。歳出総額と人口の関係がほんとに線形なら、一人当たり歳出額と人口は無関連になるわけで、じゃ一人当たり歳出額を従属変数にして人口は変数から外そう、ってことになるじゃないですか。一人当たり歳出額と人口がL字型の関係になるんなら、歳出総額と人口の関係は左下端がクイッと上がった線になって、やっぱしモデリングが大変になりませんかね? それとも、なにかをなにかで割った値を従属変数にするのはそもそもよろしくない、というタイプのテクニカルな論点なのかなあ...]
- 歳出を説明する回帰式に人口の対数値の二次項をいれるのはよくない。解釈しにくいから。[←うううむ... この論点は門外漢にはわからない話なのかも。一般論としては、回帰モデルに対して、その組み方に実質科学的基盤がなくても、とにかくうまくフィットすれば勝ち、ないし予測できれば勝ち、というスタンスもありうると思う。きっとこの分野ではそうではないのだろう]
- 歳出を説明する回帰式に総面積をいれるのはよくない。面積が歳出額に与える影響は人口によってかわるから。[←うううううう... これもこの分野に詳しくないとわからない論点なのかも。完全な門外漢としましては、面積を入れるのがまずいというより、ちゃんと交互作用項かなんかをいれなきゃいけないね、ないしパラメトリックな回帰モデルにはちょっと無理があるね、という話にならないのかしらん? と思うんだけど、たぶんなにか事情があるのだろう]
というわけで、最後の話にはちょっとついていけなかったが、レビュー部分がとても面白かったです。勉強になりましたです。
なるほどねえ、いわれてみれば、いろんな論点があるものだ。上のメモでは省略したけど、計量分析についてもいろいろ面白い話があるということがわかった(ノンパラ回帰を使うとか)。政治家や専門家による「自治体のサイズはxx万人くらいが適正だと学問的にわかっている」系の主張には、眉によく唾をつけて接しないといけないこともわかった。
読了:増田(2011) 自治体のちょうど良い大きさとはなんぞや
2015年4月14日 (火)
宮永孝(2014) パリ・コミューンをみた日本人. 社会志林 60(4), 1-51.
ルフェーブル「パリ・コミューン」をめくっているのだけれど全然頭に入らず、参ったなぁ、先に予備知識をつけた方がいいのか... と思いながらなんとなくみつけたもの。著者は歴史学者で、掲載誌は法政大の紀要らしい。
まずパリ・コミューンのいきさつについて時間軸にそって紹介した後、当時パリにいたことがわかっている日本人たちを紹介。留学生約20名(一番有名なのは西園寺公望)のほかにも、前田正名という官僚が籠城中のパリにいたのだそうだ。また、直前には普仏戦争の観戦に来た日本の軍人たちがパリに入っていた由(通訳は中浜ジョン万次郎だったそうだ。へー)。というわけで、彼らが残した記録を紹介する内容であった。
2015年1月17日 (土)
Brooks, C. (2010) Embodied transcription: A creative method for using voice-recognition software. The Qualitative Report, 15(5), 1227-1241.
このたび身体化認知について手当たり次第に資料を集めた中で、もっともヘンな発想の論文。著者については全く分からないが、所属はInstitute of Transpersonal Psychologyとあるので、そっち系の人なのであろう。掲載誌はたぶん紀要のようなもの。実証研究というより、私こんなことやってます、という内容。
著者の提唱するEmbodied Transcriptionとは、要するに、インタビューの逐語録を起こす手順の話である(こんな風にまとめちゃったら著者の方は気を悪くなさるだろうか...)。その手順とは次の通り。(1)録音を聞きながら、パソコンの音声認識ソフトに向かって、対象者がいったことを復唱する。こうすることで、世界が自分の身体を通じて経験・解釈され、「それぞれの参加者の言葉を口にするたび、個々の物語の微妙なニュアンスが深まっていく」「私は参加者の感情に共感しはじめる」んだそうです。(2)パソコンの画面で細かいところを直す。(3)テキストを見ながら録音を聞きなおす。
えーと、この方法はですね、著者が心理学のキャリアを始める前に受けたポストモダン理論とパフォーマンス・アートの教育をコアにしているのだそうです。
へー。
2014年12月11日 (木)
丸山和昭 (2004) 専門職化戦略における学会主導モデルとその構造-臨床心理士団体にみる国家に対する二元的戦略-. 教育社会学研究, 75, 85-104.
なにかの拍子にふと見つけ、移動中の電車で、くつくつと笑いながらスマホで読んだ。医療・教育分野における臨床心理団体の専門職化戦略を、アルベキ論は脇においといて、社会学的観点から批判的に検討する。
えーと、70年代の臨床心理学会崩壊以後、医療系心理職の資格制度を求める声に支えられて心理臨床学会が成立、ついで臨床心理士資格制度が発足。認定機関の管轄官庁が厚生省ではなく文部省になったのは、医師からの自律性という観点からは高学歴化が必要なのに、厚生省側が難色を示したから。文部省への接近によって臨床心理士は学校という巨大市場を獲得する。つまり、臨床心理団体は医療領域における医師からの自律性を求めて教育分野へと進出するという「矛盾した戦略」をとったわけだ。これに対して厚生省側は新たな職能団体・全心協を発足させてしまう。今に至る混乱のはじまりである。
著者はOT, ST, PSW, 学校心理士, 臨床心理士を横並びに比べ、国家に対する二元的戦略に基づく専門職化の「学会主導モデル」を抽出する。すなわち、(1)まず養成機関を確保し、現状にはそぐわない高度な法人資格をつくってしまう。現職には経過措置を提供すればよい。「しかし、ここで集められた人材は必ずしも資格要件を充たすような専門性を備えているわけではない。[...] 臨床心理士の初期の人材は、高度な資格に彩られたステイタス・イメージは保有していたが、資格の示す学歴は身につけてはいなかったのである。」[←私が云ってんじゃなくて著者が仰ってるんですよ] (2)新たなる職域を開拓する。(3)養成機関を自律的に拡大させていく。
とはいえ、こうして得た自律性ははかなくも脆い...
「臨床心理士団体の分析によって明らかになるのは、科学者の養成や専門的知識の発達を[なにかの目標を達成する手段ではなく] 「目標」とする学会中心の専門職団体が、職域内部の要求を呑みこむことによって拡大していく過程である。専門職化戦略は職域内部だけでなく、それを支える科学組織の地位向上・支配力の増大への志向に影響される可能性を有している。」
なるほどねえ... 確かに、専門職団体の目標が成員の地位向上そのものにあるとしたら、低年収のスクール・カウンセラーさんたちから臨床心理士資格更新のために結構なお値段の研修費を集めるのって、説明できないもんね。興味深い視点だ。
読了: 丸山(2004) 臨床心理士資格の成立プロセスにみる専門職化戦略
2014年8月27日 (水)
Hampton, K.N., Rainie, L., Lu, W., Dwyer, M., Shin, I., & Purcell, K. (2014). Social Media and the ‘Spiral of Silence.’ Pew Research Center, Washington, DC.
ピューリサーチセンターの自主調査報告。今日twitterでたまたまリリースを見かけ、あまりに面白そうなので報告書まで探して読んでしまった(なにをやっておるのか)。第一著者のHamptonって人はいまこの分野で活躍している社会学者らしい。
一言でいっちゃえばSNS利用についての単発の横断調査なんだけど、目のつけどころがすっばらしい。痺れました。
重要な政治的問題について、人は自分の意見を他者に公開したがるか。かの沈黙の螺旋理論に言わせれば、自分の意見が少数派だと感じるとき、人は自分の意見を公開したがらなくなる。でもSNSの登場により、少数派であっても自分の意見を自由に公表しやすくなり、公共的議論の幅は広がったのではなかろうか。
というわけで、去年の夏、スノーデン事件を題材に約1800人にRDD調査。主な知見は:
- 政府の監視プログラムの問題について会話したいという意向は、対面よりSNSのほうで低い。エビデンス: 状況別に意向を4件法で聴取。top2boxは、たとえば家庭で74%, 職場でさえ 65%なのに、FBでは42%, twitterでは41%。[報告書の構成がわかりにくいのでメモしておくと、サマリーのp.4-5, 本文のp.14-15]
- SNSは公共的議論の新たなるプラットホームを提供したりしてはいない。エビデンス: すべての対面状況で会話意向がbottom2boxだっ人が14%いるんだけど、そのうちFBないしtwitterでの会話意向がtop2boxだった人はたった0.3%。[同上]
- 会話意向は関心の高さ・意見の強さ・知識と関連する。エビデンス: 関心と知識は4件法で聴取。意見の強さは、政府への賛否を4件法で訊いて、両端かどうか。で、各状況での会話意向を2値に落としてロジスティック回帰する。デモグラ、情報源、メディア使用、他者との意見一致性判断 etc.をコントロールしても、なお関心・意見の強さ・知識が効く [本文p.16-18, 付録Table B] (←この項、あたりまえにも思える話だが、状況によって係数がちょっとちがうところが興味深い。職場での会話意向は知識の多寡と関連するのに対し、FBでの会話意向は意見の強さと強く関連しているみたいだ)
- FBユーザは他者が自分と同じ意見を持っていると思う傾向がある。エビデンス: 自分の意見に他者が「同意してくれると思うか」を4件法+DKで訊く。top2boxは配偶者が86%, 同僚が64%, FBフォロワーが63%, 近所の人が47%, などなど。これをロジスティック回帰すると、デモグラ、関心・意見の強さ・知識、メディア使用 etcをコントロールした状態で、家族・友人が「同意してくれると思う」にFB投稿頻度が、家族・FBフォアーが「同意してくれると思う」にいいねボタン押し頻度が、それぞれわずかに効いている。[本文p.20-23, 付録Table C] (←これはまぁ、ちょっと弱いかな...)
- 「沈黙の螺旋」はSNSにも当てはまる。エビデンス: たとえば「同僚が自分の意見に同意してくれると思うか」で層別すると、職場での会話意向は「同意してくれると思う」層で2.92倍高い。このやり方で分析して、家族が同意してくれると思う人は家族との会話意向が1.90倍, フォロアーが同意してくれると思う人はFBでの会話意向が1.91倍。[サマリーp.6-7, 本文p.23] (←おもしれー!! これおもしれー!!)
- もともとSNSユーザはオフラインで自分の意見を公開しない傾向があるが、SNS上で同意してもらえないとなおさらそうなる。エビデンス: たとえば友人との会話意向は、ネットユーザをベースにして、FBユーザでは0.53倍。さらにフォロアーが自分の意見に同意してくれると思っている人に絞ると0.74倍。[サマリーp.5-6, 8, 本文24-25]
いやー、ものすごく面白い。もちろんスノーデン事件に限った話だから、むやみに一般化しちゃいけないんだけど、ソーシャルメディアは多様な議論を支えてなどいないんじゃないか、むしろ世論形成の「沈黙の螺旋」メカニズムの一端を担っているんじゃないか... と考えさせられる分析結果である。
いやはや。プロの研究者の方を相手に失礼な言い方かもしれないが、正直云って、ちょっと悔しい。たった約10問、1800人の調査でコレなのである。
ノエル=ノイマンの「沈黙の螺旋」という概念を知っている人は多いだろう。また、世の中に広報目的の自主調査をやっている会社はたくさんあるし(市場調査会社もね)、実査だけみればこのくらいの調査は容易である。でも、思いつかないよなあ、この切り口。つくづく思うに、調査の価値ってのは目の付け所で決まるのだ。
読了: Hampton, et al. (2014) ソーシャルメディアと「沈黙の螺旋」
2014年2月21日 (金)
Kieser, A., & Leiner, L. (2009) Why the rigour-relevance gap in management research is unbridgeable. J. Management Studies. 46(3), 516-533.
調べものをしていて偶然みつけた論文。いろいろあって疲れたので、気分転換に目を通した。掲載誌は経営学の雑誌だろうと思うが、インパクト・ファクターが3.8って、これってかなり有名な雑誌なんじゃないかしらん。
えーっと... 経営学においてはかねてよりrigour-relevance gapが問題視されており(科学的厳密性と実務的有用性の二兎を追えない、という意味であろう)、雑誌の特集号にもなっているし本も論文集も出ている、のだそうです。このギャップは言い回しやスタイルのちがいだけじゃなくて、問題を定義し取り組む際の論理のちがいでもある。で、このギャップを憂う研究者たちは、実践から問いを立てなさいとか、実務家と協同しなさいとか、そういう提案をする。彼らはたいてい理論的基盤というものを持っていない。アホどもめ。(←そうは書いてないけど、まあそういう趣旨)
ルーマンのシステム理論の観点から考えよう。近代社会における専門化したシステムの特徴、それはオートポイエティックであるということだ(で、でたぁ...)。それは高度に自律的なシステムであり、その構成要素はヒトでもなければ行為でもない、コミュニケーションである。それらは他のシステムには移せない。ある実務家が、科学雑誌の論文を読み、理解できたと思ったとしよう。彼女は同僚に対して、その研究を引き合いに出してある解決策を正当化することはできるかもしれない。でもそのときには、その論文が基づく理論と方法は失われ、文脈は変わり、引用は異なる意味を持つ。彼女はその論文の科学的内容そのものを、科学というモードのなかで伝えることはできない。
社会システムは自己参照性(self-reference)と操作的閉鎖性(operative closure)を持つ。システム外部の出来事が内部に直接干渉することはない。社会システムは、その内部において可能なコミュニケーションの範囲を決める枠組みを持っている。コミュニケーションはそのシステムに特有のコードに基づく。科学システムのコード、それは真か偽かだ。経済システムのコード、それは金になるかならないかだ。(以下、科学システムと経済システムのそれぞれの描写が続く)
確かに、経営学のトップ・ジャーナルの査読者用チェックリストには「実務的有用性」がはいっている。でも書き手は、研究の結果が実務に対してこんな示唆を持ちそうです、と書くだけでよくて、ほんとに役に立ちますという証拠はいらない。つまり、(研究者が社会的に構築したところの)"実務家"がこんな示唆を得ることができるかもしれません、ということを書き、(その研究者が構築したところの)"有用性"という概念が査読者のそれと一致していればそれでよい。有用性の評価はあくまで科学システムの内部で行われている。
真/偽というコードと有用/非有用というコードの両方に基づくコミュニケーションなんて想像もつかない。優れた実務家が査読者になったりテニュア・コミッティのメンバーになったところで、厳密性からみたランク付けと有用性からみたランク付けができるだけだ。工学や医学とは事情がちがう。ああいう分野は実験ができる。実験においては真/偽というコードと機能する/機能しないというコードが一致する。
実務家と協同するタイプの研究としてはアクション・リサーチがある(創始者としてEric Tristという名前が挙がっている。恥ずかしながら知りませんでした。調べてみたら、クルト・レヴィンの弟子でタヴィストック研究所の創設者らしい)。でも彼らの論文はたいてい彼らのジャーナルに載るだけで、権威あるジャーナルには載らない。モード2はどうか (マイケル・ギボンズたちのこと)。経営学への適用例はない。だいたいあれは大学の外での知識産出と社会への拡張を目指しているだけで、真に協同的ではない。
システム理論的に言えば、研究者と実務家のいわゆる「協同研究」というのは「コンタクト・システム」、すなわち、それぞれの主システムにおけるディスコースから切り離されたディスコースをつくりだす一時的な相互作用システムだ。そこでのディスコースはその外側には伝わらない。ないし、協同研究といいつつ教育だったりコンサルティングだったりする。協同研究なんて不可能である。
科学の基本的な課題、それは現象の記述と分析である。それは研究対象であるシステムの自己記述や自己分析であってはならない。初期の経営学は、実践との距離を失ったが故に、その正当性を失う危機にさらされた。研究者と実務家の実りある関係は、研究が目的でないときのみに可能となる。必要なのは、研究の知識と実務の状況の両方がわかり、一方のシステムで起きている事柄を他方のシステムにメタファーとして伝えることができるバイリンガルである。一方のシステムは他方のシステムに、いらだちや刺激やインスピレーションを与え、それは(たまには)有益であろう。
... あははははは。
いろいろ感想はあるけど、書くのが面倒なので省略。ともあれ、きつーい書き方が面白かった。著者の先生方は、なんというかその、なにかつらいことでもあったのだろうか。
読了: Kieser & Leiner (2009) 実務家と研究者が手を組むなんて無理に決まってる
2012年12月 4日 (火)
今西一(2011) 「荒神橋事件・万博・都市科学研究所 -上田篤氏に聞く」, 小樽商科大学人文研究, 122, 3-46.
先日、日本のマーケティング系のエスノグラフィー的研究の話を伺っていて、全然知らない話が多く、不勉強を痛感した。今和次郎とか、70年代の「生活財生態学」とか。で、その流れで関西の京大系シンクタンクについてなんとなく調べていて(仕事しろよって感じですね)、たまたまみつけて読みふけった紀要論文。
上田篤さんという、戦後の都市論研究の第一人者だという方に、50年代の京都の学生運動を中心にインタビューした聞き書き。この方、京大天皇事件('51)の際に「私の写真がアサヒグラフに出ちゃったんですよ」という世代の方で、後藤正治のノンフィクション「幻の党派」で描かれたシンクタンク「都市科学研究所」の創設者なのである。いやー、面白かった。
読了:今西(2011) 50年代の京都の学生運動についての聞き書き
2012年9月29日 (土)
福元圭太 (2009) 魂の計測に関する試論:グスターフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(1). かいろす, 47, 33-48.
福元圭太 (2011) フェヒナーにおけるモデルネの「きしみ」 : グスターフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(2). 言語文化論究, 28, 1-21.
福元圭太 (2012) 『ツェント・アヴェスター』における賦霊論と彼岸 : グスターフ・テオドール・フェヒナーとその系譜(3) 言語文化論究, 28, 121-134.
勤務先での仕事の都合でたまたまFechnerの名前を目にする機会があり(一対比較データの分析方法について調べていたため)、このFechnerって、心理学の教科書に出てくるヴェーバー・フェヒナーの法則の、あのフェヒナーだよねえ...と、なんとなくぼんやり検索していて、日本語で書かれたフェヒナーの評伝(!)を見つけ、思わず読みふけってしまった。ここまで来ると、仕事とはもう何の関係もない。
掲載誌は九大の紀要。著者は独文の先生で、ワタシ高校で数IIまでしかとってないんで数式のところはさっぱりわかんないです、などと注のなかでこっそりぼやきつつも、実験心理学の祖にして汎神論的な思想家でもあったフェヒナーの、いまでは誰も読もうとはしないであろう膨大で晦渋で冗長な著述を、延々と辿っていくのである。ご苦労様でございます。
著者いわく、19世紀ドイツにおいては「『実証主義的自然科学』と『ロマン派の観念論的自然哲学』との間に葛藤が生じることとなったのだが、[...]これこそがフェヒナー個人の中で起こっていた葛藤に他ならない」「極端な言い方をすれば、両者の葛藤の擬人化こそがフェヒナーなのである」のだそうである。ふうん。
33歳で物理学の正教授となったフェヒナーは、肉眼で太陽を見つめる実験のせいで目を傷めたのをきっかけに、「やがては顔を布で覆い、最後には顔全体にブリキの仮面をかぶるようになって極端に光を避け、黒く塗られた部屋に閉じこもって4年に近い月日を過ごすことに」なった。いや、それってもう眼の病気じゃないですよね。
で、なぜか突然に回復したのちは神秘主義的な自然哲学にシフトし、なぜ植物に魂がないといえるのでしょうかとか、地球にも天にも魂があるんだとか、死後の魂は神の精神圏に入るんだとか、そういう感じの本を山ほど発表し、同時代の人々からうんざりされたり無視されたりする。現代の心理学科の学生はたいてい一年生の時に、感覚量そのものじゃなくて弁別閾を測るんだという精神物理学の基本概念を教わるけれど、あれをフェヒナーが最初に発表したのは、そうした忘れられた著作の片隅だったんだそうである。へえええ。
論文3本を費やしつつも、伝記としてはいまだ完結に至っていない。続きをお待ちしております。
読了:福元 (2009,2011,2012) フェヒナー先生とその時代
2011年6月 8日 (水)
戴晴 (1990)「私の入獄」(抄訳), 田畑佐和子訳、中国研究月報, 44(5), 10-22.
1989年からもう22年も経つのだなあ、と先日ぼんやり感慨にふけっていて、ふと著者の名前で検索して見つけた記事。戴晴は中国の改革派知識人で、天安門事件の際にキーパーソンのひとりと目された人だと思う。この文章は事件後の拘置体験を綴ったエッセイであった。
当時の状況からしてあまり厳しいことを書けなかったのかもしれないが、監房は広く清潔であった由。彭真や王光美も入れられた、中央公安部の由緒正しき監獄だったそうだ。まあ、著者も国際的な有名人だしね。
Cinii に加入してしまうと、こういう雑誌記事もクリックひとつで購入できてしまう... おそろしいことだ...
2010年9月21日 (火)
門田俊夫(2001)「ハワード・バーカー試論 劇作家としてのモラル」. 大阪経大論集, 52(1), 2001.
先月ちょっと用事があって,論文をかき集めては読み捨てるという作業を続けていたのだが,全然記録していなかったものだから,どれを読んでどれが未読なのかがすぐにはわからないし,読んだ中身もどんどん頭の中から消えていく。これじゃなにをしているんだかわからない。反省。
で,国会図書館に資料請求を繰り返したせいで心理的ハードルが低くなってしまい,ぼんやりwebを眺めていてちょっと読んでみたくなったものまで,深く考えずに請求してしまったりして。。。この11頁で500円以上かかるのに。なにをやってるのだ。反省。悔しいので記録しておく。
高校生の頃,NHK-FMで海外のラジオドラマの翻訳を放送していて,とても印象に残っている作品のひとつに,ルネサンス期のイタリアで政治家に絵を描けと命じられた女性画家の話があった。ベネチアが海戦でトルコ軍を打ち破ったその勝利を讃える絵を描くべきところを,画家は自らの芸術観に忠実なあまり,戦争の悲惨さを暴き出す大作を製作してしまう,という話。その画家の夫である,あまり才能のない画家が橋爪功さんであったと思う。懐かしいなあ。
ふとそのドラマのことを思い出し,いったいあれはなんだったのかとあれこれ検索した結果,タイトルは「名画誕生」,87年放送,元になっていたのはHoward Barker作のScenes from an ExecutionというBBCのドラマだ,というところまでたどり着いた。この作品はのちに舞台劇になっている模様。BarkerはWikipediaにも載っている英国の大劇作家で,でも邦訳はないらしい。この人についての日本語の紹介として,この紀要論文がひっかかったので,ついつい取り寄せてしまった次第。
論文の内容は,この劇作家の三つの作品("The Last Supper", "The Possibilities", "Brutopia")のあらすじ紹介であった。なんだか知らんがややこしそうな芝居を書いておられるらしい。残念ながらScenes from an Executionへの言及はなかった。がっくり。